主日礼拝

神に知られている

説 教「神に知られている」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 ホセア書第13章4-6節
新 約 コリントの信徒への手紙一第8章1-6節

偶像に献げた肉
 私が主日礼拝の担当をするときにはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日から第8章に入ります。7章に続き8章でもパウロは、コリント教会の人たちからの質問に答える形で手紙を書いています。ここで取り上げられているのは冒頭1節にあるように、「偶像に献げた肉について」の問題です。それはどのような問題であったのでしょうか。
 コリントは異教社会であり、町では多くの神々が崇められていました。町の公の行事や家の葬式や結婚式のような儀式は、大抵の場合、祭りとして執り行われましたが、その祭りでは動物の犠牲が神々に献げられました。そのようにして様々な祭りにおいて神々に献げられた肉が、その後、どうなるかと言うと、その一部は祭りを執り行った祭司におさがりとして与えられ、そのほかの大部分は祭りに参加した人たちに、やはりおさがりとして与えられました。祭司も祭りに参加した人たちも、その肉を家に持ち帰って食べましたが、食べきれない分は、町の市場に売りに出しました。コリントでは、このことは当たり前のことであったのです。ところがコリント教会の人たちの中には、このことに動揺し、不安になっている人たちがいました。というのもユダヤ教においては、唯一の神以外の神々、つまり偶像を礼拝することは厳しく禁じられていて、そのために偶像に献げた肉は汚れている、と考えられていたからです。キリスト教会も唯一の神を信じ、それ以外の神々を、つまり偶像を礼拝することはありませんから、ユダヤ人が言うように偶像に献げた肉は汚れていると考え、不安になっていた人たちがコリント教会の中にいたのです。それなら偶像に献げた肉を食べなければ良いのでは、と思われるかもしれません。しかし事はそう簡単ではありませんでした。コリント教会の人たちの多くは異邦人からキリスト者となった人たちです。家族の中で自分だけがキリスト者という場合も少なくなかったはずです。また、町の行事に関わる仕事をしていた人たちも少なからずいたでしょう。そうなると家の儀式や町の行事に参加すべきか否か、という問題が起こります。参加すれば、偶像に献げた肉を食べないわけにはいかないからです。だからといって参加しなければ、家族との関係が悪くなりますし、仕事を続けられなくなるかもしれません。それだけではありません。異邦人の家に招待されたときに、そこで出される食事に、神々に献げられた後、おさがりとして与えられた肉が用いられているかもしれませんでした。あるいは町の店で売られている肉が偶像に献げた肉であるかもしれませんでしたし、売られている皮製品が偶像に献げた肉から作ったものであるかもしれませんでした。そのように身近なところに偶像に献げた肉があるコリントという町にあって、コリント教会の中には、偶像に献げた肉を食べてしまうことに不安を覚え、動揺している者たちがいたのです。

知識を持っている
 そうであればパウロへの質問は、偶像に献げた肉は食べて良いのか、それとも食べてはいけないのか、というものであるのが自然な感じがします。しかし実はそうではありませんでした。1節でこのように言われています。「偶像に献げた肉について言えば、私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです」。新共同訳では「我々は皆、知識を持っている」となっていて、この言葉がカギ括弧で囲まれていました。原文にはカギ括弧はありませんが、新共同訳はカギ括弧で囲むことで、この言葉がパウロに質問を送ったコリント教会の人たちの言葉であった、と解釈しています。聖書協会共同訳ではカギ括弧が無くなりましたが、新共同訳のように解釈して良いと思います。つまりパウロに質問を送った人たちは、偶像に献げた肉について、「私たちは皆、知識を持っている」と言っていたし、パウロもそのことを「確かです」と認めていたのです。では、この知識とは、どのような知識であったのでしょうか。この知識については4節以下で語られていますので、先に4節以下に目を向けていきます。

偶像の神はいない
 4節にこのようにあります。「そこで、偶像に献げた肉を食べることについてですが、この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています」。つまりその知識とは、「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識です。それは、私たちが知識と聞いて思い浮かべるような、この社会についての知識とか科学的な知識とかではなく、信仰の知識です。この信仰の知識を持っていたので、手紙を送った人たちは、偶像に献げた肉を食べてもまったく問題ないと考えていました。偶像の神などいないのであれば、偶像に献げた肉と、そうでない肉は何ら変わらないのであって、汚れていると不安になったり、恐れたりする必要はまったくないからです。パウロはこの信仰の知識が正しいことを認めています。パウロも、質問を送ったコリント教会の人たちも、この世に偶像の神などいないのだから、偶像に献げた肉を食べることは何の問題もない、という信仰の知識を持っていたのです。現代を生きる私たちは、偶像に献げた肉について悩むことはないかもしれません。しかし「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識は、私たちにも関わることです。この信仰の知識によって私たちの生き方は大きく変わります。そのことが5節以下から示されていくのです。

得体の知れない力に対する恐れと不安
 パウロは5節で、「現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても」と言っています。直前で、「唯一の神以外にいかなる神もいない」と言っていたのに、「現に多くの神々や多くの主なるものがある」と言っているのは矛盾しているように思えます。しかしそうではありません。ここでパウロが見つめているのは、コリントの人たちが、また私たちが、神々がいるように思いたくなる得体の知れない色々な力が、この世に働いている感覚を持っているということです。「多くの主なるもの」とも言われていますが、「主」とは「主人」のことですから、私たちの人生の主人のように、つまり私たちの人生を支配しているように思える得体の知れない力が働いているような感覚を持っていることが見つめられているのです。たとえば日本の社会には多くの占いがありますが、これらの占いは、この世や私たちの人生を支配しているように思える色々な力をコントロールして、災いを避け、幸いを得ようとするものだと思います。だから「今日のラッキーカラーは〇〇」と言われると、その色のものを身につけることで、幸いを得ようとしたりするのです。また日本では、死について話すことを避ける傾向があります。死について話そうとすると「不吉なことを言うな」と怒られたりします。自分の死についても、他人の死についても話すのは不吉なことで、死について話すと、死が早まってしまうというような感覚すらあるのです。このように私たちは得体の知れない力を何とかコントロールするために占いに頼ったり、不吉なことを言わないようにしたりしています。私たちは、得体の知れない色々な力に、「多くの神々や多くの主なるもの」に対する不安と恐れに駆られ、それらに惑わされ、揺さぶられているのです。

唯一の父なる神
 しかし「唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識は、私たちにそのような恐れや不安からの解放を与えます。6節以下では、この信仰の知識が、具体的に何を意味しているかを語っていると言えるでしょう。6節の前半でまずこのように言われています。「私たちには、唯一の父なる神がおられ 万物はこの神から出 私たちもこの神へと向かっています」。私たちが信じる唯一の神は、父なる神であられます。「万物はこの神から出、私たちもこの神へと向かっています」は、原文を直訳すれば、「すべてのものはこの神から、私たちもこの神へ」となります。色々に解釈できる言葉ですが、何よりも私たちが父なる神によって造られ、父なる神の御許へ帰ることを見つめていると言えます。父なる神こそが、私たちに命を与える方であり、また私たちの命を取り去られる方なのです。このことを示されるとき私たちは、死について話すことは不吉なことだ、という恐れや不安から解放されます。私たちが死について話したり、話さなかったりすることが、私たちの寿命を決めるのではなく、父なる神が私たちの寿命をお決めになるからです。だから私たちは死について考え、話すことを避けるのではなく大切にしていきます。先日お配りした「私の葬儀について」も、自分の死について考え、また自分の死を家族や友人と共有する、そのきっかけとなるために用いていきたいのです。
 また「万物はこの神から出」ということは、すべてのものは、父なる神によって造られたものだ、ということです。この世界のものや人間は神によって造られたもの、つまり被造物であって、神ではありませんし、神になることもありません。創造主なる神と、被造物であるこの世界や私たち人間との間には断絶があり、その断絶を超えることは決してできません。このことを示されることによって私たちは、自然と神を同一視する自然の祟りや、モノと神を同一視するモノの祟りや、人と神を同一視する人の祟りを恐れることから解放されるのです。

唯一の主、イエス・キリスト
 6節の後半ではこのように言われています。「また、唯一の主、イエス・キリストがおられ 万物はこの主によって存在し 私たちもこの主によって存在しています」。私たちが信じる唯一の神は、唯一の主、イエス・キリストでもあられます。父なる神の独り子イエス・キリストは、人間となってこの世に来てくださり、私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださり、復活されることによって、私たちの救いを実現してくださいました。そして復活されたキリストは、使徒信条が告白しているように天に昇られ、父なる神の右に座しておられます。それは今、父なる神のこの世界に対するご支配は、天におられる復活のキリストを通して与えられているということです。「万物はこの主によって存在し」とは、御子キリストが父なる神と共に創造のみ業に関わられたことだけでなく、今、父なる神の右に座しておられる御子キリストが、この世界を導き、支え、守っていてくださることをも見つめているのです。
 私たちは洗礼を受け、キリストと一体とされることによって、このキリストのものとされて生かされています。私たちはキリストのものであり、唯一の主、イエス・キリストを自分の人生の主人として生きているのです。そしてこのキリストによって、私たちに世の終わりの復活と永遠の命の約束が与えられています。私たちが父なる神へと向かっているとは、単に地上の生涯を終えて、神の御許へ迎え入れられるだけでなく、世の終わりに復活と永遠の命を与えられ、神と共に生きるようになることをも見つめています。私たちは生きるときも、死を迎えるときも、死んでからもキリストのものであり、そして世の終わりにキリストの十字架と復活によって約束されている復活と永遠の命にあずかるのです。まさに私たちは「この主によって存在して」います。私たちは、キリストなしには一秒たりとも生きられないし、存在できないのです。そしてこのキリストによって、私たちは父なる神のご支配のもとに入れられています。ですから得体の知れない色々な力がこの世界と私たちを支配しているのではありません。この世界と私たちの人生は、キリストによって父なる神がご支配しておられるのです。

不安と恐れからの解放
 このように「唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識は、つまり私たちに唯一の父なる神がおられ、唯一の主、イエス・キリストがおられることは、私たちを得体の知れない力に対する不安と恐れから解放します。私たちを占いから解放し、死について語ることを不吉に感じることから解放し、祟りを恐れることから解放します。洗礼を受け、キリストの十字架と復活による救いにあずかり、キリストのものとされ、キリストによって父なる神のご支配に入れられている私たちは、得体の知れない色々な力に惑わされ、揺さぶられることなく、安心して生きることができるのです。

知識は人を高ぶらせる
 あらゆる得体の知れない力に対する不安と恐れから解放するこの信仰の知識は、当然、偶像に献げた肉についても、偶像に献げた肉を食べることは何の問題もない、という結論を与えます。最初に見たようにパウロに質問を送ったコリント教会の人たちはそのように考えていたし、パウロ自身も、それが正しい知識であることを認めているのです。ところがパウロは1節で、「偶像に献げた肉について言えば、私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです」と語った後に、「しかし」と言います。「しかし」、「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます」。そう言います。「『この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない』のであって、それゆえ偶像に献げた肉を食べることに何の問題もないという知識を、私たちは皆、持っている。『しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げ』」る、とパウロは言うのです。コリント教会には、偶像に献げた肉を食べても問題ないと考え、主張していた人たちがいました。パウロに質問を送った人たちもそのような人たちです。これまで見てきた信仰の知識によって、この人たちはそのように主張していたのです。しかし同じコリント教会に、偶像に献げた肉を食べることに不安や恐れを抱いていた人たちもいました。自分でも気づかない内に偶像に献げた肉を食べてしまったらどうしよう、と動揺していた人たちがいたのです。そのようなコリント教会の状況にあって、パウロは教会の中に信仰の知識を持った人たちの高ぶりを見ています。「高ぶる」というのは、自分を相手よりも上に見ることです。裏返して言えば、相手を自分よりも下に見ることです。信仰の知識を持った人たちが、持っていない人たちを下に見ていた。偶像に献げた肉を食べることに不安になるなんておかしい、知識を持っていないからそんなことになるんだ。そうやって知識を持っている人が、そうでない人を下に見て、批判したり裁いたりしていたのです。

愛は人を造り上げる
 しかしパウロは、「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます」と言います。「造り上げる」という言葉は、もともと「家を建て上げる」という言葉であり、ここでは「家」は教会と言い換えることができます。ですからパウロは、知識は人を高ぶらせるが、愛は隣人を造り上げ、教会を建て上げる、と言っているのです。知識を持っている人が、そうでない人を下に見て、批判したり裁いたりするなら、隣人を傷つけ、教会を破壊してしまうことになります。しかし愛は、不安や恐れに駆られ、動揺し、うずくまってしまっている隣人を慰め、再び立ち上がらせることができます。私たちは愛によって隣人を造り上げることを通して、教会を建て上げていくのです。

愛を伴う知識
 2節でパウロは、「ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです」と言っています。それは、私たちが信仰の知識を持っていると思ったとしても、それで十分なわけではなく、もっとその知識の量を増やしていかなくてはならない、ということではありません。そうではなく「知らねばならないように知ってはいない」とは、正しい知り方をしていない、ということです。それは、その知識が愛を伴っていない、ということにほかなりません。愛を伴っていないとは、知識を持っていても、相手を造り上げるように語り、接していないということです。愛を伴わない知識は、隣人を立ち上がらせることも、教会を建て上げることもできないのです。ですから私たちは勘違いをしてはなりません。パウロは信仰の知識なんていらない、と言っているのではありません。「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識は、「私たちには、唯一の父なる神がおられ……唯一の主、イエス・キリストがおられ」るという信仰の知識は、大切な知識です。しかしその知識に愛が伴わないのであれば、その知識は私たちを高ぶらせ、隣人を批判し裁くだけであり、したがって教会を破壊するだけです。その知識に愛が伴うときにこそ、私たちは信仰生活に悩んでいる隣人を、信仰が揺らぎ崩れかけている隣人を慰め、再び立ち上がらせることができるし、そのことを通して教会を建て上げていくことができるのです。

神に知られている
 しかしそのような愛を私たちが持っているのか、と問われれば、私たちはそのような愛を持っていない、と言わざるを得ません。私たちの知識は、いつも愛が伴わない、愛の欠けたもので、私たちを高ぶらせ、隣人を批判し裁くことへと駆り立てています。そのような自分の姿を突きつけられるとき、私たちは到底、自分の愛によって隣人を造り上げ、教会を建て上げることなどできない、と思うのです。ところがパウロは、意外なことに、3節でこのように言います。「しかし、神を愛する人がいるなら、その人は神に知られています」。パウロは、「神を愛する人がいるなら、その人は神を知っている」とは言いません。神を愛するなら、神をよく知るようになり、隣人を愛せるようになる、とは言わないのです。そうではなく、神を愛する人は、神に知られている、と言います。「あなたがたは神様に知られている、だから神様を愛する者とされている」と告げているのです。神様は私たちのことを知っていてくださる。しかも私たちが神様を知るよりも前から、私たちのことを知っていてくださいます。私たちが神様なんて自分には関係ないと思い、神様に背を向けていたときも、神様は私たちを知っていてくださったのです。それは、私たちが神様を知るよりも前に、神様が私たちを愛してくださったということにほかなりません。先に神様に知られ、愛されていたから、今、私たちは主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストのものとされ、神様のご支配のもとに生かされているのです。私たちの救いは、私たちが神様を知ることにあるのではありません。私たちが神様に知られていることにこそあります。私たちが神様を知るよりも前に、神様が私たちを知っていてくださり、愛していてくださったことにこそ、私たちの救いはあるのです。ですから私たちは、自分が神様について知っていくことによって、神様を愛し、隣人を愛するようになるのではありません。自分が神様に知られていることを、知っていくことによって、神様と隣人とを愛する者へと変えられていきます。愛されるにまったく値しない自分が、神様に一方的に愛され、独り子イエス・キリストによって救われていることを知っていくことによってこそ、神様と隣人とを愛する者へと変えられていくのです。神様がこの「私」のすべてを、人には見せられない弱さや欠けや罪のすべてを知っていてくださり、しかもそのダメダメなこの「私」を愛してくださっていることを知っていくとき、私たちの知識は、愛を伴う知識となっていくのです。

隣人を造り上げ、教会を建て上げていく
 私たちに唯一の父なる神がおられ、唯一の主、イエス・キリストがおられるという知識は、私たちを得体の知れない色々な力に対する恐れや不安から解放します。しかし自分だけが解放されれば、それで良いはずがありません。この信仰の知識が愛の伴う知識となることによって、私たちは得体の知れない力に対する不安や恐れに駆られて動揺し、うずくまっている隣人を再び立ち上がらせていくのです。私たちが神様を知るよりも前に、私たちは神様に知られています。私たちが神様を愛するよりも前に、私たちは神様に愛されています。この神様の愛を豊かに受け続け、この神様の愛に生かされ続ける中で、私たちは神様を愛し、愛を伴う知識によって隣人を造り上げ、また教会を建て上げていくのです。

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