主日礼拝

キリストと同じ心構えで

説 教 「キリストと同じ心構えで」 副牧師 川嶋 章弘

旧 約 エゼキエル書第36章25-32節
新 約 ペトロの手紙一第4章1-6節

周囲の人たちとの関係による苦難
 ペトロの手紙一を読み進めてきて、本日から第4章に入ります。これまでもお話ししてきたように、この手紙は著者とされる使徒ペトロが小アジアの諸教会に向けて書いた手紙です。小アジアの諸教会に連なる人たちの多くは、異邦人からキリスト者になった人たちでした。彼ら彼女たちは、かつてはローマ社会に順応して生活し、ローマ社会の価値観をあたりまえのこととして受け入れて生きていました。ですから周囲の人たちから見れば、かつては同じ価値観を共有していた人たちが、「キリスト者」と呼ばれる人たちのグループに入ってしまった、ということになるのです。小アジアのキリスト者の苦難は、一つには確かにローマ帝国による激しい迫害によるものです。しかしそれだけでなく、彼ら彼女たちを取り囲む社会と、その社会に暮らしている周囲の人たちとの関係によるものもあったのです。この手紙の3章には、夫がキリスト者でない、キリスト者の妻への勧めがあり、また逆に妻がキリスト者でない、キリスト者の夫への勧めがありました。妻と夫という最も近しい関係において、一方がキリスト者で、もう一方がキリスト者でないことがあったのです。別の言い方をすれば、自分自身はすでにかつて属していた社会から離れ、その価値観からも自由にされてキリスト者として生きているけれど、自分の大切な人は、かつて自分が属していた社会になお属し、その社会の価値観の下で生きている、ということがあったのです。夫婦の間だけでなく、親子の間でも、友人との間でも、職場の同僚との間でも、同じことが起こっていたに違いありません。

 キリスト者がかつて属していた社会から離れるとは、決して世捨て人になることではありません。2章13節で「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と言われていたように、ペトロはキリスト者が社会における責任を果たすことを求めています。小アジアのキリスト者は、かつて属していた社会の中にあって、社会における責任を果たし、そこに暮らしている人たちと関わりを持ちつつ、しかし根本的にはその社会にもはや属していない、その社会の価値観から自由にされ、神のものとされた者として生きていたのです。だからこそ彼ら彼女たちは、周囲の人たちとの関係において、多くの苦難や軋轢を味わわずにはいられなかったのです。

日本のキリスト者も同じ状況に置かれている
 小アジアのキリスト者が置かれているこの状況は、日本のキリスト者が置かれている状況とよく似ています。私たちもかつて属していた社会の中にあって、社会における責任を果たし、日々そこに暮らしている人たちと関わりを持ちつつ、しかし根本的にはその社会にはもはや属していないキリスト者として、その社会の価値観から自由にされたキリスト者として生きています。その中で、私たちも周囲の人たちとの関係において、苦しみや悲しみを味わいます。苦しみ、悲しみとまではいかないとしても、戸惑いやもどかしさや葛藤を経験するのです。周囲の人たちからすれば、私たちは、かつては現代の日本の社会に順応して生活していた人たちであり、その価値観をあたりまえのこととして受け入れて生きていた人たちです。かつては同じ価値観を共有して、一緒に喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しんだりしていた人たちがキリスト者となり、教会に連なってしまった。周囲の人たちに、私たちに対するそのような思いがあったとしても不思議ではありません。しかも周囲の人たちというのは、赤の他人ではありません。かつても今も、私たちが日々関わりを持っている人たち、身近な人たちなのです。家族であり、友人であり、同僚なのです。私たちは身近な人たちとの関わりの中で、自分の信仰をなかなか理解してもらえなかったり、誤解されてしまったりすることを通して、苦しみや悲しみを、戸惑いやもどかしさや葛藤を経験するのです。

信仰の動揺
 そのような経験をする中で、私たちの信仰は動揺します。かつての生き方に戻りそうになり、かつての価値観に引っ張られそうになります。かつての生き方のほうが楽なのではないかという思いに駆られます。社会における責任を果たしつつ、しかし根本的には社会に属さず、その価値観から離れて、神のものとされたキリスト者として生き、物ごとを判断するのは楽なことではありません。だからそんなことは、もうやめたほうが良いのではないか、もうあきらめたほうが良いのではないか、という思いに駆られるのです。

キリストと同じ心構えで
 しかしペトロは1節で、苦難の中で信仰が動揺しているすべてのキリスト者に、つまり私たちに、「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(1節)と言います。「キリストと同じ心構えで武装しなさい」と言うのです。「心構え」というのは意訳で、直訳すれば「想い」です。「あなたがたはキリストと同じ想いで武装せよ」と言われているのです。昔の口語訳聖書では「心構え」ではなく「覚悟」と訳されていました。これも意訳ですが、「心構え」にしても「覚悟」にしても味わい深い訳だと思います。キリストと同じ想いを持つことは、キリストと同じ心構え、同じ覚悟を持つことなのです。キリストと同じ想いを持ち、同じ心構え、同じ覚悟を持って武装する。なぜでしょうか。それは、私たちキリスト者の歩みには闘いがあるからです。武装しなかったら、かつての生き方に戻りそうになり、かつての価値観に引っ張られそうになり、社会における責任を果たしつつキリスト者として判断するのをあきらめてしまいそうになるからです。だから私たちは武装する必要がある。武器や武具によってではなく、キリストと同じ想いで、同じ心構え、同じ覚悟で武装するのです。

 私たちが戻っていきそうになる、私たちのかつての生き方とはどのような生き方であったのでしょうか。2節で「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」と言われています。つまりかつて私たちは、人間の欲望に従って生きていたのです。それが今や、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになった、と言われています。私たちがキリストと同じ心構えで武装することによって、そのように生きられるのです。それなしには、私たちは神の御心に従って生きることはできません。再び、人間の欲望に従って生きるようになってしまう。「肉における残りの生涯」をかつての生き方や価値観に戻って生きてしまうのです。

肉における残りの生涯
 この「肉における残りの生涯」とは、地上における残りの生涯を意味します。しかしここで言われている「残りの生涯」とは、いわゆる余生とは違います。そうではなく洗礼を受けた後の「残りの生涯」を意味しているのです。ですから「残りの生涯」というより、洗礼を受けてからの「これからの生涯」が見つめられている、と言えるかもしれません。洗礼を受けたとき私たちはある心構えを持っていたのではないでしょうか。これからは、これまでの生き方や価値観から離れ、神を礼拝しつつ生きていこうという心構えを持って洗礼を受けたのです。しかしそのような私たちの心構えは、しばしば苦難の中で崩れてしまいます。礼拝を守れなくなることがあり、教会から離れてしまうこともあります。ですから私たちは洗礼を受けたときだけでなく、キリスト者として歩んでいく中で、繰り返し「肉における残りの生涯」をどう生きるのか、「これからの生涯」をどう生きるのかを問われ続けているのです。

 そのとき私たちは、これからの生涯を自分の思いに従うのではなく神の御心に従って生きる、と答えられるのでしょうか。自分の将来がまだ決まっていないタイミングであれば、「ちょっと待ってください」、と言いたくなるかもしれません。自己実現が重んじられている社会にあって、自分の思いに従って、自分の思い通りに生きてみたいと思うのです。かといっていわゆる余生を考えるようなタイミングなら、「御心に従って生きます」、と答えられるかというと、そうとは限りません。余生をできるだけ自分のために使うことが重んじられている社会にあって、余生ぐらいは自分の思い通りに生きたい、と思うのです。要するに人生のどのタイミングであっても、私たちはこれからの生涯を神の御心に従って生きる、と答えることを躊躇ってしまうのです。洗礼を受けたときは、これから神の御心に従って生きていこうと心構えをしたはずなのに、キリスト者として歩んでいく中で、自分の思いに従って生きたいという思いにとらわれてしまいます。自分自身が、自分の人生の主人である余地を残しておきたいという思いにとらわれてしまうのです。私たちはキリスト者として歩んでいく中で、かつての生き方に、かつての価値観に戻りそうになる。神の御心に従うよりも自分の欲望に従う人生に戻りそうになるのです。

もうそれで十分です
 しかしペトロは言います。そんな人生は「もう十分だ」と言うのです。3節です。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」。ここで「好色、情欲…」と挙げられている中で、どれが自分に当てはまり、どれが自分に当てはまらないかを考えることが大切なのではありません。ここで見つめられているのは、かつて私たちが自分の思いのままに、自分の欲望のままに、自分勝手に生きていたということです。偶像礼拝にふけるというのも、ほかの神々を礼拝していたということよりも、人間が考え出した神を拝んでいたということです。人間が考え出した神こそ、その社会の価値観の表れであり、その社会で重んじられていることです。それはお金を得ることであったり、地位や名誉を得ることであったり、自己実現であったりします。いずれにしてもかつて私たちはそれらを自分の神とし、自分の欲望のために生きていたのです。しかしそんな人生は、もう十分なのです。ペトロは、「そんな人生は、間違っている」と否定するのではなく、「もう十分だ」と言います。「もう十分だ」というのは、珍しい語り方ではないでしょうか。それだけにペトロの想いが込もっていると思います。「あなたがたは知っているはずではないか。自分の欲望に従って、自分自身を自分の人生の主人として生きるのはもう十分だ、と知っているはずではないか」、と私たちに訴えかけているのです。ですからどのタイミングなら、これからの生涯を自分の思いではなく神の御心に従って生きられるのかと考えるのは、本当はおかしなことです。私たちキリスト者は、自分の思いに従って生きるのは「もう十分だ」と知っているからです。神は、自分の思いに従い、神に背き続け、滅びるしかなかった私たちを、まことに悲惨な状況にあった私たちを、独り子を十字架に架けてまで救い出してくださいました。だから私たちはかつての悲惨な状況はもう十分だ、もう懲り懲りだと知っているのです。知らされているのです。そうであれば私たちはこれからの生涯を神の御心に従って生きるよう導かれていきます。御心に従って生きなくてはいけないからではありません。御心に従って生きるのが立派だからでもありません。御心に従って生きていきたいからです。御心に従って生きるところに、たとえ苦難の中にあっても、本当の慰めと希望が与えられるからです。

肯定的な反応も否定的な反応も
 かつての生き方から離れ、かつての価値観から自由にされて、神の御心に従って生きるとき、私たちキリスト者の生き方は周囲の人たちに影響を与えていきます。4節に「あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」と言われています。「加わる」と訳されている言葉は、元々「共に走る」という意味の言葉です。周囲の人たちは、かつては一緒に走っていた人たちがキリスト者になって一緒に走らなくなったので、不審に思い、そしるのです。かつては同じ価値観を共有して、一緒に喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しんだりしていたのに、そうではなくなったから不審に思い、悪口を言うのです。4節では、キリスト者の生き方が、周囲の人たちに否定的な反応を引き起こすことが語られています。しかしこの手紙全体を見れば、肯定的な反応を引き起こすことも語られていました。2章12節では「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」と言われていましたし、3章1節でも「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」と言われていました。キリスト者の生き方は、かつて一緒に走っていた人たちに、同じ価値観で生きていた人たちに、肯定的な反応を引き起こすことも、否定的な反応を引き起こすこともあるのです。しかしそれは、周囲の人たちが、キリスト者の生き方に反発する人と、受け入れる人のどちらかに分けられるということではありません。「不審に思い」と訳されている言葉は、「驚く」という意味の言葉ですが、同時に「もてなす」という意味の言葉でもあります。私たちキリスト者の生き方に対して、周囲の人たちは驚いて反発することがあると同時に、そのように生きるキリスト者を迎え入れ、もてなすこともあるのです。不審に思い、そしる人が、いずれ神をあがめるようになるかもしれない。信仰に導かれるようになるかもしれない。キリスト者の生き方に反発している人が、その生き方に関心を持ってくれるようになるかもしれないのです。

キリスト者として生きるのは虚しいことではない
 それにしても、キリスト者として生きるとき、自分の周囲の人たちから、自分の身近な人たちから反発されたり、否定されたり、あるいは相手にされなかったりすることは大きな苦しみです。キリスト者として生きることは苦しいことばかり、虚しいことばかりという思いに駆られることもあるかもしれません。しかし5節はそうではないことを見つめています。続く6節も、色々な解釈があり難しい箇所ですが、私は基本的には5節と同じことを見つめていると思います。5、6節が見つめていること。それは、キリスト者として生きるのは虚しいことではない、ということです。5節では、「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」と言われていて、キリスト者を迫害した人たちや、その生き方を不審に思い、そしる人たちの世の終わりの裁きが語られています。しかしそれは、このような人たちは裁かれる、ということを告げているというより、地上の生涯において苦しみを味わっているキリスト者が世の終わりに生きている者と死んだ者が裁かれることを通して報われる、という慰めを告げているのです。地上の生涯においてキリスト者として生きるゆえに、謂れのない苦しみを受けたとしても、世の終わりに神の御前で公正に扱われることが約束されているのです。同じように6節でも、福音を告げ知らされてキリスト者として生き、苦しみを受け、地上の生涯を終えるとしても、それは決して虚しいことではないことが見つめられています。キリスト者として苦しみを受けて生涯を終えるのは、人間の見方からすれば、苦しみばかりの虚しい人生のように、地上の生涯において裁かれて死んだように思えるかもしれません。しかし神との関係においては、決してそうではない。洗礼を受け、復活のキリストに結ばれて生きているキリスト者は、地上の生涯が苦しみに満ちていたとしても、苦しみに満ちたまま生涯を終えたとしても、その死を超えて、世の終わりに復活と永遠の命に与るからです。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは…神との関係で、霊において生きるようになるため」とは、福音を告げ知らされてキリスト者として生き、しかし救いの完成を待たずに死んだ者も、世の終わりに復活させられ、永遠の命を生きるようになる、ということなのです。私たちの慰めと希望はここにあります。この慰めと希望があるからこそ、キリスト者のゆえに苦しみの多い地上の生涯を生きるとしても、キリスト者として生きるのは決して虚しいことではないのです。

キリストが苦しみを受けられたから
 改めて1節に目を向けるとこのようにありました。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」。「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」とは、私たちが地上の生涯で苦しんだ分だけ、私たちの罪とのかかわりが絶たれるというようなことではありません。そうではなくキリストの十字架の苦しみと死によって、私たちが根本的に罪とのかかわりを絶たれたから、私たちキリスト者は、地上の生涯で苦しみを受ける者とされている、ということです。私たちが地上の生涯で受ける苦しみは、キリストの苦しみと関わりのない苦しみではないし、キリストの苦しみから離れた苦しみでもありません。キリストは十字架において、私たちがキリスト者であるゆえに味わうあらゆる苦しみをお受けになってくださったからです。私たちのどんな苦しみや悲しみも、どんな戸惑いやもどかしさや葛藤も、このキリストの十字架の苦しみと一つとされています。私たちは苦しみを受けるとき、このキリストの苦しみを共に担っているのです。担わせていただいているのです。
 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と言われています。キリストの十字架の苦しみと死によって私たちが罪から解放されているから、私たちはキリストと同じ想いを持ち、同じ心構え、同じ覚悟を持って武装することができます。私たちは自分の力で、自分の頑張りや努力によってキリストと同じ心構えを持つことができるのではありません。いくら自分の力でキリストと同じ心構えを持とうとしても、そのような心構えは苦難の中でたちまち崩れてしまいます。キリストの十字架による救いこそが、キリストの十字架による救いだけが、私たちにキリストと同じ心構えを与えます。キリストの十字架による救いだけが、かつての生き方は「もう十分だ」、と私たちに告げ知らせます。キリストが十字架で苦しみを受けて死んでくださったから、私たちはキリストと同じ心構えで、かつての生き方から離れ、かつての価値観から自由になって生きることができるのです。私たちは周囲の人たちとの関わりの中で、身近な人たちとの関わりの中で、苦しみや悲しみ、戸惑いやもどかしさや葛藤を経験します。しかしそのような苦難の中にあっても、キリストと同じ心構えで、キリストと共に苦しんで生きていく私たちに、世の終わりの復活と永遠の命の希望が与えられているのです。この希望のゆえにキリスト者として生きていくのは、決して虚しいことではない。だから私たちは、これからの生涯を神に感謝して、神の御心に喜んで従って生きていくのです。

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