主日礼拝

十字架につけられたキリスト

「十字架につけられたキリスト」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第17章5-8節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第3章1-6節
・ 讃美歌:15、127、299

物分りの悪いガラテヤの人たち
 「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」とパウロはガラテヤの信徒への手紙第3章1節で記しています。その名が示す通り、この手紙はパウロがガラテヤのいくつかの教会の人たちに向けて書いた手紙ですが、その手紙において彼は読み手に向かって「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と書いているのです。手紙の中でこのようなことを書くのは、礼儀を失した態度であると言えるでしょう。この手紙を読んだガラテヤの人たちもこのように言われて気分を害したに違いありません。これまでにもお話ししてきたことですが、この手紙においてパウロは、キリストの福音から離れていこうとしているガラテヤの人たちが、なんとか福音の真理に留まるように説得しています。2章13節から彼は過去の出来事を語ることによって、ガラテヤの人たちが陥っている誤りを示してきました。それは、直接彼らの誤りを指摘するのではなく、過去の出来事を通して間接的に指摘してきたといえます。しかし第3章に入って、パウロはもはや間接的にではなく、直接ガラテヤの人たちに名指しで語りかけ始めます。その最初の言葉が「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」なのです。1章11節で親しく「兄弟たち」と呼びかけていたのとはまったく異なって、非常に攻撃的な、非難の言葉です。相手を説得するにはもう少し別の言い方があったのではないかと思いますし、パウロという人は随分と感情的だなとも思います。実際、冒頭の「ああ」という言葉は強い感情を表す言葉です。パウロはそのような強い感情の高まりを抑えられずにガラテヤの人たちに呼びかけたのです。「物分かりが悪い」という言葉は、ほかの訳では「愚かな」とも訳されています。3節でも「あなたがたは、それほど物分かりが悪く」と言われていて、パウロはガラテヤの人たちに繰り返し「物分かりが悪い」あるいは「愚かな」と言っているのです。そのことによってパウロはガラテヤの人たちに、あなたたちは理解する力が足りないと言っているのではありません。そうではなく、あなたたちは福音の本質を捉え損なっていると言っているのです。平たく言えば、あなたたちは福音が分かっていない、信仰が分かっていないと言っているのです。ここで問われているのは福音であり信仰です。だからこそパウロは読み手の気分を害したとしても、礼儀を失したとしても「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と、攻撃的に、非難の気持ちを込めて呼びかけずにはいられなかったのです。

魔法にかけられたように
 ガラテヤの教会で問題となっていたのは、救われるためには信仰のみによるのではなくて、信仰に加えて律法の行いも必要なのではないかということです。ここで言われている律法の行いとは、具体的にはユダヤ人でない、つまり異邦人のキリスト者が割礼を受けるということです。救いには信仰だけでなく割礼を受けることも必要だと主張する人たちがガラテヤの教会にやって来て大きな影響を与えていたのです。このことをパウロは「だれがあなたがたを惑わしたのか」と言っています。パウロによれば、彼らは惑わされているのです。この「惑わす」という言葉は、元々「魔法にかける」ことを意味します。魔法にかけられたように、彼らは救われるためには行いも必要だ、という誤った信仰へと誘われていきました。もちろんガラテヤの教会にやって来た人たちが実際になにか魔術を使ったというわけではありません。しかし彼らの話は人を惹きつけ、魅力的であり、説得力があったのです。それは、彼らの話し方が優れていたということではないでしょう。そういう面があったとしても、それは根本的なことではありません。彼らの話が魅力的で分かりやすく受け入れられやすかったのは、彼らがガラテヤの人たちが聞きたいと思っていたことを語ったからです。彼らが聞きたいと思っていたこと、それは信仰のみによる救いではなくて、信仰に行いをつけ加える救いでした。彼らは信仰のみによる救いを告げ知らされていたし、その救いに与っていましたが、それに満足できなかったのです。彼らにとって信仰に行いをつけ加える救いのほうが魅力的だったのです。根本的なことは、彼らが信仰に行いをつけ加えることを求めていたということなのです。何故、彼らはそのことを求めたのでしょうか。信仰のみによる救いとは、行いが救いとはまったく関係ないということです。言い換えるならばどんなに頑張っても努力しても救いを勝ち取ることはできないということです。このことにガラテヤの人たちは、そして私たちも満足できないのです。私たちは上昇志向が好きです。地位が上がっていくというような分かりやすいものばかりではなく、コツコツと小さなことを積み重ねていくことですら、そのことによって達成感、充実感を得られるという点で上昇志向と言えるのです。上昇志向は、私たちが求めている達成感、充実感を満足させるものなのです。もちろんいつも上昇志向が悪い結果をもたらすとか、そのような思いは捨て去った方が良いということではありません。しかし私たちはあまりにも上昇志向に囲まれ過ぎて慣れてしまい、それが私たちのあり方に染みついてしまっているのです。だから私たちは、救いにおいても上昇志向を持ち込みたくなるし、持ち込んだほうが満足できるのです。ガラテヤの人たちは、まさに自分たちが聞きたいと思っていた、魅力的な、自分たちの上昇志向を満足させる教えに、つまり信仰に行いをつけ加える救いに、魔法にかけられたように惹かれていったのです。ガラテヤの教会に来た人たちは、彼らにとても受けが良い教えを語ったのです。

告げ知らせる
 パウロは「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言っています。パウロがかつてガラテヤの人たちに伝えたのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」です。主イエス・キリストの十字架において、罪の支配が滅ぼされ恵みの支配が始まったこと、そしてそのことによって救いが実現したことを伝えたのです。「イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」とありますが、元々の文には「姿」という言葉はなく、原文の順序に従って訳せば、「イエス・キリストがはっきり示されたではないか、十字架につけられた」となります。「はっきり示された」というのは、「公に告げ知らされた」ということです。パウロはガラテヤの人たちへの伝道において、主イエス・キリストを、しかも十字架につけられたイエス・キリストを告げ知らせたのです。もちろん彼はほかにも色々なことをしたに違いありません。ガラテヤの人たちと信頼関係を築くことにも力を注いだでしょうし、その地域の人々や習慣を知り、それに合わせたということもあるでしょう。けれどもパウロの伝道の中心は、十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝える、ということだったのです。パウロはガラテヤだけでなく、様々な場所で伝道しました。しかしどの場所における伝道においても彼が行ったのはこのことだけだと言うことができるのです。実際彼は、コリントの信徒への手紙一第2章2節で「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と述べています。
 このことはパウロに限られたことではありません。どの時代どの場所にあっても教会の伝道はこの一点にかかっています。確かに教会の営みはそれぞれに違いがありますし、そのような違いをも用いて神さまはみ業を行ってくださいます。そしてその営みは、時代によって変わっていくし、それぞれの教会が立てられている地域やそこで生活している人たちの変化に合わせて変わっていくのです。けれども教会において、どの時代どの場所にあっても、決して変わらないことがあります。いえ、決して変わってはならないことがあるのです。それが「十字架につけられたイエス・キリスト」を告げ知らせることにほかなりません。

福音を聞いて、信じて、霊を受ける
 2節でパウロはガラテヤの人たちに「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」と問いかけています。これまでパウロは、一方的に彼らに語ってきました。しかしパウロはこのように問いかけることによって、彼らが自分自身の体験からこの問いかけに答えることを求め、さらに彼らがその体験にもう一度立ち返ることを願っているのです。この「霊」を受けた体験、つまり聖霊を受けた体験とは、洗礼において「聖霊」を受けることです。使徒言行録第2章37、38節で、ペトロの説教を聞いて大いに心を打たれた人々が「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うたとき、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えました。またローマの信徒への手紙第8章15節でも「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と言われています。洗礼において、私たちは賜物として聖霊を受けたのであり、また私たちを神の子としてくださる聖霊を受けたのです。この聖霊を受けることによって、私たちは神さまを「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。ですから洗礼と聖霊を受けることは別々のことではなく一つのことです。洗礼において聖霊を受けることによって、私たちは罪と死の支配から自由にされ、神さまの恵みの支配へと入れられ、聖霊の導きによって生きる者とされたのです。一体どのようにして、この聖霊を受けるという体験をしたのか、とパウロは問いかけています。それは、パウロによれば「律法を行ったから」なのか、それとも「福音を聞いて信じたから」なのかそのどちらかです。ここでもパウロは一切の曖昧さを許しません。このことは二者択一なのであって、「福音を聞いて信じたから」でもあり「律法を行ったから」でもある、というようなことはありえないのです。ガラテヤの人たちは、福音を聞いて信じ、聖霊を受けました。それが、彼らが体験したことです。彼らがそれを思い起こすためにパウロは問いかけたのです。彼らはその福音をどこで聞いたのでしょうか。それは、パウロの説教においてです。パウロが告げ知らせた「十字架につけられたイエス・キリスト」こそ、彼らが聞いた福音であり、彼らはその福音を聞いて信じ、そして洗礼を受けたのです。彼らは律法の行いによって救われたのではありません。福音を聞いて信じ、救われたのです。
 ガラテヤの人たちが体験したことを私たちもまた体験しました。私たちは「十字架につけられたイエス・キリスト」を告げ知らされ、その福音を聞いて信じ、洗礼を受け、その洗礼において聖霊を受けたのです。教会はどの時代どの場所にあっても「十字架につけられたイエス・キリスト」を告げ知らせてきたし、これからも告げ知らせていきます。そこにおいて、その告げ知らされた福音を聞いて信じる者が起こされていくのです。洗礼を授かり、聖霊を受け、その導きによって生きる者たちが起こされていくのです。このことにおいて、ガラテヤの人たちと私たちの間に、ガラテヤの教会と私たちの教会の間になんら違いはありません。教会とは、福音が告げ知らされ、その福音を聞いて信じる者が聖霊によって起こされていくところであって、それ以外ではあり得ないのです。

無駄にしてしまう
 ガラテヤの人たちは福音を聞いて信じ、聖霊を受けるという体験をしました。パウロはこの体験を4節で「あれほどのことを体験した」と言い表しています。かつて「あれほどのことを体験した」にもかかわらず、今や彼らはそれを無駄にしようとしていたのです。だからパウロは3節で「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と言っています。パウロは、再びガラテヤの人たちに対して「あなたがたは物分かりが悪い」「あなたがたは愚かだ」と非難していますが、それは、彼らが霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとしていたからです。霊によって始めたというのは、前の2節に語られていたように、洗礼において聖霊を受け、その導きによって生きるキリスト者として歩み始めたということです。この歩みに対立するのが「肉」による歩みです。「霊」と「肉」と言われると、人間の心と身体のことだと思うかもしれません。しかしパウロがここで言っている「霊」は、人間の心のことではなく聖霊なる神さまのことであり、霊によって生きるとは聖霊なる神さまの支配のもとで生きることです。それに対立する「肉」による歩みとは律法の支配のもとで生きることであり、自分の力、自分の行いによって救いを勝ち取ろうとする歩みなのです。ガラテヤの人たちは律法の支配から解放され、神さまの恵みの支配に入れられていたにもかかわらず、再び律法の支配へと逆戻りし、霊によって生きるのとは、まったく対立し、矛盾する「肉」による歩みによって、救いを仕上げ、完成させようとしていたのです。それは、福音を聞いて信じ、洗礼を授かり、聖霊を受けたという体験を無駄にすることであり、告げ知らされた「十字架につけられたキリスト」を無意味なものとすることにほかなりません。
 4節の後半に、「無駄であったはずはないでしょうに」とあって、そこで言葉が途切れています。新共同訳の点々はそのことを表していますが、元々の文においても文章が途切れてしまっているので、この文をどのように訳し、どのように読んだら良いのか多くの人が悩まされてきました。しかしどのように訳すかよりも、ここでパウロの言葉が途切れていることに、彼の想いが表れているのではないでしょうか。これまで多くの言葉を用いて語りかけ、時には非難し、また問いかけてきたパウロが、ここで言葉に詰まったのです。言葉にならない想いがあったのです。それは、ガラテヤの人たちが聖霊によって始めたのに肉によって完成させようとするならば、あの体験は本当に無駄になってしまう、無駄であったはずがないあれほどの体験を本当に無駄にしてしまうという想いに違いありません。そしてそこには、彼の強い願いも込められていたのではないでしょうか。まだ遅すぎることはない。もう一度、あの体験を、福音を聞いて信じ、聖霊を受けたことを思い起こして、そこに立ち返り、自分の力や行いによって救いを得ようとするのではなく、「十字架につけられたキリスト」によって与えられた救いのもとへと、神さまの恵みのもとで生きる歩みへと戻るようにと、パウロは強く願っていたのです。あの礼儀を失した非難の言葉も、ガラテヤの人たちに対するこの強い願いの現れであったのではないでしょうか。この手紙においてパウロは、彼らに「あなたがたはもう手遅れだ」と伝えたいのではありません。そうではなく「十字架につけられたキリスト」から離れるのではなく、その下に立ち続けなさいと訴えているのです。ガラテヤの教会にやって来た人たちが、どれほど彼らが聞きたいと思っていた、魅力的で、彼らの上昇志向を満足させることを語ったとしても、惑わされることなく「十字架につけられたキリスト」の下に留まり続けることこそ、パウロの願いにほかならないのです。

聖書を貫く神のみ心
 パウロの願いと申しました。しかしそれは正確ではありません。なぜなら、それは単にパウロの願いに留まらず、神さまの願いであり、み心であるからです。2節で「あなたがた」つまりガラテヤの教会の人たちを主語として問いかけられていたことが、5節では神さまを主語としてこのように問いかけられています。「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。」ガラテヤの人たちが聖霊を受けたのは、神さまがそれを授けて下さったからです。神さまがそうして下さったのは、彼らが律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたからなのです。神さまの救いは、私たちの行いに対するご褒美などではありません。告げ知らされた福音を信じ、聖霊の働き、導きを祈り求める群れに、神さまは一方的な恵みによってみ業を成してくださっているのです。そしてこの神さまの願い、み心は、聖書全体を貫いて告げられています。パウロは6節で「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです」と、創世記第15章6節のみ言葉を引用することによって、そのことを示しているのです。ガラテヤの人たちの体験は、彼らだけの体験でもなければ、彼らが初めて体験したことでもありません。それはすでに信仰の父アブラハムが体験したことなのです。この救いの体験が、福音が語られ、聞かれ、信じられるところで起こり続けてきました。そして今も、起こり続けています。私たちもこの救いの体験によってキリスト者とされたのです。もし私たちが惑わされそうであるならば、揺らいでしまいそうであるならば、この救いの体験に立ち返る必要があります。聖書全体が告げている、「十字架につけられたキリスト」による救いにこそ立ち返らなければなりません。

十字架につけられたキリスト
 教会は、どの時代どの場所にあっても「十字架につけられたキリスト」を告げ知らせてきた、と申しました。しかし「十字架につけられたキリスト」は人気がありません。そのことが告げ知らされたとしても受けが悪いのです。言葉を変えるならば、現代を生きる人たちにとってアピール力が弱いということです。その原因は、「十字架につけられたキリスト」が分かりにくいし、受けとめにくいからです。十字架は、今でこそアクセサリーのモチーフに使われたりしていますが、本来はローマ時代の処刑の道具です。それも最も残酷な処刑の道具であったと言われています。ですから「十字架につけられたキリスト」が告げ知らされるとは、私たちの目の前で処刑されたキリストがはっきりと描き出されることなのです。それは私たちにとって目を背けたいことに違いありません。何故なら処刑されたキリストが描き出されるとき、そこでは同時に私たちの罪が描き出されるからです。「十字架につけられたキリスト」の人気がないのは、そのことが告げられるとき、人間の罪が必ず語られるからです。私たちは自分の罪について見たくないし、聞きたくないし、知りたくないし、分からないふりをしていたいのです。しかし「十字架につけられたキリスト」はそのようなことを許してはくれません。だから受け入れられず拒まれるのです。教会は絶えず大きな誘惑に晒されていると言えます。「十字架につけられたキリスト」を語ることを避けて、もっと分かりやすい受けの良いことを語るという誘惑に晒されているのです。行いによる救いは、ガラテヤの人たちがそうであったように、私たちにとっても魅力的で分かりやすく受けとめやすいのです。善い行いを積み重ねなさい、そうすれば救われますと言われたほうが、私たちの上昇志向にあっているし励みにもなるからです。けれども、もし行いを積み重ねることによって私たちが救われるのだとしたら、キリストが十字架につけられる必要はありませんでした。私たちが上っていくことによって救いが得られるのだとしたら、キリストは十字架の死という最も低いところまで下る必要などなかったのです。私たちは行いによってではなく、福音を聞いて信じ、救われたのです。ですからたとえ人気がなく、受けが悪かったとしても、私たちは、そして教会は、「十字架につけられたキリスト」なしの福音を語ることはできません。あるいは「十字架につけられたキリスト」をおまけにして福音を語ることもできません。そこにこそ私たちの救いがあるからです。
 「十字架につけられたイエス・キリスト」は、「十字架につけられたままのイエス・キリスト」と訳すこともできます。「十字架につけられたまま」というのは、主イエスが十字架につけられたままになっているということではありません。聖書はそのようなことを告げていません。聖書が告げているのは、キリストが十字架で死なれ、墓に葬られ三日目に復活したということです。ですから「十字架につけられたまま」というのは、主イエス・キリストの十字架の死が単なる過去の出来事ではなく、どの時代どの場所を生きる人にとっても決定的な出来事だということであり、今を生きる私たちにとっても、歴史の一コマなどではなく、私たちを生かしている決定的な出来事だということなのです。私たちの救いとは、主イエス・キリストの十字架によって実現した罪と死からの解放にほかなりません。このことによって私たちは今、罪と死の恐れから自由にされ生かされています。「十字架につけられたキリスト」が告げ知らされるとき、私たちの罪が明らかになるだけでなく、その罪のために死んでくださったキリストによる救いがはっきりと告げられます。あなたは罪と死の支配から解放されて、神さまの恵みの支配へと入れられている、あなたは救われていると告げられるのです。この救いこそ教会が語らなければならないことであり、語るべき唯一のことです。宗教改革者ルターは「イエス・キリストの十字架の上での苦難と死以外の場所では、神は決して認識されない」と言っています。その神とは、私たちを愛し抜かれ、それゆえに御子を十字架の死に渡された神です。「十字架につけられたキリスト」にこそ神さまの愛が示されています。世の中の受けは悪いかもしれません。そのようなことを語っていたら伝道が進まないと思うこともあるかもしれません。それでも私たちは「十字架につけられたキリスト」の真下に立ち続け、それを告げ知らせ続けるのです。「十字架につけられたキリスト」が語られるところでだけ、その福音を聞いて信じ、洗礼を授かり、聖霊を受けその導きによって生きる者たちが起こされていくのです。私たちには「十字架につけられたキリスト」しかありません。「十字架につけられたキリスト」がすべてであり、それ以外なにも必要ないのです。

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