夕礼拝

ダビデとゴリアト

「ダビデとゴリアト」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第17章19-47節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第11章32-34節
・ 讃美歌:120、454

ゴリアトの挑戦
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書、サムエル記上からみ言葉に聞いています。本日はその第17章、よく知られた、ダビデとゴリアトの一騎打ちの場面です。本当なら17章全体を読みたいのですが、余りにも長いのでその一部を朗読しました。
 時はイスラエルの最初の王サウルの治世です。当時のイスラエルにとって最大の敵はペリシテ人でした。「パレスチナ」という地名の元となったペリシテ人との間に何度も戦いが繰り返されていたのです。このたびもペリシテ軍が攻め込んで来て、エラの谷を挟んで両軍が睨み合いました。この時のイスラエル軍の状況は良くありませんでした。これまでのところに語られていたように、主なる神のみ心は既にサウル王から離れており、悪霊が彼を苦しめるようになっていました。しかし形の上ではサウルがまだ王ですから、イスラエルの人々は、主なる神に見捨てられ、悪霊に苦しめられている王の下で敵と戦わなければならなかったのです。それでは士気が上がるわけはありません。そんな中、ペリシテ軍の陣地から一人の兵士が進み出て、一騎打ちで戦の勝敗を決しようと言い出しました。11節には「サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた」とあります。それは、その兵士が尋常ではない男だったからです。彼はゴリアトといって、4?7節に語られているその姿は、背丈は六アンマ半、これは約3メートルです。青銅五千シェケルの重さの鎧を着ている、これは約57キロです。槍の穂先が鉄六百シェケル、これは約6.8キロです。こんなとてつもない大男が一騎打ちを挑んで来たのです。16節によれば、ゴリアトは四十日間、朝な夕なやって来て呼びかけました。24節によれば、イスラエルの兵士たちはその都度後退し、甚だしく恐れたのです。毎日こんな挑戦を受け、誰もそれに応じることができないのですから、この戦はもう負けと決まったようなものです。イスラエル軍にはそういう諦め、絶望感が支配していたのです。

ダビデ登場
 そこにダビデが登場します。ダビデは既に16章に登場しており、神の選びによってサムエルから新しい王として油を注がれたこと、そして悪霊に苦しめられるようになったサウルの前で竪琴を弾いて、その心を慰めるためにサウルの宮廷に召し抱えられたことが語られていました。ところが17章の、特に55節以下を読むと、サウルはダビデのことをこの日まで知らなかったような書き方になっています。つまり16章と17章の間には矛盾があるのです。それは、ダビデの若い頃について、特にサウルとの関係については、いくつかの異なった物語があったということでしょう。サムエル記の著者は、いろいろな物語を素材として用いながら、サウルからダビデへの王権の交代を語ったのです。そのために矛盾が残ってしまっているのです。
 ですのでこの17章においてはダビデはまだ、父の羊の群れの世話をしている一人の少年です。兄たちはサウル王のもとでペリシテとの戦いに加わっていましたが、ダビデはまだ戦いに出る年齢ではなかったのです。そのダビデにある日父エッサイが、戦場にいる兄たちへのお使いを命じました。父の命令によってダビデはペリシテ軍との戦場に行くことになったのです。彼がイスラエルの陣営に着いて兄たちの安否を確認しているところに、いつものようにゴリアトがやって来て、一騎打ちの相手を求めたのです。サウル王は、ゴリアトの挑戦を受けて立ち、彼を倒した者には、莫大な賞金と、王女との結婚を約束していましたが、それでも敢えてゴリアトに立ち向かおうとする者はいませんでした。

主が守ってくださるに違いない
 この様子を見たダビデは、「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」と言いました。この言葉には、ゴリアトの挑戦など大したことではない、すぐにでも打ち破ることができる、という響きがあります。それを聞いた長男エリアブは腹を立てました。「若造のくせに生意気なことを言うんじゃない。お前に戦いのことなど何が分かるか」ということです。この兄の気持ちは分かります。自分たちがさんざん頭を悩ませ、それでもどうしようもない、という苦しい状況にある時に、何も知らない少年がやって来て、「こんなの大したことではない」などと言ったら誰でも腹を立てます。しかしダビデが言った「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」ということは、サウルを始めとして、イスラエルの軍勢の誰もが見失ってしまっていた大切なことでした。イスラエルは生ける神の民なのです。生ける神が彼らと共におられるのです。それに対してペリシテ人は「無割礼」の民です。それは神の民とされていない、神の守りの下にいない人々、ということです。その者たちが、不遜にも生ける神の戦列であるイスラエルに挑戦してきている、何を恐れることがあるだろうか、とダビデは言ったのです。
 ダビデはサウル王の前でも同じように言いました。32節です。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」。サウルの兵士たちの誰もが恐れてしようとしなかったことを、まだ戦に出る年にもなっていない少年がすると言ったのです。サウルは「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」と言いました。「お前には無理だ」ということです。しかしダビデはさらにこう言いました。34節以下です。「『僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は主なる神の戦列に挑戦したのですから。』ダビデはさらに言った。『獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません』」。

兵士ではなく羊飼いとして
 ダビデとゴリアトの戦いの場面は、絵本や紙芝居などにもなっています。それらにおいてはしばしば、ダビデは小学生ぐらいの子どもとして描かれています。「少年ダビデ」のイメージを私たちはそのように捉えてしまうことが多いのです。しかし、今読んだダビデの言葉からしたら、そういうイメージを修正しなければならないでしょう。ダビデは羊の群れの世話をしていました。それは決して子どものお手伝いのようなことではなかったのです。羊飼いの仕事は、群れを牧草や水のところに連れて行くだけではありません。獅子や熊が羊をねらって襲って来る。そういう野獣と戦い、羊を守ることが羊飼いの仕事なのです。ダビデはそういう働きをしており、猛獣と渡り合って倒すことができる力を持っていたのです。だからこそサウル王も、彼をゴリアトとの一騎打ちに送り出したのでしょう。そうでなければこれは、サウルが年端もいかない子どもを危険な一騎打ちに送ったという非常識な、無責任極まりない話になってしまいます。
 サウルはダビデを送り出すに当たって、彼に自分の戦いの装備を着せました。兜と鎧と剣です。これはダビデに対する最大限の好意と援助の気持ちの表れです。しかしダビデはそれらを使いこなすことができません。そんなものを身に着けたのは生まれて初めてだったのです。彼は「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と言ってそれらを脱ぎ去り、いつも羊の群れを飼う時に使っている杖と、石投げ紐のみを持ってゴリアトに向かって生きました。このことは、ダビデはサウルほどの体格がなかったとか、武具の扱いに慣れていなかった、ということではなくて、もっと象徴的な意味があります。ダビデは、兵士としてではなく羊飼いとしてゴリアトに向かって行ったのです。彼が手にした武器は兵士の武具ではなくて、羊の群れを猛獣から守るための羊飼いの武器だったのです。言い換えれば彼は、人間の力、戦力を頼みとするのではなくて、獅子の手、熊の手から彼を守って下さる主なる神のみを頼みとして、ゴリアトに向かって行ったのです。

主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない
 ゴリアトはダビデを見て「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか」と言いました。こんな若造が、鎧もつけず剣も槍も持たずに杖一本で向かって来るとは、俺のことを犬だとでも思っているのか、そんな奴は一捻りだ、ということです。それに対してダビデが語った言葉がこの物語のクライマックスです。45節です。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」。剣や槍などの武器をもって向かって来るゴリアトに対して、ダビデはイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって立ち向かうのです。この戦いは主のもの、主なる神の戦いです。主がゴリアトをダビデに引き渡して下さる、つまりゴリアトに打ち勝たせて下さるのです。それによって全地はイスラエルに神がいますことを認めるようになり、主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを知るのです。
 一騎打ちはとてもあっけなく終わりました。ダビデが石投げ紐で投げた石がゴリアトの額に当たり、ゴリアトは気絶して倒れます。その隙にダビデはゴリアトの剣を抜いて止めを刺し、首をはねたのです。それを見たペリシテ人は恐れをなして逃げ、イスラエルは追撃して大勝利を得ました。しかしこの物語が、一騎打ちの様子や戦闘の勝利を語ろうとしているのではないことは明らかでしょう。先ほどのダビデの言葉こそが、この物語の中心なのです。

ここに集まったすべての者
 そのダビデの言葉の中で、47節前半に注目したいと思います。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう」という言葉です。「ここに集まったすべての者」というのは、戦場にいる兵士たちを指す言葉としては不自然です。以前の口語訳聖書ではここは「この全会衆」となっていました。これは、イスラエルの民の集まり、会衆を意味する言葉なのです。つまり「ここに集まったすべての者」とは、この戦場に集まっている敵と味方の兵士たちのことではなくて、イスラエルの民を指しているのです。旧約聖書において、イスラエルの民の集まり、会衆を表す言葉には二種類あります。「エーダー」という言葉と「カーハール」という言葉です。この二つはかなりまぜこぜに使われていて、そんなにはっきりとした意味の違いはないとも言えるのですが、「カーハール」は「呼ぶ」という言葉から来ており、そこには神によって呼ばれ、集められた群れ、というニュアンスがあります。後にこの二つの言葉がギリシア語に訳された時に、「エーダー」の方は主に「シュナゴーゲー」と訳されました。それが「シナゴーグ」つまりユダヤ人たちの会堂を指す言葉となったのです。それに対して「カーハール」の方は主に「エクレーシア」と訳されました。それはギリシア語においても「呼ぶ」から来ている言葉で、「呼び集められた群れ」という意味です。この「エクレーシア」が「教会」と訳されているのです。本日の47節で「ここに集まったすべての者」と訳されているのは「カーハール」です。つまり、主に呼び集められた群れであるイスラエルの民です。その人々こそが「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」ことを知るのです。それを知ることは、自分たちが主なる神によって呼び集められた神の民であることを知ることと一つです。自分たちを呼び集め、ご自分の民として下さった主が、人間の力によってではなく、神ご自身の力によって救いを与えて下さるのです。神の民、カーハールとして生きるとは、そのことを信じて生きることです。この時イスラエルの人々は、この信仰を見失っており、そのために恐れに支配されて、誰もゴリアトの挑戦に応じることができずにいたのです。ダビデの言葉と、ゴリアトに対する勝利は、イスラエルの民に、自分たちが「カーハール(神に呼び集められた民)」であることを思い出させ、新たに自覚させたのです。
 私たちは今、新しいカーハールとして、神が新たに呼び集めて下さったエクレーシア、主の教会の一員として生きています。この話はその私たちにも大切なことを語りかけています。私たちが今ここに集まり、礼拝を守っているのは、主なる神が私たちを多くの人々の中から選び出し、呼び集めて下さったからです。私たちを呼び集めてご自分の民として下さった神は、剣や槍によってではなく、つまり人間の力によってではなく、神ご自身の力によって私たちを救い、守り、導いて下さるのです。

主イエスの十字架と復活によって
 ダビデが神の力を信じてゴリアトに立ち向かい、倒したことによってイスラエルの民は、自分たちが神に呼び集められた神の民、カーハールであることを知らされました。私たちはどのようにして、自分たちが神の民とされていることを知らされるのでしょうか。ゴリアトを打ち破ったダビデのような人が私たちの中にいるのでしょうか。新約聖書は、このダビデの子孫として、主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを語っています。主イエスこそ、私たちにとってのダビデです。私たちは主イエスによって、神が私たちを呼び集めてご自分の民として下さっていること、そしてご自身の力で私たちを救って下さることを知らされるのです。しかしそのことはダビデの場合とはかなり違った仕方で実現しました。主イエスはダビデのように、大男ゴリアトを倒すという輝かしい勝利をあげたのではありません。むしろ主イエスは、捕えられ、十字架につけられて殺されたのです。当時のユダヤ人の指導者たちやローマ帝国の支配者たちをゴリアトにたとえるならば、主イエスはそのゴリアトに押しつぶされて殺されたのです。しかしこの主イエスの十字架の死によって、神は私たちの罪を赦して下さり、私たちをご自分の民として下さったのです。そして父なる神は主イエスを三日目に復活させて下さいました。神の恵みが死の力に勝利して、主イエスに新しい命、永遠の命をもたらしたのです。主イエスの勝利はそのようにして得られました。それはダビデのゴリアトへの勝利とは違って、敗北を通しての勝利、十字架の苦しみと死を経ての勝利でした。私たちはこの主イエスによって、神の救いにあずかり、神に呼び集められた神の民として生かされているのです。

苦しみと死の中でも
 この主イエスによって私たちに与えられている救いの恵みは、イスラエルの民に与えられた救いの恵みより大きなものです。イスラエルの民は、ダビデのゴリアトへの勝利によって神の民としての救いを与えられました。そこでは勝利こそが神の救いの恵みの印だったのです。しかし主イエス・キリストによる救いは、主イエスの十字架の死と復活によって与えれています。人間の目から見たら敗北でしかない十字架の死によって、神の恵みが勝利し、救いが与えられたのです。この救いの恵みにあずかっている私たちは、自分たちが神の民、カーハールとされていることの印を、勝利の中だけに見ることから解放されています。苦しみや悲しみに打ち勝つことができたら、それが神の救いの印であって、それに負けてしまったらそこには神の救いはない、ということではないのです。むしろそのような苦しみ悲しみを私たちのために引き受け、十字架にかかって死んで下さった主イエスが共にいて下さるのです。そこが、旧約聖書の時代の神の民であるイスラエルの民と、新しい神の民である私たちの違いです。私たちのこの世の人生には、いろいろな苦しみや悲しみがあります。それらが恐ろしいゴリアトのように私たちに襲いかかってきます。私たちは自分の力でそのゴリアトに立ち向かうことはできません。ひとたまりもなくやられてしまうだけです。そのゴリアトの最後決定的なものが死であると言えるでしょう。死こそ、私たちがどうしてもかなわない、私たちを打ち滅ぼす力です。私たちの救い主イエス・キリストはこの死の力に勝利なさいました。でもそれは十字架の苦しみと死を通してでした。死というゴリアトに打ち倒されてしまう苦しみを主イエスも受けたのです。その主イエスを、父なる神が復活させ、勝利を与えて下さったのです。私たちはこの主イエスによる救いにあずかっています。それゆえに私たちは、苦しみや死に臨んでも、その中で主なる神の民、主に選ばれ、集められて救いにあずかるカーハールであることができるのです。私たちが死というゴリアトに打ち倒され、敗北するその時にも、「あなたは私が選び、呼び集めた私の民だ。私があなたを救う」という主のみ声が響くのです。主はそのようにして私たちの羊飼いであって下さいます。それゆえに私たちは、詩編23編の4節にあるように、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と歌うことができるのです。

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