「賜物、務め、働き」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; イザヤ書 第11章1-5節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第12章4-11節
・ 讃美歌; 17、58、411
イエスは主である
コリントの信徒への手紙一の第12章は、霊的な賜物、つまり、聖霊なる神が私たちに与えてくださるもの、について語っています。先週はその1~3節を読みました。そこには、聖霊の賜物について知っておかなければならない一番基本的なことが教えられていました。それは、聖霊は私たちに「イエスは主である」という信仰の告白を与える、ということです。聖霊の賜物が与えられるというのは、私たちが何か霊的、信仰的に高揚した気分になり、普通ではできないようなことをしたり、常識では考えられないようなことを言ったりする、そういう興奮状態になることではなくて、「イエスは主である」という信仰を告白し、主イエス・キリストに従っていく生活を与えられることなのです。それはただ言葉において「イエスは主である」と言う、というだけのことではありません。言葉だけなら、そもそもキリストというのは名前ではなくて「救い主」という意味の称号ですから、「イエス・キリスト」という呼び方は「イエスは救い主である」という意味になります。イエス・キリストと言う人は皆、実は「イエスは主である」と言っていることになるわけです。しかしそれが聖霊の賜物であるわけではありません。「イエスは主である」という告白に生きるというのは、先週申しましたように、主なるイエス・キリストの語られることを聴く者となることです。主が語り、私たちは聴く、そういう姿勢を整えることです。それが、「ものの言えない偶像」のもとで生きることとの違いであるということを、先週のみ言葉から示されました。偶像は語ることができません。それゆえにその前では、私たちが語らなければならないのです。私たちがひたすら語り、自分の語る言葉が氾濫していく、それが偶像のもとでの生活です。しかし、生ける主イエス・キリストのもとでは、私たちは沈黙して聴く者となります。聴いて、そして従っていくのです。「イエスは主である」という告白に生きるというのはそういうことです。それこそが、聖霊が私たちに与える賜物の基本なのです。
様々な賜物
さてこの基本をふまえた上で、本日のところでは、その聖霊の賜物が人それぞれに違った仕方で与えられている、ということが語られていきます。8節以下にそのことが、「ある人には…、ある人には…」という形で並べられています。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」。ここに並べられているような様々な賜物が、コリント教会の人々に、聖霊によって与えられていたのです。
先ず8節には「知恵の言葉」と「知識の言葉」とが挙げられています。この知恵や知識は勿論信仰におけるものです。信仰的な知恵や知識を豊かに与えられ、それを語る言葉においても豊かな賜物を与えられている人々がコリント教会にはいたのです。9節には「信仰」がいくつもの賜物の内の一つとしてあげられていますが、これは、特定の人々だけが信仰を持っているという意味ではないでしょう。ここに並べられている聖霊の賜物は全て信仰において与えられるものです。その中で特に「信仰」という賜物を与えられている人がいるというのは、例えば殉教の死を遂げるとかの、特別に強く深い信仰を与えられている人のことが言われているのでしょう。次に出て来るのは「病気を癒す力」です。「力」と訳されているのは文字通りには「賜物」という言葉です。病気の癒しをする賜物を与えられている人がいたのです。原文において「力」という言葉が用いられているのは、10節の「奇跡を行う力」からです。奇跡を行う、預言する、霊を見分ける、種々の異言を語る、異言を解釈する、そういう様々な力が、聖霊の賜物として与えられていたのです。預言するというのは、未来を言い当てることではなくて、人々に分かる言葉で、神様のみ心、キリストの福音を宣べ伝えることです。それに対して異言というのは、霊的な興奮状態になって、人には分からない、意味の通じない音声を発することによって神様を賛美することです。そして異言を解釈するというのは、そのままでは意味の通じない異言を、みんなに分かるように解釈し、説明することです。この預言と異言の問題はこの後の14章の中心的なテーマになっていきます。ここでは、それらがいずれも聖霊によって与えられる力として並べられていることを確認しておきましょう。また「霊を見分ける力」というのがあります。霊の賜物であるように見える全てのことが聖霊の働きによるものではない、ということが先週の1~3節のポイントでした。そうであれば、霊を見分けて、聖霊の働きとそうでないものとの区別をつけなければなりません。その判断をすることができる力、それも聖霊の働きによって与えられる賜物だと言われているのです。
一人の聖霊によって
コリント教会の人々には、これらの様々な賜物が与えられていました。この教会はまことに賜物の豊かな人々の集まる活発な教会だったのです。ところがそのことのゆえにかえってある問題が起ってきていた、ということを先週も申しました。豊かな賜物が与えられているのはよいのですが、各自が、自分の賜物を発揮しようとし、またそれを人に認めさせようとする、そして自分の賜物と人の賜物とを比較して、どちらが優れているとか劣っているとか、誇ったり、嫉んだりするようになる、そういうことによって、対立、争いが起ってきたのです。パウロは、そういうコリント教会の現実を見つめながらこの手紙を書いています。そこにおいてパウロが語っていることは、まず第一には、先週のところに語られていたように、「イエスは主である」という信仰の告白と結びつくものだけが聖霊の賜物だ、ということです。何かの能力があったり、何か人に出来ないことが出来たらそれが全て聖霊の賜物なのではない、教会における賜物は、「イエスは主である」という信仰告白と常に結び合っていなければならないのです。そしてそれに続く今週のところで語られているのは、その聖霊の賜物の中にも様々な違いがある、あなたがたそれぞれに、様々に違う賜物が与えられている、しかし、それを与えているのはただ一人の同じ聖霊なのだ、ということです。今見てきた8節以下の賜物のリストにおいても、「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力」というふうに、いろいろな賜物が、みな同じ、唯一の霊によって与えられている、ということが強調されているのです。あなたがたがそれぞれに持っており、その大切さ、有益性を主張し、他の人のものと比べて誇っているその賜物はどれもみな、同じ、唯一の聖霊によって与えられているのだ、だから、その賜物どうしの間に優劣はない、どちらがより優れているとか、劣っているというものではない、だからお互いの賜物を比べ合って誇ったり、嫉んだりすることは意味がない、とパウロは言いたいのです。
賜物、務め
しかし、様々な賜物が唯一の聖霊によって与えられている、ということをわきまえるだけでは、コリント教会で起っている問題の本当の解決にはなりません。それぞれが自分に与えられている賜物を発揮し、それを生かそうとするところにぶつかり合いが起っているのです。パウロはそのことを見つめつつ、もっと根本的なことを語ろうとしているのです。そのことが4節5節6節に示されています。この3つの節は、同じ形の文章が三度繰り返され、たたみかけるように語られています。語られていることは基本的に先程申しましたのと同じ、様々な賜物が同じ聖霊によって与えられている、ということです。けれどもこの三つの節においてそのことが、違った言葉に置き換えられながら繰り返されていくのです。4節は「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」となっていますが、5節ではそれが「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です」となり、6節では「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」となっています。この言葉の変化はどうでもよいことではありません。基本的には同じことが繰り返されながら、内容は少しずつ変化しているのです。まず4節では「様々な賜物が同じ霊によって与えられている」という、ここで語られていることの基本が確認されています。次の5節では、「賜物」が「務め」に、「霊」が「主」に変えられています。「務め」と訳されている言葉は、原語では「ディアコニア」、その意味は「奉仕、仕えること」です。「賜物」が「奉仕」へと言い替えられているのです。それは即ち、聖霊の賜物は奉仕のために与えられているということでしょう。その奉仕の務めが、主によって与えられている。主とはイエス・キリストです。一人の主イエス・キリストによって、様々な奉仕の務めが一人一人に与えられているのです。聖霊によって様々な賜物が各自に与えられている、というのを言い替えるとこうなるのです。この言い替えは非常に大事なことを教えています。つまり、私たちが聖霊によっていろいろな賜物を与えられているとは、主イエス・キリストに奉仕する僕としての務めを与えられているということなのです。聖霊の賜物は、私たちが自分の満足を得たり、自分の目的を遂げるために用いるように与えられているのではなくて、主であるイエス・キリストに仕える務めを果たすために与えられているのです。賜物と務めは一体です。自分の賜物を見つめるとは、主イエスから自分に与えられている奉仕の務めを見つめる、ということだし、そうでなければならないのです。
務め、働き
そして次の6節では今度は、「務め」が「働き」に、「主」が「神」に言い替えられています。「働き」という言葉の原語は「エネルゲイア」です。それは「エネルギー」という言葉のもとになっている言葉で、意味は「力」です。「賜物、務め」がこのエネルゲイア、力に言い替えられているのは、聖霊の賜物が務めとして与えられ、私たちがその務めを行なっていくところに、神様の力が発揮されるということでしょう。賜物として与えられる務めはいろいろであり、その務めを行ういろいろな働きにおいて、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神である、つまりそこで発揮される力は神様の力だ、ということです。この言い替えにおいては、私たちが与えられた賜物を用いて、主に仕える務めを果していく、そこでの働きは、私たちの力によってなされるのではなく、神様の力がそこで働くのだ、ということが示されています。私たちの働きはすべて、神様の力によるのです。それゆえに、その働きを自分の手柄のように誇ったりすることは間違っているのです。
賜物、務め、働き
この三つの節にわたる書き替えによって、私たちが聖霊の賜物を与えられて、それを用いて生きるとはどういうことかが教えられています。聖霊の賜物を与えられて生きるとは、先週から見ているように、「イエスは主である」という告白に生きることです。そしてその告白に生きるとは、主であられるイエス・キリストに仕える者としての務めに生きることです。「イエスは主である」と告白し、その主イエスに仕える者として生きる、そのために私たちには様々な賜物が与えられているのです。そしてその主イエスに仕える務めにおいて、神様の力が働いて、すべてのことをして下さるのです。私たちが自分の力を発揮して何かをすると言うよりも、神様の力によって私たちの賜物が用いられ、生かされていくのです。聖霊の賜物をいただいて生きるとはそういうことなのです。パウロは、豊かな賜物を与えられているコリント教会の人々に、このことを先ずわきまえさせようとしているのです。
三位一体の神
またこの3つの節で、「霊」が「主」へ、そして「神」へと書き替えられていることにおいても大事なことが教えられています。聖霊と主イエス・キリスト、そして父なる神が、互いに書き替え可能なほどに一体性を持った存在として見つめられているのです。つまりここにも、後に三位一体という言葉で言い表されていった神様の本質が示されています。そして「聖霊の賜物」ということを語っているここの文脈から言えることは、私たちに様々な賜物を与えて下さる聖霊なる神様は、主イエス・キリストと、また父なる神様と、分かち難い関係をもって働いておられるということです。「イエスは主である」という告白を私たちに与え、その主イエスに仕える務めを父なる神のみ力によって行なう者とする、それが聖霊の賜物なのであって、それ以外の、主イエス・キリストに従い、父なる神様との交わりに生きることをもたらさないものは、たとえどんなに力に満ちた、驚くべき働きであっても、それは聖霊の賜物とは言えないのです。
全体の益となるため
この4節5節6節に語られていることを別の角度から言い換えているのが7節です。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」。一人一人に聖霊の働きが現れ、いろいろな賜物が与えられているのは、一人一人がそれを用いて自分の人生を充実させていくためではなくて、「全体の益」となるためなのです。全体とは、教会の全体、共に主イエス・キリストのもとに集められている兄弟姉妹の全体です。その全体の益となるために、一人一人に聖霊の賜物が与えられている。つまり聖霊の賜物は、個人のために、個人のものとして与えられているのではないのです。コリント教会において、賜物が豊かに与えられていたのに、それがかえって混乱や対立の原因になってしまったのは、この点において間違ってしまっていたからです。聖霊の賜物を自分個人のものとして受け止め、それを発揮することによって自分を高め、自分の人生を充実させようとしていくところに、人に対して誇ったり、人の賜物を嫉んだりすることが生じるのです。この、聖霊の賜物を個人のものとして受け止めてしまうという間違いを、私たちもよく犯すのではないでしょうか。自分に与えられている賜物を、自分のものとして受け止めてしまい、それを発揮することで自分を生かし、充実させようとする、またその賜物を人に認めさせ、尊重させようとする、それぞれがそのようにしていけば、当然その思いがぶつかり合い、対立が起るのです。しかし聖霊の賜物は、キリストの体である教会全体の益のために与えられているのです。ということは、全体の益のために、自分の賜物を発揮することをやめて、他の人に場を譲らなければならないような場面もあるということです。いつでも、どんな場合でも自分の賜物を発揮しなければ気がすまないというのでは、その賜物は全体の益にはなりません。そこでは私たちは、自分が、賜物を用いる主人になっているのです。しかし私たちの賜物は、4~6節に語られていたように、主に仕える務めのために与えられているものです。私たちは主人ではなくて、主イエス・キリストに仕える奉仕者、僕なのです。私たちが自分の力で賜物を用いて働きをしていくのではなくて、私たちの賜物が神様によって用いられる時に、そこに神様の力が豊かに働き、すべてのことをして下さるのです。このことをしっかりとわきまえることによってこそ、私たちそれぞれに与えられている聖霊の賜物は、全体の益となるように生かされていくのです。
僕として生きる
つまり本日の箇所において教えられている最も大事なことは、私たちが聖霊の賜物をいただき、それを用いて生きていく、つまり信仰者として生きていくに際して、自分が主から務めを与えられている僕であることをわきまえるということです。僕は、主人から命じられたことをするのです。そして主人に、おまえの働きはここまで、と言われたらそこでやめるのです。自分の賜物、力はまだまだあり余っていると思っても、そこでやめて他の人と交代するのです。いつまでも自分が自分がと自分の働きにこだわっている僕は、よい僕ではないし、全体の益になりません。主人の命令に従って、自分の賜物を発揮することを制御できる僕こそがよい僕であり、本当に全体の益となるのです。
私たちの主イエス・キリストは、まさにそのような僕となることによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さいました。主イエスは、ここにリストとしてあげられている賜物や力の全てを持っておられました。いやさらにもっと優れた力を、神の独り子として持っておられたのです。主イエスがその力を存分に発揮したなら、十字架にかかることはなかった、そのような人間のたくらみは簡単に粉砕できる力を主は持っておられたのです。しかし主イエスは、父なる神様のみ心に忠実に従う僕となって、十字架への道を歩まれました。自らの賜物や力を制御して、父なる神様から与えられた務めを果たされたのです。そのことによって主イエスは、私たち罪人のための救い主となられたのです。私たちは、そのイエスこそ主である、という信仰に生きる者です。この主の僕として生きる私たちは、自分に与えられた賜物を発揮することにおいても、この主イエスの歩みに従っていくのです。
十字架の死に至るまで僕としての道を歩み通された主イエスを、父なる神様はみ力によって復活させて下さいました。主イエスがご自分の力の行使を差しひかえて、与えられた務めを忠実に果たされた所に、父なる神様の大いなるみ力が発揮され、罪と死に対する神様の勝利が確定したのです。私たちも、イエスは主である、私たちはその僕である、という信仰にしっかり立ち、それぞれに与えられている様々な賜物を、主に仕える務めのために、主がお許し下さる範囲で用いていきたいと思います。そのように歩むならば、私たちのちっぽけな力をはるかに超える神様の大いなるみ力が、私たちの歩みを通して発揮され、それぞれの賜物が全体の益となるために用いられていくのです。