説教 「静かにささやく声」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 列王記上第19章1-21節
新約聖書 ローマの信徒への手紙第11章1-5節
イゼベルの怒り
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書列王記上からみ言葉に聞いており、前回、1月には第18章を読みました。そこには、主なる神の預言者エリヤが、ただ一人で、異教の神バアルの預言者450人と対決して勝利したことが語られていました。バアルの預言者がいくら呼ばわってもバアルからの答えはなかったのに対して、エリヤの呼びかけに主は火をもってお答えになったのです。この出来事を見た人々は、「主こそ神です」と言って、エリヤが命じた通りにバアルの預言者たちを捕え、殺したのです。本日の19章の1節に「アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた」とありますが、「エリヤが預言者を剣で皆殺しにした次第」とはこの18章に語られている、バアルの預言者を殺したことです。アハブは時の北王国イスラエルの王であり、イゼベルはその妻です。アハブは妻イゼベルの影響を受けて、イゼベルの出身地であるシドンの人々が拝んでいた偶像の神であるバアルをイスラエルに持ち込み、その神殿を築き、主なる神の預言者を迫害していました。なので16章33節には、アハブは「それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」と語られています。北王国イスラエルにおける最悪の王とその妻としてこの二人の名前は記憶されているのです。エリヤはこの二人がイスラエルに導入したバアルの預言者たちと対決して勝利し、彼らを殺したために、アハブとイゼベルの激しい怒りを受けることになりました。2節にあるように、イゼベルは「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」と語り、それをわざわざ使者を送ってエリヤに告げさせたのです。「24時間以内に必ずお前を殺してやる」という宣言です。
絶望の中から再び立てられたエリヤ
それを聞いたエリヤは恐れてその場を逃れ、「ユダのベエル・シェバ」に来た、と3節にあります。ベエル・シェバは南王国ユダの最も南の町です。北王国イスラエルから、南王国の南のはじまで逃げて来たのです。しかしそれでもなお安心はできず、さらに南の荒れ野へと逃げていきました。荒れ野を1日歩き続けた後、一本のえにしだの木の下に座った彼は、自分の命が絶えるのを願ってこう祈りました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。このエリヤの姿は、18章における、ただ一人で450人のバアルの預言者と対決した姿とは対照的です。あの時の、主なる神への信頼に基づく自信に満ちた力強い姿はどこへ行ってしまったのか、と思います。今彼は、希望を失い、無力感に捕えられ、神が命を取り去ってくれることを願っているのです。18章と19章ではこのように大きな落差がありますが、そのことを不思議に思う必要はありません。むしろそれは当然のことだと思います。18章で彼は確かに、輝かしい勝利をおさめました。言ってみれば人生の絶頂を体験したのです。しかしそれは束の間のことで、現実は、19章にあるように、イゼベルの激しい怒りによって殺されそうになっているのです。つまりあの勝利にもかかわらず、アハブとイゼベルの支配は少しも変わっていない、その現実を彼はつきつけられているのです。18章における勝利が大きかっただけに、この現実は彼をうちのめしています。「あの戦いは何だったのか、何にもならなかったのではないか」という思いが彼を捕えているのです。「主よ、もう十分です」という言葉は彼のそういう思いを現しています。「もう嫌だ」という思いです。そして、「もう生きていたくない」とも言っています。成功から一転して絶望の淵に投げ込まれる時、もう何もかも投げ出したい、いっそ死んでしまいたい、という自暴自棄に陥ることが、私たちもあるのではないでしょうか。本日の19章には、そのような絶望に陥ったエリヤが、主なる神によって再び預言者として立てられ、遣わされていったことが語られています。そのことはどのようにして起ったのでしょうか。
神の山ホレブに導かれたエリヤ
絶望の中で死を願い、えにしだの木の下でいつしか眠りに落ちたエリヤのもとに、主の御使いが現れて、彼にパンと水を与えました。そのことが二度繰り返されました。それは7節で御使いが語っているように、これから先の長い旅に耐える体力を彼に与えるためでした。8節には「その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」とあります。神の山ホレブは、イスラエルのはるか南、シナイの荒れ野にある山で、モーセが主なる神と最初に出会い、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するために遣わされた場所です。またエジプトを出て約束の地へと向かうイスラエルの民に主なる神がモーセ通して十戒をお与えになったのもこの山だと言われています。神の山ホレブは、モーセが、そしてイスラエルの民が、主なる神に遣わされて、また主なる神の民として、歩み出した原点と言うべき所なのです。その「神の山」へとエリヤは導かれました。主がご自分の懐の内へと迎え入れて下さったのです。絶望に陥ったエリヤの再出発はそこでなされたのです。
あなたはここで何をしているのか
神の山ホレブに着いたエリヤは、そこにあった洞穴に入って夜を過ごしました。そこに、主なる神の言葉があったと9節にあります。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。これはとても深い意味を持った問いかけです。「あなたはここで何をしているのか」、神がそのように問われる時、それは、あなたは今どのように生きているのか、どのように生きようとしているのか、という問いです。私たちも神からこのように問われています。私たちはそれにどう答えるでしょうか。
エリヤはこう答えました。10節です。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。「あなたはここで何をしているのか」という主なる神の問いに対するエリヤのこの答えは、いろいろな点で正確ではありません。イスラエルの人々が主なる神との契約を捨てて異教の神バアルを拝むようになっているのはその通りです。でも彼らが祭壇を破壊し、主の預言者たちを剣にかけて殺したことは、少なくとも列王記には記されていません。それをしたのはイゼベルです。また、「わたし一人だけが残り」とありますが、これも正しくはありません。18章には、アハブ王の宮廷長であるオバドヤという人が、主なる神の預言者百人をイゼベルの手から守り、かくまったことが語られています。エリヤだけが残っているわけではないのです。さらに、「彼ら(つまりイスラエルの人々)はわたしの命をも奪おうとねらっています」と言っていますが、エリヤの命を奪おうとねらっているのもやはりイゼベルであってイスラエルの人々ではありません。つまりエリヤがここで「自分はこういう状態に陥っている」と語っていることは、かなり不正確であり、混乱しているのです。絶望して自暴自棄になっている時には、誰もがそうなるでしょう。エリヤは自分の置かれている状況が正確に見えなくなり、同胞であるイスラエルの人々が自分を殺そうとしていると思っています。つまり被害妄想に捕えられているのです。私たちにもそういうことはよく起こるのではないでしょうか。
そこを出て、主の前に立ちなさい
そのように苦しみによる絶望の中で混乱したことを語っているエリヤに、主は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」とおっしゃいました。「そこ」というのは、彼が入っている洞穴です。そこには彼がこの苦しみの中で引きこもっている場所、という象徴的な意味が込められています。苦しみ、絶望の中で彼は、自分だけの世界に引きこもり、そのために自分のことを正しく見つめることができなくなっており、被害妄想にとりつかれているのです。主はその洞穴から出てくるように、そして主の前に立つようにと彼に語りかけておられるのです。
静かにささやく声
11節後半以降に、不思議なことが語られています。「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた」。通り過ぎるって、どこをどう通り過ぎて行ったのだろうかと思います。しかしこれは、「主の前に立ちなさい」というみ言葉との繋がりの中で捉えるべきことだと思います。主なる神は、エリヤが、引きこもっている洞穴から出て、主の前に立つことを求めて、そのためにエリヤのもとに来られたのです。「通り過ぎて行かれた」はそのことを意味していると考えるべきでしょう。そしてエリヤのもとに来られた主の御前には「非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた」のです。山を裂き、岩を砕くほどのものすごい暴風が、主なる神の御前に起こったのです。「しかし、風の中に主はおられなかった」。そのようなことが繰り返し語られています。「風の後(のち)に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった、しかし、火の中にも主はおられなかった」。これらのことは何を意味しているのでしょうか。そのことは、次に「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」と語られていることとの繋がりの中で分かって来ます。風や地震や火は、主なる神がご自身を現される時に、そのしるしとしてよく語られることです。主なる神の力や栄光を示すしるしです。通常はそれらのしるしの中で主が人々にご自身を現されるのです。しかしその中に主はおられなかったというのは、それらの激しいしるしを体験することによってエリヤが洞穴を出て主の前に立つことはできなかったということです。彼が引きこもっているほら穴から出て来て主の前に立ったのは、それらの激しいしるしによってではなくて、「静かにささやく声」を聞いたことによってだったのです。静かにささやく声によってこそ、エリヤは主なる神の前に立つことができたのです。このことを、主なる神は暴風や地震や火のような激しい、力に満ちたしるしの中にはおられない。むしろ静かにささやく声によってこそご自身を現されるのだ、と捉えてしまうことは間違いです。旧約聖書には確かに、暴風や地震や火という激しい力に満ちたしるしを伴って主がご自身を現されたことが語られているのです。しかしこのたびはそうではありませんでした。それは主が、苦しみや絶望に陥っているエリヤのことを、思いやって下さったということです。主なる神と言えども、苦しみの中で絶望に陥っている者を、激しいしるしによって言わば力ずくでご自身のみ前に立たせることはできなかったのです。だから主は、それとは別の仕方で、静かなささやく声によってエリヤに語りかけ、彼が自分から出て来てみ前に立つことを促して下さったのです。その静かなささやく声を聞いた時に初めて、エリヤは引きこもっている洞穴から出て、主の前に立つことができたのです。このように主なる神は、私たちそれぞれの状況に応じた仕方で、語りかけ、私たちが、引きこもっている自分の世界から出て来て、主の前に立つことができるようにして下さるのです。主なる神のそういう恵み、私たち一人ひとりに対する慈しみがここに描かれていると言うことができると思うのです。
洞穴から出て主の前に立つことによって
洞穴から出て来たエリヤに主は再び語りかけます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。先ほどと同じ問いです。14節に語られているエリヤの答えも、先ほどと全く同じです。つまり彼は相変わらず混乱しており、正確なことが見えておらず、被害妄想にとりつかれています。けれども彼は今、引きこもっていた洞穴から出て、主なる神の前に立っているのです。それが大事なことです。苦しみの中で混乱し絶望してしまう私たちは、自分自身の洞穴に引きこもってしまいます。そこではものが正しく見えなくなり、被害妄想にとりつかれ、泣き言や恨み言ばかりを語るようになってしまいます。主なる神はその私たちに「そこを出て、わたしの前に立ちなさい」と語りかけて下さいます。しかも力づくにではなく、私たちが自分から出て行くことができるように、一人ひとりに相応しい仕方で語りかけて下さるのです。そのみ声を聞いて、それに応えて、自分自身の洞穴を出て、主なる神の前に立って、そこで「あなたはここで何をしているのか」という主の問いに、正直に答えていくことが大事なのです。私たちの答えは、相変わらず混乱しており、間違っていることが沢山あります。しかしそのありのままの自分を、主なる神の前で、取り繕うことなくさらけ出すことから、神によって新しいことが始まるのです。
神の懐の中で
しかも、エリヤが今いる所は神の山ホレブだということを忘れてはなりません。主はエリヤを力付けて、四十日四十夜の旅路を歩ませ、ご自分の山へと導き、ご自分の懐の内に迎え、守って下さっているのです。エリヤは今、24時間以内にお前を殺してやると息巻いているイゼベルの脅威にさらされているのではありません。イゼベルの手の及ばない、主なる神の懐の中で、守られ、そこで主と向き合っているのです。その主なる神がエリヤにこう語りかけます。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」。主なる神はエリヤを、もう一度、彼が逃れてきたあの現実の中へと遣わそうとしておられるのです。それはエリヤが、恐れと絶望による混乱から抜け出して強くなり、正確にものを見ることができるようになり、もう泣き言を言わなくなったからではありません。エリヤ自身は以前と変わってはいません。しかし違うのは、その彼を主なる神がご自分の懐に迎えて下さり、静かにささやく声によって彼に語りかけて下さり、彼をご自分の前に立たせて下さっている、ということです。自分を守り、支え、共にいて下さる主なる神のみ前に立ち、その主に「行け」と遣わされることによって、エリヤはもう一度、厳しいこの世の現実の中へと帰って行くことができたのです。
使命を与えられて
主はそのエリヤに三つの使命をお与えになりました。三人の人に油を注ぐ、という使命です。一人はハザエル、この人はアラムつまりシリアの王の家臣ですが、この後主君を殺して王となるのです。もう一人はイエフ、彼は北王国イスラエルにおいて、アハブの後継者となったその子ヨラムを殺してイスラエルの王となる人です。そして三人目はエリシャ、彼はエリヤの後を継いで主の預言者となる人です。これらの人たちに油を注いで、主なる神が王として、また預言者としてお選びになっている者を立てるという使命をエリヤは与えられたのです。そして17節にはこうあります。「ハザエルの剣を逃れたものをイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう」。これはつまり、これらの人々によって、主なる神との契約を捨て、異教の神バアルを拝むようになってしまったイスラエルの人々に対する主の裁きが行われる、ということです。つまりエリヤは、主なる神の裁きのみ業を担う者たちを立てるために遣わされるのです。そこに示されているのは、エリヤが改めて遣わされ、帰って行くこの世の厳しい現実を本当に支配しているのは主なる神だ、ということです。主はこの使命をエリヤに与えることによって、主こそがこの世界を支配しておられ、敵対する者たちをお裁きになるのだ、ということを示して下さったのです。エリヤは、自分を守り、支え、共にいて下さる主なる神の前に立つことによって、その主なる神こそが、彼が恐れているこの世の現実を支配しておられる方であることを示されて、再び預言者として立てられ、遣わされたのです。
七千人を残す
19節以下には、主によって再び遣わされたエリヤが、エリシャに出会い、自分の外套を投げかけることによって彼を招き、エリシャがエリヤに従い、仕える者となったことが語られています。そこには、エリヤがエリシャに油を注いだとは語られていません。そして実はこの後のところを読んでいっても、エリヤがハザエルに油を注いだことも、イエフに油を注いだことも語られていません。つまりエリヤは、ここで与えられた主からの使命を果たすことができなかったのです。しかしそれでも、主なる神が告げた裁きは実現していきました。ということは、主がエリヤにこの使命を与えたのは、エリヤによってそれを実現するためではなくて、彼が、自分は主のご支配とご計画の中にあるのだということを知って、力を与えられ、主のご支配を信じて生きていくためです。そのために主はもう一つのことをも示して下さいました。それが18節の「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」ということです。主は、バアルにひざまずいているイスラエルの人々への裁きを行うことをエリヤにお告げになりました。しかしその裁きと共に、なお七千人を、主なる神の民として残す、と告げて下さったのです。エリヤは、主なる神に従う者たちは皆殺されて、自分一人だけが残ったと思っています。だからもうだめだと絶望しています。しかし主は、人間の罪によって覆い尽くされているように見えるこの現実の中に、その恵みによって、ご自分の民を残して下さっているのです。パウロはローマの信徒への手紙第11章4節でこのことを引用して、「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」と語っています。それは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスによる救いにあずかって、新しい神の民とされている者たちのことです。主なる神の恵みによる選びによって、主イエス・キリストによる救いにあずかる群れである教会が存在しており、私たちが選ばれてそこに連なっているのです。主はそのことを、静かにささやく声によって私たちに語りかけて下さっています。そのみ声を聞いて、自分自身の中に引きこもっている洞穴から出て、主の前に立つことによって、私たちも新しく力を与えられて、新たな人生へと遣わされていくのです。