夕礼拝

箱舟を造るノア

「箱舟を造るノア」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第6章 5節-22節
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙、第11章 1節-7節
・ 讃美歌 ; 327、457

罪の行きつく先
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記を連続して読んでまいりました。創世記は、その最初の1章2章において、神様がこの世界の全てと人間とをお造りになったこと、そこに神様の祝福、恵みのみ心があり、また人間やこの世界は「極めて良い」ものとして造られたことを語っていました。しかし3章になると、神様によって良いものとして造られた人間が、神様に背く罪を犯したこと、その罪によって、神様が住わせて下さっていたエデンの園、楽園を追われて、荒れ野のようなこの世界を、苦労して生きていかなければならなくなったことが語られました。人間が苦しみを負うようになっただけではありません。人間は神様によって、神様が造られたこの世界、被造物を支配し、管理するべき者とされていましたが、その人間が罪を犯したことによって、被造物全体がその影響を受けたのです。そのことを聖書は、「地は呪われるものとなった」と表現しています。人間が神様に背き、神様との関係を損なってしまったことによって、この世界全体の、神様との関係もまた損なわれ、正常でないものとなってしまったのです。そして創世記第4章以降には、人間の罪が雪だるま式にどんどんふくれあがっていく様が語られています。アダムとエバの最初の子供カインとアベルにおいて、兄が弟を殺すという殺人の罪が犯され、さらに、技術や文明が発展するにつれて、人間の復讐心、憎しみがどんどん大きくなっていったことが語られてきたのです。本日の個所の最初のところ、第6章5節は、そういうこれまでの人間の歩みの帰結、その行きつく先を語っています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」とあります。「地上に人の悪が増し」、これは口語訳聖書では「人の悪が地にはびこり」となっていました。「人の悪が地上にどれほど大きいか」と訳すこともできます。その大きさは、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」ほどです。人間の悪い行い、罪の行為が世界に満ちただけでなく、そもそも人間が心の中で思い計ることの全てが、悪いことばかりになってしまったのです。

ねじ曲がってしまった人間
 創世記第3章が語っていた人間の最初の罪は、「善悪の知識の木」の実を食べてしまったということでした。「善悪の知識の木」の実によって、人間は善と悪とを知るようになったのです。しかしそれは善と悪を適切に見分けることができるようになったのではなくて、起ったことは、悪に支配され、悪ばかりを行うようになってしまった、ということでした。善悪の知識を得ることは、本来ならば、善と悪を見分けることができるようになり、悪を退けて善を行うことができるようになることであるはずです。しかし実際には、悪いことばかりを心に思い計るようになってしまった、それが人間の現実なのです。こういうことは、人間が力や権力、あるいは財力を得ることにおいて常に繰り返されています。力や権力や財力は、それによって善いこと、正しいこと、人のためになることをより多くすることができる、というものでもあるはずです。しかし多くの場合人間は、力や権力や財力を得ると、それによって悪いことをしてしまう。自分の利益のために人を押しのけたり抑圧して苦しめるようなことばかりをしてしまうのです。つまり自分が得た、知識にせよ力にせよ権力にせよ財力にせよを、正しく用いることができないのが私たち人間の現実です。その根本には、神様に背いている、という人間の罪があります。神様によって造られ、生かされ、導かれている人間が、神様に背き、神様なしに、自分の思いによって歩もうとすることによって、人間の歩みは根本的なところでねじ曲がってしまっているのです。だから、知識や力や権力や財力の使い方もねじ曲がってしまい、それらを正しく行使することができないのです。

神の後悔
 そのように根本的なところでねじ曲がってしまっている人間の歩みの行きつく先が、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」という状態です。そのことを、主なる神様がご覧になった、と5節は語っています。天地を造り、人間を造り、命をお与えになった神様は、人間のそのような状況をしっかりと見つめておられるのです。人間の、私たちの全ての歩み、私たちがすること、心の思い計ることの全ては、神様のまなざしの下にあります。神様は私たちの思いや言葉や行動の全てをしっかりとご覧になっているのです。そうすると神様の心にどのような思いが生じるか、それを語っているのが6節です。「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。神様は、人を造ったことを後悔なさった、こんなものを造らなければよかったと思われたのです。「極めて良い」ものとして造られたはずの人間は、神様に背く罪によって、「こんなものを造らなければよかった」と神様が後悔せざるを得ないような者になってしまったのです。
 神様が後悔する。それは驚くべき言葉です。自分のしたことを、後から「あれはまずかったな」と後悔することは、私たちにはしょっちゅうあることですが、しかし神様においてはそれはおよそ相応しくないことです。同じことが次の「心を痛められた」においても言えます。「心が痛む」という言い方は日本語の慣用句にもあり、それゆえに私たちはこれを何気なく読み過ごしてしまいがちですが、これは神様がその心に痛みや苦しみを覚えたと言っているのであって、やはり驚くべきことです。聖書は、しばしばそのような驚くべき言葉で、神様のみ心を語っています。「妬む神」という言い方もそれに当たると言えるでしょう。人間の赤裸々な感情を表すこれらの言葉で神様のみ心を語ることによって聖書は、ある意味で神様の威光、尊厳を犠牲にしていると言えます。「神様らしくない」姿を語っているのです。しかしそのような語り方によって聖書は私たちに、神様のみ心を、よりはっきりと、より身近な仕方で教えようとしていると言えるでしょう。本日の所で言えば、良いものとしてお造りになったはずの人間が、その行動においても心においても罪にまみれてしまっているという現実が、神様にとって、どんなに落胆を覚える、期待を裏切られてがっかりさせられるようなことであるか、心に痛み、苦しみを覚えずにはおれないような、悲しいことであるか、ということが、「後悔した、心を痛めた」という語り方によって示されているのです。

審きの宣言
 神様は人間の罪の極まりに対して、それを悲しみ、苦しまれるのみでなく、そのことに対して行動を起されます。それが7節です。「主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」」。人間を造ったことを後悔した神様は、人間を地上からぬぐい去ることを決意されるのです。私たち人間の後悔は、「後の祭り」ということが多いわけで、どうしようもない、とあきらめて、その現実と折り合いをつけてやって行くしかないわけですが、神様の後悔はそれとは違って、事態を根本的に改めるための具体的行動を伴うのです。人間をお造りになり、命を与えられた神様は、お造りになった人間を地上からぬぐい去ることもおできになります。神様はそのように、人間の罪に対して、それを審く力と権威を持った方なのです。神様が人間の罪をご覧になる時に、それはただ見るだけでは済まないのであって、そこには罪に対する審きが行われるのです。

人間の責任
 人を地上からぬぐい去ろう、という審きが宣言されると共に、「人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」と言われています。人間だけでなく、動物や鳥たちも地上からぬぐい去られてしまうのです。罪を犯しているのは人間であって、これら動物たちには何の責任もないのに、どうしてこのように言われるのでしょうか。それは、先程申しましたように、人間の罪は、この世界の全ての被造物に影響を及ぼさずにはいない、ということです。動物たちには責任はありません。しかし彼らを含めた被造物全体を管理し、支配する立場にある人間が罪に落ちてしまったことによって、被造物全体が呪いの下に置かれ、神様の審きを受けることになってしまったのです。動物たちにとってはいい迷惑です。しかしこのことによって聖書は、人間に与えられている重大な責任を教えています。人間の運命はこの世界の被造物全体の運命なのです。そのことを私たちは今日、地球環境問題や生態系の破壊の問題において実感させられているのではないでしょうか。地球の環境を破壊し、生態系を狂わせているのは人間です。人間が地球を適切に管理し、正しく支配することが出来ていないために、動物や植物たちもまた、滅びの危機に直面しているのです。

神の審きとしての洪水
 このようにして神様は、悪いことばかりを心に思い計る人間を、この地上からぬぐい去る審きを下すことを決意されました。それによって起ったのが、洪水です。6~8章に語られている大洪水は、神様の、人間の罪に対する審きとして起ったのです。この大洪水は、イスラエル以外の多くの民族の神話、伝説の中にも出てくるものであることが指摘されています。また考古学あるいは地質学的にも、大洪水があったことを裏付ける地層があることが指摘されています。つまり古代の中近東世界において、広範な地域を覆った大洪水が実際に起こり、その記憶がいろいろな形で多くの民族の伝説に語り伝えられていったのだろうと考えられるのです。聖書のいわゆる「ノアの大洪水物語」もその一つであると言えるわけですが、しかし聖書の洪水物語には、他の諸民族に伝えられている話とは違う大きな特色があります。それが、今まで述べてきた、この洪水が人間の罪に対する神様の審きとして起ったということなのです。つまり聖書は洪水物語を、人間の罪とそれに対する神様の審きという観点から語っている、そこに特色があるのです。

地の破壊
 そのことは、11節以下にも、先程の5節以下と重ねて語られています。11、12節にはこうあります。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」。ここには、「堕落」という言葉が三度繰り返されています。この言葉は、「破壊する」という意味です。「地は神の前に破壊されていた。神が地をご覧になると、それは破壊されていた。すべて肉なる者が地の上で主の道を破壊したからである」と訳すことができるのです。5節で、人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている、と言われていたことが、こちらでは、地を破壊し、主の道を破壊している、と言い表されているのです。「堕落する」という訳は、自分自身が堕落して罪を犯してしまうという意味になりますが、ここで見つめられているのは、その罪が、この世界を、また主の道、つまり神様に従う正しい生き方を破壊する行為となっている、ということなのです。人間は、神様に背く罪によって、神様が「極めて良い」ものとして造られたこの世界を破壊しているのです。戦争や爆弾テロはまさにそのような破壊行為です。また、環境破壊、生態系の破壊も、神様が造られたよい世界を破壊する行為であると言えるでしょう。罪はそのような破壊を生むのです。また11節はその破壊と並んで、地は「不法に満ちていた」と言っています。「不法」という言葉は口語訳では「暴虐」でした。これは暴力とか、横暴、暴力的抑圧という意味の言葉です。地が不法に満ちているとは、暴力によって人を支配しようとすることが絶えない、ということなのです。このように堕落し、不法に満ちている地をご覧になり、神様は、13節にあるように、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と言われたのです。それが、7節と対応する神様の審きの宣言です。興味深いことは、「地もろとも彼らを滅ぼす」の「滅ぼす」という言葉が、11節の、「堕落し」と訳されていた「破壊する」と同じ言葉であることです。「地もろとも彼らを破壊する」と訳せるのです。神様の造られた地を破壊し、主の正しい道を破壊している人間を、神様は、その地もろとも破壊する、と宣言なさったのです。神様の審きとは、人間が始めたことを神様が完成なさるということ、あるいは人間が歩き始めた道の行き着く先へと神様が導かれる、ということでもあるのです。

私たちへの宣言
 創世記第6章には、人間の罪に対する神様の審きが宣言されています。その審きの実現が洪水だったのです。この神様の審きの宣言を私たちは、大昔の出来事として他人事のように聞くことはできません。ここに語られている人間の罪の現実、神様がお造りになった世界を破壊し、暴力の応酬を繰り返している姿は、まさに今日の私たち人間の、この世界の姿です。常に悪いことばかりを心に思い計っている、ということもそうです。私たちは、常に悪いことばかり考えているわけではない、時には善いことだって考えることがある、と反論したくもなります。しかし先程見たように、私たちの心の根本のところが、神様に背く方向へとねじ曲がってしまっているのです。根本がねじ曲がっている中で、善いことをしようと努力しても、それは善いことにならずに、悪い方向に向いていってしまう、それが私たちの現実なのです。そのような私たちの姿を、神様はしっかり見ておられます。神様の目に映るこの地の、私たち人間の有り様は、洪水前の、人間の罪が行きつく所まで行ってしまったその状態と、何ら変わることはないのです。ここに宣言されている神様の審きは、まさに私たちに対して下されるべきものなのです。
 このことは、私たちの現実が、洪水によって滅ぼされた大昔の人々の姿と残念ながら一致してしまっている、という話ではありません。創世記の1章から~11章は、人間の、またこの世界の、時代を超えて共通する本質的な姿を語っているのです。つまり創世記の1~11章を、私たちは、大昔の出来事として読んではならないのです。11章までに語られていることは、歴史ではありません。創世記において、歴史は12章のアブラハム物語から始まります。それまでのところは、歴史的な出来事、つまり過去のことを語っているのではなくて、人間の営み、それが歴史ですが、それが繰り広げられていく舞台であるこの世界はどのような所であり、そこで歴史を歩んでいく人間とはどのようなものなのか、ということを語っているのです。ですからここに語られている人間の罪の姿は私たちの根本的な姿であり、神様の審きの宣言は、その私たちに対する神様のみ心なのであって、決して大昔にはこんなこともあった、という話ではないのです。このことは、この後のノアの箱舟の話を読んでいく時にもとても大事な鍵となります。

神の恵みによって選ばれたノア
 さて神様は人間に対する審きを宣言され、それを実行に移されます。そこに、ノアが登場します。7節の審きの宣言に続く8節に「しかし、ノアは主の好意を得た」とあります。また13節の審きの宣言はそもそも、ノアに対して語られており、14節の、箱舟を造れという命令へと続いていくのです。このように、神様の審きの宣言は、ノアが神様の恵みによって選ばれ、来るべき洪水に備えて箱舟を造るように命じられることと結び合わされているのです。箱舟は、神様の審きである洪水から救われるためのまさに救命艇です。そしてノアは、洪水が来ることを自分で予測して箱舟を造ったのではありません。神様がそれをお命じになったのです。この救命艇は神様が与えて下さったものです。神様は人間の罪を審き、彼らを地上からぬぐい去り、滅ぼすと同時に、救いの道、命の道、洪水後の世界へとつながる道を開いて下さっている、ということが、このノアにおいて示されているのです。ノアという名前は、5章29節に語られていたように、「慰め」という意味です。そこには、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」という命名の由来が語られています。人間の罪によって、大地は呪われてしまった、その呪いの極まりが洪水による滅亡です。その罪に対する審きにおいて、慰めを、救いを与えられて、新しい時代を歩み出す者、それがノアなのです。
 ノアは、9節によれば、「神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と言われています。「神に従う無垢な人」というところは、口語訳聖書では「正しく、かつ全き人であった」となっています。「正しい、義なる」という言葉と、「完全な」という言葉が用いられています。「正しい、義なる」というのは、神様との関係が正しい、正常である、ということです。「完全な」というのも、神様との関係におけることです。ですから、「神に従う」という訳は内容をよく表した訳であると言うことができます。罪に満ちた人間たちの中で、神様に従い、神様と共に生きた人であったノアを、神様は恵みによって選び、箱舟を造らせて、神様の審きである洪水から救って下さったのです。

ノアの信仰
 けれどもここで私たちは、このノアの選びということにおいて、二つのことを見つめておかなければなりません。第一のことは、ここに語られていることは、ノアは神様に従う信仰深い人だったから、そのことへの報いとして神様が彼を救って下さった、という話では必ずしもない、ということです。ノアは、何もしないでただ恵みによって救われたのではありません。神様はノアに、箱舟を造ることをお命じになったのです。15節16節には、その大きさや構造が指示されています。アンマという長さの単位が用いられていますが、聖書の後ろの付録にある度量衡の表によれば、1アンマは約45センチです。それで計算すると、この箱舟は、長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルとなります。巨大な舟です。それを造るのにいったいどれだけの材料が必要で、どれだけの手間がかかったか、想像もできない程です。しかも、この舟は、港の造船所で海に浮かべるために造るものではありません。海などどこにも見えない野原の真ん中に造られたものなのです。そのようなものを突然造り始めたノアの姿というのは、常識的に考えれば、狂気の沙汰です。ノアは気がおかしくなった。世間の人々はそう思ったに違いない。何の意味もない巨大な箱舟を、それこそ全財産をはたいて材料をかき集め、全ての労力を、時間を注いで造る、それは全く無駄なことに全精力を注いでいる、と人々から見られることです。しかし、22節にあるように、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」のです。この物語において、ノアは一言も語っていません。黙って、神様がお命じになった通りにしたのです。そのことにおいてノアは、「神に従う人」となったのです。本日共に読まれた新約聖書の個所、ヘブライ人への手紙の第11章の7節も、ノアのこの行為を彼の信仰として受け止めています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。まだ見ていない事柄を、神様のみ言葉のみによって信じ、周囲の人々から、お前のしていることは無駄なことだとあざけられても、黙ってみ言葉に従う、そこにノアの信仰があり、その信仰によって彼は救われたのです。ノアは信仰の深い立派な人だったから神様に選ばれたのではありません。神様に選ばれ、み言葉を与えられ、それを信じて歩んだから、救いにあずかったのです。私たちも今、そのノアと同じ立場に置かれています。神様は私たちを選んで、今この礼拝へと導いて下さいました。そしてみ言葉を語りかけて下さっています。み言葉を信じて、目に見えない神様に従って生きることは、世間の常識からすれば、無駄な歩みに見え、せっかくの人生を無意味なことに費やしているように思われます。信仰者として生きることは、箱舟を造ったノアに倣って生きることなのです。そこにこそ、私たちの真実の救いがあるのです。

新しい世界への架け橋
 見つめるべき第二のことは、ノアが神様の恵みによって選ばれ、箱舟を造ることによって救いにあずかったことは、ただノアとその家族が救われた、という話ではない、ということです。神様は、ノアとその妻、また三人の息子たちとその妻たちに、箱舟に入るように命じ、彼らを神様の審きの洪水から救って下さいました。それと同時に、この箱舟には、全ての動物たちや鳥たちが、雄と雌のつがいで入れられるのです。このことは7章に入ると、もっと詳しく語られていきます。このことは、この箱舟が、ただある人々のための救命艇の働きをするのではなく、洪水の後の新しい世界、神様の審きを経て新しく歩み出す、そういう意味では人間の罪に対する神様の審きを経た赦しによって歩む新しい世界への架け橋であるということを意味しています。神様は人間の罪に対して、お怒りになり、審きを下される。罪ある人間は神様によって滅ぼされなければならない。しかし神様はその審きにおいて、赦しを、新しい歩みを、救いを与えて下さる。この世界と人間の歴史は、この神様の審きと赦しの中で営まれ、くりひろげられていくのだ、ということを、この洪水とノアの箱舟の話は語っているのです。神様の審きと赦しが同時に実現し、罪を赦されて生きる新しい世界が開かれている、それは主イエス・キリストの十字架において実現したことです。洪水とノアの箱舟の物語は、主イエス・キリストの十字架をまっすぐに指し示していると言うことができるのです。

関連記事

TOP