主日礼拝

神と等しい者

「神と等しい者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第42編1-12節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第5章9b-18節
・ 讃美歌:321、132、358

迫害の始まり
 ユダヤ人の祭りが行われていた時にエルサレムに上った主イエスが、ベトザタと呼ばれる池において、三十八年間病気で苦しんできた人を癒されたことが5章1-9節前半に語られていました。私たちは先々週の礼拝においてその箇所を読みました。これは、ヨハネによる福音書が語っている、主イエスがなさった七つの奇跡、ヨハネはそれを「しるし」と呼んでいますが、その三つ目です。頁をめくって9節の後半以降を本日読むわけですが、ここには、この癒しの奇跡の結果起ったことが記されています。「その日は安息日であった」と冒頭にあります。このことから、この出来事がユダヤ人たちの間で問題とされていったのです。そして16節には「そのために、ユダヤ人たちがイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」とあります。ユダヤ人たちが主イエスに対して敵意を持つようになったことが、この福音書においてここに初めて語られています。安息日に癒しの業をなさったことがその原因でした。

理不尽で冷酷非情なユダヤ人たち
 10節においてユダヤ人たちは、主イエスによって病気を癒され、ベトザタの池から床を担いで歩いて行ったその人に対して、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」と言いました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」という十戒に記されている掟に忠実に歩もうとしていたユダヤ人たちにおいて、安息日にしてはならない仕事のリストが細かく定められていて、「床を担いで歩くこと」もその「仕事」とされていたのです。引越しのためにベッドを運搬することは、確かに仕事に当たると言えるでしょう。しかしこの人は、三十八年もの間病気で苦しんで来て、寝たきりの生活をしてきたのです。その病気が癒され、自分の足で立って歩くことができるようになったのです。その人が、病気の苦しみを抱えて何年も暮らしてきたベトザタの池の回廊を出て行ったのです。癒されて元気になった彼は、もう一刻たりともそこに留まってはいたくなかったでしょう。床と言っても、私たちの感覚で言えばゴザのような、丸めて持ち運べる粗末なものだったでしょう。その床と、生活のために用いていた僅かな身の回りのものをまとめて担いで歩き出したその人に対して、「元気になってよかったね」の一言もなく、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」と言うのは、まことに理不尽で冷酷非情な、そしてある意味では滑稽なことです。ヨハネによる福音書はこのことによって、律法を守ることに必要以上に固執しているユダヤ人たちがいかに理不尽で冷酷非情な、そして滑稽な姿に陥っているかを印象的に描き出しているのです。

律法、十戒を守ることは大切だが
 十戒を始めとする神の律法を守ることは、神の民として生きる上でとても大事なことであり、ないがしろにしてはならないことです。それは旧約聖書の時代だけのことではありません。主イエス・キリストによる救いにあずかり、新しい神の民、新しいイスラエルとされている私たちキリスト信者たちにとってもそれは同じです。十戒は、主イエスによる罪の赦しにあずかり、神の子とされた私たちが、その神の救いの恵みに感謝して、神に従ってどのように生きるべきかを教える大事な道標なのです。例えばその第一の戒めである「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という教えは、今天皇の代替わりの時を迎えているこの国に生きている私たちが、改めてしっかりと確認し、聞き従うべき主のみ心だと言うことができます。それと同じように、第四の戒めである「安息日を心に留め、これを聖別せよ」も、主イエス・キリストによって神の民とされている私たちが大事にしなければならない大切な教えです。私たちにとっての安息日は、主イエスの復活の日である日曜日、主の日です。この日を、神を礼拝し、主イエスとの交わりに生きるための日とするために、私たちは人間の働き、自分の日常生活の営みを休んで、このように礼拝に集っているのです。つまり私たちも、安息日の戒めを信仰における大事な教えとして受け止め、それを守って生きようとしているのであって、そういう姿勢は神に従って生きるために欠かすことのできないものです。しかし本日のこのユダヤ人たちの姿は、律法を守ること自体が目的となってしまって、その根本にある神のみ心を思うことなしに、形の上で律法が守られているかどうかにこだわるようになるならば、律法を守るという本来は正しい、み心にかなっているはずのことが、全く理不尽で冷酷非情な、そして滑稽なことになってしまう、と私たちに警告していると言えるでしょう。神の掟に従って正しく生きようとする思いは、少し間違うとこのようなものとなってしまうということを、私たちもよくよく警戒しなければならないのです。

言い訳と自己弁護の言葉
 さてユダヤ人たちが安息日の掟によって先ず批判したのは、癒された人であって、彼が床を担いで歩いていることでした。そのように責められたこの人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。つまり、私は私を癒して下さった方の命令に従っているだけです、ということです。この言葉は、律法違反を理不尽に責めるユダヤ人たちに対して、自分が癒されたという救いの事実に基づいて、その救いを与えて下さった方にこそ自分は従う、と反論している信仰の告白の言葉と読むこともできます。しかしそうではなくて、床を担いで歩くという律法違反を咎められて、「いや自分はそうせよと命じられたからしているだけです」と言い訳をしている言葉とも取れます。その後のところを読むと、この人は自分を癒してくれた人が主イエスであることを知らなかったとあります。そしてその後、それがイエスだったことを知った彼はそのことをユダヤ人たちに知らせ、その結果先程読んだ16節にあるようにユダヤ人たちがイエスを迫害し始めたのです。つまり彼の行動と言葉が、主イエスが迫害されるきっかけとなったのです。このことからして、この言葉は彼の確乎たる信仰の言葉と言うよりも、言い訳と自己弁護、そして主イエスに責任を押し付けようとする言葉だったと考えた方がいいようです。三十八年間苦しんできた病気を主イエスの一言で癒されたこの人は、病気が治った、立ち上がって歩くことができるようになった、ということに心を奪われ、その救いを誰が与えて下さったのかに思いを致すことが出来ていないのです。

その場を立ち去った主イエス
 いや彼だって、自分を癒してくれた人を忘れていたわけではないでしょう。でも、13節の後半に、「イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」とあります。主イエスはすぐにその場を立ち去られたのです。三十八年間立てなかったのに突然癒され、立ち上がることができたことで彼自身も驚き、喜びの叫びをあげ、躍るように歩き出したことでしょう。周囲の人たちもびっくりして騒ぎ出し、多くの人々が寄り集まって来て、彼の周りにたちまち群衆が生まれたのです。そういう喧噪、興奮、騒ぎの中から、主イエスはそっと離れていかれました。それは、ご自分がこの癒しの奇跡をなさったことを隠しておこうとする謙遜のためとかではありません。本人も興奮しており、また群衆が騒ぎ立っている中では、癒されたこの人と本当に向き合い、出会うことができないからです。主イエスの救いのみ業は、病気などの苦しみや問題を取り除いてそれでおしまいではありません。むしろそのことを通して主イエスは、その人と正面から、一対一で向き合い、出会おうとされるのです。人格的な交わりを結ぼうとされるのです。そこにこそ、本当の救いが実現するからです。ですから主イエスは、彼との本当の出会いを実現するために、彼が本当の救いにあずかるために、この時はその場を立ち去られたのです。

出会って下さる主イエス
 このように、主イエスによる恵みのみ業を体験することと、主イエスご自身と出会うことが別の時に起こる、ということが私たちにおいても起ります。そして私たちの救いにおいて決定的に重要なのは、主イエスご自身との出会いです。主イエスが私たちと一対一で出会って下さり、主イエスと私たちの間に交わりが生まれることによってこそ、私たちは主イエスを信じ、主イエスと共に生きる者となるのだし、主イエスによって与えられたいろいろな恵みも、この出会いと交わりの中でこそ本当に救いの出来事となるのです。そしてこの主イエスとの出会いと交わりは、私たちが求めることによって得られるのではなくて、主イエスの方から私たちに出会って下さることによって与えられます。14節に「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って」とあります。主イエスが彼のもとを立ち去ったために彼は主イエスを見失ってしまったわけですが、主イエスの方が彼を捜し出し、出会って下さったのです。

主イエスの招き
 再び彼と出会って下さった主イエスはこのように語りかけられました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。この主イエスのお言葉は、「病気は罪の結果起こるものだから、また罪を犯すと今度はもっとひどい病気になるかもしれないぞ」という意味に読むべきではありません。ヨハネ福音書は、そして聖書全体がそうですが、病気は罪の結果起こる、とは言っていません。この福音書の9章の始めのところに、生まれつき目が見えなかった人の癒しの出来事が語られていますが、そこで主イエスは、この人が生まれつき目が見えないのは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃっています。罪を犯したのでバチが当たって病気になる、ということはないのです。また主イエスがここで言っておられる罪とは、独り子である神主イエスを信じないこと、主イエスとの交わりに生きようとしないことです。つまり主イエスは彼に、「これまであなたは私を知ることなく、信じることなく生きてきた。しかし私の癒しを受けたのだから、今からはもうそうであってはならない。私を信じて、私の言葉こそがあなたを癒し、生かすことを信じて、私と共に歩みなさい」とおっしゃったのです。「もっと悪いことが起こる」というのは、病気よりももっと悪いこと、つまり、神との関係を失い、その救いにあずかることなく、永遠の滅びに至るということです。主イエスが出会って下さり、語りかけて下さっている、この機会をしっかり捉えて、主イエスとの交わりに生きる者となることこそが彼の救いなのです。その救いへと主イエスは彼を招いて下さったのです。

私たちへの問い
 この招きに彼はどう答えたのでしょうか。主イエスの言葉に彼は全く応答していません。そして15節「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」のです。彼は再び自分に出会って下さった主イエスの招きに応えることなく、むしろ主イエスのことをユダヤ人たちに知らせた、つまり安息日に床を担いで歩くように自分に言ったのはあのイエスだったと通報したのです。その結果迫害が始まった。つまり彼は結局主イエスのもとを立ち去り、主イエスとの交わりに生きることを拒み、主イエスへの迫害に加担していったのです。これを最後に彼の姿は消えていきます。彼は三十八年間苦しんできた病気を主イエスによって癒していただいたけれども、主イエスと本当に出会うことはなく、その救いにあずかることもなく、病気よりももっと悪いこと、神との関係を失い、滅びに至る道へと進んでいったのだと思われます。しかし問題は彼がどうなったかではなくて、私たちはどのような道を歩むのかです。私たちに出会って下さり、語りかけ、招いて下さっている主イエスに応えて、主イエスとの交わりに生きていくのか。それを拒み、罪の中に留まり、もっと悪いことが起こるかもしれない道を突き進んでいくのか、そのことが私たちに問われているのです。

主イエスの反論
 さて本日の箇所はこのように、安息日に癒しを行ったことをきっかけに、ユダヤ人たちによる主イエスへの迫害が始まったことを語っています。床を担いで歩くことは安息日にしてはならない「仕事」とされていましたが、緊急でない病人を癒すこともそうでした。今すぐ治療しないと死んでしまうような場合には安息日でも処置をすることが許されていましたが、この人はもう三十八年間病気だったわけですから、今死にそうなわけではありません。だったら安息日が明けるのを待つべきだ、ユダヤ人たちはこういう理屈で、主イエスが安息日の掟を破っていると批判し、迫害したのです。17節は主イエスがその批判に答えてお語りになった言葉です。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。主イエスはこのように語ることによって、ご自分が安息日にも癒しのみ業をなさることの理由をお示しになったのです。このお言葉によって主イエスが何を語っておられるのかを捉えることが、本日の箇所のもう一つの大切なポイントです。

神の安息とは
 そもそも、安息日の掟の根拠は、創世記の最初にあるあの天地創造において、神が六日間かけてこの世界の全てをお造りになり、最後に人間をお造りになり、そして七日目に安息なさったと語られていることです。それゆえに神は七日目を安息日として祝福し、聖別された、つまり他の六日とは違う、神のものである特別な日とされたのです。そこから、人間が生きていくための働きをなすべき日は六日間であり、七日目は神の日、神を礼拝し、神との交わりに生きるために人間の営みを休むべき日とされたのです。つまり安息日は、仕事をしてはならない日と言うよりも、神がこの世界を造り、自分に命を与えて下さっている、その恵みを覚えて感謝し、神を礼拝して、神との交わりに生きるための日なのです。ところが、その安息日の根本的な精神が見失われて、形式的に掟を守ることばかりに目が行くようになった結果、「仕事をしてはならない」ということが強調されるようになり、床を担いで歩くことはダメとか、命に関わらない病気の治療はダメ、などという話になっていったのです。そしてその根拠として、「神さまも七日目には休んだんだから、人間も休まなければいけない」ということが語られるようになりました。しかしそれは、神が七日目に安息なさったということについての全く間違った捉え方です。神はこの世界をお造りになる業を、確かに七日目にはお休みになりました。それは、私たち人間が、この日には自分の業、人間の日常の営みを休んで神と向き合うためです。人間は放っておくと、一年三百六十五日、一日二十四時間、自分の営みばかりに没頭し、この世の事柄だけを見つめ、神と向き合おうとしないのです。その人間の営みを中断させ、神との交わりの時を持たせるために、神が七日目に安息なさったということが語られており、それに倣って人間も休むことが命じられているのです。

わたしの父は今もなお働いておられる
 しかしそれは、神は安息日には何もしないで寝ているということではありません。この世界を造り、私たちに命を与えて下さった主なる神は、最初に造っただけで後は放ったらかしにしておられるのではありません。お造りになったこの世界を、そして私たちの人生を、いつも支え、守り、導いておられるのです。救いのみ業を行い、祝福して下さっているのです。その救いのみ業を、安息日には休んでおられるのではありません。もしも神が「本日安息日のため休業」しておられるなら、私たちが安息日に礼拝をしても、そこに神はおられないし、神との交わりを持つこともできません。祈っても聞いておられない、ということになるでしょう。そうではなくて、神は安息日の礼拝において豊かに働いて下さっており、私たちに祝福を与え、救いにあずからせ、守り導いて下さっているのです。主イエスがここで、「わたしの父は今もなお働いておられる」と言っておられるのはそういうことです。主イエスの父である神は、天地創造の時から始まって今もなお、一日たりとも休むことなく、この世界を守り支えていて下さり、私たちのための救いのみ業を行って下さっているのです。安息日もその他の日も、それは変わることがありません。いやむしろ安息日にこそ、主のもとに集い礼拝をする私たちにみ言葉を語りかけ、慰めと励ましを与えて下さっているのです。安息日が定められているのは、人間の営み、働きを休んで神の前に出ることによってこそ、その救いの恵みにあずかり、神との交わりに生きることができるからです。そういう日を一週間に一日私たちに与えて下さるために、主は安息日を聖別して下さったのです。

だから、わたしも働くのだ
 このように、主イエスの父である神は、今もなお働いておられます。「だから、わたしも働くのだ」と主イエスはおっしゃいました。これが、主イエスが安息日にでも、いやむしろ安息日にこそ、癒しをなさり、救いのみ業を行われることの理由です。父なる神は、安息日だろうとその他の日であろうと、人間の救いのためのみ業をお休みになることはありません。だから、そのみ業を担い、実現するために人間となって地上を歩んでおられる独り子なる神である主イエスも、一日たりとも休むことなく救いのみ業をなさるのです。むしろ安息日こそ、そのみ業がなされるのに相応しい日なのです。

主イエスはなぜ殺されたか
 主イエスのこのお言葉は、父なる神と主イエスとの関係をはっきりと示しています。父が今もなお働いておられるから、私も働く、そのように父なる神とその独り子である主イエスは一体なのです。ユダヤ人たちはそのことをこのお言葉から聞き取りました。18節には「このために、ユダヤ人は、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」。16節では「迫害し始めた」と言われていたユダヤ人たちが、ここではイエスを殺そうとねらうようになったのです。それは、イエスが安息日の律法を破っただけでなく、神を父と呼び、ご自分を神と等しい者とされたからです。主イエスが十字架につけられて殺されたことの理由がここにはっきりと示されています。それはご自分を父なる神と等しい者、つまり独り子なる神とされたことです。ユダヤ人たちにとってそれは、律法を破って安息日に禁じられていることをするというのとは意味の違う、絶対に受け入れられない、生かしておくことのできない冒?だったのです。

神と等しい者
 しかしこのことこそ、主イエスの本当のお姿でした。主イエス・キリストは、父なる神と等しい者、独り子なる神であり、神が人間となってこの世に来られた方だったのです。だから主イエスは、父なる神の救いのみ業を今も変わることなく行っておられるのです。主イエスによる救いのみ業は、十字架の死と復活を経て天に昇られた後も、聖霊のお働きによって今も続いています。私たちの安息日であるこの主の日の礼拝において、今もなお働いておられる主イエスが私たちと出会って下さり、招いて下さっています。この招きに応えることによって私たちは、父なる神と等しい方であられる独り子なる神主イエスとの交わりを与えられるのです。

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