夕礼拝

祭司の務め

「祭司の務め」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第9章1―24節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第2章9―10節
・ 讃美歌 : 134、475

礼拝の本質
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書からみ言葉に聞いていますが、先月からレビ記に入っています。先月は、その第1章から第7章に語られている、神様への献げ物についての教えを読みました。神様への献げ物に五つの種類があることがそこに語られていました。第一は「焼き尽くす献げ物」、第二は「穀物の献げ物」、第三は「和解の献げ物」、第四は「贖罪の献げ物」、第五は「賠償の献げ物」です。自分の持っている家畜ないし穀物の中から、傷のない、良いものを、これらの献げ物として神様にお献げすることが、イスラエルの人々の礼拝だったのです。しかしその礼拝は、自分の財産の一部を神様に献げて、それによって神様に自分の守り神になってもらおうとか、自分の願いを叶えてもらおうということではありません。献げ物は、自分自身を神様にお献げすることのしるしなのです。第一の献げ物である「焼き尽くす献げ物」がそのことを明確に表しています。これは、献げる人が動物の頭に手を置くことによって、自分自身の身代わりとして、しかも全てを焼き尽くして献げるのです。他の献げ物は一部が祭司たちのものとなりますが、「焼き尽くす献げ物」だけは、祭司もそれにあずかることはできないのです。そのように自分の全てを神様にお献げすることを表すこの「焼き尽くす献げ物」に、礼拝の本質が示されています。私たちは、自分自身の全てを神様にお献げするのでなければ、神様を本当に礼拝することはできないのです。自分自身の殆どを、自分のために、自分の計画や欲望や、あるいは悩みや苦しみのために使い尽くして、残りのほんのひとかけらをもって神様のみ前に出ることができるなどと思ってはならないのです。そのような残り物によって拝み、礼拝することのできる神は、人間が勝手に作り出した、神ならぬ神、偶像です。偶像礼拝というのは、目に見える像を拝むことだけではありません。私たちが、自分自身をお献げするのでなく、そのほんの一部を献げてそれで神様に自分の願いを聞いてもらおうとする時、その礼拝はまぎれもなく偶像礼拝となるのです。
 礼拝のこのような本質を、新約聖書も教えています。先月のこのレビ記を読んだ礼拝において共に読まれた新約聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙の第12章1節でした。そこには、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と語られていました。自分自身を神様に献げ物として献げることこそが、旧約においても新約においても教えられている礼拝の本質なのです。

祭司の任職
 先月はこのように、私たちの礼拝の本質について、7章までのところから聞きました。本日は第9章をご一緒に読みます。9章は冒頭に「八日目に」とあることから分かるように、その前の8章からの続きです。1~5章には先ほど申しましたように五種類の献げ物のことが語られており、次の6章と7章は、それらの献げ物を献げるにあたっての「施行(しこう)細則」でした。ですから1~7章は献げ物についての教え、つまり礼拝についての教えです。第8章からは新しいことが語られています。その最初の所、8章1~4節を読んでみます。「主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに、祭服、聖別の油、贖罪の献げ物の雄牛一頭、雄羊二匹と酵母を入れないパンを入れた籠を携えて来させなさい。また共同体全員を臨在の幕屋の入り口に召集しなさい。モーセが主の命じられたとおりに行うと、共同体は臨在の幕屋の入り口に集まった」。このように人々が集められて、何が始まったのでしょうか。5~13節「モーセは共同体全員に向かって、これは主の命じられたことであると言った。モーセはアロンとその子らを進み出させて、彼らを水で清めた。そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。続いてモーセは聖別の油を幕屋とその中のすべてのものに注いで清め、その油の一部を祭壇に七度振りまき、祭壇とすべての祭具、洗盤およびその台に注ぎかけて聖別した。次に、聖別の油の一部をアロンの頭に注ぎ、彼を聖別し、続いて主の命じられたとおり、モーセはアロンの子らを進み出させ、彼らに長い服を着せ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻いた」。始まったのは、アロンとその子たちを清め、聖別して、彼らに祭司としての祭服を着せる、ということです。そして14節以下で、動物の犠牲が献げられていきます。「贖罪の献げ物の雄牛」「焼き尽くす献げ物の雄羊」そして22節には「モーセがもう一匹の雄羊を任職の献げ物として引いて来させると 、アロンとその子らはその頭に手を置いた」とあります。このことから分かるように、この一連の儀式は、アロンとその子らが、民の中から聖別されて、祭司として任職されるための儀式なのです。つまり第7章までの所には、イスラエルの民がなすべき献げ物、つまり礼拝のことが語られていましたが、第8章からは、その礼拝を司る祭司のことを語っているのです。8章33節にこうあります。「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない。任職式は七日を要するからである」。このようにして、七日間かけて、アロンとその子らが、イスラエルの民の礼拝を司る祭司として任職されているのです。8章はその任職式のことを語っており、9章は、その七日間の任職式を経て「八日目に」と語り始めているのです。七日間の任職式が終わり、いよいよこれから、アロンとその子らの、祭司としての働きが始まる、その初仕事のことが第9章に語られているのです。

祭司の務め
 祭司としての仕事とは、民が持って来た動物などの献げ物を神様に献げることです。それによって民の礼拝を導くのです。アロンとその子らが、そういう祭司としての務めを始めるための指示が、2節以下に語られています。その7節にこうあります。「祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである」。ここでモーセがアロンに指示しているのは二つのことです。一つは、自分自身の贖罪、罪の贖いのための献げ物を献げることであり、もう一つは、民の贖罪、罪の贖いのための献げ物を献げることです。この二つのことが、アロンとその子らが祭司としての務めを始めるために必要なのです。この二つの内、民の礼拝を導く祭司としての務めの中心に関わるのは第二のこと、民の献げ物を献げて、彼らの罪を贖う儀式を行うことです。神様の民とされたとはいえ、イスラエルの民は神様に背き逆らう罪の中にいますから、そのままでは神様のみ前に出て礼拝をすることができません。罪を赦していただかなければならないのです。祭司は、その民の罪の贖いのために動物の犠牲を献げるのです。その動物が、民のための贖罪の献げ物として献げられることによって、民の罪が赦されて、礼拝が可能になるのです。15節に、アロンが民のための「贖罪の献げ物」として雄山羊を献げたとあります。その後の16節以下には、民が持って来た「焼き尽くす献げ物」「穀物の献げ物」「和解の献げ物」が献げられたことが語られています。贖罪の儀式がなされたことによって、これらの献げ物を献げる礼拝が可能となったのです。このように、民の罪の贖いの儀式を行い、その上で民が神様を礼拝するために持って来るいろいろな献げ物を献げていくことが祭司の務めなのです。このようにして祭司は、神様と民との間に立って、民の礼拝を成り立たせるための執り成しをするのです。レビ記に語られているイスラエルの民の礼拝は、この祭司の執り成しによる礼拝です。「レビ記」という書名は聖書の原文にあったわけではありませんが、「レビ」は、アロンの属しているイスラエルの民の一つの部族の名前です。このレビ族が、イスラエルにおいて、祭司としての務めを与えられたのです。「レビ記」は、祭司であるレビ人の執り成しによる礼拝について語っている書、ということになります。

自分自身の贖罪が必要
 アロンとその子らが、祭司として民の罪を贖う儀式を行い、民の献げ物を献げて礼拝を司ることができたのは、彼らが他の諸部族の人々より特別信仰が深く、清く正しい生活をしていて神様の覚えがめでたかったからではありません。先ほどの、モーセがアロンに指示した第一のことがそれを示しています。つまりアロンは先ず、自分自身の贖罪、罪の贖いのための献げ物を献げなければならなかったのです。この第一のことは、彼らが祭司としての務めを始めるために必要な準備でした。つまり彼らが祭司として礼拝を司るためには、先ず自分自身のために、「贖罪の献げ物」を献げなければならないのです。自分の罪の贖いを済ませてからでなければ、民の罪の贖いのための働きをすることはできないのです。先ほどの8章の任職の儀式においても、彼らが聖別されて祭司となるために、手を置かれることによって彼らの身代わりとなった動物が犠牲として献げられました。それによって彼らは祭司として立てられたのです。その彼らが初仕事をするに際して、再び、自分自身の贖いのための犠牲を献げなければならない、と9章に語られているのです。まことに念入りなことです。このことによって示されているのは、アロンを初めとする、祭司となったレビ人たちが、他の部族の民と比べて特に清い者だったわけではないということです。彼らもまた神様の前で罪人であり、罪の贖いを受けなければ神様のみ前に出て礼拝をすることができない者なのです。いやむしろ、祭司となる彼らは、一般の人々より以上に念入りに、贖いを受けなければならないのです。人間が祭司として立てられ、礼拝を司る者となる時には、そういうことが必要なのです。誰か特に信仰の深い、清く正しい、神様の覚えがめでたい人がいて、その人が祭司となって人々の罪の贖いの儀式を行う、ということではないのです。

祝福
 このようにして、自分自身もまた罪の赦し、贖いによって立てられた祭司の執り成しによって、イスラエルの民は神様に献げ物を献げて礼拝をしました。献げ物が献げられた後、アロンは手を上げて民を祝福した、と22節にあります。アロンはどのような言葉で民を祝福したのでしょうか。その言葉が、レビ記の次の民数記の第6章22節以下に語られていますので、読んでみます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。これが「アロンの祝福」と呼ばれている祝福の言葉です。私たちの礼拝においては、このアロンの祝福とコリントの信徒への手紙二の13章13節とを組み合わせたものを、礼拝の最後の「祝福派遣」において告げています。礼拝の最後に神様の祝福が告げられる、という礼拝の伝統は、このレビ記における、祭司が司る礼拝から始まったのです。

主の栄光が現れる
 23節には「主の栄光が民全員に現れた」とあります。主なる神様が、ご自分の栄光を民全員に現して下さったのです。4節の終わりの「今日、主はあなたたちに顕現される」という宣言が、また6節後半の「主の栄光があなたたちに現れるためなのである」という言葉がこのことによって実現したのです。礼拝の最終的な目的がここに示されています。主なる神様がご自身を現して下さり、民全員が主の栄光を体験する、それが礼拝の最終的目的なのです。私たちの礼拝においてもそれは同じです。礼拝は、私たちが何となく清らかな気持ちになり、慰めや平安を与えられるためになされるのではありません。主なる神様との出会いが起り、主の栄光を私たちが体験するために礼拝はあるのです。しかし民はどのようにして主の栄光を体験したのでしょうか。24節には「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした」とあります。このことによってこそ民は、主の栄光を体験したのでしょう。この炎は、人間を焼き殺す恐ろしい炎ではありません。祭壇の上に並べられた献げ物を、人間が火を付ける前に神様の栄光の炎が焼き尽くしたのです。それは、彼らの献げ物を神様が喜んで受け入れて下さった、ということです。つまり彼らはこのことによって、自分たちの礼拝が神様に受け入れられたことを体験したのです。その体験によって彼らは神様の栄光を見たのです。そして24節後半には、「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」とあります。自分自身をお献げして神様を心から礼拝していく中で、神様がその礼拝を受け入れて下さり、ご自分の栄光を現し、示して下さる、そういう体験を与えられる時に、私たちは喜びの声をあげ、喜びに満たされて神様のみ前にひれ伏すのです。

私たちのための祭司―イエス・キリスト
 祭司の執り成しによってイスラエルの民は、主の栄光を見て喜びに溢れる礼拝を献げることができました。レビ記9章は祭司の執り成しによるこのような礼拝の始まりを語っているのです。この礼拝と、今私たちが守っている教会の礼拝とはどのようにつながっているのでしょうか。どこが同じでありどこが違うのでしょうか。はっきりと違っているのは、私たちの礼拝には祭司はいないということです。正確に言えば、私たちの礼拝は、人間が祭司として執り成しをすることによって成り立つ礼拝ではないのです。牧師や司式者は祭司ではありません。しかしそれは、神様と私たちの間を執り成してくれる祭司が必要ないということではありません。私たちは、イスラエルの民と同じように罪ある人間です。そのままでは神様のみ前に出て礼拝をすることなどできません。罪の赦し、贖罪が必要なのです。その私たちの贖罪のために、一人の祭司が与えられました。それが主イエス・キリストです。主イエスこそ、神様が私たちに与えて下さったまことの祭司です。この祭司は、アロンとその子らのように、先ず自分の罪の贖いのために犠牲をささげなければならないような方ではありません。そのことを、新約聖書、ヘブライ人への手紙の第7章26、27節が語っています。そこを読んでみます。「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」。ご自身を私たちのためのいけにえとしてただ一度ささげて下さったまことの大祭司である主イエス・キリストによって、私たちは、罪を赦されて、神様のみ前に出て礼拝をすることができるのです。
 そして主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦された私たちは、自分の全てを神様にお献げすることができます。全てを、ということは、人に見せても恥ずかしくない、見栄えのよい、多少なりとも誇ることができる部分だけではなくて、様々な問題をかかえ、悩み苦しみをかかえ、憎しみや怒り、嫉妬や恨みなどのどろどろとした罪にまみれている自分の全てを、ということです。そういうありのままの本当の自分、美しく取り繕うことのない、いやそんなことは出来ない、どうしようもない自分の全てを、私たちは神様にお献げすることができるのです。とても神様におささげすることのできるような代物ではない、醜く汚れた自分です。しかし神様は、そのような私たちを、主イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖罪のゆえに、喜んで受け入れて下さるのです。私たちの礼拝を受け入れ、罪の赦しの恵みを与え、私たちにも主の栄光を現して下さるのです。そこに与えられる礼拝の喜び、祝福は、レビ記の礼拝においても私たちの礼拝においても同じです。いや、神様の独り子である主イエス・キリストがまことの祭司として執り成して下さり、十字架の死による罪の赦しと、復活による永遠の命の約束という栄光を示して下さるのですから、私たちは旧約の民以上に大きな喜びの声をあげ、彼ら以上の喜びに満たされて神様のみ前にひれ伏すことができるのです。

私たちも祭司とされる
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、ペトロの手紙一の第2章9、10節には、「祭司の務め」についてもう一つの大事なことが語られています。そこをもう一度読んでみます。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」。「あなたがた」とは私たち教会に連なる信仰者のことです。その私たちは、10節にあるように、かつては神の民でなく、憐れみを受けていなかった者でしたが、今は、神の民とされ、憐れみを受けています。主イエス・キリストによる救いにあずかることによって信仰者はそのように新しくされているのです。その新しさが9節では、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と言い表されています。それは、私たち自身が祭司とされている、ということです。まことの祭司である主イエス・キリストによって罪を赦され、喜びをもって神様を礼拝する者とされた私たちは、私たち自身が祭司として立てられ、遣わされるのです。信仰者は一人一人が皆、祭司の務めへと、つまり神様と人々との間を執り成し、人々が神様を礼拝して生きることができるために仕える者として立てられているのです。それは勿論、ただ一人のまことの祭司であられる主イエス・キリストのみ業の下でのことです。私たちが主イエスと関係なく、神様と人との間に立つことなどできるわけはありません。ですから私たちの祭司としての務めは、9節後半にあるように、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝える」ということによって、つまり私たちが主イエス・キリストのみ業を宣べ伝えていくことによって果されていきます。このような祭司としての務めが信仰者一人一人に皆与えられている、それが、宗教改革の原理の一つである「万人祭司」ということです。私たちのまことの祭司であられる主イエス・キリストは、私たち一人一人にも祭司の務めを与えて、この礼拝からそれぞれの生活へと遣わして下さるのです。主イエスの救いにあずかった私たちは、人々を礼拝へと招く伝道の業を通して、祭司としての務めを果していくのです。

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