「主が間におられる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:サムエル記上 第20章35-42節
・ 新約聖書:エフェソの信徒への手紙 第2章14-22節
・ 讃美歌:16、464
逃亡の生活に入ったダビデ
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いております。先ほどは第20章の最後のところだけを読みましたが、前回9月に読んだ18章から20章にかけての全体を見つめていきたいと思います。サムエル記は、イスラエルが王国となっていった時代のことを語っています。イスラエルの最初の王として立てられたのはサウルでした。しかしサウルは主なる神のご命令に背いたために、結局主に見捨てられてしまいます。主なる神が新しく王として選んだのがダビデでした。サウルの王国は主によってダビデへと引き渡されていったのです。今読んでいるあたりにはその経緯が語られています。ダビデは羊飼いの少年でしたが、ペリシテ人との戦いにおいて、大男ゴリアトを倒した手柄によってサウルの宮廷に召し抱えられて戦士の長となり、サウルの娘ミカルと結婚しました。しかしサウルは、ダビデが武勲をあげるにつれて敵意を抱くようになりました。18章10節以下には、サウルがダビデを槍で突き殺そうとしたとあります。それは悪霊に取り付かれてのことでしたが、その直前のところに、人々が「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っているのを聞いてサウルが激怒したと語られていますから、サウルのダビデに対する嫉妬が根本にあったのは間違いありません。また19章には、サウルが息子のヨナタンと家臣たちにダビデを殺すように命じたとあります。その時はヨナタンになだめられて命令を撤回していますが、その後すぐにまたダビデの家に部下を遣わして殺そうとしています。19章にはそういうことが繰り返し起ったことが語られています。このようにダビデは、サウルに命を狙われるようになり、逃げ出さなければならなくなったのです。20章には、サウルのダビデへの殺意が確認され、ダビデがサウルの宮廷を去り、逃亡の生活に入ったことが語られているのです。
選ばれた者と捨てられた者
サムエル記上の重要な内容の一つがこのサウルとダビデの関係です。そこには、神による選びというテーマがあります。サウルも、もともとは神に選ばれて王となりました。しかし彼は結局神に捨てられ、新たにダビデが選ばれたのです。サウルとダビデの関係とは、主なる神に捨てられた者と選ばれた者との関係です。これは聖書全体を貫く大事なテーマの一つです。この世界は主なる神がお造りになり、支配しておられる、この世の全てのことが神のみ手の中にある、という聖書の信仰においては、人間の繁栄と没落、いわゆる栄枯盛衰は、偶然や運命のいたずらではありません。そこには、神に選ばれた者と捨てられた者とがいるのです。そのことをどう受け止めるかは、聖書の神を信じることにおいて大事なポイントになります。サウルとダビデの物語全体を通して私たちはそのことを考えさせられます。しかし今はまだ話の途中ですから、そのことを頭に置きつつ、本日はこの20章が語っていることに集中したいと思います。
ダビデとヨナタン
この20章で、ダビデと並んで主人公となっているのはヨナタンです。彼は先程も申しましたようにサウル王の息子、王子です。しかし彼はダビデと親友でした。18章1節に、「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」とありました。19章においても、ヨナタンはダビデのことを父サウルに執り成しています。20章に入ってダビデはヨナタンに、サウル王の自分に対する気持ちを確かめてくれるように願います。既に何度も命をねらわれているダビデは、サウルの思いをはっきりと確かめたいのです。20章2節でヨナタンは「決してあなたを殺させはしない。父は、事の大小を問わず、何かするときには必ずわたしの耳に入れてくれる。そのような事を父がわたしに伏せておくはずはない。そのような事はない」と言います。善良な息子として父を信じたいというヨナタンの思いがここに表れています。しかしダビデは事態をより深刻に見ています。3節に、「わたしがあなたの厚意を得ていることをよくご存じのお父上は、『ヨナタンに気づかれてはいけない。苦しませたくない』と考えておられるのです。主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。死とわたしとの間はただの一歩です」とあります。それでヨナタンは、新月祭の祝宴の席で、サウルの気持ちを確かめることを約束します。その宴席にダビデが欠席していることをサウルがどう言うかによってその本心をさぐり、それをダビデにそっと知らせようというのです。サウルが本心からダビデを殺そうとしているなら、ダビデは直ちに逃げ去らなければなりません。
このヨナタンとダビデとの関係は複雑なものがあります。個人的には彼らは親友であり、何でも打ち明け合うことができる信頼関係にあります。しかしヨナタンは神に捨てられた王サウルの息子であり、ダビデは神が新たにお選びになり王として立てようとしている人です。サウルの王国を受け継ぐのは、通常ならヨナタンであるはずですが、神のみ心においてはダビデなのです。そのダビデをヨナタンは助けようとしている。それは、自分の王位を奪う者を助けているということです。サウルはそのことを意識しています。新月祭の席にダビデがいないことに怒ったサウルに対して、ヨナタンはダビデをかばおうとしました。そのヨナタンにサウルが激怒して語った30節以下の言葉がそれを示しています。こう語られています。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの子をひいきにして自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、このわたしが知らないとでも思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ」。エッサイの子とはダビデのことです。ダビデが生きている限り、ヨナタンとその王権は確かではない、つまりダビデがその王位を脅かすのです。だからヨナタンがダビデをかばうのは、自分の王位を脅かす者をかばうことなのです。「自分を辱め、自分の母親の恥をさらしている」というのはそういうことです。王子として生まれ、王権を受け継ぐべき者が、それを脅かす者をひいきにするとは何事か、とサウルは言っているのです。ヨナタン自身も、そのことに気づいていないわけではありません。彼がダビデに語った20章13~15節の言葉にはそれが表れています。「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい」。彼は「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」と言っています。主なる神が父サウルと共におられたので、サウルは王となることができたのです。しかし今や主はダビデと共におられ、ダビデを王としようとしておられるのです。そのことをヨナタンは意識し、認めています。「そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい」という言葉がそれをはっきりと示しています。「そのとき」とは、「主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるとき」、つまりダビデが王となる時です。その時がやがて来る。その時自分はまだ命があるか、それとももう死んでいるかわからないが、その時に、わたしとわたしの家に慈しみを施して欲しいとヨナタンは願っているのです。今この時点では、ヨナタンは王子であり、ダビデは家臣です。しかしこの言葉は、その立場が逆転することを見越しています。ヨナタンはこのように、サウルの王国が自分にではなくダビデに受け継がれていくこと、それが神のご意志であることを意識しているのです。それを意識しつつ、ヨナタンはダビデと深い信頼関係にあります。それは、沈みかけているサウルの舟から逃げ出して、将来性のあるダビデの舟に乗り換えよう、というような打算的なことではありません。古代の世界において、王権の交代は、前の王家に連なる者たちの死を意味していました。新しく王位に着いた者は前の王の一族を皆殺しにするというのが普通だったのです。それは人道にもとるひどいことだ、と私たちは今日の感覚で思いますが、そうしなければ新しい政権は安定しなかったのです。ですから、ダビデが王になるとは、ヨナタンは死ななければならないということです。前の王の息子であるヨナタンが生きていたのでは、ダビデの王権は安定しないのです。つまりダビデが王になることは、ヨナタンの滅亡を意味しているのです。つまり先程の言い方を用いれば、ヨナタンは神に捨てられた者の側にいるのです。ヨナタンとダビデの友情というのは、捨てられた者と選ばれた者との間の友情です。その両者の間に、このような美しい信頼関係があったということを聖書は語っているのです。
主が間におられる
さてこのヨナタンとダビデの信頼関係を描く中で、この20章に繰り返し語られている大事な言葉があります。最後の42節に「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」とあります。23節にも、「わたしとあなたが取り決めたこの事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」とあります。「わたしとあなたの間に主がおられる」。ダビデとヨナタンの関係について、繰り返しそのように語られているのです。
「わたしとあなたの間に主がおられる」とはどういうことでしょうか。主なる神が二人を結び合わせて下さっているのだから、この世のどんな事情も、身分や立場の違いも、人間的な対立や食い違いも、二人の信頼関係を損なうことはない、ということでしょうか。そう言えたらどんなによいだろうかと思いますが、私たちの現実は、なかなかそうは行きません。教会における結婚式では、「神が合わせたもうたものを人が離してはならない」と宣言されますが、そのように神によって合わせられたはずの二人が、結局うまくいかなくなってしまう、ということも多々あります。神が結び合わせて下さったということが、人間どうしの関係をどんな時にも支えるとは限らない現実があるのです。それは何故でしょうか。主が間におられても実際にはあまり役に立たないということでしょうか。そうではないでしょう。そういうことが起るのは、実際には人間の思いによって築かれている関係なのに、主が間におられるということを用いてその関係を側面から補強しようとしているからではないでしょうか。つまりそこでは主は本当には間におられないのです。主が間におられるというのは、自分たちが築いている関係を主なる神に側面から支えてもらおうということではありません。そうではなくて、自分たちの交わりは、主なる神が間にいて下さることによってこそ成り立つ、ということです。つまり主が間におられるというのは、主が自分たちを出会わせて下さったのだ、と過去を振り返って懐かしんでいるようなことではなくて、今も、これからも、主なる神が間にいて下さらなければ自分たちの関係は維持され得ない、と意識することなのです。
ダビデとヨナタンの間にまさにそういう関係が結ばれました。この20章で、この二人はいよいよ別れなければならないのです。ダビデを殺そうとしているサウルの息子であるヨナタンと、サウルに代わって王として立てられようとしているダビデの道は、もう分かれて行かざるを得ないのです。神に選ばれた者と捨てられた者との歩みは必然的に分離していくのです。だからこの20章の最後の所は、ダビデとヨナタンの涙の別れの場面です。親友どうしが、その信頼関係や愛にもかかわらず、間を引き裂かれ、別離を余儀なくされているのです。信頼関係も愛も、もはや二人を繋ぎ止めることはできません。そのような事態に立ち至った時、二人は、自分たちの間に主がとこしえにおられる、という交わりを結んだのです。それはもはや、神がこの交わりを支えて下さるとか、神が絆となって下さっているのだから何があっても我々は引き離されない、というようなお気楽なことではありません。人間の絆も親しさも信頼関係も、もはや何の役にも立たないのです。神が間に立って下さることによってしか、この交わりはもう成り立ち得ないのです。わたしとあなたの間に主がおられる、という関係は、そのように、人間的な一切の絆が断ち切られていくところに成り立つものなのです。
コロナ禍によって交わりが失われている中でも
私たちも、教会における信仰の仲間たち、兄弟姉妹との間に交わりを持っています。それは主によって結ばれた、主が間にいて下さる関係だと思っています。しかし本当にそうでしょうか。私たちは確かに、神を信じる信仰という絆によって結ばれた交わりを持っており、そこには世間の交わりよりも深い、親密な関係がある、と言えるかもしれません。しかしそこで私たちが実際に思っていることは、自分たちが親しさによって築いている関係を、主なる神が側面から支えてくれている、ということなのではないでしょうか。つまり私たちは、自分たちの交わりの真ん中に主にいてもらおうとしているのではなくて、主が側面にいて支えてくれる、という関係、交わりを求めまた築いているのではないでしょうか。しかし主が本当に間におられる関係というのは、私たち人間の親しさによる関係が破れてしまって、もはや共に歩むことができなくなり、別れが起こってしまうような所において与えられるのです。そして今まさに私たちはそういう所にいるのではないでしょうか。新型コロナウイルスの蔓延によって、共に集まって親しい交わりを持つことができなくなっています。顔と顔とを合わせて集まり、人間的な親しさを築く機会が極端に失われてしまっているのです。人間の親しさによる交わりが妨げられ、そのためにお互いの関係が希薄になり、絆が失われそうになっていることを私たちは今体験しているのです。コロナの状況の中では、人間どうしの親しさ、信頼、愛などを交わりの絆とすることができなくなっているのです。しかし私たちは、この状況の中で、ここでのダビデとヨナタンのように、「わたしとあなたの間には主がとこしえにおられる」という関係を結ぶことができるのです。「神さま、私たちはもはや自分たちの親しさによって交わりを築き、維持することができなくなっています。どうぞあなたが、私たちの間にいて下さい、あなたが私たちの関係の絆となって下さい」と祈る時に、主が間にいて下さる交わりが与えられるのです。
新型コロナウイルスは私たちから、仲良く親しくしてきた人との交わりを奪ってしまいました。しかし主なる神を共に信じることによって与えられる交わりは、このような時にこそ、主なる神が間にいて下さり、絆となって下さる交わりなのです。ですから私たちは、コロナ禍によって、集まって親しい交わりを持つことができなくなってしまったからといって、交わりが失われ、関係が断たれてしまったと思ってしまってはならないのです。主が間にいて下さることによる真実な関係、交わりが、私たちには与えられているのです。
罪による隔ての壁を乗り越えて
私たちの人間的な親しさという交わりの絆を失わせ、交わりを破壊してしまうのは新型コロナウイルスだけではありません。私たちは、お互いに持っている罪によって人を傷つけたり、傷つけられたりすることによって交わりを破壊してしまいます。あるいは自分の親しい、仲の良い者たちだけとの交わりの中に閉じこもることによって、他の人々との交わりを拒み、対立を生じさせてしまうこともあります。そのように私たちには、人との関係を築くのではなくて破壊してしまう罪があるのです。主なる神は、私たちがそのように破壊してしまう交わりの間に立って下さるために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そのことが、本日共に読まれた新約聖書の個所、エフェソの信徒への手紙第2章14節以下に語られています。その14~16節にこうあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。イエス・キリストは、十字架にかかって死ぬことによって、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊して平和を実現して下さいました。そういう隔ての壁を作り出してしまう罪が私たちにはあるのです。主イエス・キリストは、その私たちの罪をご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。敵意や対立を作り出してしまう私たちの間に立って、ご自身の身に敵意を引き受けて死んで下さることによって、隔ての壁を取り壊して平和を実現して下さったのです。私たちの交わりの真ん中に、十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストがいて下さるのです。このことを信じて、主イエスが間にいて下さるようにと祈ることによってこそ私たちは、お互いの罪による隔ての壁を乗り越えて交わりを築いていくことができるのです。またこのコロナ禍において、目に見える親しい交わりが妨げられ、失われている中でも、私たちの間には、主イエス・キリストがいて下さる、という交わりがなお与えられていることを信じて歩むことができるのです。