夕礼拝

神の愛に開かれて

「神の愛に開かれて」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第86編 1節-17節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第10章 25節-37節
・ 讃美歌 ; 344、487、80

 
1 「善きサマリア人」として知られるこの物語は、聖書の中でも最もよく知られている話の一つです。お話としては誰にでもよく分かるものです。子どもにもよく分かるお話であり、教会学校に通う子どもがその情景を思い浮かべながら記憶に留める物語です。けれども年を重ねるにつれて、私たちはこの話を、どこか冷めた目で見てしまうところが出てきているかもしれません。どこの誰だか分からないような人に、このサマリア人が注いだような愛を注ぐことが、私たちの現実の生活の中でいったいできることなのだろうか。むしろ私たちの毎日の生活とは、このサマリア人のように生きることができない現実を思い知らされる場面の連続でしかないのではないか、そんなふうに思わされます。声をかけるべき人に何も言ってあげることができず、傍らに付き添ってあげるべき人を見過ごしにして通り過ぎ、席を譲ってあげるべき人を前にして、知らんぷりを決め込む、そんな毎日を思わされます。どこかで妥協しなければやっていられないではないか、そういう自己弁護の思いがうずくのを感じながら、この話を聞くようになってしまっているかもしれません。
 私自身、物心ついた時から、この話を読む時、何か重苦しいものが自分の心におしかぶさってくる思いがしてきました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われているのに、そのとおりにできていない自分がここにいるのではないか、といつも愛の薄い自分の現実を見せつけられる思いがしたのです。私は牧師の家庭で育ちましたけれども、中学や高校の頃、自分は伝道者になることはとてもできない、と思っていました。そのことの一つの理由は、この話を自分なりに深刻に受け止めたからです。ここに描かれているような愛の業に生きることができないのに、偉そうに愛を語り教えることは自分には絶対できない。そんなことをすれば自分は偽善者になる。自分自身がその重みに堪えきれなくなるだろう、そう思ったのです。
 けれども、この話をそういった裁きの言葉としてのみ聞くのなら、主イエスがここで私たちに語りかけようとしておられることが聴こえてこなくなります。この話そのものが新たな律法主義を生みます。守らなければならない掟としてしか聞こえてこなくなり、そのとおりに生きることができない自分を絶望させるだけの物語になるでしょう。そうではないのです。主イエスはこの話を通しても、私たちに今、よい訪れ、うれしい知らせ、グッド・ニュースを持ってきて下さっているのです。いや、私が今この話を語っていること自体がグッド・ニュースだとおっしゃっておられるのです。私たちはここからも、主イエスが与えて下さっている福音の恵み、喜びを聴き取りたいと切に願うのです。

2 ある律法の専門家が立ち上がり、主イエスに問いを向けてきました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。これは真剣な問いです。重大なことを問うています。けれどもこの人がこうした問いを投げかけたのは、主イエスを試すためであったと言われております。主イエスが神の子としてご自身について語り、ふるまっておられるなら、それが本当のものかどうかひとつ試してやろうと思ったのでしょう。どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるか、これは律法学者も聖書に基づいて学び、また人々にも教えていたことであろうと思います。そういう意味では自分自身も心得があり、既に自分の中に答えを控えていたはずです。
そこで主イエスに「律法には何と書いてあるか」と尋ねられると、あわてふためくこともなく事も無げに答えているのです。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。そこで主イエスはお言葉を重ねておっしゃいます、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)。
 ここで明らかになったのは、この律法の専門家は、自ら永遠の命を受け継ぐ道を知っていたにも関わらず、それを実行してはいなかったということです。それゆえに主イエスは、「あなたの答えは正しいのだから、その答えのとおり実行しなさい」とおっしゃったのです。この専門家は律法と呼ばれる神の掟を詳しく研究し、その中心が何であるかも正しく把握しています。けれども、それが実際にこの専門家を生かし、自分が学んだことに即して歩む力となってはいなかったのです。そういえば、主イエスの問いかけには「律法には何と書いてあるか」という問いのほかに、「あなたはそれをどう読んでいるか」という問いかけも含まれていました。私たちはただ聖書を読んでいれば永遠の命を受け継ぐことができるわけではないのです。それをどう読んでいるのかが問われます。礼拝の中で、今生きて働いておられる主イエスの語りかけを聴き取るように求められているのです。この語りかけに心を開かず、正しい答えは知っていても、その通りに生きていないことがままあるのです。このことが、主イエスの問いかけを通して暴露されます。主イエスを試そうとして問いを差し向けた律法の専門家自身が、実は問われる側に立たされているのです。自分が知っている答えに即して生きていない有様を、主の問いかけの中で照らし出されます。そこで私たちはどうするか。この専門家と同じように、「自分を正当化しようと」するのです。口語訳の聖書はこの箇所を、「自分の立場を弁護しようと思って」と訳しています。自分を正当化し、弁護するということは、言い換えれば取り繕うということです。自分の愛の破れを覆い、知っている教えの通りに生きていない自分を取り繕い、なんとか格好のつくようにその場を凌ごうとしているのです。そして自分が問いを向けて始まっていたのに、主イエスに主導権を奪われていたわけですから、何とかそれを自分のほうに取り戻したいとする下心を働かせています。そこで言うのです、「では、わたしの隣人とは誰のことですか」(29節)。これは愛の対象を限定づけようとする試みです。私たちがいつもすることです。誰にも彼にも同じように愛を注いでいたら、とても身がもたない。電車に乗っていてやっと席に座れても、いつ席を譲ることになるか分からない。せめて家族や友人くらいまでを隣人として設定しておいて、その範囲でいっぱいいっぱいではないか。それくらいでよしとするしかないではないか、そう思いつつ、妥協点を探っているのです。私たちはそうやっていわば愛の守備範囲を固めようとします。自分たちのできる範囲はここまでだ、と限界を設定しようとします。自分の愛が及ぶ範囲について境目を設けようとするのです。その意味で、この律法の専門家は私たちの代表なのです。

3 主イエスがこの私たちがする愛の限界づけに対してお答えくださったのが、サマリア人の話です。エルサレムからエリコという町へ下っていく途中で、ある旅人が追いはぎに襲われ、瀕死の重傷を負ってしまいます。服を剥ぎ取られ、殴りつけられ、半殺しにされた人が息も絶え絶えになって道端に横たわっているのです。エルサレムからエリコに至る約20キロの道のりは、砂漠や岩場の多い、ひと気の少ないところです。こんなところでうずくまっていたら、いつ人が助けに来てくれるか分からない、助かる望みも薄い場所です。それだけに、この道を祭司が歩いてきたのが見えた時には、この旅人はどれほど喜び助かる望みを強く持ったかしれません。けれども、この祭司は倒れているその人を見ると、道の向こう側を通っていってしまったのです。さらにレビ人もやってきたけれども、事態は変わらず、この人もまた、道の向こう側を通っていってしまった。この旅人の助かる希望は断たれたと思われたのです。この人たちはエルサレムの宗教的な指導者たちです。先ほどの律法の専門家が教えていたように、神を愛し、隣人を愛することをいつも教えていた人たちです。それゆえに、この傷ついた人は、真っ先に彼らが自分を助けに来てくれるに違いないと信じていたに違いないのです。ところが彼らはこの人を避け、道の向こう側を通っていってしまった。こっちにやってきてほしい、と望みを繋いで地面からもたげていた頭を、支える力ももはや失い、この人は地面に顔を沈め、絶望の中で気が遠のいていくのを感じていたかもしれません。そんな時、ここを最後に通りかかったのが旅をしていたあるサマリア人でした。当時、ユダヤとサマリアとの関係は相当に険悪なものでした。長い歴史的な経緯があってそのようになっていたのですけれども、この頃その関係はますますひどいものになっていたようです。今日の箇所の少し前、9章の51節以下にも、主イエスがエルサレムに向けて進もうとしておられたがゆえに、サマリア人がこれを歓迎しなかった様子が出てきておりました。そういう敵対関係にあった土地の人です。「こんなやつの世話に誰がなるものか」と言いたいくらいの相手だったに違いない。けれども、結局この傷ついた人を助け、応急処置を施し、宿屋に連れて行って介抱してくれたのは、このサマリア人であったのです。昔からこの物語を日本の教会は「善いサマリア人」と言い習わしてきました。けれども、このサマリア人は傷ついて倒れている人に何かいいことをしてあげようという意識でいたわけではありません。この人が日頃仲の悪いユダヤの人間だということさえ意識もしていなかったことでしょう。このサマリア人はただ思ったのです、「大変だ、何とかしなければ!」それだけです。黙って通り過ぎることなどできない。「かわいそうに、とにかく何とかしなければ」、という思いだけです。先に大阪で起きた鉄道事故においても、行きずりの多くの人々がけが人の救助活動にあたりました。それは何も準備していたわけではないし、今こそ善い業を行うべき時だ、と意識したからでもないはずです。ただ何かしなければいけない、という無我夢中の気持ちだけに突き動かされたのです。このサマリア人だって、もしこのような行いをした理由を問われるなら、自分は当然しなければならないことをしたまでにすぎない、しないわけにはいかないことをしたにすぎないのだ、と答えたに違いないのです。
私が神学生の時、夏の伝道実習に遣わされた教会で教えられたのは、愛とは抽象的なものではなく、「関わり合い」の中に生きることだ、ということでした。愛とは関わり合いだ、というのです。指導して下さった牧師も、物わかりが悪い私のために時間を割いて、本当によく関わって下さったことを思い出します。そういえば、ここで主イエスも、この律法の専門家、愛に生きることの薄いこの私たちの代表のために、実に根気よく関わって下さっているのではないでしょうか。この専門家の、愛が薄い自分を取り繕い、正当化するための問いをもしっかりと受け止めてくださり、聖書が語る宝物とも言える話をしてくださっているのです。主イエスはこの律法の専門家の内面を見抜いてこれを軽蔑したりすることなく、一度の問答で納得しないこの専門家に、時間をかけて関わり合って下さっているのです。

4 祭司、レビ人、そしてこのサマリア人のうち誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか、との主イエスの問いに、この専門家は答えます、「その人を助けた人です」(37節)。教会はこの傷ついた人を助けたサマリア人を主イエスとして受け止めてきました。主イエスご自身がこの話の中で、「このサマリア人とはわたしのことである」とはひと言もお語りになっていないにもかかわらず、です。このサマリア人が傷つき倒れた人を目の当たりにして起こした心の動き、「その人を見て憐れに思い」、という言葉は、「はらわたがひきちぎれるような思いでもって相手の痛みを分かち合う」という意味を持っています。黙って通り過ぎたら、自分自身が堪えられない、内蔵がシクシクと痛んでくる、駆け寄り助けずにはおれない、主イエスはそういう愛に生きたお方です。そういう意味では主イエスほど、私たちに深く、徹底して関わり合って下さったお方はおられません。愛を貫くべき時に、そこに生きることができず、破れとほころびを取り繕おうとあせるような惨めな私たちのそばにこそ、まず主イエスが来て下さって、私たちの隣り人となって下さったのです。この主イエスによって愛を貫くべき戦いに敗れ、傷つき、血を流している私たちを、主イエスは介抱して下さったのです。ついには、私たちの自己正当化の罪、偽善的な生き方、愛についての知識は知っていても、その実践においては破れ、破産してしまっている私たちの惨めな有り様を、すべて十字架の上でその身に負ってくださったのです。ご自分の命と引き換えにしてまで、私たちを生かそうとする愛、それが父なる神の愛だ、と主は今語りかけておられます。

5 ほかの祭司やレビ人は、この傷ついた人に関わり合うことを避けたのです。関わり合いを回避したのです。忙しかったのかもしれません。疲れていたのかもしれません。自分も追いはぎに襲われることを恐れたのかもしれません。何より、この倒れ伏している誰だか分からない人に近づき、関わり合うこと自体への恐怖があったでしょう。関わり合うということは、そこで自分が時間においても労力においても、損をするということです。精神的にも疲れることです。けれども、主イエスはおっしゃるのです、「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)。しかし行ったその先で同じようになせ、と主イエスがおっしゃっておられるサマリア人の行い、それをもう一度見てみるとどうでしょうか。このサマリア人は何も準備していたわけでもないし、身構えていたわけでもない。傷ついた人を見てここぞとばかりにがんばって善い業をしたわけではない。行きずりに出会った困った人を見て、そこで自分ができる限りのことをしたまでです。デナリオン銀貨二枚は二日分の給料です。もちろん費用がさらにかかれば帰りがけに払うとは言っていますが、翌朝には、また出発して自分の仕事は続けているのです。何も気張っていない。実に自然体ではないでしょうか。
 キリストの愛に生きるということは、こういう自然体の愛の業に生きることができるようになる、ということではないでしょうか。何よりもまず主イエスがご自分の命を投げ打ってまで、私たちが生きるようにしてくださったのです。そこに注がれている途方もない愛に生かされ、傷を癒していただいていることを知らされた者は、いつまでもうずくまって
誰も助けてくれない、と不平不満を言っているわけにはまいりません。
あの人は祭司だ、ほら見ろこの人もレビ人ではないか、と言って、自分を悲劇の主人公のように思いこみ、誰も助けてくれないと言って周りを裁き続けたりはできないはずです。今日のすぐ前の箇所、24節で主イエスがおっしゃってくださった御言葉はここにも響いています、「あなたがたの見ている者を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。誰も見たこと、聞いたことのなかった新しい世界が主イエスによって開き示されています。ここに神の愛が現れ、父と子との愛の交わりの中に、弟子たちも招き入れられているのです。父と子の眼差しの通い合いの中に、今私たちも置かれているのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」、このお言葉を受けて送り出される律法の専門家の背後にあるのは、主イエスの愛の眼差しです。私たちは主イエスによって既に隣り人となっていただいているのです。主イエスによって傷を癒され、主イエスの身代わりによって命を得たのです。それゆえに、その愛に生かされて、私たちもたとえささやかではあっても、同じ愛に生きることができます。応急処置をし、デナリオン銀貨2枚を置いてくるようなささやかな愛に、自然体で生きることができます。
 傷つき倒れていた人は、ただ「ある人」とだけしか言われておらず、決して特定されていません。それはわたしたちが日頃出会う、助けを必要とする「誰でも」であるからです。愛に生きるとは、「わたしの隣人とは誰のことですか」、と対象を狭め、定義づけることではなく、誰であれ、困っている人のそばでその人の「隣り人となる」ことなのです。「あなたがたはそうすることができる、なぜならわたしが大きな愛の眼差しの中に、既にあなたを置いているからだ。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、主の語りかけが聴こえて参ります。最後に、詩編86編14節以下の御言葉を、助けられた人の心の声として聴きたいと思います。

「神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。 彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。主よ、あなたは情け深い神 憐れみに富み、忍耐強く 慈しみとまことに満ちておられる。わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え あなたのはしための子をお救いください。 
良いしるしをわたしに現してください。それを見て わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。主よ、あなたは必ずわたしを助け 力づけて
くださいます」。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、愛に生きること薄く、いつも
自分の愛の薄さに打ちのめされ、破れを取り繕うことに躍起になっているような私共であります。そのくせ、あの人もこの人も、自分を助けてくれないと不平を言って周囲を裁き続けることには飽くことがありません。そうではない。今、すでに私たちに与えられている恵みに目を開かせてください。父と子の命の通い合いを、自らの十字架の死をもって私共にも分け与えてくださった、あなたの計り知れない愛に生かされている新しい現実に目を開かせてください。愛の教えを学ぶのではなく、既に置かれている愛の現実に心の目を開かせてくださり、その愛の現実にふさわしく歩ませてください。自分の隣り人を求めるのでなく、自分を必要とする人の隣り人となる、ささやかな愛に生かしてください。今、あなたの十字架の愛が注がれた食卓に与ります。私たちの愛をあなたの愛によって養い、増し加えてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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