「油を注がれた者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:サムエル記上 第10章1-27節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第28章16-20節
・ 讃美歌:6、239
キリスト=メシア
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いておりまして、前回は11月の半ばでした。その前回から本日までの間にクリスマスがありました。クリスマスは、主イエス・キリストの誕生を喜び祝う時です。「キリスト」は新約聖書の原語であるギリシア語では「クリストス」です。クリストスの誕生を喜び祝う祭りがクリスト?マスなのです。このクリストス即ちキリストという言葉が、今私たちが読んでいる新共同訳聖書において、「メシア」と訳されているところがあります。クリスマスに必ず読まれるルカによる福音書第2章11節の天使のお告げの言葉「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」が代表的です。原文の言葉はクリストスなのですが、メシアと訳されているのです。ギリシア語のクリストスはヘブライ語のメシアの訳です。だからヘブライ語を話していたユダヤ人である羊飼いたちに天使が告げたのは「この方こそ主キリストである」ではなくて「この方こそ主メシアである」だった、というのがその根拠でしょう。それはその通りなのですが、しかし福音書に出て来るクリストスという言葉が全てメシアと訳されているわけではなく、キリストとなっているところもあります。そうなると、日本語で読んでいる人には「メシア」と「キリスト」が原文において同じ言葉であることが分からなくなります。天使は主イエスのことをメシアだと言ったのであってキリストだとは言っていない、などと思ってしまうかもしれません。そんなことにならないためにしっかり確認しておきましょう。メシアとキリストは同じ言葉です。そしてその意味は、「油を注がれた者」です。油を注がれた者とは、神の民イスラエルにおいて、神によってある特別な使命に立てられた人です。頭に油を注がれることによって、神がその人に特別な役割、使命をお与えになったことが表されたのです。祭司の任職において油が注がれました。そして本日の箇所に語られているように、王が立てられる時にも油が注がれたのです。祭司や王が「油を注がれた者」つまりメシアだったわけですが、後にはこの言葉は、神が遣わして下さると約束して下さっている救い主を示す言葉となりました。油注がれた者メシアによる救いを待ち望むことがユダヤ人たちの信仰となっていったのです。そのメシアこそイエス・キリストです。イエス・キリストという呼び方は、イエスはキリストつまりメシアである、ということです。あの天使は羊飼いたちに、今日ダビデの町ベツレヘムで、あなたがたが待ち望んでいた主メシア、キリストがついにお生まれになった、という喜びの知らせを告げたのです。
王として立てられたサウル
さて本日読むのは、サムエル記上の第10章ですが、ここには、イスラエルの歴史において最初に王として油を注がれた人のことが語られています。その人とはサウルです。1節に彼が油を注がれたことがこのように語られています。「サムエルは油の壷を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。『主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです』」。このことによってサウルは油を注がれた者、メシアとなったのです。勿論この場合のメシアはまだ世の救い主という意味ではありません。しかし神の民イスラエルの指導者であり、民を敵から救う者ではあります。以前の口語訳聖書ではこの1節の後半にこういう言葉がありました。「あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない」。これは七十人訳という旧約聖書のギリシア語訳に出て来る言葉で、ヘブライ語の原文にはないので、新共同訳ではカットされているのですが、内容的には、サウルが油を注がれて立てられた王としての務めをはっきり示しています。イスラエルの民を治め、周囲の敵から救う働きをサウルは与えられたのです。その働きは、それまでは、神がその都度立てて下さっていた士師と呼ばれる人々によって担われてきました。その士師たちの働きを常時担う者として王が立てられたのです。
民の不信仰
イスラエルに王が立てられることになった経緯は、第8章に語られており、それについて11月にお話ししました。イスラエルの人々が、周りの国々と同じように自分たちも王が欲しいと言い出したのです。国が危うくなるとその都度士師が立てられるというのではどうも心もとないし、緊急事態にすぐに対応することができない。敵に対する防衛の体制は常に整えておく必要がある。そのためには今のような緩やかな部族連合よりも、一人の王の下に国がまとめられる中央集権体制の方がよい、と多くの人々が思ったのです。しかしそれは、イスラエルの民の主である神さまへの重大な反逆でした。イスラエルに王がいなかったのは、実は主なる神こそが王であられたからなのです。主なる神こそがこの民を治め、敵から守って下さっていたのです。士師はその王である神がその都度派遣して下さった将軍たちでした。彼らを通して主なる神がまことの王としてイスラエルをしっかり守って下さっていたのです。人間の王を求めるというのは、まことの王である神さまを信頼できない、ということです。神による守りと支えでは心もとないから、目に見える人間の王を求めるのです。つまりこれはイスラエルの民の神に対する不信仰の現れです。最後の士師であったサムエルは第8章でそのことを民に語り、人間の王に支配されることによって彼らが受ける様々な苦しみを示しました。あなたがたは王の奴隷になってしまうのだぞと警告したのです。しかし民はそれでも王が欲しいと言って聞かなかったのです。主なる神はこの様子を見て、彼らの願い通りにイスラエルに王を立てることを決意されたのです。
神がお立てになった王サウル
イスラエルに王が立てられることの意味をサムエルは本日の10章17節以下においても語っています。王を選び出すのに先だって彼はこう言ったのです。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国から救い出した』と。しかし、あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている」。王を求めることによってあなたがたは、まことの王である主なる神を退けようとしているのだ、とはっきり指摘した上でサムエルは、民の中から誰が王として立てられるべきか、くじを引かせたのです。そのくじによって、先ずベニヤミン族が選ばれ、ベニヤミン族の中からマトリの氏族が選ばれ、その中でサウルがくじに当たったのです。サウルは、先ほど読んだ1節において既にサムエルから油を注がれていました。サウルがサムエルと出会った経緯は第9章に語られていますから、後で読んでいただきたいのですが、彼はいなくなった父のろばを捜しに出て、サムエルと出会ったのです。サムエルはサウルに出会う前日に神からこういうお告げを受けていました。9章16節を読みます。「『明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる』」。このお告げによってサムエルは、サウルこそ神がイスラエルの王として立てようとしておられる人であることを知り、サウルに油を注いだのです。しかしそれはサムエルとサウルの二人だけの間でのことで、このサウルこそイスラエルの王となるべき者であることが民全体にはっきり示される必要があります。そのためにサムエルは10章17節で民を皆集め、くじを引かせたのです。くじを引くことは聖書において、神のみ心を知るための大事な手段です。サウルにくじが当たったことによって、神がサウルを王としてお選びになったことが民全体にはっきりと示されたのです。
サウルに油が注がれたことと、くじによってサウルが選び出されたことの順序が大事です。くじに当たった人に油が注がれたのではありません。既に油を注がれていたサウルにくじが当たったのです。このことは、サウルを王として立てたのはイスラエルの人々ではなくて、神ご自身であることをはっきりと示しています。ですからここには、人間の王を立てることは神を退ける不信仰であるということと、その人間の王を神ご自身が立てて下さったという、矛盾するように思えることが語られているのです。
間違った列車に乗り込んだイスラエル
イスラエルの人々がまことの王であられる神を退け、人間の王を求めたことをある人は、「イスラエルは間違った列車に乗り込んでしまった」と表現しています。桜木町から、川崎の方へ行かなければならないのに、横浜線の直通電車に乗ってしまったようなものです。東神奈川を過ぎると、川崎からはどんどん離れて行ってしまいます。単に電車を間違えちゃっただけなら、途中で降りて戻って来ればいいわけですが、イスラエルの民の間違いはもっと深刻です。彼らはサムエルの警告にも拘らず自分たちの意志で人間の王を求めたのです。つまり意図的にこちらの列車に乗ったのです。それは、自分たちが願っている通りの国を造りたいという思いからです。主なる神が王であり守って下さるのではなくて、自分たちの力や工夫で防衛の体制を整える、つまり神のみ心に従う国ではなくて、人間が主人であり支配している国、神の国ではなく人間の国を造ろうとしたのです。そのために彼らは人間の王を求めたのです。イスラエルの民はそのように、自らの意志で間違った列車に乗り込んだのです。その民に、神は王をお与えになりました。それは言ってみれば、間違った目的地に向かって走る彼らの列車に神が運転士を送り込まれたということです。これが自動車なら、運転士、ドライバーはすぐにハンドルを切って正しい道へと戻って行けるかもしれません。しかし列車はそうは行きません。列車の運転士はどんなに頑張っても、横浜線を走っている電車を京浜東北線に戻すことはできないのです。そのことを承知の上で神はこの間違った列車に運転士を送り込まれたのです。それは神が、イスラエルの民のこの間違った方向への歩みにどこまでも付き合われる、共に行って下さる、というご決意の表れです。神を退けて人間の王を求め、自分たちが主人となって人間の国を造ろうとしている彼らの歩みは、どこかで必ず破綻します。この暴走列車はどこかで脱線転覆するしかないのです。その破綻、脱線転覆は直接には、バビロニアによる国の滅亡において起りました。しかしもっと本質的には、それは主イエス・キリストの十字架の死において起こったと言うべきです。神に従うのでなく、自分が主人となって歩んでいる人間は、預言者たちを通しての神からの再三の警告にも耳を貸さずに罪の道をひた走り、ついに、神が遣わして下さった独り子主イエスをも十字架につけて殺してしまったのです。それは人間の罪が極まり、ついにこの暴走列車が脱線転覆した、という出来事です。しかしこの脱線転覆によって死んだのは、油を注がれた者、神によって立てられ遣わされたメシア、キリストである主イエスだったのです。主イエスは、この列車に乗っている全ての者たちの罪を背負って、その身代わりとなって、罪の暴走の果ての死を引き受けて下さったのです。それによって、この暴走列車はようやく止まり、本来滅びるべき罪人である私たちは赦されて、神に従う正しい道を新しく生きることができるようになったのです。主イエスが神によって立てられ、油を注がれた者、即ちメシア、キリストとしてこの世に来られたのは、この十字架の死による救いを実現するためだったのです。
サウルから主イエスへ
神がサウルをイスラエルの王として立て、彼に油を注ぎ、即位させて下さったのは、先程も申しましたように、神が、間違った方向へと突っ走っていくイスラエルの民と、どこまでも共に歩んで下さるというみ心によることです。その神の歩みの先に、独り子主イエス・キリストの十字架の死があるのです。主イエスの十字架の死は、人間の罪の暴走の行き着く所であると同時に、その罪の歩みにどこまでも共に歩んで下さった主なる神の恵みのみ心の行き着く所でもあったのです。イスラエルの最初の王として油を注がれた者サウルが立てられたことは、油注がれた者、メシア、キリストである主イエスの十字架の死によって私たちに与えられている神の救いのみ業へと繋がっているのです。
見た目、評判、実力によってではなく
さてサウルはどのような人だったのでしょうか。9章の2節に彼の姿の紹介があります。「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」。このようにサウルは希に見る美しい若者、超イケメンでかつ背も高かったのです。また彼は、父のろばを捜しに行きますが、いつまでも捜し回っていると父が今度は自分たちのことを心配してしまうからもう帰ろう、という分別を持ち、父のことを思いやることのできる人だったことが5節から分かります。そしてサムエルと出会い、あなたこそイスラエルの王となるべき人だと言われると21節で「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか」と答えています。9章を読んで感じられるのは、サウルはしごく真っ当な青年だということです。後にサウルは神に背いて見捨てられ、悲劇的な最後を遂げるのですが、だからといって最初から何か問題のある、ひねくれた悪い人間だったのではありません。彼はむしろ、誰もがこの人なら王になるのに相応しいと思うような人だったのです。けれどもそれは、彼が自分の力、才能によって王としての務めを果たしていった、ということではありません。そのことは誰よりもサウル自身が一番よく知っていたのです。くじによって王として選び出された時、彼は「荷物の間に隠れていた」と22節にあります。自分がイスラエルの王になるなんてとんでもない、とビビって身を隠していたのです。神はそのようなサウルを選んで油を注がれました。神の選びは、人間の見た目や、また周囲の評判、そして本人の自信などとは全く関係なく与えられるのです。
神の霊によって新しくされて
そして神は、神ご自身が彼を王としてお立てになることを示すために、サムエルを通してサウルにいくつかの印を与えて下さいました。その一つが5節以下です。サムエルは彼に、ギブア・エロヒムという町へ行けと命じます。そこで預言者の一団に出会うというのです。その預言者たちは「預言する状態になっている」と5節の終わりにあります。「預言する状態」とは、神の霊、聖霊に満たされて、霊的な興奮状態になり、その中で神のみ言葉を示され、それを語る、という状態のことです。旧約聖書に出て来る預言者たちが皆そういう状態で預言をしたわけではありませんが、こういうタイプの預言者もいたのです。そういう預言者の一団に出会う。すると6節「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう」。主なる神の霊がサウルに降る、そしてサウルも預言する状態になり、別人のようになる、それがサウルに与えられた印でした。イスラエルの王となって民を治め、敵から救い出すことは、神の霊によって別人のようになることによってこそなし得る働きです。どんなに素晴しい能力、才能を持っていても、神の霊によって新しくされることなしには、この務めを果たすことはできないのです。そして7節にはこうあります。「これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」。聖霊が降り、新しくされたなら、「しようと思うことは何でも」したらよいのです。何物にも縛られることなく、自由に何でもできるようになるのです。「神があなたと共におられる」からです。サウルはこの、「神があなたと共におられる」という約束に支えられて、イスラエルの最初の王としての働きをしていくことができたのです。
主イエスが共にいて下さることによって
それと同じ恵みが、復活なさった主イエス・キリストによって弟子たちに与えられたことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第28章16節以下です。復活なさった主イエスは弟子たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とお命じになりました。主イエス・キリストによる救いを宣べ伝え、洗礼を授け、教会を築いていく使命が弟子たちに与えられたのです。その使命を果たす力は、生まれつきの私たちにはありません。サウルと同じように聖霊を注がれて別人のようになることによってこそ、私たちもこの使命を果たしていくことができるのです。そして主イエスはその弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さいました。サウルが、神が共にいて下さることを信じてそのみ言葉に聞き従っていく限り、イスラエルの王として歩むことができたように、私たちも、主イエスがいつも共にいて下さる、という恵みを信じて生きることによって、聖霊を注がれて別人のようになり、主イエスの福音によって生かされ、その福音を宣べ伝えていくことができるのです。
聖霊による自由
そしてその歩みにおいて私たちも、「しようと思うことは何でもする」ことができます。聖霊に満たされた者は大きな自由を与えられているのです。勿論それは、自分の願いを叶えるために何をしてもいいということではありません。聖霊によって新しく生かされた私たちが「しょうと思うこと」、それは主なる神さまの栄光のためのこと、主イエス・キリストによる救いの福音を宣べ伝えるためのことです。主なる神さまが共にいて下さるので、私たちは、教会は、安心して、神さまこそがこの世界の主であり、救い主であられることを宣べ伝えていくことができるのです。あれをしてはいけない、これはすべきでない、という思いから自由になって、主の栄光のためにいろいろなことにチャレンジしていけるのです。勿論私たちには罪がありますから、私たちが選び取ってしていくことはしばしば間違ってしまいます。間違った方向へと突き進んでしまうことがあります。しかし主なる神は、その私たちといつも共にいて下さり、私たちの歩みにどこまでも付き合って下さり、そして主イエスの十字架の死と復活の恵みによって私たちを正しい道へと立ち帰らせて下さるのです。不信仰のゆえに王を求めたイスラエルの民に、神が油を注がれた者である王を与えて下さったことは、このような神の救いの恵みを指し示しているのです。