夕礼拝

権威ある者として

「権威ある者として」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第62編1―13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第7章24-29節
・ 讃美歌 : 7、361

岩の上、砂の上
 本日はマタイによる福音書第7章24節から29節の御言葉を共にお読みしたいと思います。マタイによる福音書の「山上の説教」を読み進めて来ました。本日はその最後の箇所となります。山上の説教はどのような言葉によって締めくくられているのでしょうか。本日のところで主イエスは喩え話を語っておられます。24節「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と始まります。家とその土台という喩えです。家を建てる時には、その土台をしっかりと据えることが大事です。外に現れている部分がどんなに立派でも、土台をしっかりとしたものとすることができるかが、その家の本当の価値を決めると言えるでしょう。ここで主イエスは「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(24節)と「砂の上に家を建てた愚かな人」(26節)という人を対比して語ります。岩と砂とは、しっかりとした土台ともろい土台ということを表しています。また、そこから読み取れるもう1つのことは、岩の上に家を建てるよりも砂の上に建てる方がずっと簡単であろうということです。岩の上に家を建てるのは大変なことです。岩を平らにするのも、杭を打つのもの大変です。砂の上に家を建てるのであれば、それは簡単です。ですから、ここで言われていることは土台を何にするかということ、また家を建てるのに苦労をして、時間をかけてするのか、それとも安易な、楽な道を選ぶのかということであるとも言えます。しっかりとした土台の上に家を建てるには苦労と時間が必要なのです。その反対に簡単に、安易に家を建てようとするのであれば、脆い土台の上に家を建てることになるのです。そのようにして建てられた家とは、見かけが立派であっても砂の上に建てられたものなのです。

岩を土台とする
 家を建てるとは、主イエスの語られた喩え話でありますので、ここで主イエスが語ろうとしておられることは私たちの人生、生き方についてのことです。ここでは自分の人生をどのように築いていくのか、どう生きていくのか、その基盤、土台をどこに置くのかということが問われているのです。主イエスは言われます。24、25節「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」人生をしっかりとした岩の上に築いていく者は賢い者である、と言われます。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。」とは人生の雨風、様々な苦しみが襲ってきても、土台がしっかりしていれば倒されてしまうことはないのです。しかし、26節の「砂の上に家を建てた愚かな人」つまり、砂という脆い土台の上に人生を築いていると、何もないときは良いかもしれないが、一旦雨風が起こってくると、それに耐えることができず、倒れてしまうのです。そうならないために、私たちは自分の人生、生き方をしっかりとした岩の上に築いていかなければなりません。それは簡単な、楽なことではありません。苦労が伴い、時間がかかるのです。苦労を伴い、時間をかけて努力をしていく、私たちは「賢い人」となり、しっかりとした人生を歩んで生けると理解してしまっているのです。しかし、それは本当でしょうか。私たちは苦労を重ねて努力を重ねて、上手くいくこともあります。しかし、そう上手くはいかないこともあります。むしろ、そのような方が多いのではないでしょうか。本当により良い人生を築くことができるのでしょうか。苦労をして、時間をかけることによって、必ずしっかりとした土台の上に人生を築くことが出来るのでしょうか。

主イエスのお言葉
 人生の土台となるべき岩とは何であるのでしょうか。そしてその岩の上に自分の人生を築くとはどういうことでしょうか。私たちは色々なことを考えることができるでしょう。ある人にとっては一流の学校を出て、一流の企業に勤めることでしょう。または、自分の好きなこと、やりたいことをすることこそ人生を本当に充実させる土台であると考えることもあるでしょう。何であるにせよ、私たちはそれぞれ、様々なものを自分の人生の土台として生きていこうとしているのです。そのような私たちに対して主イエスはここで、どのような岩、どのような土台を示そうとしておられるのでしょうか。
 もう一度主イエスのお言葉に聞きたいと思います。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」また、26節では「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」とあります。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことこそ、あなたがたが土台とするべき岩なのだということです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」と言う言葉は一息で読まれるべき言葉であります。聞くことと、行うことを分けることは出来ません。主イエスのお言葉を聞いてはいるがまだ行えないというのではなくて、行っていないのであれば聞いてもいないということです。主イエスのお言葉を本当には信じていないということになります。主イエスの語られてきた「これらの言葉」とはこれまで語られてきた山上の説教の全体を指します。山上の説教において主イエスは多くのことを語られてきました。その中でも大事な言葉は「あなたがたの天の父」という言葉です。この言葉は繰り返し語られております。主イエスは神様の独り子です。主イエスは御自分の父である神様を「あなたがたの天の父」と呼んでくださったのです。「わたしの父はあなたがたの父でもある、神はあなたがたの父となり、あなたがたを子として愛して下さっているのだ」と宣言して下さっているのです。山上の説教において主イエスが教えておられることは、天の父なる神様の下で、その子どもとして、神様の父としての愛を受けて生きることなのです。父である神様は子どもである私たちを養い、守り、導いて下さいます。その理由は、私たちが何か神様に喜ばれることをしたからではありません。私たちが神様を熱心に求めて、神様がそれに応えて下さるということでもないのです。父なる神様は私たちがどんな者であろうとも、父として愛して下さるのです。私たちは神様に対して何か喜ばれることをしたのでもありません。むしろ、私たちは神様に喜ばれるどころか、神様を悲しませる歩みしかできません。けれども、父なる神様が私たちを養い、導いて下さるのです。その根拠は私たちの側には全くないのです。父なる神様の一方的な愛によって私たちを導いて下さるのです。神様の前で罪人でしかない私たちであります。神様は神様の愛を与えられるには相応しくない私たちの父となって下さるのです。神様は私たちが求めるより先に、私たちに必要なものを私たち以上にご存知であります。そして、それを必要な時に、必要な分だけ、最も相応しい形で与えて下さるのです。私たちが自分で、自分の力で人生を支えているのではありません。自分の何か持っているもの、それも僅かな小さなものを土台として、それによって人生を歩んでいるのではありません。そのようなことは出来ません。私たちは自分が何を持っているか、何をすることができるのか、そのような自分の中にあるものを土台として生きようとしております。そのような私たちに対して、この教えは神様の天の父としての愛が既にあなたを支えている、あなたの土台となっていると、宣言をしているのです。そして、そこにこそ人生の本当の土台があるのだということを教えて下さっているのです。

山上の説教において
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」とは山上の説教が教えている主イエスの教えを受け止め、この教えに従って、天の父なる神様の子どもとして生きることです。私たちを本当に愛して下さり、支えていて下さる方の子どもとして生きるということです。そこでは、私たちは自分の中に自分を支える土台を持たなくて良いのです。そのことによって、私たちは本当に自由な者となります。人の目を気にして、人に自分をよく見せようとする偽善からの解放もあります。父なる神様が私たちに必ず良いものを下さるという希望を与えられます。この土台、自由、希望の中で私たちは生きるのです。主イエスの言われる「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とはこのように父なる神様が「天の父」であるということを信じるということです。そして、そのような者は「皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」とあります。主イエスの言葉を聞いて行う者は、賢い人に似ているとあります。ここで「賢い」と訳されている言葉は思いが深い、見るべきものをきちんと見ている、という意味が含まれております。見通しが利くということです。「賢い人」に似ている、とは口語訳聖書では「賢い人に比べることができよう。」となっております。ここは未来形の動詞で述べられています。つまり、そのような賢い人と比べられる時が来るであろう、という意味になるのです。今ここで、わたしの言葉を聞いて行うのか、あるいは聞いても行わないのか、主イエスの言葉を信じて生きるのか、信じないままで生きるのか、この二つの生き方がどんな風に違うのかはまだ、明らかにならないのです。どちらも同じようにしか見えないかもしれません。行っていることは殆ど同じように見えるかもしれません。岩の上に家を建てるような賢い業であったのか、または砂の上に家を建てるような愚かなわざであったのか、明らかになるのはこれから先のことなのであります。25節には「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」とあります。雨が降り、川があふれ、風が吹き、その家を襲ってくるということが語られております。これは私たちの歩む日々の苦難、今味わっている試練を意味することであります。しかし、それだけではありません。

すべてを押し流すもの
 私たちの人生の最大の苦しみ、試練とは死です。死というものは、他の様々な苦しみとは違って、私たちの人生をまさにその根底から全て押し流してしまうようなものです。死に直面する時、自分の中にどんな土台、財産、拠り所を持っていてもそれは虚しいことが明らかになります。その土台そのものを押し流してしまう大洪水とは死を意味するのです。私たちの人生というのは、結局この死という大洪水によって押し流され、消えうせてしまうものだと言えます。私たちがこの人生の中で見出す土台は、結局生きている間だけのもので、死の力の前ではそれは無力であります。しかし主イエスがここで、土台として示している岩は、生きている間だけの、死は考えに入れない,限られた範囲のみにおける土台なのではありません。「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」の「似ている」という言葉は未来形が用いられています。その未来形、将来を表す言葉は、この世の終りの、神様による最後の審判を意識しているのです。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる」というのは、この世の人生における苦しみのみのことのみではありません。最後の審判における神様の裁きをも示しているのです。そのことは、13節以下の、山上の説教の結びの部分に共通していることです。13、14節の、「狭い門と広い門」の教えにおいても、「滅びに通じる門と命に通じる門」という言い方がなされていました。命と滅びは、世の終りの神様の裁きにおいて確定することです。その裁きが視野に入れられているのです。15節以下の「偽預言者」についての教えにおいても、19節に、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とありました。この火は、最後の審判における神様の裁きの火です。また21節以下においても、「主よ、主よ」と言うだけで、「わたしの天の父の御心を行わない者」は、「かの日」つまり最後の審判の日に、主イエスから「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまうと語られていました。山上の説教はそのしめくくりにおいて、世の終りの裁きを見つめているのです。そうであるならば、「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってきても倒れない」、それは、世の終りの裁きにも耐える、そこにおいても滅ぼされることなく、命に至ることができる、ということです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」は、そういう土台の上に人生を築くことができるのだと言われているのです。ですからこの土台は、肉体の死においても失われてしまうことがない、そこにおいてもなお私たちを支え、世の終りの裁きの時まで支え続けてくれる土台です。そういう土台は、私たちが自分の中に、自分のものとして持っていることはできません。その自分そのものが失われていくのが死なのですから、私たちが自分の中に持つことができる土台は、生きている間だけのものであり、死に打ち勝つことはできないのです。私たちの外にある、天の父なる神様の愛だけが、死においても私たちを支える土台です。天の父なる神様は、その愛によって、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。そして主イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。このことによって、神様は私たちの罪を赦し、私たちの父となって下さり、私たちを子として下さったのです。そして神様は主イエスを、十字架の死から復活させて下さいました。死の力に対する神様の恵みの勝利がそこにあるのです。主イエスによって、天の父なる神様の愛を人生の土台として与えられて生きる者は、その父としての愛が、死の力にも打ち勝って新しい命を与えて下さることを信じて生きることができるのです。神様の、天の父としての恵みは、私たちの人生を支える土台であるだけでなく、死においても私たちを支え続け、終りの日の裁きにおいても、私たちをしっかりと立たせ、命に至らせて下さるのです。そのような土台こそが、人生の本当の土台です。死において私たちを支え得ないものは、生きている間だって本当の支えにはならないのです。

終末を見据えて
 私たちの信仰は死を真正面から見つめる信仰です。それは、死においても私たちを確かに支えて下さる天の父なる神様の恵みという岩を土台としているからできることです。この岩は、私たちの中にはありません。私たちが何かを努力して、そういう確固たる土台を自分の中に作り上げることができるようなものではないのです。この岩とは、主イエス・キリストです。主イエスを遣わして下さった父なる神様の愛です。主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、父なる神様がその主イエスを復活させて下さった、その恵みのみ業です。この岩を土台として与えられているのです。

主イエスの権威
 そして、28節にこうあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」それは「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」と山上の説教が締めくくられております。主イエスの教えがなぜ、権威があったのでしょうか。それは主イエスの語り方、威力と言うことではありません。主イエスは、神の独り子としての権威を持って語られました。誰よりも神を知り、神の御心を父なる神と独り子という関係において知ることが出来るお方なのですマタイによる福音書第11章27節にこうあります。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」主イエスの権威は神の独り子の権威です。天の父を誰よりも知っております。主イエスの権威は、まさに神の権威そのものなのです。ある人がこのように説明をしました。「御子は、御父の御心を告げ、これを聞く者たちを御父と結びつけ、それによって、同時に、その人々に御父の御心を行う責任を負わせたのである。」人々は、主イエスの権威ある教えに驚いたのです。天の父の独り子である主イエスが、その死をもって人々を救われたのです。主イエス・キリストは神の御前で罪人でしかない私たちに救いを与えるために、十字架の死をもって救いの御業をなさったのです。山上の説教はそのような救い主御子イエス・キリストの言葉であり、教えであったのです。

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