主日礼拝

時代の転換点において

「時代の転換点において」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第17章9-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第16章14-18節
・ 讃美歌:276、237、479

あざ笑うファリサイ派の人々
 本日ご一緒に読みますのは、ルカによる福音書第16章14節以下ですが、その冒頭に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあります。「この一部始終」というのは、先週読みました1~13節のことです。主イエスはそこで「不正な管理人のたとえ」をお語りになりました。彼らはそれをあざ笑ったのです。「不正な管理人のたとえ」の内容を振り返ってみたいと思います。主人の金を使い込んでいた管理人がいました。そのことがバレてクビになりそうになった彼は、必死に知恵を働かせ、主人に借金をしている人々を集めて管理人としての権限を用いてその借り入れ額を減額してやりました。つまり主人にさらに損害を与えるようなことをしたのです。しかしそれによって、主人のもとを追い出されても自分を恩人として迎えてくれる友達を得たのです。彼は、クビになって路頭に迷いそうだという危機をしっかりと見つめ、自分を守るために必死になったのです。そして、自分に今できること、今しかできないことを見極め、与えられている立場、権限をフルに用いて、なりふりかまわず、自分の救いのために必要なことをしたのです。そのように自分の救いのために必死になった彼の姿を、主イエスは「賢くふるまった」とほめ、弟子たちに、この姿を見倣えとおっしゃったのです。ファリサイ派の人々は、このたとえ話と、それをお語りになった主イエスをあざ笑ったのです。彼らは、このように不正を重ねることによって自分の身を守ろうとする管理人の姿にあきれ、そのような者をほめ、見倣えと言うイエスは非常識だと思ったのです。その思いはある意味で当然なことです。私たちも同じように思うのではないでしょうか。

自分の正しさを見せびらかす
 そのようにあざ笑う彼らに対して主イエスはこうおっしゃいました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」。こんな悪人をほめるなんて、とあざ笑っているファリサイ派の人々は、人に自分の正しさを見せびらかす者たちだ、と主イエスはおっしゃったのです。彼らが主イエスをあざ笑ったのは、我々はこの不正な管理人のような人間ではないし、こんな不正なことをほめたり、勧めたりはしない、神様のみ心に従って正しく生きているし、そのように人々にも教えているのだ、と思っているからです。そして心の中でそう思うだけでなく、人々の前で主イエスをあざ笑うことによって、人々に自分たちの正しさを示し、見せびらかそうとしているのです。自分の正しさを人に示すために最も手っ取り早いやり方は、正しくない人を批判し、自分はああいう人とは違うとアッピールすることです。主イエスをあざ笑った彼らの心の中にはそういう思いが隠されているのです。「神はあなたたちの心をご存じである」というみ言葉は、彼らのそういう隠された思いを神様はちゃんとご存じなのだ、ということを語っています。私たちも、人のことを批判したりあざ笑うことによって、密かに自分の正しさを主張し、人にそれを示そうとしますが、そういう隠された策略というか小細工は人に対しては通用しても、神様は、私たちの心の中にある本当の思いをしっかりと見ておられるのです。

金に執着する人々
 人の心をご存じである神様の目に、ファリサイ派の人々の姿はどのように見えているか、それを語っているのが14節冒頭の「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉です。主イエスをあざ笑った彼らは、実は金に執着しているのです。それはどういうことでしょうか。13節までのところで主イエスがお語りになったのは、富をどのように用いるかについての教えでした。その富とは、お金だけのことではなくて、この世を生きるために私たちに与えられている様々な資本、元手のことです。持って生まれた体、性別、能力や才能、家庭環境などの全てがそこに含まれます。それらは私たちが自分の力で手に入れたものではなくて、根本的には神様が恵みによって与えて下さったものだと言うべきでしょう。私たちは神様が与えて下さったそれらの富を用いて人生を営んでいるのです。そういう意味で、主人の財産を任せられている管理人というのは、この世を生きる私たちの人生を表すたとえとして適切なのです。神様から預けられた富をどう管理し用いるかが、管理人である私たちに問われているのです。そして主イエスはここで、その富を正しく適切に管理し、用いるためには、その富で友達を作ることが大切だとお教えになりました。そういう実例として、不正な管理人のたとえをお語りになったのです。彼は、初めは主人の財産を自分一人のために使い込んでいましたが、クビになる危機に直面した時、預けられている財産の用い方を変えて、自分を迎え入れてくれる友達を得るために用いるようになったのです。主イエスはあの管理人のこのような変化にこそ私たちの目を向けさせようとしておられます。しかし先週お話ししたように、この話によって主イエスが教えようとしておられる中心的なことは、人間の友達を得ることの大事さではありません。人生において最も大事なことは、これは9節の言葉ですが、金がなくなったとき、つまり人生の元手が尽きて地上の命を終える時に、永遠の住まいに迎え入れてくれる友を得ること、つまり神様を友として得ることです。与えられている富をそのためにこそ用いなさい、と主イエスは教えておられるのです。神様を友として持ち、神様との交わりに生きることこそが人生の最大の課題なのであって、富はそのための手段なのです。そういう教えの締めくくりとして、13節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」というみ言葉があります。信仰者として生きるとは、神様というまことの主人に仕えて生きることであって、富はそのための手段である。その富が手段ではなくて主人になってしまい、神様にではなくて富に仕えるようなことになってはならない。あなたがたは神様に仕えるか、それとも富に仕えるか、二つに一つなのだ、ということです。このように主イエスは13節までのところで、富をどう用いるか、ということを教えて来られたのです。その主イエスを、彼らファリサイ派はあざ笑い、否定し、拒んだのです。彼らがあざ笑い、否定し、拒んだのは、表面的には先ほど見たように、不正な管理人をほめるなんておかしいということでしたが、その奥には、富の問題についての主イエスの教えに対する拒否があるのです。彼らが敏感に反応したのは、「神と富とに同時に仕えることはできない」というみ言葉です。彼らはそこに、神を取るか富を取るかどちらかだ、という二者択一を迫られているように感じたのです。それに反発して、神様に仕えつつ富をも得ることはできるはずだ、どちらかを選べなどという極端な教えはおかしい、と思ったのです。

富への執着
 しかし主イエスはそもそも、神様を取るか富を取るか、などという二者択一を語られたのではありません。富は神様が人生の元手として与えて下さっているものですから、感謝して受け、用いていってよいのです。しかしその用い方において、それらがもともと神様の恵みであることを忘れ、神様に仕えて生きることの中でそれを用いないならば、あなたがたは富に仕える者、富の奴隷になってしまう、とおっしゃったのです。神と富とに同時に仕えることはできない、という教えはそういう意味です。それを、神か富かどちらかを選べと迫られているように聞いてしまうのは、彼らが「金に執着している」からです。つまり彼らは、金に代表される富から自由になっていないのです。富を神様との交わりの手段として位置づけているなら、主イエスの教えに反発する必要はないはずです。ところが彼らにとって富は、無意識の内にですが、手段ではなくて目的になってしまっています。富を用いるのではなくてそれに支配され、振り回されているのです。そしてこのことは、彼らが人に自分の正しさを見せびらかそうとしていることと深いところで結びついています。自分の正しさを人に示そうとしているというのは、その自分の正しさを人生の拠り所としているということであり、それはその正しさの見返りを、報いを求めているということです。これだけ頑張って正しく生きているのだから、それなりの報いがあるはずだ、神様の恵みがあってしかるべきだ、と思っているのです。その神様の恵みの具体的な印が、広い意味での富です。神様に従って正しく生きている人には、必ずしもお金ではなくても、人生の豊かさ、富が与えられてしかるべきだ、という思いです。人に自分の正しさを見せびらかそうとすることには、神様の恵みの印としての富を求める思いが必然的についてまわるのです。それゆえに彼らは、神様に仕えつつ富をも得ることはできるはずだ、いやむしろ神様に仕える者にこそ豊かな富が与えられるはずだ、と思っているのです。そこには富に対するある種の執着があります。それはいわゆる「金の亡者」というようなこととは違いますが、神様の恵みの印としての富が、神様に従って正しく生きている者には与えられなければ嘘だ、という思いは強いのです。またそういう思いを持っているからこそ彼らは、不正な管理人の話に我慢がならないのです。正しい者こそがほめられ、恵みを与えられるべきなのであって、不正な者がほめられたり恵みを与えられるようなことはあるべきではないというのが彼らの感覚です。15章の「放蕩息子のたとえ」に出てくる兄息子の姿も、そういう思いに生きている人の姿を描き出していたのです。

新しい時代が始まっている
 さて主イエスはこのように、人に自分の正しさを見せびらかし、その自分の正しさを拠り所として生きており、その正しさへの報いとしての富に執着し、それゆえに主イエスの教えに反発しあざ笑っている人々に対して、16節でこう告げておられます。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。これもまた分かりにくい言葉ですが、一つはっきりしているのは、今や新しい時代が始まっているのだ、と語られていることです。律法と預言者の時代が終わり、今や、神の国の福音が告げ知らされる時代が始まっているのです。その新しい時代はヨハネの時から始まっています。このヨハネはいわゆる洗礼者ヨハネです。ヨハネは、神の国が近づいたことを告げ、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を授けることによって、救い主イエス・キリストの道備えをしました。そのヨハネと入れ替わるように、今や主イエス・キリストが神の国の福音を告げ知らせておられます。こうして神の国の福音の時代が始まり、今やその神の国に、だれもが力ずくで入ろうとしているのです。この「だれもが力ずくで入ろうとしている」というのがここで最も分かりにくい言葉です。前の口語訳聖書では「人々は皆これに突入している」となっていました。この言葉の一つのポイントは、「だれもが」とか「人々は皆」と言われていることです。一部の人、ユダヤ人、さらにその中でファリサイ派のように律法を厳格に守り行なっている人たちだけがではなくて、誰もが皆、神の国に入れるようになっている、神の国が今や全ての人に開かれているのです。「力ずくで入ろうとしている」と言うと、自分の力で、という感じが強くなり、「突入している」と言うと、何かの力によって、という感じが強くなりますが、いずれにせよこれは、無理やり、乱暴な仕方で、というニュアンスの言葉です。ヨハネが現れ、主イエスが来られたことによって、神の国が全ての人々に開かれ、それまではそこに入ることができなかった者たちが、無理やり、乱暴な仕方でそこに入る、入れられるということが起っているのです。あの不正な管理人が、不正な手段を使って、なりふりかまわず、自分の救いのために奔走した姿は、まさに「力ずくで」神の国に入ろうとする人の姿を描いていると言えます。しかし勿論神の国は人間の力で無理矢理入ることができるものではなくて、そこに「迎え入れてくれる」神様の恵みによってこそ入ることができるものです。そういう意味では「力ずくで入る」という訳は適切でないとも言えます。ある人はここを「激しく招かれている」と訳したらよいと言っています。14章には、盛大な宴会を催した主人が、その宴席を埋めるために通りや小道から人々を無理矢理に連れて来る、という話がありました。これは神様の方が力ずくで人々を神の国へとかき集める、という話です。この話を思い出せば、ここの意味がより分かるのではないでしょうか。また15章には、迷子になった羊をどこまでも捜しに来る羊飼いや、帰って来た放蕩息子を走り寄って迎え、息子の詫びの言葉をさえぎって祝宴を始める父親の姿が描かれていました。これらの話に様々な仕方で語られている神様の激しい、力強い愛によって、救いにあずかるのに相応しくないと思われていた罪人たちが神の国に入るという、ある意味大変乱暴な救いの出来事が今や生じているのです。そういう新しい時代が今や始まっているのだと主イエスはここで告げておられるのです。
 この新しい時代に身を置いて見るならば、ファリサイ派の人々の、人に自分の正しさを見せびらかし、その正しさの報いとして救いを得ようとする姿は、もはや時代遅れです。自分の正しさに拠り頼み、正しさの報いとして救いを得る時代は既に終わっているのです。不正な管理人のたとえもそのことを語っています。もはや問題は、自分が正しいか不正かではない、そんなことよりも、迫っている滅びの危機を本当に真剣に受け止め、自分を迎えてくれる友を得ること、しかも、永遠の住まいへと、神の国へと迎えてくれる神を友として得ることを、なりふりかまわず求めていくことこそが大切だ、ということをこの話は教えているのです。

律法の精神を本当に生かす
 そのように言うと、それではもう正しいことをしなくてよいのか、どんな悪いことをしてもよいというのか、と揚げ足を取ろうとする思いが生じます。17、18節はそういう思いへの答えとして語られていると言えるでしょう。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」とあります。律法を守っているという自分の正しさを拠り所とすることが時代遅れだと言うなら、もう律法などいらない、守らなくてよいということか、と反発するファリサイ派の人々に対して、いや、神様が与えて下さった律法は天地の続く限り意味を失うことはないのだ、と言っているのです。そしてそのことを具体的に示すために18節が語られています。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。突然離婚についての教えが語られていることに唐突な感じを受けますが、これは、神の国の福音が告げ知らされる新しい時代においても律法が意味を失うことはないことを示すために用いられている一つの具体例です。離婚についての律法とそれに対する主イエスの教えはマタイによる福音書の5章31、32節にもあります。そこにも語られているように、律法には、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」とあります。つまり夫が妻を離縁することは律法で基本的に認められていたのです。ファリサイ派の人々は、その律法を解釈して、どういう事態ならば妻を離縁できるか、を議論していました。それは妻が姦淫の罪を犯した時だけだ、という人もいましたが、中には、少しでも気に入らないことがあったら離縁できる、と言っている人もいました。しかし主イエスはここで、妻を離縁して他の女を妻にすることは姦通の罪を犯すことだ、と言っておられます。これは律法に語られているよりずっと厳しい教えです。しかしこれは、主イエスが律法の内容を勝手に厳しく変えているということではありません。主イエスが語っておられることは、主なる神様のみ心に即してこの掟を理解するならこうなる、という教えなのです。昨日、宍戸ハンナ伝道師と長尾大輔さんの結婚式が行なわれ、ハンナ先生は長尾ハンナになられたわけですが、主なる神様が結婚、夫婦という秩序を私たちに与えて下さったのは、主が結び合わせて下さった夫と妻が一体となって神様の祝福の下で共に生きていくためです。それこそが神様のみ心なのです。律法の中に離縁について語られているのは、人間の罪のゆえにどうしてもその夫婦としての関係が維持できなくなってしまう場合のためであって、この掟は決して積極的な意味を持つものではありません。つまり、「どんな場合なら離縁できるか」などという議論をすべきものではないのであって、「妻を離縁して他の女を妻にする」などということを考えることがそもそもみ心に反することだ、と主イエスは言っておられるのです。ここに典型的に示されているように、ファリサイ派の人々は律法を字面で捉えてそれを守ろうとしています。それは彼らが律法を、自分の正しさを見せびらかすための手段としているからです。しかし主イエスは、そのようなことから自由に、律法の本当の精神を汲み取り、それを生かそうとしておられるのです。つまり主イエスによって神の国の福音がもたらされた新しい時代においても、いやその時代においてこそ、律法の精神は本当に生かされていくのです。

富の主人として生きる
 先ほどの富の問題においても同じことが言えます。自分の正しさを拠り所としている時代遅れの生き方においては、その正しさへの報いを求める思いが生まれ、その報いの印としての富への執着が起ります。平たく言えば、神様に従って正しく生きていれば富も与えられるはずだ、という思いです。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活において示された神様の激しい、力強い愛によって私たちの罪が赦され、本来相応しくない私たちが無理矢理に神の国に迎え入れられる、という福音を信じる新しい時代の生き方においては、報いを求め、見返りを求めて神様を信じる思いから私たちは解放されるのです。この新しい時代を生きる私たちの信仰は、神様が恵みによって既に与えて下さっている救いに感謝して生きることです。その信仰によってこそ私たちは、金に代表される富への執着から解放されます。富の捉え方が変えられて、富は神様が私たちに、この人生を営んでいく手段として預けて下さっているものであり、それを用いて神様との交わりをしっかり築いていくことこそがその最も適切な用い方なのだ、ということを示されるのです。このことをわきまえて生きることによって私たちは、富に振り回される、富の奴隷としての生き方から解放されます。そして、富に支配されるのではなくて、富を人生の手段として適切に用いていく、つまり富を支配する主人となることができるのです。

時代の転換点において
 私たちは今、まさに時代の大きな転換点に立っています。グローバル化したこの世界全体が、新しい時代へと大きく変わろうとしている、しかしその新しい時代はどのような時代なのか、まだはっきりとは分からない。その変化のただ中にあって、今この社会全体が不安的な状態であり、様々な模索がなされています。その中で私たちは苦しみ、とまどい、不安を覚えています。そして世の中がどう変わっていくにしても、そこでの大きな鍵となるのは、富の問題です。富をどのように捉え、それをどう用いていくのかが、この時代の転換点において、私たちに問われているのです。そこにおいて、富に支配され、振り回されて右往左往するのではなく、富を支配する主人となって、それを適切に用いて新しい時代を切り開いていくためには、主イエス・キリストによって既に到来している本当の意味での新しい時代にしっかりと身を置くことが必要です。神の国、神様の恵みのご支配が、主イエス・キリストによって到来している、その福音を信じて、神にこそ仕えて生きることによって、私たちは富の主人となって生きることができるのです。

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