創立記念

自分を無にして

「自分を無にして」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第139編1-10節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章6-11節  
・ 讃美歌:60,351,470、67,77

指路教会はどうして生まれた?
 今日の礼拝は、私たちの横浜指路教会のお誕生をお祝いする礼拝です。この教会は、今から139年前の1874年、明治7年に生まれました。今年で139歳になるのです。
 指路教会はどうして生まれたのでしょうか。そのことを考えるために欠かすことができないのはヘボンさんという人です。ヘボンさんは今から154年前の1859年に日本に来ました。日本の国はそれまで長く、鎖国といって、外国の人を受け入れませんでしたが、この年に初めて横浜をはじめとするいくつかの港が開かれて、外国人が来ることができるようになった、その最初の年に、ヘボンさんは日本に、この横浜に来たのです。ヘボンさんはお医者さんでしたが、日本に来たのは、病気の人を治療することなどを通して、日本の人たちにイエス様のことを伝えるためでした。ヘボンさんが来た頃、日本ではイエス様を信じる信仰、キリスト教は禁止されていて、おおっぴらに信じることは出来ませんでした。日本人で、イエス様を信じていることがわかったら殺されてしまうかもしれなかったのです。そういう日本に、キリスト教を伝えるためにヘボンさんは来たのです。その働きが15年目に実を結びました。ヘボンさんの下で英語を学んでいた人たちが洗礼を受けて、イエス様を信じる人になったのです。今日も二人の人がこの礼拝で洗礼を受けて、イエス様を信じ従っていく人、クリスチャンになります。139年前にも、ヘボンさんの下で勉強していた人たちが洗礼を受けて、その人たちを中心にして、この指路教会が生まれたのです。

イエス様がこの世に来て下さったから
 ですから指路教会はヘボンさんのおかげで生まれたと言えるのですが、じゃあそのヘボンさんはどうしてイエス様を信じるようになったのだろうか、と考えることができます。ヘボンさんがイエス様を信じるようになったアメリカの教会は「シロ・チャーチ(教会)」と呼ばれていたそうです。その名前を取って、それに「指」という字と「路」という字を当てて指路教会という名前になったのです。アメリカの「シロ」教会があったから日本にこの指路教会が生まれたわけです。じゃあそのアメリカの「シロ」教会はどうして生まれたのだろうか、そういうふうにどんどん昔にさかのぼっていくことができます。そうやって考えていくと、指路教会はどうして生まれたのか、ということの一番根本的な答えは、イエス様がこの世に生まれて下さったからだ、ということになります。およそ二千年前にイエス様がこの世に来て下さったから、この世にイエス様を信じる群れである教会が生まれ、その教会が世界中に広まっていって、日本にも伝えられ、そして139年前にこの指路教会が生まれたのです。指路教会は日本では一番古い教会の一つですが、世界全体で見れば、教会は二千年の歴史を持っています。139年というのは、その中ではまだまだ新しい方です。教会の誕生を考える時に私たちは、指路教会という一つの教会のことだけではなくて、イエス様がこの世に来て下さったことによってこの世に教会が誕生した、その一番大元のことをも見つめていきたいのです。

神が本気で人間になった
 イエス様がこの世に来て下さったことが、今日の新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙第2章の6節からのところにこう語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。イエス様は、「神の身分」であられ、「神と等しい者」であられたのです。つまりイエス様はただの人間ではなくて、まことの神様だったのです。まことの神様であられるイエス様が、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」たのです。まことの神様が、私たちと同じ人間になって下さったのです。イエス様がこの世に来て下さったというのは、神様が人間になって下さって、私たちのところに来て下さったということだったのです。
 それは、神様がイエス様という人間の姿を借りて、しばらくの間地上を歩き回った、ということではありません。8節には「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。イエス様は十字架にかかって死んで下さったのです。それはイエス様が、一時だけの仮の姿としてではなくて、本気で、完全に人間になって下さったということです。イエス様は私たちと同じように体を持っており、喜びや悲しみや苦しみを体験し、そしていつか死んでしまう、そういう方になって下さったのです。まことの神であられるイエス様が、人間の弱さや苦しみや悲しみを、そして死の苦しみを、私たちの誰よりも深く味わって下さったのです。洗礼を受けてイエス様を信じる人になるというのは、このイエス様の恵みによって、自分も弱さや苦しみや悲しみから救っていただく、ということです。

イエス様の従順によって
 またイエス様は、十字架の死に至るまで、父なる神様に従順に従って歩まれました。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、父なる神様のみ心に従順に従ったからです。私たちは、神様に背き逆らって自分勝手な生き方ばかりしています。それを私たちの罪と言うのですが、父なる神様は独り子であるイエス様に、その私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことをお命じになったのです。イエス様はその父なる神様のご命令に従順に従って、十字架の死に至る道を歩み通して下さいました。私たちはこのイエス様の従順によって実現した救いを信じて洗礼を受けるのです。それによって、私たちの罪は赦されて、神様の子どもとされて新しく生きることができるのです。
 神様に従順に従うことは、神様に造られ生かされている私たち人間にとって一番大切なことです。イエス様はその人間として一番大事なことを、私たちに代ってして下さったのです。言い換えれば、私たちの誰よりも一番人間らしく生きて下さったのがイエス様だったのです。洗礼を受けることによって、私たちもこのイエス様と一つに結び合わされます。イエス様と一緒に歩んでいくことによって、私たちも、本当に人間らしく、神様に従って生きていく者とされていくのです。

「イエス・キリストは主である」
 私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さったイエス様を、父なる神様は復活させて、天に昇らせて下さいました。9節に「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とあります。復活したイエス様は天の父なる神様のもとに昇って、今はそこで、この世の誰よりも力のある偉い方として、私たちみんなを、守り導いて下さっているのです。それはこの世の全ての人々が、このイエス様の前にひざまずいて礼拝し、11節にあるように、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるためです。洗礼を受けるというのは、復活して天に昇られたイエス様こそ、私たちの「主である」と信じて、その信仰を人々の前で公に宣べて、イエス様の父である神様をほめたたえ、礼拝する人になることです。今日洗礼を受ける二人の方も、この「イエス・キリストは主である」という信仰を言い表して、父なる神様を礼拝する人になるのです。

本当に人間らしく
 教会は、このように「イエス・キリストは主である」という信仰を言い表して洗礼を受けて、イエス様の父である神様を礼拝する人たちの群れです。父なる神様は独り子のイエス様を遣わして下さることによって、そういう教会をこの世に生み出して下さいました。そしてその教会を次第に世界全体へと広げて下さって、139年前にこの指路教会を生み出して下さったのです。このように教会を生み出すことによって神様は、全世界の人々を、「イエス・キリストは主である」という信仰へと招いておられます。この招きに応えて、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて洗礼を受け、父である神様を礼拝する人になることによってこそ、私たちは神様の子どもとして新しく生きることができます。なぜならそこで私たちは、イエス様に従って生きていく者となるからです。イエス様が、神様の独り子であられたのに、自分を無にして、僕の身分になり、人間となって、しかも神様のご命令に従順に十字架の死への道を歩んで下さったように、私たちも、自分を無にして、神様のみ心に従っていくのです。あのヘボンさんは日本に来る前、ニューヨークで大きな病院の院長をしていました。ヘボンさんがそういう地位を捨てて日本に来たのも、神様の独り子だったのに自分を無にして人間となってこの世に来て下さったイエス様に従ったからです。そのヘボンさんのおかげで、この指路教会は誕生し、今もこうしてあるのです。私たちも、このヘボンさんの、イエス様に従っていく信仰を受け継ぎたいと思います。イエス様に従って、自分を無にして、神様に従順に歩む、それは確かに大変なことかもしれません。でもそれは決して無理をして、不自然な生き方をすることではありません。ヘボンさんは、人間になって下さっただけでなく、十字架にかかって死んで下さったことによって罪人である自分を救って下さったイエス様の恵みをいただいて、「イエス・キリストは主である」という信仰を言い表して洗礼を受け、そして自分に与えられている力やお金を、イエス様のために、イエス様を遣わして下さった父なる神様がほめたたえられるために使っていったのです。イエス様による救いの恵みをまだ知らない日本の人たちにそれを伝え、日本の人たちと一緒に父なる神様をほめたたえようとしたのです。そのために生きたヘボンさんの生涯は、大変なことも沢山あったけれども、本当に喜びに満ちた、充実したものだったと思います。そこには、自分の思い通りに、やりたいことをして、そして名誉やお金を得て、自分や家族が幸せになることを求めて生きるよりも、ずっと喜ばしい、そして本当に人間らしい生き生きとした歩みがあったと思うのです。イエス様がなさったように、神様に従順に従って生きることは、人間にとって一番自然な、無理のない、人間らしい生き方です。罪に支配されてしまっている私たちは、それが自然なことに思えず、無理のある、不自然な生き方のように感じてしまうのです。イエス様の十字架によって罪を赦されて、神様の子どもとされることによって、私たちは、本当に人間らしい、無理のない自然な生き方を回復することができます。洗礼を受けるとはそういうことです。神様は私たち人間が、本当に人間らしく自然に生きる者となるために、この指路教会を139年前に生まれさせて下さって、今日まで導いてきて下さいました。そして今、ここにいる私たち一人一人を招いて下さっているのです。この招きに応えて「イエス・キリストは主である」という信仰を言い表して洗礼を受け、そして、誰よりも人間らしく生きて下さったイエス様と共に、イエス様に従って、私たちも、生き生きと、自然に、自分を無にして神様をほめたたえながら生きていきましょう。

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