主日礼拝

キリストの血を注がれて

「キリストの血を注がれて」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:出エジプト記 第24章3-8節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章1-2節
・ 讃美歌:58、449

信仰を励まし、支える手紙
 先月からペトロの手紙一を読み始めました。本日の聖書箇所は前回と同じ1章1-2節です。この箇所は手紙の挨拶ですが、単なる挨拶ではなく私たちの信仰の核心が見つめられています。ですから短い箇所ですが二回に亘って読むことにしました。先月は1節を中心に読み、本日は2節を中心に読んでいきます。とはいえ原文では1-2節は一つの文章であり、1節と2節の間に日本語の句点のような文章を区切る記号があるわけではありません。ですから、まず1節を振り返りつつ1-2節のつながりに目を向けていきたいと思います。
 先月お話ししたように、この手紙が書かれたのはローマ皇帝ドミティアヌスの時代です。彼はキリスト教徒を迫害しましたが、特にローマと小アジア(現在のトルコ)では激しい迫害が起こりました。1節の「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア」はローマの属州の名称であり、小アジアの大部分がこの五つの属州に含まれます。つまりこの手紙は、ドミティアヌスによる迫害が最も激しかった地域の一つである小アジアに点在するキリスト教会に宛てて書かれたのです。迫害による試練と困難の中にある小アジアの諸教会に連なる人たちの信仰を励まし、支えるために書かれた手紙なのです。

キリスト者とは何者なのか
 この手紙の著者とされる使徒ペトロは、どのように彼らの信仰を励まし支えたのでしょうか。迫害によって小アジアの諸教会に連なる人たちの信仰は揺れていたに違いありません。信仰が揺れるとは、自分が何者であるか分からなくなるということです。1節では、AさんからBさんへという手紙の形式に沿って、手紙の差出人と宛先が書かれていますが、そこでペトロは、小アジアの諸教会に連なる人たちが何者であるかを告げています。別の言い方をすれば彼らのアイデンティティを告げているのです。それが1節にある「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」です。ペトロはこの手紙の宛先を「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」とすることで、小アジアの諸教会に連なる人たちが何者であるかを、彼らのアイデンティティを明らかにしているのです。彼らだけではありません。ペトロが告げているのは私たちキリスト者のアイデンティティでもあります。私たちキリスト者とは何者なのか。それは、この世に散らされ仮住まいをして生きている者であり、選ばれた者なのです。ペトロが手紙の挨拶で小アジアの諸教会に連なる人たちのアイデンティティを告げたのは、試練によって信仰が揺さぶられる中にあって、彼らがまず想い起こすべきことは自分が何者であるかということだからです。私たちも同じです。彼らが異教の神々とその神々を信じる人たちに囲まれて生きたように、この日本において私たちも異教社会の中に散らされて生きています。その歩みの中で試練や困難に直面し、苦しみや痛みを味わうことによって信仰が揺さぶられ、私たちは自分が何者かを見失いかけます。そのようなとき、私たちが想い起こすべきなのは、自分が何者であるかにほかならないのです。
 ペトロはこの世に散らされ、この地上で仮住まいをして生きている人たちこそ「選ばれた人たち」であると言います。この「選ばれた人たち」が1節と2節を結びつけている言葉です。聖書協会共同訳では1節を受けて、2節の冒頭に「すなわち」とあります。つまり1節では、キリスト者は「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」であると語られ、2節では、その「選ばれた人たち」とは何者かが語られているのです。ですから1-2節を通して、キリスト者とは何者なのかが見つめられている。信仰が揺さぶられる試練や困難の中にあって私たちが想い起こすべきキリスト者のアイデンティティが見つめられている。そのように言うことができるのです。

選ばれたからこそ
 2節にはこのようにあります。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」。まず言われているのは、私たちは「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」選ばれた、ということです。「離散して仮住まいをしている」というのは、私たちキリスト者と人間社会の関係を言い表していますが、それに対して「選ばれた人たち」というのは、私たちと神の関係を言い表しています。この世の人たちから見るならば、「離散して仮住まいをしている」私たちキリスト者は、この地上で散らされ、この地上に故郷を持たない不利な立場にいる不安定な人たちです。しかし神の眼差しにおいては、私たちは「選ばれた人たち」なのです。間違えてはならないのは、キリスト者は神によって「選ばれたにもかかわらず」世にあって離散して仮住まいをしているのではない、ということです。「選ばれたにもかかわらず」ではなく、「選ばれたからこそ」世にあって離散して仮住まいをしているのです。異教社会の中に散らされ仮住まいをして生きる中で、「なぜ、こんな試練や困難に直面しなくてはならないのか」、「なぜ、こんな痛みや苦しみを味わわなければならないのか」と叫び、嘆き、呻きたくなることがあります。自分たちは神によって選ばれたはずなのに、「なぜ?」と思うのです。でも、そのように問うのは間違っています。神によって選ばれたはずなのに「なぜ?」ではなくて、神によって「選ばれたからこそ」私たちは世にあって試練や困難に直面し、痛みや苦しみを味わうのです。

神に知られている
 そうであるならば神によって選ばれないほうが良かった、ということなのでしょうか。新共同訳聖書では「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」と訳されていますが、この「あらかじめ立てられたご計画」は一つの言葉(単語)で、聖書協会共同訳では「予知」と訳されています。予め知ると書いて「予知」です。つまり「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」選ばれたとは、父なる神が私たちのことを予め知っていてくださった、ということにほかなりません。いつから神は私たちのことを知っていてくださったのでしょうか。生まれる前からです。生まれる前から私たちは神によって知られていたのです。旧約聖書エレミヤ書1章5節で主なる神はエレミヤにこのように言っています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」。主なる神は母の胎内に造られる前から私たちを知っていてくださり、母の胎から生まれる前に私たちを選んでいてくださり、そして異教社会にあって、主イエス・キリストの救いを証しする者として私たちを立ててくださったのです。確かに私たちは神によって選ばれたからこそ世にあって試練や困難に直面し、痛みや苦しみを味わいます。こんな痛みや苦しみは誰も分かってくれるはずがない、と思うことすらあるかもしません。しかし神はそのような私たちの痛みや苦しみをすべて知っていてくださいます。私たち自身が知っている以上に、神は私たちのことを知っていてくださるのです。私たちは自分では知ることができないことが多ければ多いほど、強く不安を感じ、恐れを覚えます。これからどうなるのだろうか、というのが私たちの根本にある不安と恐れです。しかし神は、私たちがこれからどうなるのかを知っていてくださいます。ただ知っていてくださるだけでなく、生まれる前から今に至るまで、そしてこれからも、神は私たちを導き、支え、守っていてくださるのです。神に知られ、神の御手の内に置かれ、神のご計画によって生かされている私たちは、地上の人生につきまとうあらゆる不安と恐れから解放されているのです。神によって選ばれているとは、生まれる前から死に至るまで、そして死を越えて、神によって知られていることです。ですから世にあって試練や困難に直面し、痛みや苦しみを味わうとき、独り子を十字架に架けてまで私たちを愛してくださっている神が、私たちを知っていてくださることに目を向けたいのです。このことにこそ大きな恵みがあり、慰めと平安があるからです。もちろんその神の選びは、神の一方的な恵みによるものです。私たちに選ばれるに値するものがあったからではなく、神が恵みによって私たちを生まれる前から選んでくださったのです。神によって「選ばれた人たち」とは、その選びを誇って生きる者ではありません。そうではなく、まったく救われるに値しない神に背いてばかりいる自分を、どういうわけか神が生まれる前から選んでくださった、その恵みにただひたすらに感謝して、その恵みにお応えして歩んでいく者なのです。

聖霊によって聖なる者
 また私たちは「“霊”によって聖なる者とされ」るために選ばれた、とも言われています。「“霊”によって」、つまり聖霊の働きによって私たちは「聖なる者」とされているのです。「聖なる者」とは、清く生きている人でも、いわゆる敬虔な人でもありません。本当に聖なる方である神が、「聖なる者」では到底あり得ない罪人である私たちを、キリストの十字架による罪の赦しによってご自分のものとしてくださり、「聖なる者」としてくださったのです。「聖なる」という言葉は、神のものとそうでないものを分ける言葉でもあります。私たちが「聖なる者」であるとは、私たちがこの世から神のものとして取り分けられ、区別されているということなのです。ペトロはここで「教会」という言葉を使っていません。しかし神のものとして取り分けられ、集められた新しい群れ、新しい共同体が教会なのです。

神のものとそうでないもの
 そのようにして立てられた教会は、聖なるものとそうでないもの、つまり神のものとそうでないものの区別を曖昧にすることはできません。曖昧にするならば、私たちが何者であるか、つまり私たちのアイデンティティも曖昧になってしまうからです。この世にあって散らされ、仮住まいをしている私たちにとって決して揺らぐことのない確かなことは、私たちがこの世から神のものとして取り分けられ、「聖なる者」とされていることにほかならないのです。しかしそのように神のものとそうでないものを区別することは、いわゆる差別とはまったく違います。私たちが神のものとされたのは、私たちが優れているからではありません。私たちの生まれや身分や地位や業績によるのではなく、神の一方的な恵みによって私たちは神のものとされました。だから私たちはそのことに感謝し、新しく神のものとされる人たちが起こされていくことに仕えていくのです。なぜなら神がこの世に教会を立ててくださったのは、神のものとされた私たちが内にこもるためではなく、神のものとされて生きる喜びを教会の外にいる方々に伝えていくためだからです。教会の使命が伝道であるとはそういうことです。苦しみと悲しみに満ちた世にあって、「ここに」本当の救いがあると伝えます。そのためには、「ここに」の「ここ」がはっきりしていなければなりません。「ここ」とは、神のものとされて生きることであり、主イエスによる救いを信じ受け入れ、神と共に生きることです。それゆえに教会は神のものとそうでないものを区別し、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを明らかにしていきます。そのことによって教会は、すべての人が救いに与り、神のものとされ、「聖なる者」とされて生きてほしいという神のみ心に仕えていくのです。

キリストに従う
 さらに私たちは「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれた」とも言われています。神によって私たちが選ばれたのは、私たちが主イエス・キリストに従い、主イエスの弟子として歩んでいくためです。異教社会に散らされ、仮住まいをして生きることそれ自体が、主イエスに従って生きることにほかなりません。その歩みにおいて直面する試練や困難において、味わう痛みや苦しみにおいて、私たちは主イエスの苦しみのほんの一端を担うのです。神によって選ばれたからこそ世にあって離散して仮住まいしているように、神によって選ばれたからこそ、私たちは主イエスの弟子として、世にあって主イエスの苦しみにほんの僅かでも与りつつ生きていくのです。その歩みは、しかめっ面をして苦しみに耐えるだけの歩みではありません。主イエスが共にいてくださる歩みであり、恵みによって与えられる喜びで満たされている歩みなのです。

キリストの血を注がれて
 続けて「キリストの血を注ぎかけていただく」と言われています。ここでは洗礼が見つめられていると思います。ペトロは「洗礼」という言葉を使わずに、しかし洗礼を「キリストの血を注ぎかけていただく」と言い表しているのです。私たちは洗礼において水を注がれ、聖霊を注がれます。しかしそれだけでなく「キリストの血を注がれる」と言われているのです。「血を注ぎかけられた」という言葉の背後には、旧約聖書出エジプト記24章があります。そこでは神とイスラエルの民との間で契約が結ばれたことが語られています。エジプトで奴隷であったイスラエルの民はモーセに導かれてエジプトを脱出しました。荒れ野を放浪しシナイ山に着いたイスラエルの民に、神は十戒を与えられ、彼らと契約を結ばれたのです。本日共にお読みした出エジプト記24章3節以下では、その契約が結ばれる場面が描かれています。モーセは献げ物としてささげた雄牛の血の半分を鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけます。そして十戒を中心とする「契約の書」をイスラエルの民に読んで聞かせました。それを聞いた彼らが「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と誓約すると、モーセは鉢に入れた血を取り、彼らに振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言したのです。このように神とイスラエルの民との間に契約が結ばれたとき、祭壇とイスラエルの民の両方に犠牲となった動物の血が注がれたのです。
 ペトロはこの出来事と重ね合わせて、神と私たちとの間に結ばれた契約、「新しい契約」を見つめています。イスラエルの民と契約を結んだときは、動物の血が流されました。しかし私たちと「新しい契約」を結ぶとき流されたのは、神の独り子であるキリストの血です。キリストが十字架に架けられ、血を流して死んでくださったことによって私たちの罪が赦され、神と私たちの間に「新しい契約」が打ち立てられたのです。十字架のキリストの血によって私たちは神のものとされ、キリストと結ばれて新しい命を与えられました。だから洗礼において水が注がれ、聖霊が注がれるだけでなく、キリストの血も注がれる、と言われているのです。もちろんそれは目に見えることではありません。しかしキリストが十字架で血を流して死んでくださったからこそ、洗礼において私たちはキリストと共に古い自分に死に、キリストと共に新しい命に生き始めることができるのです。私たちはキリストの血を注ぎかけられ、神のもの、聖なる者」とされ、キリストと共に生きる新しい命を与えられているのです。
 この世にあって散らされて生きているとしても、私たちはキリストの血を注がれていることにおいて一つとされています。コロナ禍にあって、また異教社会にあって、私たちは一つの群れ、一つのキリストの体なる教会として歩んでいくことを脅かされています。そのとき私たちがなによりも想い起こすべきは、私たちの仲間意識とか良い思い出とかではなく、私たちが「キリストの血を注がれた」ということです。仲間意識も良い思い出も大切に違いありません。しかしそれらは移ろいやすく、揺らぎやすいものです。私たちが一つとされていることの確かさは、私たちの一致の確かさは、私たち自身の考えや経験にあるのではなく、主イエス・キリストが血を流してまで、私たちを救ってくださったことにあるのです。私たちキリスト者とは何者なのか。私たちはキリストの血を注がれた者です。私たちのアイデンティティは、キリストの血を注ぎかけられ、神のものとされたことにこそあるのです。

キリストのために血を注ぐ
 ローマ帝国の迫害の中で、「キリストの血を注がれる」ことは洗礼を意味すると同時に、「キリストのために血を注ぐ」ことをも意味しました。洗礼を受けることは殉教の死と隣り合わせだったのです。今の時代、キリストを信じ洗礼を受けたために殉教することはないと思います。しかし「キリストの血を注がれた」者として「キリストのために血を注ぐ」ことは、私たちと関係ないことではありません。それは、キリストのために血を注ぐ覚悟がなければ洗礼を受けられないとか、洗礼を受けたからにはその覚悟を持って生きなければならないということではありません。そのような私たちの覚悟は、なにか困難があれば簡単に砕かれてしまうものです。「キリストのために血を注ぐ」とは私たちの覚悟ではなく、私たちがすでに「キリストのために血を注いで」生きていることを見つめているのです。異教社会に散らされ仮住まいをして生きている中で、私たちが色々な痛みや苦しみを味わうことこそが、「キリストのために血を注ぐ」ことなのです。大袈裟に思えるかもしれません。殉教の死とは比べられないほど小さいことのように思えるかもしれません。しかし「キリストのために血を注ぐ」ことに大きいとか小さいとかはありません。それぞれが、それぞれの痛みや苦しみを抱えて、「キリストのために血を注いで」歩んでいます。キリストの血を注がれて、神のものとされ、「聖なる者」とされ、キリストと共に生きる者とされていることに感謝して、私たちは「キリストのために血を注いで」歩んでいるのです。その歩みには、確かに苦しみがあります。しかし苦しみだけではなく、その苦しみに遥かにまさる恵みが与えられていくのです。

恵みと平和がますます豊かに
 だからペトロは「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と祈ります。「恵みと平和が与えられるように」ではなく「ますます豊かに与えられるように」と祈るのです。この世にあって離散して仮住まいをしている私たちの歩みに、恵みと平和がますます豊かに与えられていきます。生まれる前から神に選ばれ、神に知られ、聖霊によって聖なる者とされ、主イエス・キリストに従う者とされ、キリストの血を注がれて神のものとされた私たちの歩みに、恵みと平和がますます豊かに与えられていくのです。

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