夕礼拝

傷つけ、いやす神

「傷つけ、いやす神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第31章30節-32章44節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第11章25-36節
・ 讃美歌:155、441

申命記の成り立ち
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いてきましたが、本日をもって終えたいと思います。申命記を読み始めたのは、2014年の6月ですので、ほぼ3年かけてこの書物を読んできたことになります。申命記は、モーセの遺言として書かれています。エジプトを出て、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に、出エジプトの指導者モーセが最後の遺言を語っているのです。彼自身は約束の地に入ることはできず、この後の34章にあるように、モアブの地のネボ山、別名ピスガの山頂から約束の地を見渡しつつその地で死ぬのです。そのモーセが、自分の亡き後、約束の地に入っていくイスラエルの民に、そこにおける心構え、注意すべきこと、守るべき神の戒めを語っているのが申命記なのです。
 しかし以前にも申しましたように、申命記がモーセの遺言であるというのは、そういう設定で書かれている、ということであって、実際にこれが書かれたのはずっと後のことです。申命記の中心部分である「申命記的律法」、それは12章から26章ですが、その核となる部分は、列王記下22章8節以下に語られている、ヨシヤ王の時代にエルサレム神殿で発見されたとされる律法の書であろうと言われています。それは紀元前621年頃のことです。この時代、イスラエルの南北に分れた王国の内、北王国イスラエルは既にアッシリア帝国に滅ぼされており、南王国ユダも再三脅かされて右往左往していました。その状況の中でユダの多くの王たちは、主なる神への信仰から離れて、カナンの地の偶像の神バアルを拝むようになりました。バアルは豊穣の神、豊かさを与える神、人間の願いを適えてくれるご利益の神です。多くの王たちはそのバアルに頼って国の安泰を願っていたのです。そのような中でヨシヤ王は、ユダ王国に宗教改革を起しました。偶像の神バアルを捨て、その祭壇を破壊し、国全体が偶像礼拝の罪を悔い改めて主なる神のみを拝むように、主なる神への礼拝を回復したのです。その宗教改革の青写真が、神殿で発見されたとされる律法の書でした。モーセが書き残した律法の書が発見された、今こそこの律法に立ち帰り、エジプトの奴隷状態から我々を解放し、カナンの地を与えて下さった主なる神の民として歩もうではないか、という仕方で宗教改革が行われたのです。ですから、申命記の前提となっているのは実は、これからカナンの地に入って行こうとしている民の状況でありません。むしろ既にそこに長く暮らしている中で、主なる神を忘れて他の神々を拝んでいるという民の状態を見つめ、そのような間違った信仰のあり方を正そうという意識で申命記の中心部分は書かれているのです。

バビロン捕囚をどう受け止めるか
 そして本日読む32章には、「モーセの歌」という小見出しがつけられており、歌、詩の形になっています。これもモーセがこの歌を歌ったのではなくて、後の時代のイスラエルの民が、出エジプトの指導者モーセを覚えて、この歌を民の集まりの中で歌ったのです。この歌は、ヨシヤ王よりもさらに後の時代に書かれたものです。そのことが分かるのは、この歌には、アッシリアを滅ぼしたバビロニア帝国によってついにユダ王国も攻め滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れ去れた、いわゆるバビロン捕囚のことが歌われているからです。この歌の19-27節にそのことが語られています。そこには、主なる神がご自分の民であるイスラエルに対して憤り、み顔を隠し、彼らに災いを加え、敵に滅ぼされるようにしてしまわれたことが語られているのです。それがバビロニアによる国の滅亡とバビロン捕囚です。大事なのは、このことが単に強大な敵の力によって起った災いではなくて、主なる神ご自身のみ心によることとされていることです。そのことが28-30節にこのように語られています。「彼らは思慮に欠けた国民、彼らには洞察する力がない。もし、彼らに知恵があれば、悟ったであろうに。自分の行く末も分かったであろうに。もし、岩なる神が彼らを売らず、主が渡されなかったなら、どうして一人で千人を追い、二人で万人を破りえたであろうか」。この「彼ら」とはユダ王国を滅ぼしたバビロニアのことです。彼らがイスラエルを滅ぼすことができたのは、自分の力によることではなくて、岩なる神がイスラエルを彼らに売り渡したから勝利することが出来たのです。ところが彼らは思慮に欠けた国民、洞察する力のない者たちだからそのことが分からない、自分たちの力でイスラエルを打ち破ったつもりでいるのです。そのことはその前の26、27節とも関係があります。そこには「わたしは言ったであろう。『彼らを跡形もなくし、人々から彼らの記憶を消してしまおう』と。もし、敵が高ぶり、苦しめる者が誤解して『我々の手が勝ちを得た。これを成し遂げたのは主ではない』と言うのをわたしが恐れなかったならば」とあります。主なる神はご自分の民に対して激しくお怒りになり、彼らを跡形もなく滅ぼしてしまおうとすら思っておられる、しかしそのようにしたら、敵、つまりバビロニアの人々が「我々の手が勝ちを得た。これを成し遂げたのは主ではない」と言うことになる。そんなことがないように、神はイスラエルの民を跡形もなく滅ぼし尽くすことなく、捕囚の民を残しておられるのです。このように、この歌は、国の滅亡とバビロン捕囚という苦しみを、自分たちの信じている神によること、その神の怒りによる裁きとして受け止めているのです。それはこの歌だけに語られていることでなくて、旧約聖書を貫いている基本的な信仰です。そこに聖書の、イスラエルの民の信仰の驚くべき特徴があります。つまり聖書の信仰は、ご利益を与える神を信じるということを越えているのであって、自分たちの罪に対してお怒りになり、それをお裁きになる神を信じているのです。この信仰によってこそ、イスラエルの民、ユダヤ人は、苛酷な歴史を今日まで乗り越えて来ることができたのだと言うことができるのです。

悔い改めを促す歌
 国が戦いに破れるということをこの国も七十年前に体験しました。あの戦争において、天皇を神として戴く大日本帝国は完膚なきまでにたたきのめされ、滅びたのです。しかし戦後の東西対立の状況の中で、日本を共産主義への防波堤としようというアメリカの政策によって、戦前の日本の滅亡は覆い隠されてしまいました。一部の軍人たちが責任を取らされただけで、天皇制を含む様々な戦前の体制が生き残ったのです。日本人自身も、あの敗戦の意味を本当に真剣に受け止めることなく今日まで歩んで来てしまったと言わざるを得ません。だから最近になってまた、戦前の体制を礼賛し、そこに回帰しようとする動きが活発になっています。あの戦争は物量では負けたが心では負けていないなどと言って、敗戦の事実をしっかり見つめようとせず、天災でもふりかかったようにしか受け止めようとせず、戦前の歩みの間違いを認め悔い改めようとしないのです。このことと比較する時、イスラエルの民における、国の滅亡とバビロン捕囚の受け止め方ははるかに深く真剣であったことが分かります。彼らは敗戦を、自分たちの罪に対する主なる神の怒りと裁きによる出来事として受け止め、神が自分たちに悔い改めを求めておられることを悟ったのです。このモーセの歌は、イスラエルの民に悔い改めを促している歌なのです。

イスラエルの罪
 イスラエルの民に悔い改めが求められていることは何でしょうか。それが15‐18節に語られています。「エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。彼らは他の神々に心を寄せ、主にねたみを起こさせ、いとうべきことを行って、主を怒らせた。彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ、新しく現れ、先祖も知らなかった無縁の神々に犠牲をささげた。お前は自分を産み出した岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた」。エシュルンというのはイスラエルの別の言い方です。イスラエルの民は、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮り、他の神々に心を寄せたのです。自分を産み出した岩を思わず、産みの苦しみをして下さった親を忘れたのです。イスラエルの民が今日まで歩んで来ることができたのは主なる神のおかげなのです。主と彼らの間には特別の、密接な関係があったのです。そのことが7-14節に語られています。主がイスラエルの民を見出して下さり、御自分のひとみのように守り、大切に養い育てて下さったのです。ところが彼らは成長して肥え太ると、育ててくれた主を後足で蹴るようなことをしたのです。養い育てて下さった主なる神とは縁もゆかりもない他の神々、偶像の神々に心を寄せ、拝むようになったのです。6節には「愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか。神は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方」とあります。造り主であり父である主に対して、恩をあだで返している、それがイスラエルの罪なのです。
 この6節に「あなたを造り、堅く立てられた方」とありますが、ここで「造り」と訳されているのと同じ言葉が出エジプト記の15章16節にあります。そこには「あなたの買い取られた民」とあって、この「買い取る」がこの「造り」と同じ言葉なのです。つまりこの「造り」は「買い取る」と訳すこともできます。出エジプト記においてこの「買い取る」は、主なる神がエジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を救い出して契約を結び、ご自分の民として下さったことを意味しています。ですから本日の6節で「あなたを造り、堅く立てられた方」と言われているのも、ただ命を与えて下さったというだけでなく、エジプトの奴隷状態から救い出し、ご自分の民として下さったという恵みが見つめられているのです。主なる神は値を払って彼らイスラエルの民を買い取り、救い出してご自分の民として下さったのです。その主を捨てて他の神々に心を向けることはまさに恩知らずの裏切りであり、その罪に対して主は激しく怒り、み顔を隠して災いを下されたのです。

救いのみ心
 その災いは、神の民であるイスラエルが、神の民でない他の民族によって打ち負かされ、捕え移されるという仕方で起りました。そこにおける主のみ心が21節にこのように語られています。「彼らは神ならぬものをもってわたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもってわたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって彼らの怒りを燃えたたせる」。イスラエルが、神ならぬものである偶像を拝むことによって神にねたみを引き起こした。だから神は民ならぬ者、神の民ではない他国の人々を用いてイスラエルを滅ぼし、苦しめることによって、イスラエルにねたみを引き起こそうとしておられるのです。そこには、主なる神の、ご自分の民イスラエルに対する深い愛ゆえの激しい怒りが、そしてその怒りの中でもなお彼らを愛しておられるみ心が示されています。主は、怒りと裁きによってイスラエルを滅ぼしてしまおうとしておられるのではなくて、むしろそれによって彼らを救おうとしておられるのです。そのことが31-35節に歌われています。「しかし、彼らの岩は我々の岩に及ばない。我々の敵もそのことは認めている。彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木で、ゴモラの畑で育ったもの。そのぶどうは毒ぶどう、その房は苦い。そのぶどう酒は、蛇の毒、コブラの猛毒。これは、わたしのもとの蓄えてあり、わたしの倉に封じ込めてあるではないか。わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」。「彼ら」とは、イスラエルを滅ぼし、苦しめている敵のことです。その者たちが依り頼んでいる岩、つまり彼らの神々の力は、我々つまりイスラエルの民の岩なる主の力には及ばないのです。彼らがイスラエルに勝利することが出来たのは、30節に語られていたように、主がご自分の民を彼らに引き渡されたからです。しかし主はいつまでもそのままにご自分の民を見捨てておくことはない。最終的には敵を滅ぼしてイスラエルを救って下さるのです。その時には、37、38節に語られていることが実現するのです。「主は言われる。『どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。彼らはいけにえの脂肪を食らい、注がれた酒を飲んだではないか。さあ、その神々に助けてもらえ、お前たちの避け所となってもらえ』」。このようにこの歌は、捕囚の苦しみの背後に、神の怒りと裁きがあるのみでなく、イスラエルを救おうとしておられるみ心があることを見つめているのです。

傷つけ、いやす神
 この救いはいつ与えられるのでしょうか。36節にこうあります。「主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる。主が見られるからである。彼らの力がうせ去り、未成年者も成人した者もいなくなったのを」。主がご自分の民を力づけられる、ここは口語訳では「あわれみを加えられる」となっています。主の裁きの下で苦しんでいる民を主が憐れんで下さり、救いを与えて下さる時が来るのです。そのことは、彼らの力がうせ去り、未成年者も成人した者もいなくなったのを主がご覧になる時だと言われています。「未成年者も成人した者も」というところは口語訳では「つながれた者もつながれない者も」であり、「奴隷も自由人も」という意味ではないかとも考えられていますが、いずれにしても、主が民を憐れみ、力づけて下さるのは、彼らが全ての力を失い、徹底的に無力になる時だ、と語られているのです。イスラエルの民は、肥え太ってかたくなになり、造り主である神を捨てました。それは彼らが豊かになることによって、自分の力で生きていける、と思ったからです。自分の力に頼り、自分の思い通りに生きようとした時に、彼らは主なる神を捨て、人間の願い、欲望を適えてくれるご利益の神、偶像の神々へと走ったのです。そこに人間の罪の根本があります。罪とは、私たちが自分の力で、自分の思いによって生きていこうとすること、生きていけると思うことであり、神をそのために利用しようとすることです。生きておられるまことの神は、その私たちに対してお怒りになり、私たちを様々な仕方でうちのめされるのです。様々な苦しみによって私たちは、自分の無力を、自分の力で生きていける者ではないことを知らされるのです。そのように私たちが、自分の力がうせ去ったことを思い知らされていく、そこにおいてこそ、主なる神の憐れみが、恵みによる癒しが与えられていくのです。39節に「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない」とあります。生きておられるまことの神は、殺し、また生かす方です。傷つけ、またいやす方です。それは、気紛れに殺したり生かしたり、傷つけたりいやしたりする方だということではなくて、私たちの罪に対して怒り、裁きを与え、しかしそのことを通して悔い改めへと導き、救いを与えて下さる方だということです。イスラエルの民は、この殺し、また生かす神、傷つけ、またいやす神の民とされて歩んだのです。それゆえに彼らは、国を滅ぼされ、捕囚の憂き目にあう中で、そのことを、自分たちの罪に対する神の怒り、裁きとして正面から受け止め、悔い改めることができたのです。神がお怒りになるのは救うためであり、神が殺すのは生かすためであり、神が傷つけるのはいやすためであることを知っている者こそが、神による裁きの苦しみを信仰において受け止め、なおそこに希望を見出すことができるのです。日本人があの敗戦を正面から受け止め、悔い改めることができないのは、この殺し、また生かす神、傷つけ、またいやす神を知らないからであると言わなければならないでしょう。

契約を結んで下さる神
 主なる神がこのような方であることを、イスラエルの民はどのようにして知ったのでしょうか。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」というのは人間が考えて分かることではありません。神ご自身がそのように語り、ご自身を示して下さったのです。主なる神がそのことを具体的にお示し下さったのは、イスラエルの民と契約を結んで下さったことにおいてです。契約を結ぶとは、神がイスラエルの神となり、イスラエルが神の民となるという特別な関係に、神が約束をもって入って下さったということです。契約、約束には、それを実行する義務が伴います。主なる神は、イスラエルの神としてこの民を守り、導き、養う義務を負って下さったのです。イスラエルの民もまた、この契約の関係に入ることにおいて、主なる神をこそ礼拝し、主のみ心に従って歩む義務を自ら負ったのです。ですからイスラエルの民が主なる神を忘れ、他の神々を拝むようになったのは、この契約を破り、それに伴う義務を果たさなかった、ということです。それが彼らの罪です。しかしたとえイスラエルがそのように不誠実であり、恩知らずに契約を破りご自分を裏切っても、主なる神は、ご自分が結んだ契約にどこまでも誠実であって下さるのです。主は、契約を守らない民の罪に対してお怒りになり、裁きとして災いを下されるけれども、しかしその契約を決して破棄なさることはありません。つまりイスラエルの民を捨ててしまうことはなく、裁きを通して彼らに悔い改めを与え、救いを与えようとしておられるのです。このモーセの歌は、イスラエルの民と契約を結んで下さった主なる神のそのような恵みのみ心を歌っているのです。それゆえに、この歌が後にイスラエルの民の集会において歌われていったのは、主なる神との契約を確認する契約の祭においてであったと言われています。イスラエルの民はこの歌を歌い継ぐことによって、主なる神が自分たちと契約を結んで下さったことを覚え、そこに与えられている神の恵みを確認していったのです。

神の契約の恵みに依り頼む
 イスラエルの民と契約を結んで下さった主の恵みは、先程共に朗読した新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第11章にも語られています。旧約聖書においてイスラエルの民と契約を結んで下さった主なる神は、その救いの恵みをさらにこの世の全ての民に及ぼすために、ご自分の独り子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死と復活による救いを与えて下さいました。主イエスを信じる者たちとの間に新しい契約を結び、新しい神の民、新しいイスラエルを興して下さったのです。しかしそれは、旧い契約にあずかっていたイスラエルの人々のことをもう見捨ててしまったということではありません。主イエスによる新しい契約はイスラエルの民に与えられていた旧い契約を受け継ぎ、完成させるものとして与えられたのであって、主はユダヤ人たちをも主イエス・キリストを信じる信仰による救いへと招いておられるのです。しかしユダヤ人たちの多くは今、主イエス・キリストを信じようとせず、主イエスによる救いを拒んでしまっています。その結果、神の民であるはずの彼らが救いから落ちて、神の民でなかった異邦人たちがキリストを信じてその救いにあずかる、ということが起っているのです。独り子を十字架にかけてまで救いを与えようとしておられる主の恵みのみ心に従おうとしないユダヤ人たちは神の怒りと裁きの下にあります。けれどもパウロはここで、それにもかかわらず、イスラエルの民に与えられた神の選びと招き、言い替えれば契約は取り消されることはない、と語っています。神はこの怒りと裁きを通して彼らを悔い改めへと導き、彼らにも救いを与えようとしておられるのです。
 独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって救いを与えて下さった主なる神は、主イエスを信じる信仰によって私たちにも契約を与えて下さり、ご自分の民として下さいます。そして神はこのご自分の契約に、どこまでも誠実であって下さるのです。私たちは、しばしば神を裏切り、契約を破り、恩知らずの罪に陥ります。それに対して神はお怒りになり、裁きを下されるけれども、しかし「傷つけ、またいやす神」として、私たちを癒し、新しく生かしていって下さるのです。この神の契約の恵みに信頼し、依り頼んで生きることを、申命記は教えているのです。

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