主日礼拝

闇の中に光が

「闇の中に光が」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第9章1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章1-5節
・ 讃美歌:

闇の中を歩み、死の陰の地に住む私たち
 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む人の上に、光が輝いた」。イザヤ書第9章1節のこの言葉は、救い主を待ち望んでいたイスラエルの人々の切実な願いと期待を語っています。そしてそれは私たちの願いと期待でもあります。「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む人」それはまさに私たちが今置かれている状況です。新型コロナウイルスによってこの社会と私たちの生活が大きく変わってしまって、まもなく二年になります。世界中で多くの人たちがこのウイルスによって命を落としました。私たちの周囲では幸いなことに今は新規感染者数が抑えられていますが、この国においてもこの夏頃私たちは「医療崩壊」という現実を目の当たりにしました。重症になっても入院することができずに、自宅療養とは名ばかりで事実上は放置され、亡くなってしまう人も出ました。そしてコロナで亡くなった人は、家族も顔を見ることができずに火葬が行われ、遺骨になって戻って来るというやりきれないことが起りました。そういう深い悲しみが、表立って語られてはいなくても、今世界中を覆っています。この世界全体が今闇の中にあり、死の陰に覆われているのです。そしてこのウイルスは病気や死の苦しみをもたらしただけでなく、私たちの生活に大きな陰を落としています。人々が共に集まることが著しく妨げられており、その影響は教会にも及んでいます。先週からようやく礼拝の回数を三回から二回にしましたが、なお顔を合わせることができない人が沢山おり、クリスマスの讃美夕礼拝は今年も行うことができません。信仰の仲間と親しく語り合うことができず、お見舞いに訪ねることもできず、目に見える繋がりが失われてしまっています。社会全体においても、孤独や不安に苦しむ人が多くなっています。体の病気だけでなく、心が暗闇に閉ざされてしまうことが起っているのです。仕事の面でも世の中は大きく変化しており、その変化について行けずに戸惑いを覚えている人、また経済的な困難に陥った人も多くいます。そしてまた新たな変異ウイルスが出て来て、日本でもじわじわと広がってきているのが気がかりです。今後このウイルスの感染がどうなっていくのか、先が全く見えない、そういう意味でも私たちは今、闇の中を歩んでいると言えます。その私たちが心から願い、待ち望んでいるのは、闇の中を歩んでいる私たちが大いなる光を見ること、死の陰の地に住む私たちの上に光が輝くことです。

イザヤの告げた救い
 預言者イザヤは、そういう苦しみの中にいる人々が「大いなる光を見た」、死の陰の地に住む者の上に「光が輝いた」と告げています。それは5節にあるように、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」ことによってです。一人の男の子が、大いなる光としてこの世に生まれ、闇に覆われたこの世界に光が輝いた、と告げているのです。そのことを人々は大いに喜び祝っています。2節「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように」。この喜び祝いは、戦いが勝利の内に終わり、自分たちを苦しめていた敵から解放されたという喜び祝いです。そのことが3節に語られています。「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった」。そして血なまぐさい戦いが終わって平和が訪れたのです。それが4節です「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。このような解放と勝利そして平和をもたらす「ひとりのみどりご」が生まれたのです。5節後半には、「権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。彼の支配の下で、ダビデ王の下で繁栄していたあの王国が再建され、平和が絶えることなく続いていく、それが6節です。「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」。
 預言者イザヤはこれらのことが「起った」と告げていますが、それらは既に現実となったことではなくて、救い主の到来によってこれから実現することです。それを既に「起った」こととして語ることによって、預言者は、神による救いの確かさを示し、それを信じて待ち望む信仰と希望を人々に与えようとしているのです。イスラエルの人々は、「ひとりのみどりご」の誕生によってこのような救いが実現することを切に待ち望んでいたのです。

「ひとりのみどりご」は既に生まれた
 私たちは、この「ひとりのみどりご」が既に生まれたことを知っています。このイザヤの預言は、救い主イエス・キリストの誕生を告げていたのです。主イエスこそ、闇の中を歩む民の見た大いなる光であり、死の陰の地に住む人の上に輝いた光です。主イエスこそ、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる方です。この方によって、私たちの罪は赦され、罪のゆえに滅びるしかなかった私たちが神の子とされ、新しく生きることができるようになったのです。そして私たちを支配していた死の力は打ち砕かれ、復活と永遠の命の希望が与えられました。罪と死と滅びという、私たちに負わされている軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、主イエスが全て折って下さったのです。その「ひとりのみどりご」の誕生を喜び祝う時がクリスマスです。クリスマスに私たちは、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」ことを喜び祝うのです。つまりイザヤの預言が主イエス・キリストにおいて既に実現したことを信じて、神から深い喜びと大きな楽しみを与えられ、刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように、御前に喜び祝うのです。それが、主イエスの誕生を喜び祝うクリスマスの信仰なのです。

主の再臨を待ち望むアドベント
 しかしクリスマスを喜び祝う私たちが、先ほど見たように、この世においてなお闇の中を歩み、死の陰の地に住んでいることもまた事実です。私たちはクリスマスにお生まれになった主イエスによる救いにあずかって、罪を赦され、神の子とされていますが、しかしなお神に背き逆らう罪を犯しており、その罪による滅びの危機が無くなったわけではありません。罪はなお私たちを捕え、支配しているのです。また私たちは復活と永遠の命の希望を与えられていますが、しかし私たちのこの体はいつか必ず死んで葬られていきます。その意味でも死はなお私たちを支配しているのです。罪と死と滅びという、私たちの負っている軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭は、なお私たちを苦しめ、脅かしているのです。その意味では、イザヤが既に起ったこととして告げた救いをイスラエルの人々がこれから実現することとして待ち望んでいたのと同じように、私たちも、主イエスによって既に与えられた救いが将来完成することを待ち望んでいるのです。その救いの完成は、主イエス・キリストがもう一度来て下さり、私たちをなお脅かしている罪と死と滅びを完全に打ち砕いて下さって、父なる神の恵みのご支配を、つまり神の国を完成して下さる時に実現します。その時にこそ、6節に語られている「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」ということが本当に実現するのです。主イエスが「ひとりのみどりご」としてこの世に来て下さり、実現して下さった救いを喜び祝いつつ、その主イエスがもう一度来て下さって、その救いを完成して下さることを待ち望む、それが私たちの信仰です。今私たちが歩んでいるアドベントの意味もそこにあります。アドベントとは「到来」という意味ですが、それは、主イエスの第一の到来であるクリスマスを喜び祝いつつ、主イエスの第二の到来である再臨による救いの完成を待ち望む時なのです。

万軍の主の熱意
 イザヤは6節の最後で、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と語っています。「ひとりのみどりご」をこの世に生まれさせて救いを実現して下さるのは「万軍の主の熱意」なのです。旧約聖書は、天地を創造し、人間に命を与え、そしてイスラエルの民をご自分の民として選び導いておられる主なる神をしばしば「万軍の主」と呼んでいます。それはどんな軍勢よりも強く、どんな戦いにも勝利する、というイメージです。この万軍の主が、イスラエルの民に軛を負わせ、杖で肩を打ち、鞭で虐げている敵に勝利して、その支配から解放して下さるのです。そして兵士の靴や血にまみれた軍服を全て焼き尽くし、平和をもたらして下さるのです。ご自分の独り子である主イエス・キリストを「ひとりのみどりご」としてこの世に生まれさせ、その十字架の死と復活によって罪と死と滅びから私たちを救って下さったのは、この「万軍の主の熱意」です。その救いは、私たちの信仰の熱心さや、神に従って清く正しく生きようとする熱意によって実現したのではありません。私たちは、自分の救いのために、罪と死と滅びからの解放のために、何もできはしないのです。私たちももちろん、善い行いをしようと思うし、熱意をもって隣人のために尽くそうともします。そういう善意や熱意によって、闇に覆われているこの世のあちこちに光が灯り、その周囲を照らしていることは事実です。しかしそういう善意や熱意を持っている私たち自身にもやはり罪があり、弱さや欠けがあり、善意が空回りしてかえって人を傷つけてしまうようなこともあるし、お互いの善意がぶつかり合って対立してしまうようなことも起ります。私たちの善意や熱意は、罪と死と滅びに打ち勝つ力はないし、この世を覆っている闇を打ち払ってとこしえに絶えることのない平和を打ち立てることはできないのです。それをなさることができるのは、この世界を造り、人間に命を与え、そしてこの世を終わらせることができる万軍の主なる神です。その万軍の主が、熱意をもって私たちの救いを成し遂げて下さる、とイザヤは告げています。この万軍の主の熱意を信じて待ち望むところにこそ、私たちの希望があるのです。私たちの善意や熱意は、この万軍の主の熱意の中で、主によって用いていただく時にこそ、本当に意味のある、暗闇に覆われたこの世に光をもたらすものとなるのです。

初めに「言」があった
 主なる神が私たちの救いを成し遂げようとしておられる、その熱意が語られている新約聖書の箇所を、本日共に読む箇所としました。ヨハネによる福音書の冒頭のところです。ヨハネ福音書の冒頭は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」となっています。神は「言」として存在しておられる、ということが語られているわけですが、私たちはこれを、神の本質やあり方を哲学的に語っている言葉として読むべきではありません。ここに語られているのは一言で言えば、神の熱意です。神の熱い思いです。神は熱い思いをもって私たちに関わり、語りかけておられるということです。だから「言」なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というのは、神は黙って静かに天からこの世界や私たちを見降ろしており、この世界や私たちに大した関心を持っておらず、関わりを持とうとしておられないのではなくて、言をもって私たちに熱心に語りかけ、この世界に深く関わっておられる方なのだ、ということを意味しているのです。

万物は言によって成った
 そのことが3節にさらに明確に語られています。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。神の言によってこの世界の万物は成ったのです。神による天地創造は、創世記第1章に語られているように、神の言によってなされています。神が「光あれ」と言われると光があったのです。神はこのように、言によってこの世界の全てをお造りになったのです。そこには、神がこの世界と私たち人間に対して、熱意をもって関わり、語りかけておられることが示されています。この世界は自然に生まれてきたのではなくて、神の言によって、つまり神の明確なみ心、ご意志によって、言い換えれば神の熱意によって存在しているのです。
 そしてさらに、「万物は言によって成った」ということが示しているのは、そこに神の、私たち人間に対する語りかけがある、ということです。「言」は、それを語る者と、聞いて受け止める者とがあって初めて意味を持ちます。聞いて受け止める者がいないところで語られた言葉は虚しい独り言です。神の「言」は虚しい独り言で終わることはありません。全能の神の「言」は、それを聞いて受け止める相手を造り出し、生かすのです。神が語りかけるなら、語りかけられたものは存在するようになるのです。神が「光あれ」と言われると光があった、というのはそういうことです。天地創造とは、神が言によって、その言を聞いて受け止める相手を無から造り出された、ということなのです。そしてその天地創造の最終的な目的は人間の創造です。創世記第1章に語られている天地創造の話には、神がこの世界を創造し、そこを、人間が生きることができる場として整えていって下さった、ということが語られています。全てのお膳立てが整ったところで、最後に人間が創造されたのです。つまり神は、私たち人間のために、人間が生きることができる場としてこの世界を創造して下さったのです。つまり天地創造において、神は私たち人間に語りかけておられるのです。「言」を聞いて受け止め、それに応答することができる被造物は人間だけです。全能の神の「言」は、それを聞いて受け止め、応答することができる相手である人間を造り出したのです。つまり神が「言」をもってこの世界をお造りになったということには、私たち人間に語りかけ、関わりを持ち、共に生きて下さろうという神の熱意が示されているのです。それは裏返して言えば、私たち人間は、神の「言」を聞いて受け止め、それに応答して、神との交わりに生きるために造られ、命を与えられている、ということです。神が私たちに語りかけ、関わって下さっているから、それに応えて私たちも神に語りかけ、関わって生きる、それが、私たちに命が与えられていることの根本的な意味であり目的なのです。だから、神の語りかけを聞かず、それを受け止めることなく、応答しないとしたら、それは自分が生かされていることの本当の意味と目的を見失っているということです。それを聖書では「罪」と呼んでいるのです。神は「言」をもってこの世界と私たちを造り、命を与え、語りかけて下さっている。そこに、この世界と私たちに関わろうとしておられる神の熱意がある。ヨハネ福音書の冒頭はその神の熱意を語っているのです。

「言」である主イエス・キリスト
 そしてこの神の熱意は、さらに具体的な行動において示されています。初めに神と共にあり、自らが神である「言」。それは神の独り子イエス・キリストのことなのです。この後の1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。ヨハネ福音書は、主イエス・キリストのことを「言」として捉えており、その「言」が肉となって、一人の人間となって、この世に生まれて下さったと語っています。そのことによってヨハネは、独り子主イエスによってこそ神が私たちに語りかけておられること、主イエス・キリストにこそ、私たちと徹底的に関わって下さる神の熱意が示されていることを語り示しているのです
 私たちは神の「言」によって命を与えられました。つまり私たちが生きていること自体が神の私たちへの語りかけです。けれども私たちはその語りかけに気づこうとせず、神が与えて下さった命、人生を、自分で手に入れたとまでは言わなくても、自然にあるものであるかのように思って生きています。神に応答せず、無視している私たちは、大きな罪に陥っており、また人生の意味と目的を見失っているのです。その私たちのところに、神は独り子イエス・キリストを遣わして、語りかけて下さり、そして主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、私たちが神の子となって、神との間に父と子という交わりをもって生きる道を開いて下さいました。主イエス・キリストの誕生、つまりクリスマスは、神が私たち罪人を救おうという熱意をもって語りかけ、私たちのところに来て下さり、関わって下さったという出来事です。この神の「言」である主イエス・キリストこそ、私たちを本当に生かす命であり、闇に覆われているこの世界に、死の陰の地に住む私たちの上に、輝いた光なのです。このまことの光として、ひとりのみどりご主イエスがこの世に来て下さったことを、私たちはクリスマスに喜び祝うのです。

主の再臨を待ち望む
 しかし私たちは、この主イエスによる救いにあずかり、主イエスによる神の語りかけを受けながらも、なおそれに十分に応えることができておらず、神との間に父と子という交わりをもって生きることにおいてまことに不完全な者です。神にちゃんと応答しない罪はなお私たちを深く捕えています。しかし神は、主イエス・キリストがもう一度来て下さって、神と私たちとの関係を完全なものとして下さり、救いを完成させて下さることを約束して下さっているのです。クリスマスを喜び祝いつつも、私たちはなお罪の闇に覆われており、死の陰の地に住んでいますが、その闇の中に、主イエスの再臨による救いの完成の光が輝くことを信じて待ち望むことができるのです。独り子主イエスを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死による救いを与えて下さった万軍の主の熱意が、その救いの完成をも必ず成し遂げて下さるのです。

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