主日礼拝

今こそ安らかに

「今こそ安らかに」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第46章1-4節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第2章21-38節
・ 讃美歌:4、180、571

二人の老人
 ルカによる福音書の第2章は、主イエス・キリストの誕生の物語を語っています。この後の41節以下には、12歳になった少年イエスについてのエピソードがありますが、本日のところまでは、主イエスはまだ生まれたばかりの赤ちゃんです。赤ちゃんは、お母さんに抱かれ、おっぱいを飲んでいるか、寝ているか、泣いているかです。それ以外には何もできません。そのような赤ちゃんである主イエスと出会った人々のこと、そのことによって彼らに起ったことが本日の箇所に語られています。その人々は二人の老人です。一人はシメオン、もう一人はアンナといいます。レディーファーストで先ず36節以下のアンナのことを紹介しますと、女預言者で、若いときに嫁いで七年間夫と共に暮らし、夫に死に別れて今は八十四歳になっていました。エルサレムの神殿から離れず、断食したり祈ったりしながら、夜も昼も神に仕えていたのです。この人が、両親に連れられてエルサレム神殿に来た赤ちゃんの主イエスを見て、神様を賛美し、人々にこの幼子のことを話して聞かせたのです。
 もう一人はシメオンという男性です。25節以下にその人のことが語られています。この人は、「聖霊が彼にとどまっていた」とあり、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていました。メシアというのは、神様が約束して下さっている救い主のことです。救い主に会うまでは死ぬことはない、救い主が現れるまで生き残る、という約束を聖霊によって与えられていたのです。この人が、エルサレム神殿に来た赤ちゃん主イエスを見て、腕に抱いて神様をほめたたえる賛美を歌ったのです。アンナとシメオンのしたことは共通しています。赤ちゃんである主イエスと出会って、神様に感謝し、ほめたたえたのです。

安心して死ねる
 ところで、この箇所についてのある人の説教を読みましたら、シメオンが老人だったとは聖書のどこにも書いていない、と指摘されていました。そう言われてみればそうです。アンナは八十四歳だったとはっきり書いてありますが、シメオンについては年齢も、また「年寄りだった」とも書かれていません。彼が「メシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けており、そして主イエスと出会って「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言った、それは「これでもう安心して死ぬことができる」という意味に取ることができるゆえに、この人は相当の年齢だったのだろうと想像されているだけです。しかしこれらのことは、彼が年寄りだったということの証拠にはなりません。もっと若い、例えば私ぐらいの年齢の人だったということだってあり得るのです。ですから先ほど、ここには赤ちゃんである主イエスと出会った二人の老人の話が語られていると申しましたことには訂正を加えなければならないかもしれません。これは必ずしも老人の話ではないのです。救い主イエス・キリストと出会うことによって、年配者、老人に何が起るか、ということを語っているのではありません。シメオンの言葉は、「もう思い残すことはない、これで安心して死んでいける」と理解することができますが、それは決して、高齢の人が、近づいて来る死を平安の内に受け入れることができるようになった、という言葉ではないのです。この言葉は、まだ若い、壮健な、人生の盛りの時を過ごしている者であっても語ることができる、いや、このように語ることができる所にこそ、本当に幸せな、充実した人生がある、という言葉なのです。それは一つには、私たちは自分が何時死ぬのかを知らないからです。平均寿命というのが一つの目安としてありますけれども、自分がそこまで生きることが保証されているわけではありません。若くても死は訪れるのです。ですから、「これで安心して死んでいける」という言葉は、年を取ってから語れるようになればよいというものではありません。明日、いや今日突然死を迎えるかもしれない、そうなった時に「安らかにこの世を去ることができる」と語れるのか、私たち全ての者にそのことが今問われていることなのです。
 しかしこの言葉が大事なのは、人間いつ死ぬか分からないのだから、というだけのことではありません。この言葉は、どのような思いを抱いて死ぬかというよりもむしろ、どのような思いを抱いて生きているか、を語っている言葉です。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」とは、「私はそのように言うことができる安らかさを、平安を、満足を得ました。その安らかさの中を生きています」ということです。つまりこう言ったからといって別にすぐに死ななくてもよいのです。このような安らかな思いを抱いて生きることができるようになった、そこにこそ、本当に充実した、幸福な人生があるのです。このような言葉を語りつつ生きることができるかどうかこそが、私たちの人生の課題であると言えるでしょう。

慰めを待ち望む
 シメオンもアンナも、満足できる幸福な生活を送っていたからこのように語ったり、神様を賛美することができたのではありません。シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた、と25節にあります。慰めを待ち望みつつ生きていたのです。それは、慰めをまだ見出していない、まだ慰めを得ていない、ということです。既にそれを得ているなら、待ち望む必要はないのです。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という聖霊のお告げは、この慰めを見出すまでは死なない、ということですが、それは言い換えれば、それまでは慰めのない状態の中で歩み続けなければならない、慰めを見出すまでは死ぬことができない、ということでもあります。シメオンがこのお告げを受けてから何年が経っていたのか、先ほど申しましたように分かりませんが、いずれにしてもそれはつらい、苦しい歳月だったことでしょう。何時与えられるのか分からない慰めを待ち続けるには、忍耐が必要です。またアンナも、若くして夫に先立たれ、八十四になるまで生きてきたその歩みにおいて常に、神様の慰めを、救いを願い求め、待ち望んできたのでしょう。断食や祈りによって夜も昼も神様に仕えている彼女は、神様による救いと慰めを忍耐しつつ待ち望んでいたのです。その彼女が、赤ちゃんである主イエス・キリストと出会い、その幼子のことを「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に」話したと38節にあるのは、彼女と同じように救いを待ち望んでいる人々に、救い主の到来の喜びを、ようやく与えられた慰めを語り伝えたということでしょう。シメオンもアンナも、慰めと救いがない状態の中で、長くそれを待ち望みつつ、忍耐しつつ生きてきたのです。その慰めが、救いがようやく与えられた時に、アンナは神を賛美してそのことを人々に伝えたし、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と喜びをもって歌ったのです。
 慰めと救いとがない中で、それを待ち望みつつ生きているのは私たちも同じではないでしょうか。私たち一人一人の人生に、いろいろな苦しみや悲しみや不安があります。私たちはその中で慰めと救いとを求めています。しかし本当の慰めと救いはなかなか見出すことができません。慰めと救いが見出せない中を、それを待ち望みつつ忍耐しているのが私たちの人生だと言えるでしょう。一人一人の個人的な生活がそうであるだけではありません。今この世界で、金融不安による株価の暴落が起り、世界経済の危機が叫ばれています。株価が毎日のように乱高下する状況の解説を聞いていると、いわゆる投資家がいろいろな情報、G7がどうしたとか、どこの企業が危ないとか、そういうことに一喜一憂し、不安にかられて右往左往していることを感じます。要するに、誰も、何も信じられなくなった、という状況だということです。世界全体が、不安と疑心暗鬼に捕えられている。まさに慰めと救いのない状況の中で、本当に信頼できるもの、頼りになるものを探し求めつつ、それを見出せずにいるのです。社会全体がこのようなパニックに陥っている中で、私たちは今日、聖書のこの箇所を与えられ、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉を聞いています。これこそ、私たちが心の底から聞きたい、また語りたいと願っている言葉なのではないでしょうか。

神の救いを見る
「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます」。「安らかに去らせてくださる」のは「あなた」です。「あなた」とは主なる神様です。ここに語られている安らかさ、平安、慰めは、自分や他人のことを、つまり人間のことのみを見つめていたら得られません。それは私たちが自分の力で、人との関係の中で獲得するものではなくて、神様が与えて下さるものです。神様と自分との間に「あなたと私」という関係が与えられ、その神様によって、安らかさ、平安、慰めが与えられるのです。シメオンはその神様のみ業を見ました。30節に「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とあります。シメオンは神様の救いを見たのです。彼はいったい何を見たのでしょうか。それは両親に抱かれてエルサレムの神殿にやって来た赤ちゃんのイエスでした。この赤ん坊を見たことによって、シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言ったのです。アンナも同じです。彼女も、両親に抱かれている赤ん坊であるイエスを見て、神を賛美し、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」、つまり、この幼子こそ私たちが待ち望んでいる救いをもたらす方、メシアだと語ったのです。
 彼らは、赤ちゃんである主イエスを見て、どうしてこのように語ることができたのでしょうか。この赤ん坊こそイスラエルに慰めと救いをもたらすメシアだとどうして分かったのでしょうか。それは根本的には聖霊の示しによって、としか言いようがありません。赤ちゃんイエスのお姿の中に何かそれらしい印があった、ということではないのです。彼らが赤ちゃんイエスを見てこのように語ったことはそれ自体が一つの奇跡、神様の不思議なみ業です。しかし奇跡には必ず神様のみ心が伴います。このことにおける神様のみ心は何なのでしょうか。

神殿に上ったイエス
 そのみ心をさぐり知るためには、この時主イエスが両親に連れられてエルサレムの神殿に来ていたという事実に注目する必要があります。第2章は主イエスの誕生の物語であると申しましたが、本日の箇所は、厳密に言えば誕生の物語ではありません。生まれて八日目に割礼を施され、天使のお告げによって示された通りイエスと名付けられたことが21節に、そして22節からは、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」にエルサレム神殿に上ったたことが語られているのです。シメオンとアンナはこの神殿で主イエスに出会ったのです。ですからシメオンが「この目で見た」のは、主イエスの誕生の出来事ではなくて、律法の規定どおりに犠牲をささげるために、両親に抱かれて神殿に来た主イエスです。その主イエスを見て彼があのように語ったところに、神様のみ心が示されているのです。それはどのようなみ心なのでしょうか。
 「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間」というのは、生まれてから四十日ということです。「彼らの」清めとありますが、厳密にはこれは、母マリアの清めです。男の子を出産した母親は、四十日の間汚れており、その期間が過ぎてから、主なる神様に犠牲をささげて清めを完了するということが、旧約聖書レビ記12章に定められています。「汚れ」と言うと、女性や出産を汚れたものとして扱う差別であるように感じてしまいますが、この「汚れ」は出産の時の出血の汚れであり、その清めの期間というのは、出産後の女性を四十日間ゆっくり休ませて体力を回復させるという意味があったと思われます。彼らは、主イエスの誕生から四十日して、マリアの清めのために神殿に上ったのです。

長男は神のもの
 しかし彼らが神殿に上った理由はそれだけではありません。もう一つ、この時なされた重要な儀式があったのです。22節に「両親はその子を主に献げるため」とあります。両親は、生まれた子イエスを神様にお献げするために来たのです。なぜそうするのか。その理由が23節です。「それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」。初めて生まれる男の子、つまり長男は、主のために聖別される。聖別されるとは、神様のものとされるということです。長男は神様に献げなければならない、と律法に命じられているのです。この掟とその根拠が語られているのは、旧約聖書、出エジプト記の第13章です。その1、2節に「主はモーセに仰せになった。『すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである』」とあります。そしてそのことの意味が、同じ13章の14、15節にこう語られています。「将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである』」。エジプトで奴隷とされ、苦しめられていたイスラエルの民を、神様が救い出し、エジプトから脱出させて下さった、その時の、いわゆる過越の出来事において、エジプト中の初子が撃たれたのです。その時イスラエルの家の戸口には過越の小羊の血が塗られ、その印によってイスラエルの初子は撃たれずに救われました。このことによって、イスラエルの民はついにエジプトから脱出することができたのです。この救いの出来事から、初子、つまり長男は神様のものであるという信仰が生まれました。神様のものである長男を神様に献げ、そして過越の出来事の時と同じように神様の恵みによって返していただくのです。そのようにして、長男はその家の長男でありながら、神様のものとなるのです。主イエスも、母マリアの胎を最初に開いた長男でしたから、両親はこの儀式によって主イエスを神様に献げたのです。この儀式を終えた主イエスをシメオンは見たのです。

神の祝福の喜び
 このことによって彼が見た神様の救いとは、先ず第一に、神様の独り子、まことの神であられる方が、人間となり、それだけでなく一人のユダヤ人、イスラエルの民の一員となって下さったということです。イスラエルの慰められるのを待ち望んできた彼は、その慰めのために神様ご自身が一人のイスラエル人となって下さったという救いを見たのです。そしてさらに彼は、その神の独り子主イエスが、イスラエル人の長男として神様に献げられたことを見たのです。そこに彼は、31、2節の神様の救いの実現を見たのです。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。主イエスがイスラエル人の長男として神様に献げられることによって、万民のために整えられた救い、異邦人を照らす啓示の光が実現するとはどういうことでしょうか。長男が神様のものとして聖別されるのは、長男だけが恵みを受けるためではありません。そのことによって、その後に生まれる次男三男が、そしてその家族全体が、神様の祝福の下に置かれるのです。それはちょうど、その年の収穫の最初のもの、初穂を神様に献げることによって、その後の収穫全体が神様の祝福の下に置かれるのと同じです。最初のものが神様に献げられることによって、全体が、神様の恵みによって、人間の祝福、喜び、平安のために役立つものとなるのです。主イエスが長男として神様に献げられたことも、それと同じ恵みをもたらします。長男である主イエスの後に続く次男三男、また妹たち、それは主イエスを信じ従っていく私たち信仰者、新しいイスラエルである教会です。私たちは、長男である主イエスの弟妹とされることによって、神様の家族の一員とされ、その祝福、救いにあずかるのです。そしてこの神様の家族には、イスラエルという民族の枠を超えて、異邦人たちが加えられていきます。私たちも異邦人です。主イエス・キリストが長男である神の家族は、万民に開かれているのです。神様が主イエスという長男の下に、そのような家族を集め、整えようとしておられる、その神様の救いの始まりをシメオンは見たのです。それによって、「今こそわたしは本当の安らぎ、平安を得た、満足を与えられた」と語ったのです。この満足は、人間の欲望、貪欲が満たされることによる満足ではありません。むしろ欲望、貪欲から解放されることによる満足です。最初の収穫を神様に献げる、つまり自分の営みの実りを自分の欲望の満足のために用いるのではなくて神様にお献げすることによって、その実り全体が神様の祝福の下に置かれる、そこに与えられる本当の満足、喜び、安らぎがここに始まるのです。

心の思いがあらわにされる
 この神様の救いが実現するために、長男である主イエスは苦しみを受けることになります。そのことをシメオンは同時に見つめ、母マリアに、祝福と共に語りました。34、35節。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」。主イエスによって、人間は打ち倒され、そしてそのことを通して立ち上がらせられるのです。主イエスは「反対を受けるしるしとして定められている」、人々は主イエスを拒み、十字架につけるのです。母マリアは、「剣で心を刺し貫かれる」ような苦しみを受けるのです。しかしそういうことを通してこそ、主イエスによる救いは実現します。なぜなら、救いが実現するためには、「多くの人の心にある思いがあらわにされ」なければならないからです。その思いとは、私たち人間の罪です。神様に従い、み心を行うことを求めるのではなく、自分の思い、欲望を満たすことを第一とし、貪欲に支配されて生きている、そのためにまことの拠り所である神様を見失い、隣人を信頼することもできなくなり、疑心暗鬼の中で右往左往してしまう、そういう私たちの罪が、キリストの十字架においてあらわになるのです。そしてそれがあらわになると同時に、その罪を神様の独り子イエス・キリストが背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受け、私たちのために身代わりとなって死んで下さたこともあらわになるのです。そのことによって、神様が万民のために整えてくださった救いが実現するのです。

今こそ、安らかに
 私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様がこの救いを私たちのために既に実現して下さったことを知らされています。この救いをみ言葉によって示され、その救いにあずかることの印である洗礼へと招かれ、その招きにあずかった者たちが主イエスとの生きた交わりに生きるための聖餐にあずかりつつ歩んでいます。そのようにして私たちも、この目で、神様の救いを見ているのです。そこに、真実の安らかさ、平安、満足が与えられています。今こそ私たちは、本当に安らかに生きることができるし、その安らかさの中でこの世を去ることができるのです。

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