「主の到来を待つ」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; イザヤ書、第11章 1節-10節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第3章 11節-13節
書き送られた祈り
先週私たちは教会研修会を行い、「祈り」について共に考えました。その中で出て来たことに、個人の祈りと人前での祈りということがありました。一人で神様に向かって祈る時には特に意識せずに自由に祈れるのだが、例えば祈祷会などで、人が聞いているところで祈るのはとても難しい、というような話です。どちらも神様に向かって祈るのですが、やはり人と共に祈る時には、自分一人の祈りではないわけで、その祈りを聞いて共に祈る人のことをも意識せずにはおれない、それは当然のことです。聖書には多くの祈りが記されていますが、その中にも、個人の祈りもあれば、共同の祈り、人を意識した祈りもあるのです。本日この礼拝において読むテサロニケの信徒への手紙一の第3章11節以下は、この手紙を書いた使徒パウロの祈りの言葉です。そしてこの祈りは明確に、手紙の宛先であるテサロニケの教会の人々のことを意識しています。そもそもこの祈りにおいては、「あなたがた」という言葉が使われているのです。それはこの手紙の読者であるテサロニケの人々のことです。つまりこの祈りは手紙の文章の一部でもあるわけで、テサロニケの人々に「あなたがた」と語りかけつつ、神様に祈っているのです。個人の祈りならば、「あなた」と呼びかける相手は神様でしょう。しかしここでは、教会の人々が「あなたがた」なのです。だからといってパウロがここでちゃんと神様に向かって祈っていないということではありません。この祈りは、書き送られた祈りです。相手のことを思いつつ手紙を書き送り、その中で祈っているのです。だからこのような言葉遣いになるのです。そういう祈りもあるのだということを覚えておきたいと思います。私たちも人に手紙を書くときに、自然にそういう祈りをしているのではないでしょうか。そのことをもっと意識的に私たちの祈りの一つの形としていったらよいと思います。例えば病気の方や悲しみ苦しみの内にある方へのお見舞いや慰め、励ましの手紙の中で、祈りの言葉を書き送ることができたらすばらしいのではないでしょうか。
感謝から勧めへ
パウロはこの祈りの言葉を、この手紙の前半部分のしめくくりに語っています。前半部分というのは、おおざっぱに言えば、テサロニケ教会の人々のことを覚えて、神様に感謝している部分です。それがこの第3章までなのです。次の第4章からは、今度は教会の人々への勧め、教え、あるいは励ましが語られていきます。まず感謝を語り、それからそれに基づいて勧めや教えを語っていく、それがパウロの手紙の基本的な構造です。そこには、パウロという人の、信仰の指導者、教育者としての天性のセンスが反映していると言うことができるでしょう。人を教え導くためには、まず相手とのよい関係、信頼関係がなければなりません。それがないところで何を語ってもその言葉は相手の心に届きません。言葉が届くためには、信頼関係が必要です。そして信頼関係というのは、自分の側に、相手のことを拒否したり否定する気持ちがあったら築くことが出来ないのです。相手のことを感謝し喜ぶ思いを先ず自分が持つことが、信頼関係の構築には不可欠であるということを、パウロはよく知っていたのだと思います。
けれども、今申しましたことは結果的にそうなっているのであって、パウロがこの手紙を先ず感謝から始めているのは、信頼関係構築のためのコツとかテクニックではありません。彼はそうせずにはおれないのです。何故なら、彼が見つめているのは、教会を生み出し、導き、支えている神様のみ業だからです。テサロニケの町で、パウロらの伝道によってある人々がキリストの福音を信じ、神様を信じる者とされた。信仰者の群れである教会がこの町に誕生した。そして伝道者パウロが去った後も彼らは信仰に留まり、歩み続けている。パウロはそれら全てのことを、神様のみ業として見つめているのです。それはテサロニケの人々の努力や信仰深さや意志の強さによるのではなく、神様の力ある恵みによることなのです。だからパウロは、この教会のことを思う時に、神様の恵みに先ず感謝せずにはおれないのです。彼の感謝は、テサロニケの人々にではなく、神様に向けられています。それを手紙に書き記すのは、テサロニケの人々もその感謝を共有しているはずだし、またするべきだからです。彼の感謝は、テサロニケの人々に媚びたり、ご機嫌をとるためではありません。それはまっすぐに神様に向けられた感謝なのです。そしてそのように神様の恵みのみ業に感謝するパウロは、その恵みに応えて生きようとするのです。恵みをいただいた者として、神様に従い、み心に適う歩みをしようと思うのです。パウロと感謝を共にする教会の人々にも、恵みに応える生活をしてもらいたいと願うのです。それが、手紙の後半に語られていく勧め、教えです。感謝から勧め、教えへという流れは、パウロ自身の信仰の流れにおいて必然的な、ごく自然な流れなのです。
再会を願う祈り
本日の個所の祈りは、先週読んだところの最後の10節を受けて語られていると言うことができます。10節に「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」とあります。ここに「祈っています」とあるその祈りが11節以下に具体的に語られているのです。「顔を合わせて」という願いが、11節の、「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように」という祈りを生んでいます。教会が生まれてまだ間もなかったのにテサロニケを去らなければならなかったパウロは、テサロニケの人々にもう一度会いたいという願いを強く持っていました。その思いは2章の17節以下に語られています。彼は何度もテサロニケに行く計画を立てたけれども、その都度サタンによって妨げられたのです。そのような中で、父なる神様と主イエスが、サタンの妨害を抑えて、テサロニケに行く道を開いてくださるようにと祈っています。テサロニケ教会の人々と再び顔と顔を合わせて会うことを切に祈り求めているのです。
欠けているもの
パウロがそれほどにテサロニケの人々との再会を願っているのは、自分に好意を持ってくれている親しい友とまた会いたい、というだけのことではありません。10節の後半に言われていたのは、「あなたがたの信仰に必要なものを補いたい」ということです。ここは前の口語訳聖書では、「あなたがたの信仰の足りないところを補いたい」となっていました。「必要なもの」というのは、「足りないところ、欠けているもの」という意味の言葉なのです。テサロニケの人々の信仰には、まだ欠けているものがある、まだ十分ではない、補われなければならない点がある、そうパウロは思い、そのためにテサロニケ再訪を願っているのです。テサロニケの人々の信仰になお欠けているものとは何でしょうか。これまで読んできたところによれば、テサロニケ教会の人々の信仰はすばらしいものです。1章の3節でパウロ自身、彼らの信仰の働きと、愛の労苦と、希望における忍耐とを思い、神様に感謝していました。そのような彼らの信仰と生活は、諸教会の模範としてあちこちで言い広められるほどだったのです。しかしそれでもパウロは、あなたがたの信仰になお欠けているところがあると言います。それは、パウロの理想が余りにも高いということではありません。彼が見つめているのは、自分の理想ではなく、先程も申しましたように、神様の恵みのみ業です。その恵みのみ業に応えて生きることが信仰なのです。神様の恵みのみ業はどのようにして与えられたのでしょうか。それは主イエス・キリストにおいてです。神様は、独り子イエス・キリストを、人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さったのです。主イエス・キリストによって成し遂げられた神様のこの愛と恵みに応えて、この愛と恵みを受けた者として生きることが信仰です。その時私たちの歩みには、「もうこれでよい」ということはなくなるのです。神様が主イエス・キリストにおいて示して下さった愛と恵みは私たちの思いや尺度をはるかに越えたものです。私たちがそれに応えて生きようとどんなに努力しても、十分に応えきることはとうていできないのです。人間が考える信仰や愛の生活には、これくらいできれば上出来だ、結構いい線いっている、と思えるようなことがあるものです。私たちも自分の信仰生活を振り返ってそのように思ったり、あるいは自分なりのそういう尺度に照らして「まだまだだな、もう少しちゃんとしなければ」と思ったりすることが多いのではないでしょうか。けれども、私たちが本当に見つめるべきなのは、神様が主イエス・キリストにおいて示して下さった愛と恵みです。それは神様の独り子が私たちのために死んで下さったという恵みです。私たちがどれだけ頑張ってちゃんとしようと思っても、その恵みに本当に応えることなどとうていできないのです。つまり私たちの信仰と愛は、いつでも、誰でも、不十分な、欠けのあるものです。補われなければならないものです。テサロニケの人々の信仰もそうでした。まして私たちはなおさらです。パウロは、主イエス・キリストにおいて示された神様の愛と恵みに応えていこうとするところにこそ明らかになる、テサロニケの人々の信仰の欠けを補いたいと切に祈り願っているのです。そしてその祈りの具体的な言葉が12、13節なのです。
愛に満ちあふれること
「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と彼は祈っています。愛に満ちあふれること、それが、テサロニケの人々になお欠けていること、補われなければならないことです。テサロニケの人々が特に愛に乏しかったわけではありません。先程も見たように、彼らの「愛の労苦」をパウロは知っているのです。愛には労苦が伴うことを彼らは知っており、その労苦を負っているのです。しかしその愛の労苦は、主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さった、その愛の労苦、苦しみと死に比べれば、やはりなお欠けのある、補われなければならないものです。主イエスの、文字通り命がけの愛に応えて生きる者となるために、彼らの愛がさらに豊かに満ちあふれることをパウロは祈り願っているのです。
兄弟姉妹の間の愛
その愛は二つの内容を持っているということに注目しなければなりません。「お互いの愛」と「すべての人への愛」です。「お互い」というのは、主イエス・キリストを共に信じる信仰の仲間たち、教会に共に連なる兄弟姉妹のことです。その信仰の仲間たち、兄弟姉妹を愛すること、それが、主イエスにおける神の愛に応えて生きるために第一に必要なことなのです。私たちもこのことをしっかりと覚えておきたいと思います。これは特に覚えておくほどのこともない当たり前のことだと思うかもしれません。しかし、まさにこの「お互いの愛」において、私たちはまことに欠けの多い者なのではないでしょうか。共に主イエス・キリストを信じ、教会に連なっている兄弟姉妹のことを、私たちはどれだけ本当に愛しているでしょうか。愛しているつもりになっているだけで、実は私たちが愛しているのは、教会に共に連なる兄弟姉妹ではなくて、教会の中で自分と気が合う人、仲の良い友達、自分に好意を持ってくれる人、そういう人だけになっているのではないでしょうか。教会に連なる兄弟姉妹を愛するとは、その人が教会に連なる、共に主イエスを信じる信仰者だから愛するということです。それ以外のこと、その人と親しいかそうでないか、その人のことを好きか嫌いか、その人が自分に親切であるか冷たいか、そういうことによって愛したり愛さなかったりするのではないはずです。私たちの愛はしかし、実にしばしば、単に自分の好きな人だけを愛する愛になってしまっているのではないでしょうか。主イエスにおける神様の愛に応えて生きる信仰においては、それはまことに欠けの多い不十分な姿だと言わなければなりません。私たちの愛が、その欠けを補われて、本当の意味でお互いを愛する愛になっていくことを、私たちも切に祈り求めていかなければならないのです。
すべての人への愛
そしてさらに、パウロはテサロニケの人々の中に、「すべての人への愛」が満ちあふれることを祈り願っています。「お互いの愛」と並んで「すべての人への愛」と言われているのですから、これは教会における信仰の兄弟姉妹への愛とは区別される、教会の外の全ての人への愛ということでしょう。私たちの愛は、教会に連なる兄弟姉妹にだけ向けられていればそれでよいのではないのです。教会の交わりの外で私たちが出会うすべての人々も、私たちが愛するべき相手です。何故か。それは、主イエス・キリストがそうなさったからです。主イエスは、ご自分に従う者、仲間である弟子たちのみを愛されたのではありませんでした。むしろご自分に敵対する者たち、神様に背き逆らっている罪人たちを愛して、彼らのために十字架にかかって死んで下さったのです。まさに敵をも愛し、敵のために命を捧げて下さったのです。私たちは主イエスのその愛によって救われたのです。主イエスの愛がもしも仲間だけを愛する愛、正しい者だけを愛する愛だったなら、私たちの救いはなかったのです。この主イエスの愛に応えて生きようとするなら、私たちの愛もすべての人へと向かうものとならざるを得ないのです。その「すべての人」とは、「世界人類」というような漠然とした抽象的な存在ではありません。私たちが自分の生活の中で出会い、関わりを持つあの人この人が「すべての人」です。それは家族であったり、親戚であったり、友人知人であったり、職場の同僚であったり、様々です。そこにはいろいろな人がいます。好きな人、仲良くなれる人、気の合う人だけではないのです。そのような身近にいる「すべての人」をいかに本当に愛することができるか、ということに、私たちが主イエス・キリストにおける神様の愛に応えて生きるための課題があるのです。そして私たちはその愛において、まことに欠けだらけの者です。主が私たちの愛を、すべての人への愛において豊かに満ちあふれさせて下さるように祈らずにはおれないのです。
御子の到来を待つ
パウロはテサロニケの人々の信仰になお欠けていることを補いたいと願いつつ、「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています。その祈りはさらに13節では、「あなたがたの心が強められ、神様の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」という願いへと発展していきます。非のうちどころのない者となるとは、またなんと大げさな、大それたことを祈っているのかとも思わされます。しかしパウロがここで言っていることは、法螺でも誇張でもないのです。テサロニケの人々が、そして私たちも、神様の御前で、聖なる、非のうちどころのない者とされる時が来るのです。それは、「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」です。主イエスが来られるとき、それは主イエスの第二の到来、再臨のことです。復活して天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる主イエスが、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と使徒信条に語られているその時です。主イエスがまことの神としての権威と力とをもってもう一度来られ、この世の全ての者を審き、そしてこの世は終わり、神の国が実現する、その主イエスの再臨の時が見つめられているのです。その時には、私たちの信仰の欠けが全て補われ、お互いの愛とすべての人への愛とにおいて、聖なる、非のうちどころのない者とされるのです。なぜそんなことを確信をもって言うことができるのか。それは、主イエスの第一の到来のゆえです。二千年前、ベツレヘムの馬小屋で、神様の独り子であられる主イエスが、私たちのために、貧しさの極みの中で人となって下さいました。その主イエスは成長して、神様の恵みのみ言葉を人々に宣べ伝え、そして私たちの全ての罪を引き受けて十字架にかかって死んで下さったのです。神様の独り子主イエスが、罪人である私たちを救うために私たちと同じ人間になって下さり、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの愛は私たちのために死んで下さるほどに深い、完全な愛なのです。そのように私たちを愛していて下さる主イエスが、世の終わりにもう一度来られるのです。それは私たちの救いを完成して下さるためです。私たちになお残る罪を全て清めて、聖なる、非のうちどころのない者として下さるためです。主イエスの第一の到来の恵みを覚え、主イエスを神の子、救い主と信じる私たちは、主イエスの第二の到来、再臨を、私たちの救いの完成の時として待ち望むことができるのです。
アドベントの祈り
私たちは今、アドベント、待降節を歩んでいます。主イエスの第一の到来を記念し喜ぶクリスマスに備え、待つアドベントは、同時に主イエスの第二の到来、再臨を待ち望む信仰を確かめ、整える時だということを先週の説教において申しました。私たちは、クリスマスにおける主イエスの第一の到来を喜び、感謝するがゆえに、再臨における第二の到来を待ち望むのです。そしてそれは、私たちの信仰の欠け、足りないところが主イエスによって補われ、完成されることを待ち望むことです。神様を愛することにおいても隣人を愛することにおいても、お互いの愛においてもすべての人への愛においても、私たちが聖なる、非のうちどころのない者とされることを待ち望むのです。主イエスが来られるときにそれは実現します。それは裏返して言えば、主イエスが来られるとき、再臨によってこの世が終わるそのときまでは、私たちが非のうちどころのない者とされることはない、ということです。私たちのこの地上での、この人生における歩みは、どこまでいっても欠けだらけです。神様を愛することにおいても隣人を愛することにおいても、お互いの愛においてもすべての人への愛においても、私たちの愛はいつも不十分であり、欠けばかりが多く、愛するよりもむしろ憎しみに生きてしまうことの方が多いのです。それが私たちの現実です。けれどもその現実の中で私たちは、愛することに絶望することなく、主につながる兄弟姉妹の間での愛を深め、またその愛をさらに自分の出会い、関わりを持つすべての人々へと広げて行く努力を続けていくのです。主イエスがその私たちを導き、強めて、私たちの愛を豊かに満ちあふれさせて下さることを祈り求めながら歩むのです。お互いの愛とすべての人への愛を、主が私たちの内に豊かに満ちあふれさせて下さることを願う祈りを、御子の到来を待ち望むこのアドベントにおける私たちの祈りとしたいのです。これから聖餐にあずかります。私たちのために、十字架の上で裂かれ、流された主イエス・キリストの体と血とに共にあずかるのです。そこに私たちの主にある兄弟姉妹としての絆があります。主の体と血によって結ばれたお互いを、その主の恵みのゆえに真実に愛する者となりたいのです。そしてこの聖餐の恵みによって押し出されて、この一週間、それぞれの生活の中で出会い、関わりを持つすべての人を愛する者となり、み子イエス・キリストのご降誕の喜びを証しし、来るクリスマスの礼拝に共に集うことができるように、祈りつつ誘っていきたいのです。