主日礼拝

新しい掟

「新しい掟」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: レビ記 第19章17-18節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章31-38節
・ 讃美歌: 2、475、393

新しい掟
 ヨハネによる福音書を読み進めていまして、主イエスが十字架につけられる直前に弟子たちと食卓を囲んだ最後の晩餐の箇所を読んでいます。本日与えられた聖書箇所の34節で、主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃっています。この掟は、「新しい掟」と言われているように、今まで語られていた掟とは異なります。ここで主イエスがお語りになることは、今まで、誰も語ったことの無いような、主イエスによってのみ語られるものです。信仰の核となるようなものと言って良いでしょう。「掟」と言うのは、私たちが生きていく上での指針となるものです。私たちは、信仰生活において、常に、自分の歩みの規範となるような掟を求めていると言うことが出来るでしょう。ですから、十字架を前にした主イエスの「新しい掟を与える」との言葉は、私たちを引きつけるものであると言って良いでしょう。主イエスが語る「新しい掟」とはどのようなものなのでしょうか。主イエスは、それを、一言で「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。この主イエスの言葉に、私たちは少なからずがっかりするのではないでしょうか。確かに、「互いに愛し合う」と言うことは重要なことです。誰でも、隣人愛に生きることが出来れば素晴らしいと思うでしょう。私たちが生きていく上で心がけるべきことの神髄がこの言葉に集約されているとさえ思うのです。しかし、一方で、そんなことは今更言われなくても分かっているとの思いがするのではないでしょうか。私たちは、人を愛し、親切にすると言うことを、倫理道徳として既に聞かされています。それは、この時の弟子たちだって同じです。本日お読みした旧約聖書、レビ記第19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との教えが語られています。弟子たちは、旧約聖書が語る、この教えを繰り返し聞いていたことでしょう。では一体、主イエスがお語りになる「互いに愛し合いなさい」と言う掟の、どこが新しいのでしょうか。私たちは、その新しさがどこにあるのかを見つめつつ、私たちの間で語り古されている「互いに愛し合いなさい」との掟を新しい掟として聞きたいと思います。

世を去り、栄光を受ける主イエス
 先ず、主イエスが、どのような状況の中で、この掟をお語りになったかを見てみたいと思います。31節には、次のようにあります。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる』」。ここで「ユダが出て行くと」とあるのは、丁度、直前の箇所で、主イエスがイスカリオテのユダの裏切りを予告し、ユダが、実際に、主イエスを祭司長や律法学者に引き渡すために、主イエスと弟子たちのもとを離れて行ったと言うことです。主イエスを十字架につけるための行動が弟子の手によって開始されたのです。つまり、主イエスは、今まさに、十字架と言う悲劇的な仕方で死ぬことになろうとしているのです。しかし、この出来事は、主イエスにとって、決して、悲しむべきことではありませんでした。主イエスは、「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃっています。ここで「人の子」とは、主イエスご自身のことです。主イエスは、弟子に裏切られ、十字架という重い刑罰で殺されると言う、人間的に見たら恥辱の極みでしかないような出来事が始まったことによって、ご自身が栄光を受けたと言っているのです。しかも「今や」と言われていることから、主イエスが、この特別な時を待っていたことが伺われます。ただご自身が栄光を受けたと言うのではありません。父なる神も又、主イエスによって栄光をお受けになったことが語られています。このことが意味しているのは、この十字架の出来事が、神の御業であると言うことです。神の一人子である、主イエスが、人間の罪の身代わりとなって死に、そのことによって人間の罪からの救いが実現しようとしている。それは、神様の大きな救いの御計画の実現であるのです。続く、32節では、神が「栄光をお与えになる」とあり、これから栄光が与えられることが語られていますが、これは、この後、復活と昇天によって主イエスに与えられる栄光のことが見つめられていると言うことが出来ます。つまり、十字架から復活、昇天へと至る、一連の救いの出来事によって栄光が現され、神様の救いの御支配が成し遂げられるのです。だからこそ、この時、主イエスは、ご自身と父なる神の栄光をお語りになったのです。それは、神の救いが世にはっきりと示される新しい時の到来です。この新しい時が到来したことによって語られるのが、新しい掟なのです。

十字架を前にした人間の裏切り
 ここで、もう一つ見つめたいことは、33節に記されていることです。そこには次のようにあります。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」。これまで、弟子たちは、主イエスと一緒に歩んできました。しかし、この十字架から先は、主イエスと共に歩むことは出来ないのです。主イエスは救いを成し遂げた後、天に昇られて、肉を取られた時と同じようには地上におられない。そのような意味で、栄光をお受けになった主イエスは、弟子たちと共におられなくなるのです。つまり、この掟は、主イエスが側におられない中で、主イエスに従って行く者たちに示される掟なのです。
 しかし、ここで、私たちは、主イエスが、弟子たちと共におられないと言う事実だけに注目すれば良いのではありません。ここから知らされることは、私たち人間は、神様の救いの御業に関わることが出来ないと言うことです。十字架は神様の御業であり、そうであれば、そこにおいて、人間が働く余地がないのです。事実、弟子たちは、誰も、十字架に向かう主イエスの後に従うことなく、主イエスを見放して、逃げ去ってしまったのです。どんな弟子たちも、後について行くことは出来ないのです。主イエスを引き渡すイスカリオテのユダだけのことではありません。本日の箇所のすぐ後には、ペトロの裏切りが予告されています。愛を語る掟を挟むようにして、弟子の裏切りが語られているのです。ここから分かることは、神さまの救いの御業において、私たち人間は、裏切ると言う姿勢をもってしか関わることが出来ないと言うことです。私たち人間が裏切ってしまうような愛の破れの背後で、神様が救いを成し遂げてくださると言って良いでしょう。もし、ここで弟子たちが、主イエスが赴く十字架に共に赴き、一緒に十字架の死を担ったと言うのであれば、十字架は、神様によって成し遂げられる救いの御業とはならないでしょう。聖書は、お一人で十字架に赴き、人間の救いを成し遂げてくださる主イエスの姿を記すのです。だからこそ、主イエスと神様の栄光のみが語られているのです。この救いの出来事は、神様の愛が示される出来事に他なりません。主イエスが人間の罪を担い十字架に赴くことで、神の愛に生きてくださったのです。

わたしがあなたがたを愛したように
 そのような主イエスによって示される神の愛の出来事を踏まえつつ語られるのが「互いに愛し合いなさい」と言う掟なのです。ここで注目しなければならないことは、主イエスが続けて、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっていることです。つまり、主イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言う時、抽象的に愛を教えようとしているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、ご自身が事実愛に生きて下さり、その具体的な愛と同じ愛をもって弟子たちが互いに愛し合うようにとおっしゃるのです。
 もちろん、十字架で示された愛は、主イエスのみが生きる神の愛です。では、この主イエスの愛を弟子たちが生きるとはどういうことなのでしょうか。それは本日お読みした箇所の直前の箇所に記されています。本日は、ヨハネによる福音書第13章の後半をお読みしましたが、この箇所は前半と密接に結びついており、13章全体から見る必要があるのです。13章の1-20節には、主イエスが、最後の晩餐の席で、弟子たちの足をお洗いになったことが記されています。足を洗うと言うのは奴隷の仕事です。主イエスは、自ら僕となって仕えることを通して愛をお示しになったのです。この出来事は、はっきりと、この後、主イエスが赴く十字架の出来事を指し示しています。主イエスが僕となって下さったと言うことは、神の一人子でありながら、十字架で罪を担って死んでくださったと言うことにこそ完全に示されているからです。つまり、主イエスは、この時、まだ、主イエスの十字架のことが分からない、弟子たちに向かって、足を洗うと言うことを通して、人々に仕える神の愛を教えておられたのです。しかも、ただ、神の愛を示すだけでなく、主イエスによって示される神の愛に、弟子たちが具体的に生かされるとはどのようなことなのかを「足を洗う」と言う姿を通してお示しになられたのです。主イエスは弟子たちの足をすべて洗い終わった後、12~15節で「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。これは、本日の互いに愛し合いなさいと言う掟と重なります。つまり、主イエスが、十字架で命を投げ出すことによって僕となり愛を示してくださった。その愛を受けた者は、互いに足を洗い合うように、隣人の罪を担い、赦し合いながら歩む者とされるのです。それは決して簡単なことではありません。自分のことを棚に上げて、他人の罪を裁こうとするのが私たちの常です。又、自分に対する隣人の罪を赦すことはなかなか出来ません。罪を赦す愛に生きると言うことは、私たちの力で成し遂げるのではないのです。ただ、キリストが自ら愛を示し、私たちを愛しつつ、語られる掟に聞く中で実現して行くのです。

神の愛と共に示される掟
 「わたしがあなたがたを愛したように」、つまり、キリストが示して下さった愛に基づいて、互いに愛し合う。ここに、主イエスの掟の新しさがあると言って良いでしょう。もし、主イエスが、ただ「互いに愛し合いなさい」とだけ語られたとするならば、それは、私たちが自分の内にある愛によって、隣人を愛さなければならないと言うことになるでしょう。愛の掟が、そのような自分の愛によって生きることを命じる掟だとするならば、その掟は、私たちが努力をして、自分自身の力で成し遂げなくてはならないものとなります。それを「戒めとしての掟」と言うことが出来ると思います。私たちは、もしかすると、いつもどこかで、この戒めとしての掟を探し求めて生きているのかもしれません。主イエスの御言葉も、それを努力して守って行くものとして聞きいてしまうことがあるように思います。そのような時、信仰生活も、自分が努力して主イエスに従って行くことによって、立派に成し遂げなくてはならないものとなります。戒めを守ることが救いを約束することであるかのような思いになるのです。しかし、そのように自分の行いによって救いを得ようとする歩みは、どこかで、自分に対する誇りを生みます。自分の栄光を求めようとするようになるのです。そこでは、掟によって、自分を誇り、隣人の罪を裁くような歩みが生まれるのです。主イエスが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃる時、そのような「戒めとしての掟」をお語りになっているのではありません。「互いに愛し合いなさい」という掟に、主イエスの、「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉が加わっていることによって、この掟は、主イエスによって愛された者が、その愛に応えつつ、その愛に生かされていくための指針と言うことになるのです。それは、自分の業によって救いを得ようとするための掟ではなく、主イエスによって愛され、主イエスによって赦された者として、その愛に生かされていく道を示す掟です。その掟によって歩みを導かれていく時、私たちは主イエスによって罪赦された者として、人々の罪を赦し、その罪を担って行く者とされて行くのです。私たちは、主イエスの愛が示されている十字架への道を見る時、自らが、主イエスを裏切る者でしかないと言う現実を知らされます。しかし、そのような、愛に生き得ない人間の現実の直中で、主イエスが愛に生きてくださったこと知らされる時に、その愛に促されて、そこで示される愛に生きる者とされていくのです。
 それ故、主イエスの掟の新しさとは、今まで聞いたことがないような教えと言う意味での新しさではありません。私たちの掟に対する概念を根本から覆し、私たちの生き方に根本的な変化をもたらすような、新しさを持った掟なのです。つまり、「戒めとしての掟」を求め、自分自身の業に生き、その限り、自らに栄光を帰そうとして歩む私たちに、真の神の救いの御業を示しつつ、その神の愛に応答して行く道を示す全く新しい掟なのです。そして、そのような新しい掟に生きる時にのみ、私たちは、互いに足を洗い合うような、お互いの罪を担いつつ歩む歩みが生まれていくのです。

ペトロの変化
 この掟が私たち人間にもたらす変化を弟子のペトロの姿の中に見出すことが出来るでしょう。36節でペトロは、主イエスの御言葉の意味が分からず、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いかけます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが、後でついて来ることになる」とおっしゃった主イエスに向かって、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」とまで言うのです。しかし、そのペトロに対して、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告なさったのです。そして、実際、この主イエスの予告通りに、ペトロは、主イエスが裁判を受けている最中、主イエスのことを否むのです。「あなたのためなら命を捨てます」と豪語するペトロは、まさに、戒めとしての掟を求め、自分の力で主イエスを愛し、主イエスについて行こうとしているペトロです。しかし、そのようなペトロの歩みが続いたのは、主イエスの十字架までです。ペトロは、十字架の主を見捨てて逃げてしまいます。主イエスの行く所について行くことが出来なかったのです。しかし、主イエスはここでペトロに「後でついて来ることになる」とおっしゃっています。これは、ペトロが後に復活の主と出会い伝道者として立てられ、その働きの中でローマの迫害によって殉教することを示しているとされています。実際、ペトロは、そのような歩みを辿るのです。しかし、それは、自分の業によって、主イエスに仕えた結果ではありません。主イエスの愛を知らされ、その愛に応答する新しい歩みを始めたことによる結果です。十字架と復活によって救いを成し遂げられた主イエスと出会い、自らの愛の破れと共に、自らを包む大きな神の愛を知らされた時、自分が主イエスのために死ねないどころか、主イエスが自分のために命を投げ出して下さっていることを知らされた時、ペトロはその愛に応える者とされたのです。そこでは、自らの力によって歩み、自分の栄光を求めるのではなく、主イエスの愛に促されつつ、自らを捧げる歩みが生まれていったのです。

キリストの弟子であることが知られる
 この時の弟子たちが、この後おかれることになる、主イエスが世を去ってしまい、そこについて行くことが出来ないと言う状況は、現代を生きる私たちが置かれている状況と共通しています。どちらも、肉を取って地上を歩む主イエスが共におられないのです。それ故、この主イエスの掟は、現代を生きるキリスト者に向かって語られていることでもあるのです。私たちは、主イエスの行かれた場所に行くことは出来ません。しかし、この世にあって、主イエスが語りかけて下さる掟によって、主イエスの愛を生きるのです。そのことによって、十字架に進まれた、主イエスの愛に倣うのです。そして、そのような歩みが生まれていく時に、私たちは、キリストを証しする者とされます。35節には、次のように記されています。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。「皆」と言われているのは、まだキリスト者とされていない人々のことです。そのような人々が、キリスト者がいることを知り、伝道が進んでいくのは、私たちの間でキリストの愛が生きられることによってなのです。もし、この愛が生きられていないのであれば、ただ戒めとしての掟によって、人々が、お互いに、自分の栄光を求めながら歩んでいたとしたら、更には、互いの罪を担うのではなく裁きあいながら歩んでいたとしたら、その群れがたとえ教会の看板を掲げて、そこに人々が集まっていても、伝道が進むことはないでしょう。私たちは、絶えず、主イエスのお語りになる「新しい掟」を聞かなくてはなりません。その掟によって互いに愛し合う時、今、地上におられない、主イエスの愛が、私たちを通して示されていくのです。戒めとしての掟を求め、自分の栄光を求めて歩んでいる私たちに、御言葉を通して掟が新しく語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。今日も、この御言葉から、互いに仕え合う新しい歩みを始めたいと思います。

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