主日礼拝

ほむべき方の子

「ほむべき方の子」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ダニエル書第7章13-14節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章53-65節 
・ 讃美歌:10、158、464

大祭司の下での取り調べ
主日礼拝においてマルコによる福音書を読み進めて参りまし て、先週は主イエスが逮捕された場面を読みました。主イエスを 捕えたのは、祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆たちでし た。彼らは主イエスを、大祭司のところへ連れて行ったのです。 時は真夜中です。にもかかわらず、そこには祭司長、長老、律法学 者たちが皆集まって来たとあります。この人たちは、ユダヤ人の 議会のメンバーたちです。この箇所の小見出しに「最高法院」と いう言葉がありますが、それがユダヤ人の議会であり、それは同 時に最高裁判所でもありました。この最高法院の議員たちが大 祭司の下に急遽招集されたのです。その目的は、主イエスの罪状 を確定して、当時この地を支配していたローマ帝国のユダヤ総 督ピラトに引き渡す準備をすることです。今の小見出しに「最高 法院で裁判を受ける」とありますが、ここで行なわれたのは正式 な 裁 判 と 言 う よ り も 、 そ の 前 の 取 り 調 べ の よ う な も の だ と 思 われます。この取り調べにおいて、主イエスをどのような罪で訴 えるかが決められたのです。そしてこの後の15章1節に「世が 明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つま り最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピ ラトに渡した」とあります。この「相談」が最高法院の裁判であ り、そこで有罪が宣告され、ピラトに引き渡すことが正式に決 められたのだと思われます。しかしそれは夜中の内に決められ ていたことを議決するだけの形式的なことで、主イエスの有罪が 事実上決定したのは真夜中の取り調べにおいてだったのです。 しかしこの取り調べは、主イエスが有罪であるか否かを公平 に判断しようとするものではありませんでした。始めから結論は 決まっており、その結論を下すための材料を揃えることが目的 でした。55節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」と あるのはそのことを示しています。イエスを死刑にすることが彼 らの既定の方針であり、それを正当化するための証言を集めよ うとしたのです。しかしそれが「得られなかった」とあります。 それは次の56節にあるように、「多くの者がイエスに不利な偽 証をしたが、その証言は食い違っていたからである」ということ です。ユダヤ人の律法には、一人の証言だけで人を有罪にして はならない、という掟があります。別々になされた二人または三 人の証言が合わなければ、有罪の判決を下してはならないので す。主イエスを有罪にするためには、その手続きを踏まなければ なりません。そのために何人かの人がイエスに不利な偽証をし たのですが、急なことで事前の打ち合わせがうまくいかなかった のでしょう。証言が食い違ってしまったのです。もともと事実と は違う偽証、つくり話ですから、ちゃんと口裏を合わせておかな いと、語る人によって違って来てしまいます。あるいはこの最高 法院にも、密かに主イエスに好意を抱き、尊敬していた人もい たようですから、そういう人が彼らの証言の矛盾を突くような 質問をしたのかもしれません。そんなわけで、彼らの証言によって 主イエスの有罪を確定することが出来なかったのです。

主イエスによって建てられる神殿
その偽証の一つが58節に語られています。「この男が、『わたし は人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造られな い別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きまし た」。主イエスがそのようにエルサレム神殿を冒瀆した、というので す。この証言のみがここに語られているということは、大祭司たちが 主イエスを有罪にするために準備していた中心的な理由がこれだった ということでしょう。これは勿論偽証であって、主イエスはこんなこ とは言っておられません。しかしこのようにねじ曲げられて受け止め られる可能性のあることを語っておられたのは事実です。この福音書 の13章1節以下で主イエスはエルサレム神殿の崩壊を予告なさいま した。またヨハネによる福音書の2章19節には、「この神殿を壊し てみよ。三日で建て直してみせる」というお言葉があり、そこには「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と いう説明がつけられています。つまり主イエスは、人の手で造られた エルサレム神殿はいつか破壊されてしまう日が来るが、主イエスが十 字架にかかって死に、三日目に復活することによって、主イエス・キ リストの体である新しい神殿が築かれることをお語りになったので す。神殿とは神を礼拝する場です。新しい神殿が築かれるとは、新し い礼拝がなされるようになるということであり、それは即ち神と民と の間に新しい関係が打ち立てられるということです。その新しい関係 とは、父と子という関係です。神様が私たちを父として愛して下さ り、私たちが神様の子とされて、神を父として愛して生きる、そうい う新しい礼拝に生きる新しい神の民の群れを築くために、主イエスは この世に来られたのです。主イエスの体である新しい神殿、新しい礼 拝に生きる群れ、それは教会です。キリストの体である教会において は、主イエス・キリストご自身が大祭司となり、父なる神と私たちと の間を執り成して下さるのです。主イエスの十字架の死と復活によ ってそのような新しい手で造られない別の神殿が打ち立てられる、と いうことを主イエスはお語りになったのです。しかし大祭司たちには それは、エルサレム神殿への冒瀆としか聞こえません。イエスは神殿 を破壊し、別の神殿を建てようとしている、ということになるので す。彼らのこの怒りは、表面的には神のための怒り、神への冒瀆に対 する怒りです。しかしそこには、エルサレム神殿の祭司、ユダヤ人た ちの宗教的指導者としての自分たちの立場や地位を守ろうとする思い が強く働いています。エルサレム神殿があってこそ、彼らの地位は守 られ、権威が保証されるのです。その崩壊を語る主イエスへの彼らの 怒りは、神のためという表向きの言葉に隠されていますが実は自分た ちの利害のためです。私たちはそういうことをこの社会においていや という程見ています。私たち自身も、尤もらしい表向きの理屈をいろ いろ掲げて、新しいことを拒み、自分が変わること、変えられること を拒む、ということがあります。神が与えようとしておられる新しさ に生きることを拒み、自分の旧い世界に閉じこもってしまうというこ とが、信仰者の生活においても起こるのです。その時私たちは、この 大祭司たちと同じ過ちに陥っているのです。

決定的な問い、決定的な答え
主イエスを有罪とするためにこのような偽証がなされましたが、そ れらは互いに食い違い、有罪を確定することができませんでした。こ れは重要なことです。重要だというのは、主イエスが本当は無罪だ ったことが分かるから重要、ということではなくて、人間たちは結局 主イエスを罪に定めることができなかった、ということが重要なので す。人間たちは躍起になって、偽証者まで立てて、主イエスの有罪を 証明しようとしたけれども出来なかったのです。つまり主イエスが十 字架の死刑に処せられたのは、人間が有罪を証明したことによってで はなかったということです。それではどうして主イエスは十字架につ けられたのか、そのことが60節以下に語られていくのです。60節 に「そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ね た。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしている が、どうなのか。』」とあります。何も答えようとしない主イエスに 対して苛立った大祭司が自ら進み出てこのように言ったのです。しか し主イエスは61節にあるように「黙り続けて何もお答えにならなか った」。人間の偽証に対しては、主イエスは何もお答えにならないの です。それは黙って耐えておられるとも言えますが、この場合にはむ しろ、黙っていることによってかえって彼らの偽証の食い違いが明ら かになる、ということでしょう。偽りの証言、悪意ある中傷は、むし ろ沈黙していることによってこそ、相手の馬脚が現れるのです。です からもしも主イエスが最後まで口を開かず、徹底的に沈黙を通された なら、彼らは有罪を確定することができず、証拠不十分で釈放とせざ るを得なかったかもしれません。しかしそうはなりませんでした。こ の取り調べの最後には、もはや証言の必要はない、イエスは死刑にす べき有罪だ、との結論が議員一同によって下されたのです。それは、 主イエスがついに口を開いて語られた言葉によってでした。主イエス は偽証に対しては口を閉ざしておられましたが、大祭司の発した決定 的な問いに対しては、はっきりと、決定的な答えをなさったのです。 その答えによって、主イエスの有罪は確定し、十字架につけられるこ とになったのです。

私は神の子、メシアである
大祭司の発した決定的な問い、それは61節後半に語られているこ とです。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。「メシア」と訳 されている言葉は原文のギリシャ語では「クリストス」つまりキリス トです。それはヘブライ語のメシア、油を注がれた者、という言葉を ギリシャ語に直した言葉です。新共同訳はこの「クリストス」を元の ヘブライ語に戻して「メシア」と訳したわけですが、それは翻訳とは 言えないでしょう。以前の口語訳聖書のように「あなたは、ほむべき 者の子、キリストであるか」と訳した方がよいと思います。それはと もかく、「キリスト」にしても「メシア」にしても、意味は、神から 遣わされる救い主、ということです。「ほむべき方」とは神様のこと です。ユダヤ人は神様のことを直接呼ぶことを避けて「ほむべき 方」、ほめたたえられるべき方、という言葉を使ったのです。ですか らこの大祭司の問いは、「おまえは神の子である救い主なのか」とい う意味です。これは主イエスの本質に迫る根本的、決定的な問いで す。偽証者を立てるような小細工を弄するのではなくて、最初からこ のことを問えばよかったのです。しかし大祭司は、主イエスがこの問 いにはっきり答えるとは思っていなかったのでしょう。ただの人間が 自分は神の子、救い主だ、などと言えば、それは自分を神とすること であり、神を冒瀆する発言として捉えられることは分かり切っていま す。またそれを否定すれば、主イエスがこれまで自ら語り、行なって きたことの意味を否定することになります。だからこのような問いに まともに答えるはずはない、と彼らは思っていたのです。しかし主イ エスがどんな偽証にも全く答えず沈黙しているので、業を煮やしてこ れを問うたのです。ところが、それまで完全な沈黙を貫いて来られた 主イエスが、この決定的な、根本的な問いには、はっきりとお答えに なったのです。それには大祭司自身がびっくり仰天しただろうと思い ます。主イエスは「そうです」とお答えになりました。ここは口語訳 聖書では「わたしがそれである」と訳されていました。原文の言葉 は、ギリシャ語で「エゴ― エイミ」です。それは英語で言えば「I am.」という言葉で、「私はある」とか「私である」と訳すことがで きるし、その後に何かの言葉がつけば「私は何々です」という意味に なります。大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という 問いに対して主イエスは、「その通り、私は神の子、メシアである」 とはっきりと宣言なさったのです。しかもそれだけではありません。 それに続いて主イエスは「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座 り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とまでおっしゃいました。「人 の子」とは主イエスがご自分のことを語っている言葉です。私は、全 能の神の右に座る者であり、そこから、天の雲に囲まれてもう一度こ の世に来る、そのことをあなたたちはその目で見るのだ、とおっし ゃったのです。神の右に座るというのは、詩編110編1節において 神が救い主に対してお語りになったことであり、雲に囲まれて来ると いうのは、本日共に読まれたダニエル書7章13節に語られている、 来るべきメシアの姿です。いずれも、全能の神から授けられる大いな る権威と力を語っています。主イエスはご自分がそのような権威と力 を父なる神から授けられ、その権威をもってもう一度来られることを 宣言なさったのです。

主イエスの宣言によって十字架の死が確定した
このことは、主イエスのこれまでの歩みを思い起こしてみる ならば驚くべきことです。主イエスはこれまで、病気を癒したり、 悪 霊 を 追 い 出 し た り 、 死 者 を 生 き 返 ら せ る な ど 様 々 な 大 き な み業を行ってこられました。しかしその時には常に、そのみ業 の恵みを受けた人々に、「このことを誰にも言ってはいけない」 と語ってこられました。また8章27節以下において、「あなたが たはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いにペト ロが「あなたは、メシアです」と答えました。まさに主イエス ご自身が本日の箇所で宣言なさったのと同じことをペトロは語 ったのです。しかし主イエスはその時弟子たちに、ご自分のこと を誰にも話さないようにとおっしゃったのです。つまりこれまで 主イエスは、ご自分が神の子であるメシア、救い主であること を、極力隠そうとしてこられました。そのことを弟子たち以外の人 々の前で宣言なさったことはなかったのです。ところが今、逮捕さ れ、有罪とされ、死刑にされようとしているその時には、そのこと をご自分からはっきりと語っておられます。そしてそれを語った ことによって、主イエスの死刑は決定的になったのです。つまり主 イエスが有罪となり、十字架につけられたのは、人々の偽証や悪 意ある中傷によってではなくて、主イエスご自身が「私は神の子 であるメシア、救い主だ」とはっきり宣言なさったことによってだ った、ということがここに示されているのです。

主イエスによる救いとは
このことは、主イエスが神の子であられ、私たちの救い主、メシア であられるということを見つめていく上で大切なことを示していま す。人々が主イエスのみ言葉やみ業に感心し、この方こそ救い主では ないかと期待する、そういう場面においては、主イエスはご自分がほ むべき方の子、メシアであられることを隠しておられるのです。主イ エスがそのことを宣言し、はっきりとお語りになるのは、逮捕され、 有罪とされ、十字架につけられようとしている、その場面においてで す。ご自分がメシアであることを宣言することによって、人々が主イ エスを信じて従って来るようになるのではなくて、むしろそのことに よって神を冒涜する者として断罪され、死刑の判決を受けることにな る、そういう場面においてこそ、主はご自分が神の子、メシアであら れることをはっきりとお語りになったのです。つまり主イエスにおい ては、ご自分が神の独り子、救い主であられることは、死刑に当る罪 人として断罪され、十字架につけられることと分ち難く結びついてい るのです。死に値する罪人として断罪されることにおいてこそ、主イ エスは神の子、私たちの救い主であられるのです。それは、私たち が、死に値する罪人だからです。神によって造られ生かされているの に、その神に背き逆らい、神をないがしろにして自分が主人となって 生きている私たちは、神を冒瀆する罪人として断罪されなければなら ない者です。その私たちの罪を主イエスは全て背負って、ご自分が死 に値する罪人として断罪され、十字架につけられたのです。そのこと によって主イエスは私たちの救い主、メシアとなって下さったので す。この主イエスこそ神の子であり、私たちの救い主であられると信 じることが私たちの信仰です。主イエスのすばらしいみ言葉やみ業に 感動して、この方こそ救い主だと信じて従って行くことが信仰なので はありません。主イエスに従って行くことによって私たちがより良い 立派な人間になっていくこと、より優れた愛の働きが出来るようなることが信仰だと思っている人がいますが、それは違うのです。主イエ ス・キリストを信じるとは、主イエスがこの私の罪を背負って身代わ りとして十字架にかかって死んで下さったことを信じることです。そ の信仰によって私たちは、自分が死に価する罪人であることを示さ れ、そして主イエスが十字架にかかって死んで下さることによってそ の罪を赦して下さったことを示され、その救いに感謝して生きる者と されるのです。主イエスが神の子であられ、私たちの救い主、メシア であられるとはそういうことなのです。

主イエスの救いの射程
主イエスはここでさらに、ご自分が、復活して天に昇り、全能の神 の右に座ること、そしてそこから、天の雲に囲まれて栄光の内にもう 一度来られることを宣言なさいました。これは大祭司の問いに対する 答えではありません。大祭司はそんなことまで問うてはいないので す。主イエスがこれをお語りになったのは、主イエスを神の子、救い 主と信じて生きる私たちのためです。神の子である主イエスが、私た ちの罪を背負って、罪人として断罪され、十字架につけられて殺され ることによって与えて下さった救いの恵みが私たちの歩みのどこにま で及ぶのか、その救いの射程を主イエスはこのみ言葉によって示して 下さったのです。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んだ主イ エスは、復活して天に昇り、今、全能の父なる神の右に座っておられ ます。全能の父なる神が、今この世界と私たちを支配し、守り、導い て下さっているのです。父なる神のご支配と守りと導きは、今や救い 主イエス・キリストを通して私たちに与えられているのです。また私 たちが今地上で祈る祈りは、この主イエス・キリストを通して確かに 父なる神に届いているのです。そのように、全能の父なる神の右に座 っておられる主イエス・キリストは、父なる神と私たちの間を執り成 して下さっています。主イエスが新しい神殿の大祭司であられるとい うのはそういうことです。大祭司主イエスが父なる神の右に座って執 り成して下さっていることによって私たちは、罪を赦され、神の子と されて、父なる神の前に立ち、神を礼拝していくことができるので す。そこに、新しい礼拝に生きる新しい神の民の群れが、即ち教会が 築かれていくのです。そしてその主イエスは、いつかもう一度、天の雲に囲まれて、つまり神としての権威と力を帯びてこの世に来て下さ るのです。その時には、主イエスが神の子、救い主であられること を、全ての人が見るのです。今のこの世においては、そのことは目に 見えない事実、隠された事実、つまり信じるしかない事柄です。私た ちは主イエスが神の子であり、救い主であられることを、今のこの世 においては、この目で見ることはできず、信じるしかないのです。し かし主イエスが雲に囲まれてもう一度来て下さる時には、今は隠され ている主イエスによる救いがあらわになり、完成します。その時私た ちは、主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる者へと復活しま す。主イエスが栄光をもってもう一度来られる時に、私たちも復活の 命を与えられ、永遠に主と共に生きる者とされる、それが私たちの救 いの完成です。主イエスはここでその救いの完成を約束して下さって いるのです。およそ二千年前の主イエスの十字架の死によって与えら れた救いは、このように現在を生きる私たちを支え、力づけ、そして 私たちの人生の終わり、肉体の死を越えて、この世の終わりにおける 完成にまで及んでいくのです。私たちはそのことを信じる信仰を、毎 週の礼拝の中で、使徒信条を告白することによって言い表していま す。十字架につけられて死んだ主イエス・キリストが、「三日目に死 人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したま へり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。 この告白は、大祭司の決定的な問いに対して主イエスが本日の箇所で 宣言なさったお言葉に基づいているのです。主イエスの十字架の死に よって与えられた罪の赦しを信じて生きる私たちは、今全能の父なる 神の右に座して私たちのために執り成して下さっている主イエスに支 えられ、そして将来、世の終わりに主イエスがもう一度来て下さり、 救いを完成して下さることを待ち望みつつ歩むことができるのです。

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