「立派に生きるとは」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第29章4-7節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章11-17節
・ 讃美歌:303、510
小アジアのキリスト者と似た状況に生きている
ペトロの手紙一を読み進めてきました。本日は2章11-17節をお読みします。その12節で「異教徒の間で立派に生活しなさい」と言われています。このみ言葉は、まさに今、日本で生きているキリスト者に語りかけられているみ言葉です。この手紙の宛先である小アジアの諸教会に連なるキリスト者と同じように、私たち日本のキリスト者も、異教社会の中で異教徒と関わって生きているからです。といっても日本では信じる宗教がない方も少なくありませんから、異教徒ではなくノンクリスチャンと言ったほうが良いと思います。いずれにしても2000年近い隔たりがあるにもかかわらず、私たちは小アジアのキリスト者と似た状況に生きているのです。
小アジアのキリスト者の多くは異教徒からキリスト者になった人たちです。ですから彼女らの愛する夫、彼らの愛する妻、大切な友人たち、職場の同僚たちはいぜんとして異教徒であったとしてもまったく不思議ではありません。実際3章1節以下では、キリスト者の妻と異教徒の夫について語られています。この手紙でペトロは、確かにキリスト者と異教徒を区別して、またキリスト者の生き方と異教徒の生き方を区別して語っています。キリストによる救いに与り、洗礼を受けて新たに生まれさせられキリスト者になるとは、1章18節にあるように「先祖伝来のむなしい生活から贖われ」ることだからです。しかしだからといって、彼らは日々、異教徒と関わることなく生活していたのではありません。私たちが日々、ノンクリスチャンの愛する夫や妻や子どもたち、大切な友人たち、職場の同僚たちと関わって生きているように、彼らも日々、異教徒であっても自分にとって大切な人たちと関わりながら生きていたのです。そこには色々な軋轢が生じ、様々な具体的な問題が起こったに違いありません。そのような問題として、本日の箇所の後半では政治との関わり、2章18節以下では職場における関わり、3章1節以下では家庭における関わりが取り上げられています。具体的な問題を取り上げる中で、異教社会の中で、キリスト者が異教徒と関わりながら生きていくとは、どのようなことなのかが見つめられているのです。
肉の欲を避けなさい
本日の箇所の冒頭11節にこのようにあります。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、すでに神の国に生き始めているキリスト者は、この地上にあって旅人であり、仮住まいの身であるから、「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と言われています。「肉の欲」と言われると、私たちは性的な欲を思い浮かべがちです。あるいはこの手紙の4章3節には「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた」とありますから、これらが「肉の欲」であると考えることもできます。しかしそれだけではなく、もっと私たちに身近なこと、私たちの誰もが日々経験していることが見つめられているのではないかと思うのです。直後の12節の半ばに「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても」とあります。つまり異教徒の人たちがキリスト者を悪人呼ばわりしているということです。平たく言えば、異教徒の人たちがキリスト者の悪口を言っているのです。そのような悪口に対して言い返したいという欲求こそ「肉の欲」ではないでしょうか。ノンクリスチャンとの関係だけでなく、クリスチャン同士の関係においても、私たちは悪口を言われたら、悪口を言い返したいのです。批判されたら、批判し返したいのです。悪口を言われると反射的に悪口で言い返してしまうほど、ありのままの私たちは、つまり罪に支配されている私たちは、悪口には悪口を、批判には批判を返してしまう者です。これこそ私たちの「肉の欲」です。私たちの魂に戦いを挑む肉の欲なのです。この肉の欲を避けて生きること、つまり悪口を言われても、悪口を言い返さず、批判されても、批判し返さないで生きることが勧められているのです。
立派に生活する
このことが3章9節では、このように言われています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。悪口を言われても、悪口を言い返さないというだけではありません。悪口を言う人のために、侮辱してくる人、批判してくる人のために、キリスト者は祝福を祈るよう言われているのです。前回の箇所で、私たちキリスト者は祭司として立てられていると語られていました。2章9節で「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言われていました。牧師だけでなくすべてのキリスト者が祭司としての務めを担い、主イエスに執り成されている者として、ほかの人のために執り成していくのです。その「ほかの人」の中には、自分の悪口を言う人、自分を侮辱したり批判したりする人も含まれます。その人たちのためにも祝福を祈りなさい、と勧められているのです。
このように考えると、この勧めは私たちにとってまことに厳しい勧めであることが分かります。まだ「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲」を避けるほうが易しいかもしれません。それほど私たちは悪口に、人を批判し裁くことに慣れ親しんでいるのです。しかしその慣れ親しんでいる悪口を避けることが、避けるだけでなく、悪口を言う人のために執り成し祈り、祝福を祈ることが、12節にある「異教徒の間で立派に生活」することにほかなりません。「立派に」と訳された言葉は「美しく」と訳すこともできます。「魅力的に」と訳しても良いかもしれません。異教徒の間で、立派に、美しく、魅力的に生活する。それは、禁欲生活を送るとか、慈善事業を立ち上げるというような特別な生活をすることではなく、ほかの人のために執り成し祈り、祝福を祈っていくことなのです。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるのが当たり前の世の中にあって、自分の悪口を言う人のために、自分を批判し裁く人のために祝福を祈っていくのです。
豊かな慰めを受ける
しかし私たちは、このように勧められても途方に暮れてしまうだけかもしれません。この勧めが、このように生きなくてはならない、と私たちに命じているだけならば、私たちはこのように生きられない自分に幻滅するしかないからです。しかし「愛する人たち、あなたがたに勧めます」の「勧める」という言葉は「慰める」という意味の言葉でもあります。ですからペトロは「愛する人たち、あなたがたを慰めます」と言っているのです。ここでペトロは、小アジアのキリスト者たちに、そして私たちに、単に、このように生きなくてはならない、と勧めているだけでなく、このように生きるところに私たちキリスト者の慰めがある、と告げているのです。自分の悪口を言う人のために、自分を批判し裁く人のために執り成し祈り、祝福を祈って生きるとは、私たちが悪口や批判に我慢して生きなくてはならないということではありません。そのように生きるときにこそ私たちは豊かな慰めを与えられて生きることができる、ということなのです。私たちは、ほかの人のために執り成しの祈りを「してあげている」のではありません。祝福の祈りを「してあげている」のではありません。祭司として立てられ、ほかの人のためにとりなし祈り、祝福を祈ることを通して、私たち自身が豊かな慰めを受けているのです。
皇帝を敬いなさい
本日の箇所の終わり17節の前半で「すべての人を敬い、兄弟を愛し」と言われているように、私たちはノンクリスチャンの方々を敬い、クリスチャンの兄弟姉妹を愛して生きていくよう導かれています。同時に17節の後半では「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とも言われています。「皇帝を敬いなさい」。私たちにとって躓きを覚えるみ言葉です。これまでの歴史を振り返っても、今、世界で起こっていることに目を向けても、私たちの内に沸き起こってくるのは、皇帝、つまり権力を持っている為政者への不信感、批判、怒りだと思います。為政者の暴走がどれだけ多くの命を奪ったのか、どれだけの苦しみと悲しみをこの世界にもたらしたのかを考えるとき、私たちは「皇帝を敬いなさい」というみ言葉に反発を覚えざるを得ないのです。しかし同時に、私たちはそのような思いに駆られる自分自身を振り返ってみなくてはなりません。私たちはしばしば政治に関する発言において批評家になりがちです。「あの人は政治家にふさわしくない」、「政治は私たちのことを何も考えてくれない」、「あの大統領はおかしい」。私たちは日々、そのような声をテレビで聞き、ネットで見ていますし、私たち自身も反射的にそのような言葉を言っています。それらの声がすべて間違っているわけではないでしょう。しかしそのような言葉を発するとき、実は、私たちは政治に対して無責任になっているのではないでしょうか。為政者だけがこの社会や世界に対する責任があり、自分たちはまるで責任がないかのように話してしまうのです。なぜそのような無責任さが生じるのでしょうか。それは「敬い」が失われているからです。「敬い」が失われているとき、私たちは自分の責任を棚上げして、外から眺めている批評家として言葉を発してしまうのです。
しかし間違えてはなりません。「皇帝を敬いなさい」とは、為政者を批判してはいけない、ということではありません。歴史が教えているように、時に私たちは為政者にNOと言う必要があります。しかしそのような時ですら、私たちが為政者への敬いを失わないならば、そこにはまず為政者のための執り成しの祈りが起こってくるのです。私たちキリスト者は祭司として立てられ、執り成しに生きる者とされています。信頼できない為政者も少なくないでしょう。しかし私たちは無責任にその為政者について批評するよりも、その為政者のために執り成し祈るのです。「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」と言われているように、私たちが畏れるべきは神であって為政者ではありません。だからこそ私たちは神のみを畏れ、為政者を恐れることなく、その人のための執り成しに生きることができるのです。
執り成しに生きた捕囚の民
共に読まれた旧約聖書エレミヤ書29章4-7節は、預言者エレミヤがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行かれた人たちに書き記した手紙の一部です。エレミヤは捕囚の民にこのように言っています。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。家を建てるとか、園に果樹を植えてその実を食べるとか、妻をめとり、息子には嫁をとり、娘は嫁がせるというのは、要するに日常生活を送りなさいということです。故郷エルサレムからバビロンに連れて行かれ、捕らわれの身として生きるというまったく日常的でない生活の中で、淡々と日常生活を送りなさいと言われているのです。それだけではありません。捕囚として連れて行かれた町のために祈りなさい、とも言われています。町のために祈るとは、その町を治めている人たちのために、またその町に暮らしている人たちのために祈ることです。バビロンの為政者たちに反抗しなさい、とは言われていないのです。捕囚の民は、異教社会の中で周りの人たちから悪口を言われたり、侮辱されたり、白い眼で見られたりしたに違いありません。それでもその人たちのために祈りなさいと言われているのです。捕囚の民は、異教徒に囲まれる中にあって反抗して生きたのではなく執り成しに生きたのです。
殉教したペトロの言葉
小アジアのキリスト者も同じです。ローマ帝国からの迫害を受けていた彼らにとって、皇帝は最も憎むべき人であったはずです。ペトロの「皇帝を敬いなさい」という言葉は、私たち以上に、小アジアのキリスト者にとって躓きを覚える言葉であったに違いありません。「冗談じゃない」。「憎むことはできても敬うことなんてあり得ない」と思うのが普通です。皇帝だけではありません。彼らは日々の生活の中で、周りの人たちからの悪口や無理解に悩み、苦しみ、悲しんでいたに違いありません。しかしペトロは「皇帝を敬いなさい」、「すべての人を敬いなさい」と言うのです。ペトロが言っていることは綺麗事にすぎないのでしょうか。しかし忘れてはいけません。このように言っているペトロ自身が、ローマで殉教したと伝えられているのです。迫害を受け殉教したペトロの言葉として、私たちは「すべての人を敬い」、「皇帝を敬いなさい」というみ言葉に聞かなくてはなりません。ペトロが特別だから、そのように言えたのではありません。ペトロは主イエスの十字架を前にして、主イエスを見捨てて逃げ出しました。強い精神力や特別な勇気を持っていた人物ではなく、弱さと欠けと罪を抱えていた人物だったのです。そのペトロがなぜ迫害を受けても「すべての人を敬い」、「皇帝を敬いなさい」と言えたのでしょうか。
神の僕として自由を用いる
16節にこのようにあります。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」。「自由な人として生活しなさい」と言われている、その自由とは、主イエス・キリストの十字架によって私たちに与えられた自由です。私たちキリスト者は主イエスの十字架によって、どんな力からも、どんな為政者からも自由にされています。しかし私たちはその自由を、なにをしてもいい自由として、なにを言ってもいい自由として用いるのではありません。ペトロは「しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」と言っています。キリストによって与えられている自由を「悪事を覆い隠す手だて」とするとは、その自由を乱用することでしょう。自分は自由だからといって、むやみやたらに「人間の立てた制度」(13節)を壊そうとしたり、無責任に為政者を批評したり、あるいは悪口を言われたら悪口を言い返したりするのです。私たちから「敬い」が失われるとき、私たちはこのように自由を乱用してしまうのです。しかしペトロは、私たちが自由を乱用して生きるのではなく、「神の僕」として生きるよう告げています。「僕」と訳された言葉は、「奴隷」という意味の言葉ですから、とても不思議なことが言われているのです。奴隷であることと自由であることは、本来、両立しないはずです。しかし私たちが自由な人として生きるとは、神の奴隷として生きることにほかなりません。なぜなら本当の自由は、主人を持たないところにあるのではなく、つまり自分勝手に生きるところにあるのではなく、まことの主人を持ち、その主人の僕として生きるところにこそあるからです。キリストによる救いによって私たちは神のものとされ、神のみを主人として生きる神の僕とされています。そこに本当の自由があり、私たちは神の僕として、その自由を自分勝手に用いるのではなく、神のみ心に従うために用いるのです。
神の僕として本当の自由に生きていたからこそ、ペトロはすべての人に仕えることができました。自分の悪口を言う人たちにも、自分たちを迫害する人たちにも仕えることができたのです。だから彼は、小アジアのキリスト者にも、そして私たちにも「すべての人を敬い」、「皇帝を敬いなさい」と言えたのです。ペトロ自身や私たち自身は特別ではありません。弱さと欠けと罪を抱えている者でしかありません。しかしそれにもかかわらず、すべてのキリスト者は特別な者とされています。神の僕として本当に自由に生きることができ、それゆえにすべての人に仕えて生きることができる。これほど特別なことはないのです。
イエス・キリストのゆえに
与えられている自由を神のみ心に従うために用いて生きていく理由は、ただ一つしかありません。主イエス・キリストのゆえにです。このことが13、14節で見つめられています。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」、「統治者としての皇帝であろうと…皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」と言われています。口語訳や聖書協会共同訳は、「主のために」ではなく「主のゆえに」と訳しています。私たちが人間の立てた制度に従い、皇帝や総督に服従するのは、その制度が良い制度だからでも、皇帝や総督が優れているからでもなく、ただ主イエス・キリストのゆえです。主イエス・キリストは、父なる神のみ心に従って十字架への道を歩まれ、十字架で苦しみを受けられ死なれました。主イエスは人間の立てた制度を壊そうとしたのでも、皇帝や総督を倒そうとしたのでもありません。人間の立てた制度の中を生きられ、為政者によって十字架に架けられ死なれたのです。その主イエス・キリストのゆえに、私たちも神の僕として、与えられている自由を神のみ心に従うために用いて生きていくのです。
立派に生きるとは
私たちが主イエス・キリストのゆえに、すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬って生きるとき、その主イエスによって実現した救いが、私たちの周りに広がっていきます。12節全体をお読みします。「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。私たちは日本という異教社会で、ノンクリスチャンの間で生きています。時には心無い言葉を投げかけられたり、白い眼で見られたり、悪口を言われることもあります。また私たちの愛する人たちから理解されないことは、本当に大きな苦しみであり悲しみです。しかしたとえ悪口を言われても、悪口を言い返すのではなく、侮辱されても、侮辱し返すのではなく、相手のために祝福を祈り、執り成し祈って生きていくのです。そのように生きることこそ私たちが立派に、美しく、魅力的に生きることです。もちろんそれは私たち自身が立派で美しく魅力的であるということではないし、私たち自身の力によってそのように生きられるのでもありません。しかし主イエス・キリストによって与えられた自由を、神の僕として、神のみ心に従うために用いて生きていく中で、聖霊のお働きによって私たちは立派に、美しく、魅力的に生きるよう変えられていくのです。そしてそのように生きている私たちを見ている人たちが、「訪れの日に神をあがめるように」なるのです。「訪れの日」とは、世の終わりに主イエスが再び来てくださる日であるだけでなく、主イエスがまだ神を信じていない方々に出会ってくださる日のことでもあります。もしかするときっかけは、ノンクリスチャンの方々が私たちを見て、「あの人、ちょっと違うな」と思うことかもしれません。そのようなきっかけを通して、主イエスが一人ひとりに出会ってくださるのです。立派に生きるとは、地位や名声を獲得して生きることではありません。そうではなく欠けと弱さと罪を抱えている私たちが、主イエスによって救われ、神の僕として本当の自由に生きていることです。神はそのように生きている私たちを豊かに用いてくださり、私たちの愛する、大切な人たちに、まだ神を信じていない方々に主イエスによる救いと祝福を広げていってくださるのです。