主日礼拝

大祭司の前で

「大祭司の前で」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第18章12-27節
・ 讃美歌:197、530

大祭司の前に立った主イエス
 17日の水曜日から、レント、受難節に入っています。主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて歩む日々です。礼拝においてヨハネによる福音書を連続して読んできまして、今ちょうど、主イエスの逮捕から裁判そして十字架につけられる、という場面に入っています。受難節に相応しい箇所を与えられているわけです。
 主イエスは、一隊の兵士とユダヤ人の下役たちによって捕えられました。一隊というのはローマ帝国の軍隊の単位であり、600人ほどの兵士から成り、千人隊長によって率いられる、ということを前回申しましたが、その千人隊長が12節に出て来ています。「一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たち」は主イエスを捕えて縛り、先ず、アンナスのところへ連れて行きました。アンナスは、その年の大祭司カイアファのしゅうとだった、と13節にあります。そして24節には、「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」とあります。つまりそこまでのところに語られているのは、アンナスのもとでのことだということになります。この時の大祭司はカイアファであり、アンナスは元大祭司でした。現大祭司のしゅうとである元大祭司アンナスは、陰の実力者だったのでしょう。そのアンナスが主イエスを尋問したのです。ここは他の三つの福音書とヨハネ福音書で大きく違っています。他の福音書では、大祭司カイアファのもとで「最高法院」と呼ばれるユダヤ人の議会による裁きが行われ、そこでイエスの有罪を決定して、ローマ帝国のユダヤ総督ピラトに引き渡した、とされています。しかしヨハネは、最高法院による裁きのことを語っていません。アンナスは19節で、「イエスに弟子のことや教えについて尋ねた」とありますが、これは公式な裁判ではなくて、陰の実力者アンナスが非公式の場で主イエスを尋問した、ということなのです。
 このような語り方によってヨハネ福音書は、捕えられた主イエスが、ユダヤ人の議会による裁きを受けたのではなくて、大祭司の前に立ったことを強調しています。大祭司が持っているのは政治的な権力ではなく宗教的、信仰的権威です。アンナスはこの時、現職の大祭司カイアファ以上にその権威と力を持っていたのです。そのアンナスと主イエスが対峙したことをヨハネ福音書は語っているのです。

大祭司カイアファ
 現職の大祭司であるカイアファはここではしゅうとの陰に隠れて目立たない存在となっていますが、しかし彼も大事な役割を果しています。14節に「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」とあります。大祭司カイアファが重要な発言をしたことが語られているのです。そのことは11章45節以下に語られていました。主イエスのもとに多くの人々が集まっていることを心配した祭司長たちとファリサイ派の人々が、その対策のために最高法院を召集しました。このままでは、この人々が反乱を起こし、それにつけこんでローマ帝国が攻めて来て、この国は滅ぼされてしまう、と心配している彼らに対して、大祭司カイアファはこう言ったのです。49、50節です。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。これが、本日の箇所の14節に語られている、カイアファによるユダヤ人たちへの助言です。反乱が起って国が滅ぼされてしまうよりも、一人の人間つまりイエスが死ぬことによって国が守られる方が好都合ではないか、そのことをよく考えなさい、とカイアファは最高法院の人々に助言したのです。この日から、彼らは主イエスを殺そうとたくらむようになりました。このカイアファの言葉が、主イエスを殺すことに大義名分を与えたのです。ヨハネ福音書はこのことを、その年の大祭司だったカイアファを用いて神が預言を語られたと捉えています。主イエスの十字架の死は、主イエスお一人が死ぬことによって人々全体が救われる、そのための身代わりの死、救い主としての死なのだ、ということを神がお示しになったのです。カイアファ自身はそんなつもりで言ったのではありませんが、大祭司である彼は神のご計画を語る者として用いられたのです。ヨハネ福音書はこのカイアファの発言にも触れることによって、主イエスが、アンナスとカイアファに代表される大祭司の権威の前に立たれたことを語っているのです。

大祭司をも恐れない主イエス
 19節に「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」とあります。「大祭司は」と言われていることも、この非公式な問いが大祭司としての権威によるものであることを示しています。その問いに対して主イエスは、私は常に会堂や神殿の境内などで、人々の前で公に語ってきたのだから、私の教えについて知りたいなら、私に尋ねるのではなくて、それを聞いた人々に尋ねるがよい」とお答えになりました。主イエスがどのようなことを教えたのかを取り調べるためには当然そうすべきです。しかしアンナスはそういうことをしようとしているのではなくて、大祭司の権威によって主イエスを脅して従わせようとしているのです。しかし主イエスは大祭司を恐れるどころか、むしろ彼の誤りを指摘し、諭すように語られました。だからその言葉を聞いた下役の一人が怒って、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って主イエスを打ちました。すると主イエスは、「私の言ったことが間違っているならそれを示しなさい。そうでないなら、暴力を振るうのはやめなさい」とおっしゃいました。大祭司の宗教的権威をも、その威を借りた暴力をも恐れることなく堂々と立っておられる主イエスのお姿がここに描き出されているのです。

もう一人の弟子
 捕えられた主イエスが大祭司とこのように堂々と対峙しておられる間に、その大祭司の屋敷の中庭で起こっていたことがここには語られています。15節に「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」とあります。「従った」とありますがそれは、群衆にまぎれて、主イエスを捕えた人々について行ったということです。他の弟子たちはその場から逃げ去ってしまったが、彼ら二人は、なりゆきを見届けようとこっそりついて行ったのです。ここに、名前をあげられていない「もう一人の弟子」が出てきます。この弟子は、最後の晩餐の場面から登場している「イエスの愛しておられた弟子」のことだと思われます。この後この弟子がいろいろな場面に登場して、重要な役割を果していきます。しかも、本日のところがそうであるように、この弟子はシモン・ペトロとセットになって登場することが多いのです。この弟子こそ、この福音書を書いたヨハネであると考えられています。ヨハネ福音書は、このヨハネを指導者として歩んでいた教会において書かれたと考えられるのです。つまりこの弟子は、この福音書が書かれ、読まれた教会の代表として登場しています。この教会と並んで、シモン・ペトロを指導者として歩み、ペトロの殉教の死の後はその後継者によって指導されていた教会がありました。この二つの教会は、どちらも主イエスをキリスト、救い主と信じ、キリストによる救いを宣べ伝えている教会であり、決して対立していたわけではなくて、お互いを認め合い、共に歩んでいました。しかし、特にヨハネの教会の人々の間には、自分たちの指導者であるヨハネを尊敬する思いが強く、ヨハネが、弟子たちの筆頭と言われているペトロと同じくらい、場合によってはペトロ以上に、主イエスに愛され、大切な役割を果たしていたのだ、という思いが強かったのです。そういう思いがこの福音書には随所に現れています。「イエスの愛しておられた弟子」という言い方がまさにそうですし、ペトロとセットになっている箇所での、ペトロとこの弟子の関係の描き方にそれが見て取れます。本日の箇所もその一つで、この「もう一人の弟子」は大祭司の知り合いだったので屋敷の中庭にすんなり入ることができたが、ペトロは入れずに外に立っていた、この弟子が門番の女に話したことによってペトロも入ることができた、ということがここに語られています。なぜそんなことを語る必要があるのか、と私たちは思いますが、その背後には、ヨハネのもとで育った教会とペトロのもとで育った教会との微妙な関係があるのです。このことはこの後の、主イエスの受難と復活の場面を読んでいく上で大事な要素の一つとなっていきますので、頭に置いておきたいと思います。

大祭司の屋敷の中庭で
 さてそのようにして、シモン・ペトロも大祭司の屋敷の中庭に入りました。その時、門番の女中が彼に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言ったのです。ペトロは「違う」と言ってそれを否定しました。「自分はイエスの弟子ではない」と語ったことによってペトロは大祭司の屋敷の中庭に入ることができたのです。その屋敷の中では、先ほど見たように、主イエスが大祭司の前で堂々と語っておられました。アンナスはあきらめてイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った、と24節にあります。本当の実力者である陰の大祭司アンナスから、婿であり現職の大祭司であるカイアファのもとに主イエスの身柄は引き渡されたのです。しかしカイアファのもとで最高法院の裁判がなされたことは先ほど申しましたように語られていません。そこはスルーされて、28節には、カイアファのもとから総督官邸へ、つまりローマ帝国のユダヤ総督であるピラトのもとに連れて行かれたことが語られています。つまりヨハネは主イエスがユダヤ人による裁きを受けたことは語らず、大祭司の前に立たれたことのみを語っているのです。そしてそれと並行して、大祭司の中庭におけるペトロの姿を語っているのです。

主イエスを「知らない」と言ったペトロ
 その日は寒かったので、大祭司の僕や下役たちは中庭で炭火をおこして火にあたっていました。ペトロもそこにまぎれ込んでいましたが、周りの人々が彼に気づいて「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言いました。ペトロは再び「違う」と打ち消しました。しかしそこには、主イエスが捕えられた時にペトロによって右の耳を切り落とされた人の親族がいました。大祭司の僕であるその人はペトロに「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と詰め寄りました。ペトロはまたそれを打ち消しました。するとすぐ、鶏が鳴きました。主イエスが前もって言っておられた通りのことが起こったのです。13章38節で主イエスは、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのに対して、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃったのです。そのお言葉の通りに、ペトロが三度目に主イエスのことを「知らない」と言ったとたんに、鶏が鳴いたのです。

主イエスとペトロの違い
 ヨハネが語っているのはそこまでです。他の三つの福音書は、多少の違いはあるものの、どれも、鶏の鳴く声を聞いたペトロが主イエスのお言葉を思い出して泣いたことを語っています。主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまったことをペトロが深く悔いて涙を流したことを三つの福音書は語っているのです。このペトロの涙が、復活した主イエスによって彼が再び弟子として立てられ、使徒として遣わされたことの土台となっていることを、三つの福音書は見つめています。しかしヨハネ福音書はペトロの涙を語っていません。勿論ヨハネも、ペトロが復活した主イエスによって使徒とされたことを、この後のところで語っています。しかし本日の箇所においてヨハネが見つめているのは、ペトロが悔いて涙したことではなくて、大祭司の前での主イエスの堂々たるお姿と、その中庭におけるペトロの姿との大きな落差なのです。

「わたしである」と「わたしではない」
 ペトロは、「お前もイエスの弟子ではないか」と問われたのに対して二回、「違う」と言っています。この「違う」という言葉にヨハネ福音書は大きな意味を見ていると思います。これは正確に訳すと「わたしではない」という言葉です。英語で言えば「I am.」という言葉の前に、否定の言葉が置かれているのです。「I am.」(わたしである)ということを否定している、「わたしではない」という言葉です。そこで思い出すのは、前回読んだ主イエスの逮捕の場面、18章6節で主イエスがお語りになった「わたしである」という言葉です。これは「I am.」という言葉だとその時申しました。主イエスがこの言葉を語られると、捕えようとしていた人々は後ずさりして地に倒れたのです。この言葉は、主イエスが、まことの神であるご自身をお示しになる言葉でした。主イエスはご自分を捕えようとしている人々を前にしても、大祭司の前でも、まことの神である「わたし」として、権威と力をもって語られたのです。それに対してペトロは、この世を支配している人間の力を恐れ、自分の身を守ろうとして「わたしではない」と繰り返し語ったのです。主イエスとペトロの大きな違い、落差は、「わたしである」と「わたしではない」という言葉に集約されています。「わたしではない」と言うことによってペトロは、自分が主イエスの弟子であることを否定し、主イエスとの関係を否定したわけですが、それによって彼は、自分が自分であることを否定してしまったのです。彼は、主イエスによって招かれ、弟子となり、共に歩んできました。主イエスのみ言葉を聞き、み業を見て、この方こそ神の独り子、救い主だと信じて歩んできました。そしてこの方のためなら死んでもいいとさえ思ったのです。それは決して偽りではなかったでしょう。でも、この世を支配している闇の力が押し迫り、自分の身にも危険が及ぼうとした時、彼は恐れによって、「わたしである」ことを否定してしまった。主イエスの弟子として生きてきた自分を否定し、失ってしまったのです。自分が自分であることを否定してしまったら、そこには、抜け殻のようになった虚しい、空っぽな自分しか残りません。ヨハネ福音書が、ペトロが泣いたことを語っていないのは、彼が徹底的な虚しさに陥ったことを示すためだと言えるでしょう。悔いて涙を流すことができるなら、そこにはある慰めも生まれるのです。しかし彼は、そのような慰めすらも得ることができない徹底的な虚しさ、絶望に陥った。「するとすぐ、鶏が鳴いた」で話が終わっているというのはそういうことなのです。

主イエスの十字架と復活による救い
 ヨハネ福音書がこのように主イエスの堂々たるお姿とペトロの姿を対照的に語っているのは、ペトロのように「わたしではない」と言ってしまうのでなく、主イエスのように「わたしである」と堂々と言えるような人間になろう、という教訓を語るためではありません。私たちは誰もが皆このペトロなのです。この世を支配している闇の力、例えば今なら新型コロナウイルスですが、それを恐れ、身を守ろうとじたばたして、その結果、自分が自分であることを失ってしまう、神の恵みによって生かされ守られ、神が共にいて下さることが分からなくなり、神さまなんて何の役にも立たない、自分を助けてくれない、と思ってしまって、神との関係を自ら断ち切ってしまう、しかもそのことを悔いて涙を流すことすらできない、そういう虚しさと絶望に陥っていくのが私たちです。ヨハネ福音書はこのペトロに、私たちの陥っているそういう現実をはっきりと描き出しているのです。
 しかしそれと同時にこの福音書は、ペトロがこの虚しさ、絶望に陥ることを主イエスが前もって予告しておられたことを語っています。主イエスは、私たちが恐れの中で自分を見失い、「わたしではない」と言ってしまう弱さ、自分を見失って、神が差し伸べておられる恵みのみ手を振り払ってしまう罪を、よくご存じなのです。それをご存じの上で、その私たちのために人となってこの世に来て下さったのです。その主イエスは、ローマの兵士たちをもひれ伏させ、ユダヤ人の大祭司をも物ともしない神の子としての権威と力を持ってこの世を歩み、そして私たちを救うために、ご自身を人々の手に委ねて捕えられ、裁かれ、十字架につけられて殺される道を歩んで下さいました。「わたしである」という言葉によってまことの神としての権威と力を示して下さった主イエスが、恐れの中で「わたしではない」と言ってしまい、主イエスとの関係を否定し、自分が自分であることを失ってしまう私たちの罪とそれによる虚しさ、絶望を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、私たちを捕えている虚しさと絶望を打ち砕いて下さり、私たちが、神の恵みによって生かされる本来の自分として新しく生き始めることができるようにして下さったのです。一言で言えば、主イエスの「わたしである」が、私たちの「わたしではない」に勝利したのです。それによって私たちは、「わたしは主イエスの弟子です、主イエスの救いにあずかり、神と共に生きている者です」という信仰の言葉を語ることができるようになったのです。

夜明けを告げる声
 大祭司の中庭で、恐れに負けて主イエスを「知らない」と言ってしまう罪によって虚しさと絶望の深い淵の底に沈んだペトロが、新しく生き始めることができたのは、彼自身が悔いて涙したからではありません。大祭司の前で神としての権威と力をもって堂々とお語りになった主イエスが、ご自分から十字架の苦しみと死への道を歩んで、彼の罪を贖い、赦しを与えて下さったことによってこそ、彼は悔い改めて新しく生きることができたのです。私たちの救いも、この主イエスの十字架の苦しみと死によってこそ与えられています。「するとすぐ、鶏が鳴いた」。それは私たちが罪によって陥っている虚しさと絶望の闇の徹底的な深まりを示す声であると共に、その罪の深い淵の底で、主による贖い、赦しを、見張りが朝を待つにもまして待ち望んでいる私たちに、独り子である神主イエスが、十字架の死によってもたらして下さった夜明けを告げる声でもあるのです。

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