主日礼拝

求める者は受ける

「求める者は受ける」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第29章10-14節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章5-13節
・ 讃美歌: 310、152、483

翻訳の問題
 本日は、ルカによる福音書の第11章5節以下をご一緒に読むのですが、その最初の所、5節の冒頭に「また、弟子たちに言われた」とあります。何でもなく読み過ごしてしまいそうな所ですが、実はここには、果たしてこの翻訳でよいのだろうか、という問題があると思います。以前の口語訳聖書ではここは、「そして彼らに言われた」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳です。つまりここの原文には「弟子たち」という言葉はないのであって、「彼ら」という言葉が用いられているのです。その彼らとは誰かを知るためには、その前の所、4節までに語られていたことを振り返らなければなりません。そこには、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と問うたのに対して主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」とおっしゃって、いわゆる「主の祈り」を教えて下さったことが語られていました。ですから「彼ら」とは弟子たちのことであり、内容的には「弟子たちに言われた」と訳しても間違いではありません。しかし「弟子たちに言われた」という訳では、その前の所を振り返る必要がなくなります。主イエスが弟子たちに新たな教えを語り始められた、ということになり、4節までとのつながりが意識されなくなるのです。しかし原文は「彼ら」と言っているのであって、4節までの主イエスのみ言葉を聞いた、その彼らに対してさらにこのことが語られていった、という話のつながりが意識されているのです。そしてこのことは、この文の冒頭にある接続詞、英語で言えばandに当る言葉をどう訳すかとも関わってきます。新共同訳は「また」と訳しました。口語訳は「そして」でした。この簡単な接続詞はいろいろに訳すことができます。「また」なのか「そして」なのか「すると」なのか、場合によっては「ところが」と訳すこともできるでしょう。その判断は、このandが前の文と後の文をどのように結びつけているのかによります。「また」と訳すと、それまで語られてきたことと並ぶ別のことが語られていく、というニュアンスになります。それに対して「そして」という訳は、話が続いており、さらに発展していくことを意識させる訳です。この場合はどちらが相応しいのでしょうか。明らかに、「そして」の方だと思います。先ほど指摘した「彼ら」という言葉からも分かるように、ここはそれまでと別の新しい話を始めているのではなくて、その前の話の続きなのです。ですからここは口語訳のように「そして彼らに言われた」と訳すべきだと私は思います。「また、弟子たちに言われた」は、文法的には間違っていませんが、語られていることを正しく理解することを妨げる、そういう意味では間違った訳だと思います。

真夜中にパンを求めるたとえ
 のっけから細かい話をしているようで恐縮ですが、要するに、本日の5節以下は、4節までの続きとして読むことが大事だということです。4節までの所には、今も申しましたように、弟子たちの求めに応えて主イエスが、祈りを教えて下さったこと、具体的な祈りの言葉であるいわゆる「主の祈り」を与えて下さったことが語られていました。祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主が、それを補足するように5節以下を語っていかれたのです。主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、というたとえです。なぜそんなことをするかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識であって、当時の社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができるし、またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならない、ということこそが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするという、間接的な殺人に当ることだったのです。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことです。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。(ちなみにこの冒頭の「すると」は先ほどと同じandです。ここは「すると」と訳すのが自然なわけです。)こんなふうに友達は迷惑がって断るだろう。彼にとってこの人は旅人ではない、パンを与えなければ死んでしまうような人ではないわけです。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑なわけです。しかし主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることの中心は次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

求める者は受ける
 このようなたとえを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。この「そこで」もandです。例えばここを「また、わたしは言っておく」と訳したらどうでしょうか。8節までのたとえと、9節の「求めなさい。そうすれば与えられる」以下の教えとが無関係な話になってしまいます。ここはやはり「そこで」と訳すべきであるわけです。そしてもう一つ、しつこいようですが、「求めなさい。そうすれば与えられる」の「そうすれば」も同じandです。これは、「また」でも「そこで」でもなく、「そうすれば」と訳すべきであるわけです。小さな接続詞ですが、それを日本語にする時には、このように文章のつながりによっていろいろに訳し分ける必要があるわけです。
 ちょっと脱線しましたが、このたとえとのつながりの中で主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という教えをお語りになったのです。そしてこれは、最初に申しましたように、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えて下さったのです。

疑問
 けれども私たちはここを読むと、いくつかの疑問を覚えるのではないでしょうか。一つには、真夜中に友人の家にパンを借りにいくこの話が、祈りについてのたとえであるとするなら、この友人が神様のことだということになる。そうすると、神様が私たちの祈りに応えて下さるのは、あるいは祈りを聞いて下さるのは、「友達だから」ではなく、つまり愛によってではなく、「しつように頼めば」、つまり私たちが神様の迷惑を顧みずにしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上めんどうをかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来るのです。またもう一つの疑問も感じると思います。それは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めてもかなえられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。

まして天の父は
 これらの疑問への答えは、11節以下にあると思います。11、12節にこうあります。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。あなたがたの中で父親である人は、自分が子供にどのようなものを与えるかを考えてみなさい、と言っておられるわけですが、これは父親だけの話ではなく、母親も含めて、親たる者は、と読むことができます。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供は愛しており、良い物を与えようとします。しかし私たちの判断力そのものが罪によって曇らされているので、本当に良い物を与えず、見当違いの、かえって害になる物を与えてしまうようなこともしばしばです。そして最近は、そういうことすらもしない、育児放棄とかネグレクトという現象が増えてきています。つまり「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」という常識がもはや通用しない時代になりつつあるというまことに恐ろしい現象です。しかしそれはさておき、基本的には、私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。つまり主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を見つめさせることを通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見つめさせようとしておられるのです。この論法をわきまえるなら、先ほどの疑問の第一に対する答えが与えられます。つまり、神様は私たちを愛しているからではなく、しつように頼むことによって仕方なく祈りを聞いて下さる方なのか、という問いです。このたとえはそういうことを語ろうとしているのではありません。この友人の姿もまた、神様のことではなくて、私たち罪ある人間の姿を表しているのです。つまり私たちは、友人だからという理由で、つまり純粋な愛によってと言うよりも、しつこく言ってきてうるさいから、これ以上迷惑をかけてもらいたくないから、などという理由でようやく腰をあげて人のために動くような者です。それが、「悪い者である」私たちの姿なのではないでしょうか。しかし天の父は、そんな不純な動機によってではなく、いやいやながらでもなく、喜んで、あなたがたに良い物を与えて下さるのだ、主イエスはここでそういうことを語っておられるのです。ですから「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。つまりこの言葉は、求めれば得られることになっている、という法則のようなことを語っているのではなくて、天の父である神様が私たちに対してどのようなみ心を持っておられるのか、どれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。

聖霊を与えてくださる
 そしてこの13節において注目すべき大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。マタイによる福音書第7章の、ここと同じ教えを語っている所では、「求める者に良い物をくださる」となっていました。ルカにおいえては「良い物」が「聖霊」となっているのです。天の父なる神様が私たちの祈りに答えて与えて下さる良い物とは聖霊である、とこの福音書は語っているのです。聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことを語っているのが、ローマの信徒への手紙の第8章14、15節です。そこを読んでみたいと思います。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられることによってどうなるのか、が示されています。聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。同じことは、ガラテヤの信徒への手紙の第4章6節にも語られています。そこには「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」とあります。聖霊は、私たちを救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちをも神の子とし、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるのです。天の父が求める者に与えてくださるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神様は私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神様が私たちに与えて下さる「良い物」の中心です。個々の具体的な良い物、私たちがあれこれと祈り求めることは、この父と子という関係の中でこそ与えられていくのです。

まことの父
 このことを見つめることによって、先ほどの疑問の二番目に対する答えが与えられます。つまり、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。この約束を、私たちが祈り求めるものは何でもその通りに適えられる、というふうに理解するなら、そんなことはありません。しかしこのみ言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちにおいても、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことがあるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。そのような関係なしにこの言葉を読むと、神様を人間の欲望を何でも適える自動販売機と見なしてしまうことになるのです。

神を見出す
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書第29章10節以下です。その12節から14節にかけてのところにこのようにありました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。これは、主なる神様があなたたちの祈りを聞くと約束して下さっているみ言葉です。祈りが聞かれるとはどういうことかというと、「わたしを見出し、わたしに出会う」ことです。つまり、主なる神様との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちにおいては、その恵みが聖霊によって与えられます。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。

主の祈りを祈る者として
 11章1~13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、つまり神様の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神様のみ名こそが崇められることを求める者となります。神様のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされます。つまり、主の祈りを心から祈る者とされるのです。主の祈りは祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。この祈りを祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

祈りへの招き
 本日は棕櫚の主日、今週は受難週です。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを覚えつつ私たちはこの週を歩みます。その苦しみと死は、神様が私たち罪人を赦し、私たちの天の父となって下さり、私たちを子として養い育んで下さるために、独り子主イエスが引き受けて下さったものです。この恵みによって、私たちは、神様に「父よ」と呼びかけて祈ることができる者とされたのです。祈りにおいて、神様との父と子としての交わりに生きることこそが、主イエスによるこの救いの恵みを受けた者にふさわしい、また神様が最も喜んで下さることです。この受難週には、祈りの機会が沢山あります。どうぞ皆さん、祈祷会に集まって共に祈りましょう。「人前で祈るのは恥ずかしい」という声をよく聞きます。実は8節の「しつように頼めば」という言葉は、「恥を知らないことによって」とも訳せるのです。何度もしつこく祈れば神様が聞いて下さるという話ではない、ということを申しました。神様はむしろ、私たちが、恥を捨てて、恥をかいてもいいから、恥知らずなぐらいになって祈ることを求めておられるのです。主イエスが私たちのために受けて下さった苦しみに比べたら、そんな恥などなんでもありません。この受難週にこそ、神様のご期待に応えて父なる神様に祈る者となろうではありませんか。

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