主日礼拝

ただ、お言葉を下さい

「ただ、お言葉を下さい」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章8-11節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第7章1-10節
・ 讃美歌:1、51、476

異邦人の百人隊長
 ルカによる福音書の第7章に入ります。6章の20節から終わりまでのところは、「平地の説教」と呼ばれる、主イエス・キリストがお語りになった説教が記されていました。7章からは再び主イエスの活動を語る部分に入ります。本日の箇所の舞台は1節にあるようにカファルナウムです。この町にはシモン・ペトロの家もあり、主イエスのガリラヤにおける活動の拠点となっていた町でした。この町にいたある百人隊長から、主イエスのもとに使いが来たのです。百人隊長というのは、文字通り百人の兵卒たちを率いる隊長、つまり軍人です。普通私たちは百人隊長というと当時ユダヤを支配していたローマ帝国の軍人を考えますが、歴史的に見ると、この時ガリラヤ地方はまだローマの直轄地にはなっておらず、3章1節に語られているように、ヘロデが領主として支配していました。このヘロデは、ヘロデ・アンティパスという人で、クリスマスの物語に出てくるヘロデ大王の子供です。カファルナウムの百人隊長はこのヘロデの部下であるわけで、ローマ帝国の軍人ではありません。しかしいずれにしても、ユダヤ人ではない、異邦人です。この人が異邦人であるということが、本日の箇所を理解するための一つの鍵となります。その百人隊長が、3節にあるように、ユダヤ人の長老たちを、主イエスのもとに使いとして送ってきたのです。ユダヤ人の長老たち、つまりこのカファルナウムの町の指導的な立場にある有力者たちです。しかも、神様の民であるという自覚と誇りをもっているユダヤ人たちの中心をなす人々です。その長老たちが、異邦人である百人隊長の使いとなって主イエスのもとに来たというのは驚くべきことです。彼らはどういう使いとして来たのでしょうか。それは、この百人隊長の部下が病気で死にかかっているので、助けに来て欲しいという願いを伝えるためでした。ここには「部下」と訳されていますが、使われている言葉は「僕」です。口語訳聖書ではそう訳されていました。新共同訳でも7節では「僕」となっています。そして僕とは奴隷のことです。また2節の「重んじられている」という言葉には「高価な」という意味もあります。ですから読み方によっては、「高価な値を払って買い取った貴重な奴隷」とも読めます。いずれにせよ、百人隊長にとってこの僕は大切な存在でした。その人が病気で死にかかっている。何とかして助けたいと思って彼は、当時評判になってきていた主イエスのお力にすがろうとしたのです。そのために、ユダヤ人の長老たちに頼んで口添えをしてもらったのです。

会堂を建ててくれた
 長老たちも喜んでその頼みを引き受けたことが4、5節から分かります。彼の願いを聞いてくれるように、長老たちは主イエスに熱心に願っています。どうして異邦人である百人隊長のためにそんなに熱心になるのか、そのことが彼らの言葉から分かります。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。この百人隊長は、異邦人の軍人には珍しく、ユダヤ人たちの信仰に理解が深く、この町の会堂を建ててくれたのです。会堂というのは、ユダヤ人たちが集まって礼拝をする場所です。その会堂を建てたというのは、会堂の建設のための、少なくとも殆どの金額を献金した、ということでしょう。これも驚くべきことです。異邦人の百人隊長がユダヤ人のための会堂建築に多額の献金をする、それは言ってみれば、まだ洗礼を受けて教会員になっていない、私たちの言葉で言うと求道者である人が、教会の会堂建築のための資金のほとんどを献金してくれるようなものです。私たちの教会のこの会堂も、大正12年の関東大震災で全壊した後、大正15年に再建されたものですが、その時に、ヘボンに大変恩義を感じていたある実業家が資金のほとんどを献金してくれたのです。それがなければ、震災から3年後にこのような会堂を再建することは不可能でした。そのことを私たちは覚えておきたいわけですが、しかしその人は教会員でした。この場合には、教会員ではない、異邦人の百人隊長がそういう献金をしたのです。このことに恩を感じている長老たちは、喜んで彼の使いをし、また、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と熱心に口添えをしたのです。

ユダヤ人と異邦人を隔てる線
 主イエスはその願いを聞いて彼らと一緒に出かけられました。ところが、百人隊長の家の近くまで来た時、今度はその友人たちがやって来て、「主よ、ご足労には及びません」と言ったのです。つまり、「来なくていいです」ということです。さっきは「助けに来て下さい」と願っておいて、今になって「来なくていい」とはどういうことでしょうか。また私たちの感覚からすると、助けて下さいとお願いをするなら本人が出向いて来るのが筋というものではないか、使いの者を送るというのはそもそも失礼な話だ、とも思います。その上途中で「もういいです」なんて、それもまたもや使いの者に言わせるとは、この百人隊長はとんでもない非常識な奴だ、などと考えてしまうかもしれません。しかしそれは全くの誤解です。ここのところを正確に理解しないと、この話は分かりません。この百人隊長が考えていることは、6、7節の彼の言葉から分かるのです。彼はこう言っています。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」。これが彼の思いなのです。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と彼は言っています。これは謙遜の言葉ですが、彼の謙遜の内容を正しくとらえなければなりません。彼は、私は人間的に未熟で、罪深く、立派な人間とはとうてい言えない者です、と言っているのではないのです。彼が主イエスを家に迎える資格がないのは、彼が異邦人だからです。神様の民であるユダヤ人の一員ではないからです。つまり彼が自分はふさわしくないと言っているのは、個人的な資質や信仰深さの問題ではないのです。見つめられているのはただ一つ、自分が異邦人で、神様の民の一員ではない、ということです。「生まれは変えられないのだから仕方がない」と考えてはなりません。生まれが異邦人である彼にも、ユダヤ人になる道は開かれていたのです。ユダヤ教に改宗して、割礼を受け、律法を守る生活に入ればよいのです。そうすれば、生まれは異邦人でも、ユダヤ人の一人、神様の民の一人となることができたのです。しかし彼はそれをしていませんでした。異邦人という立場に留まりつつ、ユダヤ人たちの信仰に理解を示し、協力し、多額の献金までしていたのです。ある意味で、普通のユダヤ人よりもずっとユダヤ人らしい生活をしていたと言えるでしょう。しかし彼は分かっていました。自分はどんなにユダヤ人たちの信仰を理解し、協力し、献金をしても、やはりユダヤ人ではない、主なる神様の民の一人ではない、その外側をうろうろしているだけだ、ということをです。そしてそのような自分は、主イエスを家にお迎えできるような者ではない、主イエスの前に出るにふさわしくない者だ、ということを彼は深く知っていたのです。その点、使いとして来たユダヤ人の長老たちは呑気なことを言っています。彼が自分たちに親切にし、多額の献金をささげて会堂を建ててくれた、そういう彼の良い行いのゆえに、本来異邦人とはつき合うだけで汚れると言って毛嫌いし、交わりを持とうとしない彼らが、平気でそのお使いをし、「あの人はふさわしい人です」と言っているのです。神様の民であるユダヤ人と、そうでない異邦人との間に厳然としてあるはずの、両者を隔てる一線はどこへ行ってしまったのでしょうか。この一線は、親切にしてくれた、献金をしてくれたぐらいのことで簡単に乗り越えられてしまうものなのでしょうか。ユダヤ人の長老たちよりも異邦人の百人隊長の方が、神様の民と異邦人とを隔てる一線をずっと深く、真剣に意識しているのです。

活路
 異邦人である自分と神様の民とを隔てる一線を深く意識しつつ、それでも彼は主イエスに、自分の僕を病から救って下さるように願いました。彼は、主イエスこそ人を本当に救う力を持っている方だと信じていたのです。病気で死にかかっている僕を救うことができるのはこの方しかいないと確信しているのです。それで主イエスに「助けに来て下さい」と願ったのです。しかしこの主イエスによる救いを求める思いと同時に、異邦人である自分はあの一線のゆえに、主イエスをお迎えする資格がないばかりでなく、主イエスのみ前に出ることすらもふさわしくない、という思いが彼の中には共に働いています。その葛藤が、この一見矛盾するとも思える、また私たちの感覚では失礼だとも思えてしまう彼の行動に現れているのです。この葛藤の中で、彼は一つの活路を見出しました。それが7節後半です。彼は友人たちを通して主イエスに、「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」と願ったのです。主イエスに来ていただくことも、自分が出かけていくことも、どちらも自分にはその資格がない。しかし、ひと言お言葉をいただくだけなら、異邦人である自分にもできる、そしてそのお言葉さえあれば、僕の病気は癒される、そう彼は思ったのです。彼は活路を見出したと申しました。主イエスの救いをいただきたい、しかし主イエスをお迎えしたりそのみ前に出る資格は自分にはない、という葛藤の中で、彼は、主イエスのみ言葉という活路を見出したのです。この活路は誰でもが見出せるものではありません。多くの場合私たちは、自分はふさわしくない、ということを忘れて、あるいはそんなことを思わずに、ただひたすら、主イエスに来て手を置いて下さいと願うのです。そしてそれが叶わないとなると、あきらめ、そしてイエスなんて何の役にも立たないと文句を言うのです。しかしこの百人隊長は、主イエスのお言葉に望みを見出しました。それは彼が、主イエスの言葉の権威と力とを信じていたからです。主イエスがひと言お語り下さればそれは実現する、というみ言葉の権威と力への信頼を彼は抱いていたのです。このみ言葉への信頼のゆえに、彼はふさわしくない自分が主イエスの救いにあずかるための活路を見出すことができたのです。

み言葉の権威と力への信頼
 彼はこのみ言葉への信頼をどうして得ることができたのでしょうか。そのことが8節に語られています。彼はこう言っているのです。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。大変面白いことに、彼が主イエスのみ言葉の力に信頼することを知っていたのは、聖書を学んだからでも、信仰の手ほどきを誰かから受けたからでもありませんでした。彼は自分の日常の生活の中でそれを学んだのです。彼は軍人です。軍隊の命は規律です。上官の命令通りに兵卒が直ちに行動する、という規律が成り立っていないと、その軍隊は役に立ちません。彼は日々そういう世界に生きているのです。そして彼は百人隊長です。百人の部下を率いて命令を下す立場です。彼の命令に、百人の部下たちが直ちに従うのです。戦場ではその百人の命が、彼の命令如何にかかっています。自分の発する言葉が部下の命を左右するのです。つまり彼は、命令する権威を持つことの重い責任と、そこで語られる言葉の重さをよく知っているのです。また同時に、百人隊長は言ってみれば中隊長です。彼の上にはさらに上官がいて、彼自身もその権威の下にあり、その命令に従うのです。こういう体験を通して彼は、権威とは何かを知り、権威ある者が語る言葉の重さというものを知っているのです。この実生活における体験のゆえに、彼は、主イエスの語られるお言葉の権威と力とを信じることができたのです。
 主イエスはこれを聞いて感心し、群衆に向かってこうおっしゃいました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。これは最大級の賛辞です。主イエスがこれほど手放しに人の信仰を褒めておられる言葉は他にはなかなか見当りません。主イエスは彼の信仰の何を褒めたのでしょうか。「これほどの信仰を見たことがない」とおっしゃった、「これほどの信仰」とはどのような信仰なのでしょうか。それは第一には、異邦人である自分は神様のみ前に出るのにふさわしくない、と彼が真剣に考えていることです。つまり、神様の民であるイスラエルと異邦人の隔たりを彼は真剣に受け止めているのです。その上で、しかし主イエスの救いを切に求めているのです。その葛藤の中で彼は、主イエスのみ言葉の権威と力を信じるという活路を見出したのです。主イエスのみ言葉がひと言語られれば、ふさわしくない者である自分たちもその救いにあずかることができる、という信頼です。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第55章8節以下に語られている、主の言葉はひとたび語られれば、その使命を果たし、主のみ心を成し遂げる、むなしく消え去ってしまうことはない、という信頼です。この主イエスのみ言葉の権威と力への信頼こそ、主イエスがここで、イスラエルの中でさえ見たことがない、と褒めた彼の信仰なのです。

ふさわしくない者が
 このように主イエスに褒められる信仰に生きた人が、異邦人の百人隊長だったことは何を意味しているのでしょうか。ここを、キリスト信者、洗礼を受けたクリスチャンでなくても、クリスチャン以上に信仰深い人はいるのだ、というふうに読んでしまうのはあまりにも薄っぺらい読み方です。私たちがここから読み取るべきことは、本当の信仰というのは、自分が神様の救いにあずかるのにふさわしくないということをはっきりと知っている所にこそ与えられる、ということです。この百人隊長は、自分が異邦人であり、神様のみ前に出てその救いにあずかるのにふさわしくない者だということを知っていたのです。だからこそ、み言葉の権威と力に信頼する信仰に活路を見出すことができたのです。逆にここに出てくるユダヤ人の長老たちは、自分たちがふさわしくないとは全く思っていません。むしろ自分たちが救いにあずかるのは当然だと思っているのです。そう思っているから、百人隊長のことを主イエスに推薦して、「この人はふさわしいですよ」などと安請合いしているのです。このように、自分は神様のみ前に出てその救いにあずかることができる、と思っている人は、あの人もこの人もふさわしいんじゃない?だってあの人いい人だし…と考えるのです。そこには、み言葉の権威と力のみに信頼して救いを求めるという本当の信仰はありません。自分も他人も、それぞれのふさわしさによって救いにあずかれるように何となく思ってしまうのです。しかし本当の信仰は、自分が本来救いにふさわしい者ではない、という自覚のもとにこそ生まれるのです。

主イエスによって開かれた道
 彼はこのみ言葉の権威と力への信頼という信仰に活路を見出したと繰り返し申しました。しかしこの活路は、彼が発見したと言うよりも、主イエス・キリストが開いて下さった道なのです。主イエス・キリストは、人間となって下さったまことの神です。その主イエスが、神様のみ前に出ることができない、救いにあずかるのにふさわしくない私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、救いにふさわしくない私たちの救いが、神様の恵みによって実現し、与えられているのです。主イエスのみ言葉は、この救いのみ業を告げるものであり、そのみ言葉に罪人を救う権威と力があるのは、それが主イエスの十字架の死と、そして父なる神様が与えて下さった復活とによって裏付けられた言葉だからなのです。主イエスの十字架の死と復活による救いを知らされている私たちは、それを告げるみ言葉の持つ権威と力とを、この百人隊長以上にはっきりと知ることができます。そのみ言葉の権威と力にこそ、ふさわしくない罪人である私たちが、それでもなお主イエスの救いを求め、それにあずかっていく道が開かれているのです。

洗礼と聖餐
 本日はこれから聖餐にあずかります。主イエス・キリストが十字架の死と復活によって私たちのために成し遂げて下さった救いの恵みに私たちがあずかり、それによって養われ生かされていくためにこの聖餐が定められています。聖餐は、洗礼を受けた人のみがあずかることのできるものです。つまり今この礼拝に集っておられる方々の中で、聖餐にあずかることのできる人と、まだそれができない人とがいるのです。そのことは、聖餐にあずかることのできる人が神様のみ前に出ることができる人、救いにふさわしい人で、あずかることのできない人は神様のみ前に出ることができない人、救いにふさわしくない人、という区別を意味しているのではありません。ふさわしいか、ふさわしくないか、ということで言えば、私たちは誰もが皆、神様のみ前に出ることなどできない、聖餐において示されている救いにふさわしくない者なのです。そのふさわしくない私たちが救いにあずかり、聖餐にあずかることができるのは、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた救いのみ業によってです。その救いのみ業を告げるみ言葉を、権威と力を持った神様のみ言葉として聞き、信じ、そのみ言葉に信頼して主イエス・キリストを信じる信仰を言い表すことが、洗礼を受けることなのです。それゆえに、洗礼を受けた者のみが聖餐にあずかるのです。もしもここで、洗礼を受けた人も受けていない人も聖餐にあずかるようなことが行われるなら、大切なことが見失われてしまいます。その大切なこととは、私たちは皆、基本的には聖餐にあずかるのにふさわしくない、神様の救いの恵みを受けるのにふさわしくない罪人だ、ということです。それが見失われてしまうなら、聖餐そのものが無意味になります。なぜならば聖餐は、主イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって、罪人である私たちの赦しと救いを成し遂げて下さった、その救いにあずかる印だからです。私たち自身の中には、この救いの印である聖餐にあずかる資格など何もありはしません。親切ないい人だからあずかれるというものではないし、逆に、罪深い人だからあずかれない、ということもないのです。私たちが聖餐にあずかることができるただ一つの道は、神様のみ言葉の権威と力に服従して、主イエスの十字架と復活によって、ふさわしくないこの私が救いにあずかっていることを信じ、受け入れることです。そのことの印が洗礼なのです。本日の説教の題を「ただ、お言葉を下さい」としました。これは7節の「ひと言おっしゃってください」の、口語訳聖書における訳です。私たちは、「ただ、お言葉を下さい」と語って洗礼を受けるのです。つまり、「私の中には、救いにあずかるふさわしさは何一つありません。ただ、お言葉を下さい、あなたのお言葉にのみ、私があなたの救いにあずかる道があると信じます」と告白して私たちは洗礼を受けるのです。つまり洗礼を受けるとは、自分が神様の救いにふさわしくないことを認め、その救いがひたすらみ言葉の権威と力とによって与えられることを告白して、主イエス・キリストの救いにあずかることなのです。ですから洗礼は、神様がふさわしくない私たちを救いへと招いて下さっていることの印です。神様は全ての人々をこの洗礼へと招いて下さっているのです。その招きを感謝して受けた者たちが、聖餐にあずかり、主イエスの十字架の死と復活による救いの恵みによって養われ、育まれ、生かされていくのです。

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