主日礼拝

何もかも神にお任せ

12月31日 主日礼拝
説教 「何もかも神にお任せ」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第55編23節
新約聖書 ペトロの手紙一第5章6-11節

明日から2024年
 2023年最後の日、大晦日を迎えました。明日には新しい年、主の2024年を迎えますが、私たちは特別な思いで新年を迎えようとしているのではないでしょうか。なぜなら新年1月から、つまり次の主の日から、毎週の主日礼拝が一回となるからです。実に3年9か月ぶりに毎週共に主日礼拝に集い、共にみ言葉に聞き、共に賛美できることに心より感謝しつつ新年を迎えたいと思います。加えて、次の主の日1月7日から、個包装のパンとポーションタイプのぶどう液ではなく、通常のパンと杯を使って聖餐を行うことになります。主日礼拝では実に3年10か月ぶりのことです。このことにも感謝しつつ新年を迎えたいのです。その一方で、約4年ぶりのことばかりで色々と忘れてしまっていることもあります。必ずしも4年前と同じでなくてはならないということはありません。むしろコロナ後を本格的に歩み出そうとしている、今の私たちの教会にふさわしい形でなにごとも行っていければと思います。とはいえコロナ前に行っていたことがベースになるのも確かなので、コロナ前のやり方を思い出しつつ、よく準備し、よく整えて2024年を歩み始めたいと願います。

「何もかも神にお任せ」で大丈夫?
 そのような私たちに、本日与えられている聖書箇所はペトロの手紙一5章6節から11節ですが、その説教題を「何もかも神にお任せ」としました。よく準備し、よく整えて2024年を歩み始めたいと願っている私たちには、あまりふさわしい説教題とは言えないかもしれません。しばしば年末から年始にかけて私たちの話題に上がるのは新年の抱負です。新しい年はこのような年にしたい、このようなことを目標にしたいと話します。私たちの教会もキリストの体である教会の再建をより一層、前進させていきたい、という新年の抱負があります。それなのに本日の説教題は「何もかも神にお任せ」です。私たち一人ひとりの、そして教会の新年の抱負が「何もかも神にお任せ」では物足りない気がしますし、無責任な気もします。「今年の抱負は、何もかも神にお任せすることです」と言ったら、もう少しちゃんと考えたほうが良いのでは、と言われてしまいそうです。「何もかも神にお任せ」で大丈夫だろうか、と思ってしまうのです。

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい
 幸いと言って良いのかどうか分かりませんが、本日の箇所には、新年を迎えるにあたり、まことにふさわしいと思えるみ言葉もあります。それが9節の「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」です。これなら物足りないということはないでしょう。私たちはまず、新年を迎えるにあたりふさわしいと思えるこのみ言葉に目を向けていきたいと思います。この一文は、原文の順序の通りに訳せば、「悪魔に抵抗しなさい、信仰に堅く立ちなさい」となります。しかし悪魔に抵抗することと、信仰に堅く立つことは別々のこととして命じられているのではありません。そうではなく前者の「悪魔に抵抗しなさい」を説明して、後者の「信仰に堅く立ちなさい」があります。悪魔に抵抗するとは、信仰に堅く立って、しっかり踏みとどまることにほかならないのです。

敵である悪魔とは
 8節で「悪魔」という言葉が、この手紙で初めて、しかも唐突に出てきました。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。繰り返しお話ししてきたことですが、この手紙の宛先である小アジアの諸教会は、ローマ帝国による迫害を受けていました。とはいえこれまでこの手紙は、殉教に至るような迫害による苦しみよりも、むしろ異教社会でキリスト者として生きる中で受ける苦しみについて語ってきました。誕生したばかりの教会に連なる小アジアのキリスト者たちは、自分の身近な人たちが、自分の夫や妻が、親が、友人や同僚がキリスト者でないことがありました。そのような状況にあって、自分の身近な人たちからキリスト者として生きることを理解されない苦しみがあったのです。これまでこの手紙において、そのような身近なキリスト者でない方たちへの眼差しは必ずしも敵意あるものではありませんでした。自分の身近なキリスト者でない方たちが、キリスト者の姿を通して神へと導かれることを語っていたのです。そうであれば「あなたがたの敵である悪魔」が、小アジアのキリスト者の周りにいる、キリスト者でない方たちのことを指している、というのは考えにくいことです。ですからここで、「敵である悪魔」と呼ばれているのは、同じ社会で暮らす身近なキリスト者でない方たちではなく、より敵意に満ちた、ときには暴力的にキリスト者を捕らえ、処罰し、殉教に至らしめるようなローマ帝国の官憲たちではないか、と考えられることがあります。そうであるのかもしれません。小アジアにおいてローマ帝国によるキリスト者迫害があったのも確かです。しかしこの手紙は、はっきりした時代状況や、具体的な敵対者や迫害について何も語っていません。ですから「敵である悪魔」が誰を、あるいは何を指しているかと考えることが大切なのではありません。ローマ帝国の官憲であれ、自分の周りのキリスト者でない方であれ、その人たちによってもたらされる苦しみによって、キリスト者が信仰を失ってしまうことに、悪魔の働きが見つめられているのです。ローマ帝国の官憲が悪魔なのではない、まして自分の周りの人たちが悪魔なのでもない、そうではなくあらゆる方法でキリスト者を神から引き離そうとする力が悪魔にほかならないのです。悪魔に抵抗しなさいとは、キリスト者を神から引き離そうとする力に抵抗しなさい、ということであり、それは信仰に堅く立って、しっかり踏みとどまることなのです。

悪魔に抵抗しなさい
 私たちもこの神から引き離そうとする力に晒されています。しかも非常事態のときにだけ、私たちは神から引き離される脅威に晒されるのではありません。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言われると、私たちは迫害下のような非常事態にあるキリスト者へのみ言葉、非常時のみ言葉であると思いがちです。しかしこのみ言葉は私たちに、むしろ日常の中で悪魔の力に、神から引き離そうとする力に抵抗するよう命じているのです。私たちは小アジアのキリスト者と同じように異教社会の中にあって、日々様々な場で、様々な形で神から引き離される脅威に晒されています。時には社会の風潮が私たちを神から引き離す力となります。時には身近な人の言動が私たちを神から引き離す力となります。あるいは自分の楽しみや喜びが、また自分の苦しみや悲しみが神から引き離す力となるのです。私たちはこれらの力に抵抗して、神から引き離されず、信仰に堅く立って、しっかり踏みとどまらなくてはならないのです。「悪魔に抵抗しなさい」というみ言葉は、迫害下のような非常事態にあるキリスト者だけではなく、まさに日常を生きる私たち一人ひとりに向けられているのです。

教会に連なる者たちと共に
 では常日頃から、日常の中で、神から引き離そうとする力に抵抗し、信仰に堅く立つためにはどうしたら良いのでしょうか。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と言われていました。敵である悪魔が、ほえたける獅子、ライオンのようだと言われていることに注目したいと思います。ライオンがパレスチナで絶滅したのは14世紀になってからだそうで、旧約聖書では羊飼いの大切な務めとして、羊の群れをライオンから守ることが語られています(サムエル記上17章34-36節)。本日の箇所では直接、羊については何も語られていませんが、ほえたけるライオンの比喩で語られている悪魔が、食い尽くそうと探し回っている相手は、比喩的には羊なのではないでしょうか。だれかを食い尽くそうと探し回っていると言われている、そのだれかとは、群れから離れてしまった羊なのではないでしょうか。群れから離れた羊は、ライオンの格好の餌食であるに違いないからです。ですからここで悪魔がライオンの比喩で語られることを通して見つめられているのは、私たちが神から引き離そうとする力に食い尽くされないためには、羊がその群れから離れてはならないように、私たちも私たちが連なる群れから、つまり教会から離れてはならないということです。私たちは一人で孤独に神から引き離そうとする力に抵抗するのでも、信仰に堅く立って、しっかり踏みとどまるのでもありません。そうではなく私たちはまことの羊飼いである主イエス・キリストが牧する羊の群れである教会に留まり、その教会に招かれ集められているほかの羊たちと、つまり教会に連なる者たちと一緒に歩み、共に苦しみや悲しみを担うことによって、神から引き離そうとする力に抵抗し、信仰に堅く立つことができるのです。

諸教会と共に
 それだけではありません。ここでは自分が連なる教会だけでなく、ほかの教会にも目が向けられています。9節後半にこのようにあります。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」。自分だけでも、自分が連なる教会だけでもなく、同じ信仰に立っている兄弟姉妹が、当時、小アジアのあちらこちらで、そして今、神奈川のあちらこちらで、あるいは日本中の、世界中のあちらこちらで、神から引き離そうとする力によって様々な苦しみに直面しているのです。そのことを知っているはずだ、そのことに目を向けなさい、と言われています。今のようにインターネットのない時代に、ほかの教会がどのような苦しみに直面していたかを互いに伝え合い、共有していたことに私たちは驚きを覚えます。しかし諸教会が助け合うためには、互いの教会の現状を伝え合い、互いの教会の困難を分かち合うことが不可欠です。そのことによってこそ諸教会は、物理的に助け合うだけでなく、なによりも互いに祈りに覚え合い、励まし合い、慰め合うことを通して共に苦しみを担い、悪魔に抵抗し、信仰に堅く立って、しっかり踏みとどまることができるからです。

こわばって生きなくてはならないのか?
 ここまで読み進めて、迎える2024年を「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」というみ言葉に従って生きようという思いが高まってきたでしょうか。むしろ力が入り過ぎてしまうような息苦しさを感じるのではないかと思います。確かに私たちは一人で孤独に抵抗するのではなく、教会に連なる人たちと共に抵抗するのであり、私たちの教会だけでなく、同じ信仰に立つ諸教会と共に抵抗するのです。しかしそれだけでは、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言われても、私たちは「しんどい」と思うのではないでしょうか。自分たちの力で成し遂げられるようには到底思えないからです。神から引き離そうとする力に対して、絶えずびくびくして、緊張して生きなくてはならないのだろうかとも思います。そのように生きることを考えたら、2024年を迎える前に疲れ切ってしまいそうです。しかしそうであってはならないはずなのです。なぜなら神が私たちに「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言われるとき、神は私たちを疲れさせようとしているはずがないからです。むしろ私たちに希望を与え、生きる力を与えようとしておられるのです。このみ言葉によって、私たちが何としても悪魔に抵抗しなくては、信仰に堅く立って踏みとどまらなくては、とこわばって生きようとするなら、それは神が望んでおられることではありません。そのように生きるのは、信仰に堅く立っているのではなく、信仰を硬くして生きているのです。信仰を硬直させ、自分自身を硬直させているのです。しかし本来、神を信じて生きることは、信仰は、私たちを硬直させるのではなく柔軟にさせるはずです。信仰は、根本的には私たちを緊張させるのではなくリラックスさせるはずなのです。

思い煩いを神に任せる
 そうであるなら私たちがなすべきことは何でしょうか。それは7節にあるように、思い煩いを何もかも神にお任せすることです。思い煩いを何もかも神に任せることと、信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗することは、正反対のことのように思えます。しかしそうではありませんん。むしろ一つのことなのです。私たちが神から引き離そうとする力に抵抗し、信仰にしっかり踏みとどまって生きることができるのは、私たちが自分たちの力で何としても抵抗しようとしてこわばって生きることによってではなく、私たちが自分の思い煩いを何もかも神にお任せして生きることによってだからです。思い煩いとは、要するに心配とか懸念とか不安のことです。私たちには様々な心配があり、懸念があり、不安があります。一方で私たちは、それらの心配や懸念や不安によって心が占領されてしまうことがあります。思い煩いに振り回されて心がすり減ってしまい、疲れ切ってしまうことがあるのです。その一方で私たちは、思い煩いを放置してしまうこともあります。色々な心配や懸念や不安があるけれど、余りにもいっぱいあり過ぎるので見なかったことにしよう、なかったことにしようとするのです。しかし思い煩いを何もかも神にお任せして生きるとは、そのどちらでもありません。自分の思い煩いを自分自身で抱え込むのでも、放置するのでもなく神に任せるのです。この「任せる」と訳されている言葉は、もともと「投げる」とか「放る」という意味の言葉です。自分の思い煩いを自分で握りしめているのではなく放り投げてしまうのです。しかしそれは放置するのとは違います。あるいはどこでも良いから放り投げてしまうのでもありません。そうではなく神に向かって、自分の思い煩いを何もかも放り投げるのです。
私たちのことを心にかけてくださる神
 その神は、私たちが自分の思い煩いを何もかも放り投げる相手である神は、得体の知れない方ではありません。7節にこうあります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。私たちが自分の思い煩いを何もかもお任せする神は、私たちのことを心にかけていてくださる神です。神は私たちの思い煩いを何もかもご存じでいてくださいます。神は私たちと共に、私たち以上に、私たちのために思い煩ってくださいます。私たち一人ひとりのことを心にかけていてくださるからこそ、神はクリスマスに独り子イエス・キリストを私たちのところに遣わしてくださり、私たちを救うために十字架に架けて死に渡されたのです。この神に、独り子をお与えになったほどに私たちを愛してくださる神に、私たちは自分の思い煩いを何もかもお任せするのです。

死の不安を委ねる
 私たちにとって最大の思い煩い、最大の不安は「死」ではないでしょうか。自分自身の死だけでなく、自分の大切な人の死への不安があります。しかしこの不安を私たちは神にお任せします。私たちの命は自分のものではなく神のものだからです。私たちに命を与え、そしてお定めになっているときにそれを取り去られる神に、私たちは死の不安をお委ねするのです。死ぬのは別に怖くないと思われる方もあるかもしれません。しかし怖いか怖くないかよりも、「死んだらおしまい」であるなら、今、私たちが生きている意味が分からなくなるのではないでしょうか。多くの苦しみや困難に直面する中で生きる意味が、あるいは悪魔に抵抗し、信仰に堅く立って生きる意味が分からなくなるのです。けれども神は私たちに「死んだらおしまいでは決してない」と言われます。10節に、「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が」とあります。神は主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちを永遠の栄光へと招いてくださっています。この地上の死を超えて、終わりの日に、復活と永遠の命に与ることへと招いてくださったのです。そのとき神が、今、苦しんでいる私たちを「完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにして」くださる、とも言われています。だから今、苦しみに直面する中にあっても私たちが生きている意味がある。「死んだらおしまいでは決してない」から、今、私たちが生きている意味があるのです。私たちは主イエス・キリストの十字架と復活によって、地上の死を超えた、復活と永遠の命の約束を与えてくださっている神に、自分の思い煩いを、死の不安をお任せするのです。

何もかも神にお任せ
 死が私たちの最大の思い煩い、最大の不安であるとしても、私たちは日々ほかにも大小様々な思い煩いを抱えて生きています。その中で、この思い煩いは大したことないから、小さいことだから、神にお任せしないほうが良いかな、と遠慮してしまったりします。あるいは自分よりもずっと深刻な思い煩いを抱えて生きている人がいるのだから、自分の思い煩いは神にお任せしないで、自分でなんとかしなくてはと思ったりもします。特に今、私たちはウクライナやガザ地区で大きな苦しみの中におられる方々の報道を聞くときそのような思いを抱くのではないでしょうか。しかし神は私たちに遠慮しなさいとも、自分でなんとかしなさいとも言われていません。「思い煩いは、何もかもこの私に任せなさい、委ねなさい、この私に向かって放り投げなさい」と言われているのです。「何もかも」です。私たちは小さな思い煩いから大きな思い煩いまで、小さな不安から大きな不安まで、何もかもを神にお任せするのです。共に読まれた旧約聖書詩編55編23節で、神は私たち一人ひとりにこう告げています。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主に従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」。自分の思い煩いを、重荷を何もかも神にお任せする私たちを、神は必ず支えてくださり、とこしえに動揺しないように計らってくださるのです。言い換えるならば、自分の思い煩いを何もかも神にお任せする私たちが悪魔に抵抗し、つまり神から引き離そうとする力に抵抗し、信仰に堅く立ってしっかり踏みとどまれるようにしてくださるのです。
 ですから迎える2024年、私たちは何もかもを神にお任せして歩んで良いのです。神が私たちに思い煩いを、重荷を、不安を小さなものから大きなものまで何もかも任せなさい、委ねなさいと言ってくださっているからです。独り子を十字架に架けるほどに私たちを愛してくださり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えてくださっている神に、私たちは何もかもをお任せして生きていきます。それは決して無責任な生き方ではありません。そのように生きるところにこそ、神から引き離そうとする力に抵抗し、信仰にしっかり踏みとどまる歩みが与えられ、苦しみの現実に向き合い、責任を持って生きる歩みが与えられていくのです。そのように生きるところにこそ、一人で孤独に歩むのではなく、教会に連なる兄弟姉妹と、また同じ信仰に立つ諸教会の兄弟姉妹と、互いに祈り合い、共に苦しみを担う交わりが起こされていくのです。何もかもを神にお任せして生きるとき、私たちに本当の慰めと平安と希望が与えられ、生きる力が与えられるのです。迎える2024年、私たちは神に信頼し、神に期待し、何もかもを神にお任せして歩んでいこうではありませんか。

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