主日礼拝

油を注がれた者

「油を注がれた者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第2章20-21節
・ 讃美歌:

イエスというお名前
 私たちが毎週の礼拝で告白している「使徒信条」には、およそキリスト教会であればどの教派においても信じられている、信仰の基本が語られています。その使徒信条に導かれて、聖書のみ言葉に聞いているわけですが、今はその第二の部分に入っています。第一の部分には父なる神への信仰が語られていましたが、第二部には、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰が語られています。独り子である神イエス・キリストを信じることが、教会の信仰の基本なのです。本日はこの「イエス・キリスト」という呼び方についてみ言葉に聞いていきます。
 イエスというのはお名前です。主イエスの誕生を語っているクリスマスの物語において、マタイ福音書ではヨセフに、ルカ福音書では母マリアに、天使が、生まれてくる子に「イエス」と名付けなさいと命じています。つまりイエスという名は、母マリアや夫ヨセフが考えて付けたのではなくて、神から示されたものです。しかしこれは当時そんなに珍しい名前ではありませんでした。イエスという名前の意味は「神は救い」ということです。神の救いを信じ、待ち望んでいたユダヤ人たちがよく子どもに付けた名前だったのです。聖書には他にもイエスという人がいたことが語られています。神は、ユダヤ人たちの間に普通にある名前を、人間としてこの世に遣わした独り子にお与えになったのです。でもそこには大切な意味が込められていました。「神は救い」という意味の名前を子どもに付けたユダヤ人たちは、神の救いを願い、待ち望んでその名を付けたのですが、神が独り子にイエスという名を与えたのは、まさにこの主イエスによって救いを実現して下さろうとしていたからです。つまりこの名は、主イエスが救い主であられることを示しているのです。ありふれた名前だから人々は気づかなかったけれども、救いのみ業をいよいよ実現して下さろうとしている神の決意が「イエス」という名に示されていたのです。

キリストとは
 それでは「キリスト」はどういう意味なのでしょうか。それは苗字ではありません。「イエス・キリスト」はキリスト家のイエスさんではないのです。「キリスト」は新約聖書が書かれたギリシア語では「クリストス」です。この言葉は勿論聖書のあちこちに出て来ますが、例えばマタイによる福音書の16章16節にもあります。そこには、弟子であるシモン・ペトロが主イエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言って信仰を告白したことが語られています。この「メシア」という言葉が、原文では「クリストス」つまりキリストなのです。つまり新共同訳聖書は「キリスト」という言葉を「メシア」と訳したのです。「キリスト」は、旧約聖書のヘブライ語のメシアという言葉がギリシア語に訳されたものです。ですから新共同訳は「キリスト」を元のヘブライ語の言葉である「メシア」に置き換えたのです。これは翻訳とは言えません。メシア、という言葉を多くの日本人が知っており、その意味が了解されているのならともかく、キリストよりもっと馴染みのないメシアと訳されても何のことやら分からないでしょう。ここは以前の口語訳聖書のように「あなたこそ、生ける神の子キリストです」としておいて欲しかったと思います。ペトロはここで、イエスこそ「キリスト」だと告白したのです。

油を注がれた者
 この「キリスト」という言葉は、そしてその元の言葉である「メシア」は、「油を注がれた者」という意味です。「油を注ぐ」というのは旧約聖書において、神がある人をある務め、任務へと立てる、任職することを表しています。「油を注がれた者」とは、神によってある務めを与えられた人、ということです。具体的には、イスラエルに王が立てられた時、サムエルが、神からの示しに従ってサウルに、次いでダビデに油を注いだことがサムエル記上に語られています。イスラエルの王は神によって「油を注がれた者」なのです。そのように神がある人を大事な務めへと召し出し、任命する時に、油を注ぐ、ということがなされました。そして次第にこの「メシア(油を注がれた者)」という言葉は、神から遣わされる「救い主」を意味するようになっていきました。救い主はダビデ王の子孫として生まれる、という預言も影響しているのでしょう。油を注がれた者、メシアを救い主として待ち望む、という信仰が主イエスの当時高まっていたのです。ペトロは、主イエスこそ、聖書に預言され、人々が待ち望んでいるメシア、キリストだ、つまり救い主だ、という信仰を告白したのです。
 それは主イエスご自身の自覚でもありました。ルカによる福音書の第4章16節以下には、主イエスが伝道を始めて間もなく、お育ちになったナザレの町の会堂で、ある安息日に聖書を朗読して語られたことが記されています。朗読されたのは、本日の礼拝において朗読されたのと同じ、イザヤ書第61章1節です。ルカ福音書ではこうなっています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。そして主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始めたのです。つまり主イエスは、自分が主なる神によって油を注がれ、遣わされた者だ、という自覚をはっきり持っておられたのです。それは福音を告げ知らせるためです。福音とは、解放と自由の知らせ、主の恵みの年の到来を告げる知らせです。その福音を告げ知らせ、解放と自由を実現し、主の恵みの年をもたらす救い主としての務めを、父なる神が主イエスにお与えになり、主イエスはその務めを果されたのです。主イエスが油を注がれた者、メシア、キリストであるとはそういうことです。このように「キリスト」は名前ではなくて「救い主」という意味です。ですから「イエス・キリスト」という呼び方はそれ自体が「イエスはキリスト、救い主である」という信仰の告白なのです。イエス・キリストを信じること、つまりイエスこそ救い主キリストであると信じることが教会の信仰なのです。

王、祭司、預言者
 そして古来教会は、主イエスが「キリスト」であることに、主イエスの救い主としてのみ業の豊かさを見出して来ました。それはこの言葉が「油を注がれた者」という意味であり、主なる神によってある務めを与えられた者のことだったという点に注目することによってです。主なる神が主イエスにどのような務めをお与えになったのか、言い換えれば主イエスはどのような務めを果たすことによって私たちの救い主であって下さるのか、を見つめていったのです。旧約聖書において、神がイスラエルの民の中に、油を注いで立てて下さった務めには、先ほど申しましたように先ず「王」があります。王の下に民の秩序が整えられ、また王が周囲の敵から民を守る務めを担うことによって、イスラエルはこの世を神の民として歩んでいくことができたのです。しかし油を注がれて立てられたのは王だけではありません。最初は幕屋における、後には神殿における礼拝を司る「祭司」も、油を注がれて立てられました。祭司たちも「油を注がれた者」だったのです。神がイスラエルの民の中に王と祭司を、油を注いで立てて下さったことによって、イスラエルは秩序を整えられ、敵から守られ、神を礼拝しつつ、神の民として歩むことができたのです。そして神がこの民に遣わして下さったもう一つの務めがあります。それは「預言者」です。預言者は王や祭司のように公に任命されるものではありませんが、神は民にみ言葉を告げるために、その都度預言者を立て、遣わして下さったのです。預言者が告げた神の言葉は、イスラエルの民にとって、また王や祭司たちにとっても、自分たちの罪を指摘する耳障りな言葉でもありました。しかしまた、彼らが苦しみや絶望に陥っていた時に、預言者が語る神の言葉が慰めと希望を与えたということもありました。神が遣わして下さった預言者の働きによって、イスラエルは神のみ言葉に導かれる神の民であることができたのです。このように主なる神は、王、祭司、預言者という三つの務めを担う人を立て、遣わして下さることによって、イスラエルをご自分の民として導いて下さったのです。

預言者、祭司、王である主イエス
 主イエスがキリストである、油を注がれた者であるというのは、主イエスがこの三つの務めの全てを父なる神によって与えられたことを意味しています。主イエスはこの三つの務めの全てを行うことによって、私たちの救い主となって下さったのです。
 主イエスがこの三つの務めを果して下さったことを、聖書はどのように語っているのでしょうか。先ず、預言者としての務めです。先ほどのイザヤ書61章に語られていたのは、油を注がれた人が福音を告げ知らせる務めを与えられて遣わされている、ということでした。それは預言者としての務めだと言えます。主イエスはまさに福音を告げ知らせ、神による解放と自由を宣言するためにこの世に遣わされたのです。主イエスはそれをただ告げ知らせるだけでなく、十字架の死と復活によって実現して下さいました。主イエスこそ、父なる神のみ言葉を私たちに告げ知らせ、私たちがそのみ言葉によって生きる者となるという預言者としての務めを完成して下さった方だったのです。主イエスがまことの預言者となって下さったことによって、私たちの救いは実現したのです。
 次に祭司としての務めです。祭司は礼拝を司る務めだと先ほど申しましたが、旧約における礼拝は、動物を犠牲として神にささげる礼拝でした。それが幕屋において、そして神殿においてなされたのです。その中心にあったのは、動物の命が人間の身代わりとしてささげられ、それによって人間の罪が赦されて、神の民として歩み続けることができる、ということです。祭司はそういう礼拝を司ることによって、イスラエルの民が罪を赦されて神の民であり続けるために仕えたのです。言い換えれば、祭司とは、神と、罪ある人間との間に立って執り成しをする者です。主イエスはこの祭司としての務めをまさに成し遂げて下さいました。しかも主イエスは、動物を犠牲としてささげることによってではなくて、ご自分が十字架にかかって死んで下さることによって、つまりご自分の命を犠牲にして、私たちの罪の赦しを実現し、父なる神と罪人である私たちとの執り成しをして下さったのです。そのことはヘブライ人への手紙に集中的に語られていますが、主イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦されたことは新約聖書全体の土台となっています。主イエスがまことの祭司として執り成しの務めを完成して下さったことによって、私たちの救いが実現したのです。それゆえに教会はもはや、動物を犠牲としてささげる礼拝をする必要はないのです。
 そして王としての務めです。主イエスの地上のご生涯は、王の姿とはかけ離れた、貧しさの中で人々に仕える歩みでした。しかし主イエスがご生涯の最後にエルサレムに入られた時、ろばの子に乗られました。マタイによる福音書第21章5節によればこれは、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」という預言の実現だったのです。またその主イエスを人々が「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで迎えたとも語られています。貧しさの中で人々に仕えた柔和で謙遜な方である主イエスこそ、ダビデの子として、主の名によって来るまことの王であられたのです。そして父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、この主イエスを頭として、キリストの体である教会を築いて下さいました。教会は主イエスのもとに集められた新しい神の民、新しいイスラエルです。マタイによる福音書第28章18節以下において、復活した主イエスが弟子たちに、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とお命じになりました。復活して天と地の一切の権能を授かった主イエスに従う群れである教会に、私たちは洗礼を受けて加えられ、まことの王であられる主イエスの下で生きる者とされるのです。このように主イエスが私たちのまことの王となって下さったことによって、救いは実現したのです。
 このように、主イエスは預言者、祭司、王としての務めを完成して下さったことによって私たちの救い主となって下さったのです。主イエスは父なる神によって油を注がれて、この三つの務めを与えられ、ご生涯を通して、そして十字架の死と復活によってその務めを完成して下さったのです。主イエスは油を注がれた者としてこれらの務めを果して下さったことによって私たちの救い主となられたのです。

聖なる方から油を注がれた私たち
 私たちは、この救い主イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、教会の一員とされます。それは私たちが主イエス・キリストと結び合わされ、キリストの体の一部とされる、ということです。教会は、キリストが頭であるキリストの体です。私たちは洗礼において頭であるキリストと結び合わされて、その体の一部となるのです。そのことによって、父なる神が主イエスに注いで下さった油が私たちにも注がれるのです。私たちも油を注がれた者となるのです。ヨハネの手紙一の第2章20節に「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので」とあります。私たち信仰者は、神から油を注がれた者、つまりキリストとなっているのです。私たちがキリスト者、クリスチャンであるとはそういうことです。主イエスに与えられた「キリスト」という称号を私たちも担って生きているのです。主イエスが父なる神によって油を注がれて与えられた預言者、祭司、王としての務めを、その一端を、私たちも担う者とされているのです。

私たちも預言者、祭司、王としての務めを担う
 私たちも預言者としての務めを担います。神のみ言葉を、独り子主イエスによって神が実現して下さった救いの福音を、人々に告げ知らせていくのです。先ほどのマタイ福音書28章の主イエスのご命令は、そのことを教会に命じておられます。キリストの体である教会の部分とされた私たちは、その伝道の使命を共に担っていくのです。
 また私たちは祭司としての務めをも担います。祭司とは、神と人との間の執り成しをし、罪ある人間が神の民として生きるために仕える者です。その祭司としての働きを、信仰者はお互いに、お互いのために担う、それが私たちプロテスタント教会の基本原理の一つである「万人祭司」ということです。教会の中で特定の指導者、聖職者だけが祭司の務めをするのではなくて、全ての信徒はお互いのために祭司としての務めを負う、つまり兄弟姉妹が罪を赦されて、神の民として歩むために祈り合い、支え合っていくのです。誰かのために祈り、祭司の務めをしているその私も、誰かの祭司としての祈りに支えられている、それがキリストの体である教会のあり方です。このことは、コロナ禍によって皆で共に礼拝や集会をすることが出来なくなっている今、私たちが特に大切にしていかなければならないことです。
 また私たちは王としての務めをも担います。それはちょっと分かりにくいことかもしれません。イスラエルに王が立てられたことを語っているサムエル記上には、民が王を求めたことは神のみ心に適わないことだったと語られています。神の民イスラエルのまことの王は主なる神なのです。人間の王を求めることは、まことの王である神に信頼せず、目に見える人間に頼ろうとする罪なのです。しかしサムエル記には、にもかかわらず神が王を選び、油を注いで立てて下さったことが語られています。イスラエルが罪に満ちたこの世の現実の中で、秩序ある民として、敵から守られて歩むためには、人間の王が必要であることを神が認めて、王を立てて下さったのです。その人間の王の務めは、神こそがこの民のまことの王であることをはっきりと示し、その神のご支配の下に民の秩序を整え、その存在を脅かす敵と戦っていくことでした。私たちも、教会において、この王の務めを共に担っているのです。それは私たちが王になるということではなくて、主イエス・キリストこそが教会のまことの王であられることを明らかに示し、人間の思いや願いにではなくて、キリストのみ心にこそ従う群れを築いていくということです。その先頭に立つのが長老会である、というのが、私たちが受け継いでいる長老教会の考え方です。長老会を中心として、主イエス・キリストこそが王として支配しておられる群れを築いていくという務めへと、私たち皆も立てられているのです。

聖霊のお働きによって
 預言者、祭司、王という三つの務めは、全て主イエス・キリストが実現して下さり、私たちの救い主となって下さったものです。その救いにあずかった私たちは、主イエスが成し遂げて下さったこれらの務めのほんの一端を、少しばかり、担わせていただく者とされるのです。それは私たちの持っている力によってできることではありません。イザヤ書61章にも、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた」とあります。油を注がれるというのは、主なる神の霊、聖霊が私たちをとらえて下さることなのです。キリストの体である教会も、聖霊が弟子たちに注がれたことによって誕生しました。私たちが主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けて教会に加えられたのも、すべて聖霊のお働きによることです。私たちは、聖霊という油を注がれて、キリストの体の部分とされ、そして聖霊のお働きによって、主イエスが果して下さった預言者、祭司、王としてのお働きを、そのほんの一端を、担わせていただくのです。主イエスがキリストであると信じるとは、私たちにもこの聖霊の油が注がれていることを信じることなのです。

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