主日礼拝

受け取った福音を

「受け取った福音を」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第46編1-12節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第1章6-10節
・ 讃美歌:333、165、402

あきれ果てています
 「わたしはあきれ果てています。」前回、1-5節の手紙の前書き部分をご一緒にお読みしました。そしていよいよ6節から手紙の本文に入るのですが、本文に入るやいなやパウロは、私はあなた方にあきれ果てている、と言うのです。この言葉は、新共同訳聖書では6節の終りにありますが、原文では6節の初めにあります。つまり手紙の本文の冒頭に「わたしはあきれ果てています」と記されているのです。この「あきれ果てる」という言葉には「驚く」という意味もあります。パウロは、ガラテヤ諸教会の人たちがこんなに早く「キリストの恵みへ招いてくださった方から」離れて、「ほかの福音に乗り換えようとしていることに」、そんなことがあり得るだろうかと驚いているのです。しかし驚いたのはパウロだけではないかもしれません。パウロの手紙を読んだガラテヤ諸教会の人たちも驚いたのではないでしょうか。パウロから手紙が届いて、前書きの部分を読み終えたと思ったら、いきなり「わたしはあきれ果てています」と書いてある。いったいなにごとかと驚いても不思議ではありません。彼らが驚いたのは、手紙の初めに「あきれ果てています」などと書くのは手紙の書き方として普通ではないからだけではなく、彼らにはパウロがいったいなににあきれ果てているのかよく分からなかったからです。ガラテヤの信徒への手紙にはパウロの激しい言葉がしばしば記されています。その理由の一つは、パウロがガラテヤ諸教会の人たちに伝えようとしていることが彼らになかなか分からなかったことにあるのです。

キリストの恵みへと召された
 さて、パウロがあきれ果てているのは、ガラテヤ諸教会の人たちが「キリストの恵みへ招いてくださった方から」離れて、「ほかの福音に乗り換えようとしている」からでした。しかしパウロがこのように書いても、彼らは自分たちがなにか間違ったことをしているとは思ってもみなかったのではないでしょうか。自分たちはキリストの恵みを信じている。キリストの十字架によって自分たちが救われたと信じている。そのキリストの恵みから離れてほかの福音に乗り換えようとしているとは、なんという言いがかりをつけるのだ。そのように思っていたのです。私たちもまたこの手紙を自分たちに語りかけているものとして読むならば、パウロが言っていることは私たちには当てはまらないことだ、と思うかもしれません。私たちはキリストの十字架によって自分たちの罪が赦されたと信じているからです。そのような私たちが、キリストの恵みから離れてほかの福音に乗り換えるはずがない、と思っているのです。しかしここで私たちがまず見つめなくてはならないのは、パウロが言う「キリストの恵み」とはなにか、ということです。私たちは「キリストの恵み」という言葉にとても馴染みがあります。毎週の礼拝の祝福派遣で「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と告げられているからです。このみ言葉は、コリントの信徒への手紙二13・13の言葉ですが、手紙の最後の言葉にあたります。パウロは同様な言葉をほかの手紙の最後にも記していて、ガラテヤの信徒への手紙の最後、6・18にも「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」とあります。このようにパウロは手紙の最後で、手紙を結ぶ言葉の一つとして「キリストの恵み」という言葉をしばしば使っていますが、6節のように手紙の最後ではない箇所でこの言葉を使うことはほとんどありません。ですから6節で、パウロが「キリスト恵み」という言葉でなにを言おうとしているのかに目を向ける必要があるのです。ここで「キリストの恵み」と言われているのは、キリストによってもたらされた神の恵みの力の支配のことです。4節には「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」とありました。私たちはキリストの十字架の死によって、律法の力の支配から救い出され、神の恵みの力の支配の下にいるのです。パウロが「キリストの恵み」と言うとき、この神の恵みの力の支配がキリストの十字架によって「のみ」実現した、ということが強調されています。「キリストの恵みへ招いてくださった」とありますが、その招きに応えることが、神の恵みの力が支配する世界に入れられることなのです。キリストの十字架によって「のみ」、律法の力の支配が滅ばされ神の恵みの力の支配が確立した、このことこそ「キリストの恵み」という言葉でパウロが語ろうとしていることなのです。

ほかの福音
 「キリストの恵みへ招いてくださった方」とは、もちろん神さまのことです。神さまが、キリストの十字架によって実現した神の恵みの支配へ召してくださったのです。その神さまから、ガラテヤ諸教会の人たちは早くも離れようとしている、とパウロは言います。しかし先ほど申したように彼らにその自覚はありませんでした。ではパウロはなにを問題としていたのでしょうか。それは彼らが、救いはキリストの十字架によって「のみ」実現したのではなく、キリストの十字架プラスアルファによって実現すると考えていたからです。このプラスアルファが、割礼を代表とする律法を守ることです。しかしパウロにとって、キリストの十字架に律法を守ることをつけ加えることは、キリストの十字架によって「のみ」実現した神の恵みの力の支配から離れ、律法の力の支配へと戻っていくことにほかなりません。それは同時に、その神の恵みの力の支配へと召してくださった神さまから離れていくことになるのです。ですからパウロは、ガラテヤ諸教会の人たちに、あなたがたは神さまから離れようとしている、と言うのです。
 そのことをパウロはさらに、彼らは「ほかの福音に乗り換えようとしている」と言っています。パウロが「ほかの福音」と言っているのは、救いには律法を守ることも必要だとガラテヤ諸教会に伝えた人たちが、自分たちの教えを福音と呼んでいたからでしょう。それは、パウロが伝えた福音とは異なる福音であり「ほかの福音」なのです。しかし「ほかの福音」という言葉は、福音がいくつもあるかのように受けとめられる恐れがあります。パウロが伝えた福音もあれば、別の人が伝えた福音もあるというようにです。しかし福音は一つしかありません。「ほかの福音」などというものはないのです。そのことをパウロは7節で「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく」と言っています。つまり「ほかの福音」とは、別の福音などではなく、福音ではないものなのです。それを福音と称して伝えている人たちがいたのです。ガラテヤ諸教会の人たちは、神さまから離れ、福音ならざるものへと移っていこうとしていました。それでもなお彼らが完全に神さまから離れてしまっていないことが、「あなたがたがこんなにも早く離れて」という文が現在進行中のこととして表されていることから分かります。それだけにパウロの言葉には緊迫感があるのです。今ならまだ間に合う。律法の力の支配に戻るのではなく、神の恵みの力の支配にとどまりなさいと訴えているのです。

キリストの福音
 福音ならざるものを福音と称してガラテヤ諸教会へ伝えた人たちについてパウロは、「ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎない」と言っています。「惑わす」という言葉は、元々は政治用語で、混乱や騒動を引き起こす反対者、扇動者の破壊的行為を指して用いられたようです。また「覆す」という言葉は「反対のものに変える」という意味で、「ひっくり返す」ということです。この言葉も元々は政治用語で、革命的活動一般を指して用いられました。このような政治用語を用いて、パウロはガラテヤ諸教会の人々を惑わす者たちが、キリストの福音をひっくり返そうとしているのだと言うのです。それは、なんとなくひっくり返そうとしている、ということではありません。はっきりとした意志を持って惑わし、壊し、ひっくり返そうとしているのです。
 キリストの福音とは、キリストが伝えた福音であると同時に、キリストの十字架による救いそのものです。本来、罪のゆえに神の裁きの前に死ぬしかなかった人間が、キリストの十字架によって罪を赦され、復活のキリストと結びつけられることによって永遠の命へと入れられたのです。神の一方的な恵みによって救われ、生かされているのです。このキリストの福音を、惑わす者たちはひっくり返そうとしていたのです。キリストの福音をひっくり返すとは、救いはキリストの恵み「のみ」によるのではなく、律法、つまり行いも必要だと考えることです。そこでは、キリストの福音では不十分なのです。キリストの福音に行いを付け加えなくては足りないのです。しかしそれは神の恵みの力による支配から、律法の力による支配へと逆戻りすることにほかなりません。救いはキリストの恵み「のみ」によるのか、それとも行いも必要なのか、このことについて、パウロは曖昧にすることはできませんでした。なぜならこのことを曖昧にすれば、救いも曖昧になってしまい、キリストの福音を福音ならざるものへと変えてしまうからです。

呪われるがよい
 8節、9節の最後に「呪われるがよい」という言葉があります。この「呪われるがよい」というパウロの言葉は厳しすぎるのではないか、と抵抗を感じる方もあるかもしれません。しかしキリストの福音について、パウロは一切の妥協を許しません。8節、9節は同じことを繰り返し述べているように思えますが、そこには違いがあります。パウロがガラテヤ諸教会の人たちに言いたいことは9節です。しかしその前提として8節が語られているのです。8節ではパウロたち自身と天使について言われています。天使とは神の代理人であり神に近い存在です。その神の代理人がキリストの福音に反することを告げるなどとは考えられません。ですから8節で「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ」と言われているのは、およそ考えられないことであるとしても、天使であれ誰であれ、告げ知らされた福音に反することを告げ知らせるならば呪われるということです。呪われるとは神さまから引き離されることです。福音に行いを付け足すことは、神さまから引き離されるほどのことであり、天使であれ誰であれ、福音をひっくり返してはならないのです。そのことを述べた上でパウロは、ガラテヤ諸教会の人たちへ言います。「わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」8節で言われていたのはおよそ考えられないことでした。しかし9節では現実の問題として語られています。誰であれ例外なくキリストの福音をひっくり返してはならないのであれば、あなたがたも受けた福音をひっくり返して告げ知らせてはならない、とパウロは彼らに言うのです。「前にも言っておいたように」、「今また」、「繰り返して言う」とあります。パウロはこのことをこの手紙を書く前にすでに彼らへ伝えていたのです。それにもかかわらず、神から離れ福音ならざるものへと移っていこうとしている彼らに、パウロは福音とは何であるかをもう一度示さずにはいられなかったのです。

人々を喜ばせるもの
 10節でパウロは「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか」と述べています。このパウロの言葉には、彼の伝道の姿勢が示されています。ここでパウロは人に取り入ろうとしているのか、神に取り入ろうとしているのか、その二者択一だというようなことを言っているのではありません。自分は人にも神にも取り入ろうとはしないと言っているのです。彼がキリストの福音を宣べ伝えているのは、人に取り入るためでもなく、また神に取り入るためでもありません。そうではなく、パウロは「キリストの僕」としてキリストの福音を宣べ伝えているのです。
 さらにパウロは、「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」と言っています。「気に入ろうとしている」とは「喜ばせようとしている」ということです。パウロは「今なお」と言っています。このことは彼が「かつて」人を喜ばせようとしていたことを意味します。13節でパウロは「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と言っています。このように彼はかつて誰よりも律法を守ることに熱心でした。しかしそのパウロに復活のキリストが出会ってくださり、福音を告げ知らせる者としたのです。そして彼はもはや「人々を喜ばせるようなことはしない」と言っているのです。彼がガラテヤ諸教会の人たちへ宣べ伝えたのは「キリストの福音」です。それは、キリストの十字架によって「のみ」救われた、というものでした。しかしその「キリストの福音」を語るのは彼らを喜ばせるためではない、と言うのです。
 私たちはここでよく考えてみる必要があります。彼らはすでに「キリストの福音」を告げ知らされていました。キリストの十字架によって救われたと信じていたはずです。そうであるならば、なぜ彼らはそれに律法の行いを加えようとしたのでしょうか。キリストの恵み「のみ」ではなく、キリストの恵みに行いを加えることを喜んだのでしょうか。せっかく神の恵みの力の支配へと入れられたのに、そこから離れて律法の力の支配へと戻ろうとしたのでしょうか。ガラテヤ諸教会の人々が割礼に代表される律法を喜びとしたということを、私たちは不思議に思います。救われるために、あれをしなくてはいけない、これをしなくてはいけないと求められるよりは、キリストの恵み「だけ」で良い、と言われたほうが喜ばれるように思えるからです。けれども彼らは、恵み「だけ」で救われたことに安心できなくなってしまっていたのです。恵み「だけ」では足りないのではないか、という不安に駆られていたのです。そのような不安を解消する教えが教会に入ってきました。それが救いには行いも必要だ、というものです。だから彼らは行いを求められることを喜んだのです。自分の行いによって安心が与えられるからです。そこには、自分の行いが「少しは」「ちょっとは」救いに役立つのではないか、という誘惑があります。彼らは、キリストの恵みによって救われたことを否定したのではありません。しかしその救いに、自分たちが行いによって関われることを求め、喜んだのです。そのことによって、自分の行いで救いを実現することができるという充実感や達成感、そういう喜びが与えられるからです。キリストの恵みによって「のみ」生かされているのではなく、自分の行いが人生の支えとなり、誇りとなるからです。自分の行いによって人生を満たし、自分の生きがいを見いだそうとしたのです。しかしこのことこそ、キリストの福音をひっくり返すことにほかなりません。

受け取った福音を
 私たちもキリストの十字架によって救われたと信じています。キリストの福音で十分なのだと信じています。けれども、キリストの福音「のみ」で十分だと信じ続けることは決して楽なことではありません。楽なことであるどころかむしろ戦いであると言ってもよいのです。ガラテヤ諸教会の人たちはパウロたちが去ってから、またたく間にキリストの福音だけでは満足できなくなり、行いも要求されることを喜ぶようになりました。そのようなことは私たちには関係のないことだ、と思ってはなりません。私たちも容易にキリストの福音だけで満足できなくなり、行いをも求めるようになります。なぜならキリストの恵み「のみ」で救われるとは、自分にはなにも力がないことを認めることにほかならないからです。しかし私たちは自分が神さまの前にまったく無力であることをなかなか認められません。そこに私たちの弱さがあり罪があります。自分にもちょっとは力があるのではないか、そのような誘惑に陥るのです。そして行いによって自分の歩みを充実させ、なにかを成し遂げたかのように思いたがるのです。もちろん行いそのものが悪いわけではありません。主のみ心に叶う行いには大いに励んだらよいのです。しかしそれらは、私たちの救いにはなんの関係もありません。私たちの救いはキリストの十字架によってのみ与えられています。そこにはプラスアルファはいりません。必要がないのです。私たちが本日与えられたみ言葉によって問われているのは、あなたはキリストの恵みのみによって生きているか? 安心しているか? それともほかの支えを求めているのか、ということです。旧約聖書箇所の詩編46編2節には「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」とあります。私たちは自分の人生を守るために、支えるために自分で砦を築くのではありません。神のみが私たちの砦なのです。また11節には「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。「力を捨てよ」とは神のご命令です。私たちは自分の力を捨てなければ神を知ることはできません。自分の無力を認めなければキリストの福音は分からないのです。
 すでに私たちは神の恵みの力の支配へと入れられています。行いの力の支配へと戻る必要はありません。私たちは受け取ったキリストの福音になにも足す必要はありませんし、なにも引く必要もありません。ガラテヤ諸教会の人たちは神さまを信じていなかったわけではありません。しかし私たちが生きているのは、多くの人が神などいるものか、と考えている社会です。そのことを考えるならば、ガラテヤ諸教会の状況以上に、私たちが受け取ったキリストの福音をひっくり返さないことは簡単なことではないのです。キリストの福音は曖昧なものではありえません。私たちが受け取った福音に堅く立ち続けること、そして受け取った福音を宣べ伝え続けること、そこに教会が立つか、崩れるかの分かれ目があり、正しい信仰なのか、そうでないのかの分かれ目もあるのです。私たちは受け取った福音で十分です。それ以上なにもいらないのです。

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