夕礼拝

主のみ業と教会の祈り

「主のみ業と教会の祈り」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第91編1-16節
・ 新約聖書:使徒言行録 第12章1-25節
・ 讃美歌:152、469

先週の聖書箇所はアンティオキアの教会が舞台でしたが、本日の12章ではエルサレムの教会へ移ります。ここでは、時のユダヤの権力者ヘロデ王の教会への迫害と、牢に入れられて絶体絶命のペトロが、天使に救い出される、不思議な神のみ業がドラマチックに語られています。そして、それと共に注目すべきは、信仰共同体である教会の祈りと、そこに生きている人々のリアルな姿です。

<ヤコブの殺害とペトロの投獄>
さて、当時エルサレムがあるユダヤとその一帯は、ローマ皇帝の後ろ盾によってヘロデ・アグリッパ一世が治めていました。1節に出てくる「ヘロデ王」です。この「ヘロデ王」は、主イエスがお生まれになった時に、三人の博士の訪問を受け、ベツレヘムにいる二歳以下の男の子を殺すように命じた、あのヘロデ大王ではありません。その孫にあたる人物です。また、主イエスが十字架の時に領主であったヘロデでもありません。彼はヘロデ・アンティパスと言って、今日出てくるヘロデ王はその甥っ子です。
ヘロデ王はエドム人の子孫で、純粋なユダヤ人ではありませんでした。しかしユダヤの地を治めるにあたって、ユダヤ人から気に入られたいがために、律法を守ったり、清めの儀式を行ったり、ユダヤ人のように振る舞っていたと言われています。

そして、「ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」とあります。ヤコブとは、十二使徒の一人で、使徒の中では初めての殉教者になります。ヤコブの殺害は、教会に反発を覚えているユダヤ人に喜ばれたのでした。
そこで、ヘロデ王はさらにユダヤ人からの人気を得ようとして、使徒のペトロを捕えました。3節には、「それは、除酵祭の時期であった」とあり、4節には「過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」とあります。お祭りの時はエルサレムに大勢のユダヤ人たちが集まってきます。そこで大勢の人々がいる中でペトロを処刑し、さらに多くの人々の支持を得ようとしたのです。教会はユダヤ人からの迫害だけでなく、このように国家権力からも弾圧を受けるようになりました。
ペトロは厳重に監視されました。四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた、とあります。重罪人扱いです。そしてこれはどう考えても、人の力では牢からの脱出が絶対に不可能であるということです。

<教会の祈り -複雑な思いで>
そのような中で、5節には「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」とあります。どう考えても捕えられたペトロは殺されてしまう。助ける手立てもない。何も出来ない。そのような中で、教会の人々は、ただ熱心に祈りました。

彼らの心中は、とても複雑だったと思います。なぜなら、使徒のヤコブはすでに殺されてしまったからです。彼らはヤコブの時は祈らなかったのでしょうか。そのようなことはないでしょう。ヤコブについても、熱心に祈ったはずなのです。ヤコブが助かりますように、教会に戻ってきますように。しかし、ヤコブは殺されました。
それでも、彼らは神に祈りました。ペトロも助からないかも知れない、とどこかで思っていたかも知れません。それでも何とか助かりますように、ペトロを教会に返して下さいますように。絶望的な状況の中で、教会はペトロのために、彼らに出来るたった一つのこと、「祈る」ということを、心を合わせて熱心にしたのでした。

そして、ここでもう一つ、おそらく教会の人々は、この祈りも心に留めていたであろうと思います。それは、4章で、ペトロとヨハネが捕まってユダヤ人たちの議会で取り調べを受け、釈放された後、教会の皆で一緒に祈ったことです。4:29にある、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りです。この時、困難や迫害に遭っても、すべて神がご存知でいて下さり、支配して下さり、神のみ業がなされること、御言葉が語られ続けること、主イエスの十字架と復活の福音が宣べ伝えられ続けることを教会は祈ったのでした。神の救いのご計画が前進していくという、神のみ心を自分たちの心として、教会は歩もうとしているのです。なぜなら、罪を赦し、死に打ち勝って下さった主イエス・キリストにのみ、教会の人々の救いがあり、命があり、希望があるからです。

そのようにして、神のみ心を祈りつつ、信じつつ、しかしいざ仲間が殺されるかも知れない、という事態が目の前で起こっている時に、教会の人々の心は、どうしても不安と、悲しみと、恐ろしさでいっぱいであったと思います。
本当に助かって欲しいと願っているけれど、人の常識ではどう考えても助からない、という思いがあります。やはり人は自分の力や能力で何とか出来ること、出来ないことを考えています。人の欲や、神に逆らう者によって引き起こされる、目に見える現実は、あまりに厳しく襲い掛かってきて、見えない神の恵みを覆ってしまうように見えるからです。
しかしそれでも、教会の人々は、一つの所に一緒に集り、ペトロのために心を合わせて、熱心に神に祈ります。もう祈ることしか出来ないのです。

<牢から救い出されたペトロ>
さて、このような教会の祈りの中で、6節からペトロの脱出劇が記されています。
ヘロデ王がペトロを引き出そうとしていた日の前夜、もう明日にでも人々の前で殺されるかも知れない、という時、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた、とあります。これも不思議なことです。明日をも知れぬ命という状況で、ペトロは眠っていたというのです。なんという大胆不敵さでしょうか。しかし、これはペトロが豪胆な性格だったからとか、どんな時も冷静沈着な人物だった、という訳ではないでしょう。
なぜなら、ペトロは主イエスが十字架につけられる前、自分も捕えられるのを恐れて、自分は仲間ではない、主イエスを知らないと三度も嘘をつき、逃げ出してしまう、そのような人だったのです。
しかし、ペトロは変わりました。自分で変わったのではありません。主イエスに変えられたのです。ペトロは、十字架の死から復活された主イエスに出会いました。主イエスは天に上げられ、今やすべてを支配しておられ、聖霊を遣わして下さって、ペトロと共にいつもおられるのです。牢に繋がれている、今この時もです。ペトロの命は明日をも知れぬかも知れませんが、しかしそうだとしても、明日で全て終わりではないのです。天の主イエスに見え、永遠の命と復活の恵みに与る、確かな約束をペトロは知っています。ペトロの平安は、共におられる復活の主イエスが与えて下さる平安です。

そこに主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らしました。天使はペトロのわき腹をつついて起こし「急いで起き上がりなさい」と言います。すると鎖がペトロの手から外れ落ち、天使はペトロに一つ一つ動作を指示します。ペトロは天使のことが現実のこととは思われずに幻を見ているのだと思った、とあります。寝起きですし、事が不思議すぎて、何が起きているかよく分からなかったのでしょう。天使に、帯を締めなさい、履物を履きなさい、上着を着なさい、ついて来なさい…まるで小さい子どものように一つ一つ動作を指示されて、ペトロは言われるがままに従っていきます。第一、第二衛兵所を過ぎ、町に通じる門もひとりでに開き、進んで行くと、急に天使は離れ去ってしまいました。

すると、ペトロは我に返って言います。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出して下さったのだ。」すべては神の御手によって起こったことだと、ペトロは理解しました。
問題の渦中にいる時には、本人は精一杯で何がなんだか分かりません。しかし、物事が落ち着いて振り返ってみた時、あれは主が救って下さったのだ、あの時主が導いて下さったのだ、と気づきます。わたしたちもそうです。それは天使の姿ではないかも知れませんが、助け手が現れ、祈ってくれる人が現れ、慰めてくれる人が現れ、ペトロが天使に子どものように手取り足取り導かれたように、一つ一つの具体的な出来事を主が導き、助けて下さって、わたしたちも人生を歩まされているのです。

<人々の不信仰な反応>
さてペトロは、神が救い出して下さったと分かると、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った、とあります。当時の教会は個人宅に集まる「家の教会」でした。そこに大勢の人が集まって、まさにこの時、ペトロのために祈りがささげられていたのです。

ペトロが門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに来ますが、ペトロだと分かると「喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた」とあります。何だかそそっかしいことですが、しかし、ロデがどれほど驚き、どれだけ喜んだかが活き活きと伝わる場面です。
また、人々の反応も、わたしたちは共感できるのではないでしょうか。心から熱心にペトロのために祈っているのに、ペトロが助かった、ということをすぐに受け入れられません。どこかで助かるのは絶対に無理だ、と思っていたのです。ロデに対して、「あなたは気が変になっているのだ」「それはペトロを守る天使だろう」と言いました。
しかし、ペトロは戸をたたき続け、彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた、とあります。この「非常に驚いた」は、自分の存在が外に飛び出してしまう、というような言葉で、正気を失うほど驚いた、ということです。みんなが門のところに押し寄せて、ペトロの姿を見て、喜びと驚きで大騒ぎになっている、そんな様子が想像できます。

<祈ることの恵み>
鎖で繋がれ、番兵に監視されているペトロが牢から出てくるなんて、絶対に不可能だ。そう思いつつ、しかし彼らは祈り続けていました。祈る、ということは神に寄り頼むことです。神の御手にお任せすることです。

しかし人の思いは、神は何でも出来る、全能の方だと知っていながら、その神の大きな力を知り尽くすことが出来ないので、自分の理解できる範囲で理解しようとしたり、想像したりします。さすがにこれは無理だ、と思ったり、疑ったり、半ば諦めたり、不信を抱いたりしてしまいます。しかし、それでも祈ることが大切です。祈りは神に心を向けることです。神のみ心を知ろうとすることです。
わたしたちがどうしようもない困難の中にいる時、また苦しんでいる仲間のために、「祈ることしか出来ない」と思う時、しかしわたしたちは、「祈ることが出来る」と考えるべきです。わたしたちには祈る方がいる。寄り頼むことが出来る方、叫んで助けを求めることが出来る方がいるのです。その方は、天地の造り主であり、わたしたちのために独り子を遣わし、罪を赦し、命を与えて下さる方です。神の御子イエス・キリストによって、わたしたちを神の子として下さった方が、最も善いものを与えて下さると信じて、寄り頼むことが出来ます。父よ、と呼び求めることが出来ます。自分自身も、そして大切な兄弟も、この方の御手に委ねることが出来るのです。
そして、神に信頼するということは、わたしたちがなすべき、最大のことであり、神がとても喜んで下さることなのです。

わたしたちは信仰の弱い者です。しかし、神の独り子イエス・キリストが、人の苦しみも、痛みも、悩みも、そして罪もみな負って十字架で死んで下さり、そして甦ってくださいました。悪の力、罪の力、死の力を打ち破られ、勝利された方が、共におられます。この方が共にいて下さるから、信仰が弱くても、疑い深くても、不安でいっぱいでも、この方の名によって、父なる神に祈り続けることが出来るのです。祈れることは恵みです。
そして神は、人の思いを超える、神のみ心とみ業をもって、祈る人々を守り導いて下さるのです。

<神のみ業と祈り>
神は祈ることを求めておられるし、また必ず祈りに応えて下さいます。
しかしペトロが助けられたのは、教会が熱心に祈ったから、その結果、助けて下さったのではありません。祈った結果、願いが叶えられるのなら、わたしたちは祈りによって神を動かすことが出来るということになり、神を願いを叶える道具のようにしてしまうでしょう。そして、自分たちの熱心さで、救いを得ようとするでしょう。そうではありません。神は、神ご自身の自由な決断と愛をもって、み業を行われる方です。
また、もし人々の祈りに動かされて神がみ業をなさるというのなら、ヤコブが殺害されてしまったのは、教会の祈りが足りなかったから、ということになってしまいます。誰が、兄弟を亡くした人々に、あなたたちが真剣に祈らなかったから彼は助からなかったのだ、ということが出来るでしょうか。ヘロデ王の欲望によって、またユダヤ人たちの反発によって、ヤコブが殉教した出来事は、教会にとって大変大きな嘆き悲しみでした。しかし、そのような出来事も、神は恵みによって支配して下さり、神のご計画のために導き、用いて下さいます。「殉教者」がギリシャ語で「証人」という言葉であるように、神は人の罪によって引き起こされる、悲しみや困難や、死ということすらも、キリストを証しするものとして下さり、神の栄光で包んで下さることがお出来になるのです。

神は必ず祈りに応えて下さいますが、その応えは、わたしたちの願った通りではないかも知れません。
しかしわたしたちは、祈りの中で、神のみ業を見るのです。神に心を向けて祈り、神に寄り頼むことで、神がなさって下さった出来事を見て、恵みを知ることが出来るのです。目の前の世の出来事しか見ることの出来ないわたしたちの目に、信仰の目が与えられて、神のみ業を見つめ、神のみ心を知り、神の望まれていることを求めるように変えられていくのです。
神は、わたしたちの想像をはるかに超える仕方で、神のみ業を行われます。そしてそれは、必ずわたしたちの救いのためであり、わたしたちを祝福するためになさって下さることです。日々の小さなことも、人生に関わる大きなことも、どのようなことも祈っていくことで、神が望んで下さる道に、神ご自身がわたしたちを導いていて下さると信じることが出来ます。期待したことでなく困難が与えられたような時でも、み心を問いながら、叫びながらでも、更に神により頼むことへと導かれます。神はいつも愛のみ心によってご計画を進めて下さっているからです。神ご自身が必ず、その困難を乗り越える力も、慰めも、希望も与えて下さるからです。

<教会の祈り>
そして、教会は共に祈ることで、共にこの神の恵みのみ業を共有していきます。困難の時も、喜びの時も、兄弟姉妹が集まって一つになって祈り、共に神のみ業を見る時に、祈った者たちは皆一緒に、その恵みと祝福を受けるのです。そうして、神が祈りに応えて下さることを、教会の兄弟姉妹は共に経験し、恵みを分かち合っていくことが出来ます。
その祈りと、恵みの体験の中で、聖霊が働いて下さり、神のみ心を知らせて下さり、神が望んでおられることのために、思いを一つにして働く力が与えられていきます。そうして信仰を育てられつつ、教会は、主イエスの御名のため、神の栄光のために歩んでいく一つの体を築いていくことが出来るのではないでしょうか。

このような教会を用いて、神は救いのご計画を力強く前進させて下さいます。ペトロの時も、皆が一つになって祈り、共に神の恵みを経験したことが、教会全体の大きな力となったのです。24節に、「神の言葉はますます栄え、広がっていった」とあります。エルサレム教会の困難は、人の計らいや悪しき思いを乗り越えて、神の御手によって、さらに多くの人々を救いへ招くために、用いられていったのです。

<ヘロデ王のその後>
さて、神に助け出されたペトロはエルサレムを逃れて行きました。ヘロデはペトロを監視していた番兵を死刑にした、とあります。
そしてヘロデ王が、その後、急死した出来事が語られています。ヘロデが王の服を着て演説をすると、人々が「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたとあります。人々は王に阿(おもね)るために、ヘロデを神のように誉め讃えます。ヘロデもそれを否定せず、自分を神とすることを良しとして、自分に栄光を帰したのです。人は世においてどれだけ権勢を誇って、神のように振る舞っても、人は神になることは出来ません。まことの支配者はすべてに勝利されたキリストだけです。
神に栄光を帰せず、栄光を自分のものとしたり、また気に入られるために神の栄光を人に帰すようなことは、神を神としない、大きな罪を犯すことです。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した、とあります。
この主の天使が「撃ち倒した」という単語は、実は7節の天使がペトロの脇腹を「つついた」という単語と同じ言葉です。どちらも主の天使が、一方は眠りから目覚めさせるために優しくつつき、一方は死に至らしめるように撃ったのです。
神は救って下さる方であり、また罪を審く方です。神に逆らい、神の栄光を奪い取ろうとする者を、神はお赦しにはならないのです。

しかし、神の右に座しておられ、終わりの日に審きを行われる主イエスは、ご自分の十字架の死によって、人の罪をその身に負って下さり、罪からわたしたちの命を贖って下さった方です。その救いのみ業を成し遂げて下さった方です。その主イエスの罪の赦しを信じて、神に立ち帰るなら、わたしたちは神の前に罪を赦された者として立つことが出来るのです。ですから主イエスは、わたしの救いに与りなさい、神に立ち帰りなさいと、いつも招いて下さっているのです。神のご支配に入りなさい、神の恵みの中で生きなさいと、名を呼んで下さっているのです。それが神のみ心であり、今も教会へ人々を招き続けて下さる、神の救いのみ業なのです。
その赦しの中で、恵みの中で、キリストに結ばれた教会の人々は、共に祈ることができるのであり、神のみ業に生き、神に寄り頼み、神のみ心を求めて、御言葉を大胆に語って歩んでいくことができるのです。

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