夕礼拝

荒れ野で

「荒れ野で」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第11章6-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章12-13
・ 讃美歌:9、527

<洗礼を受けられて「すぐ」荒れ野へ>
 本日は、イエスさまが荒れ野でサタンから誘惑を受けられた、ということが語られています。イースターの前になりますが、前回の箇所は、イエスさまが、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたことを聞きました。
 洗礼者ヨハネが授けていたのは、悔い改めの洗礼です。悔い改めの洗礼とは、神から離れ、自分勝手に歩くその罪の歩みをやめて、罪を赦してもらうために、神の方を向くことであり、その「しるし」として受けるものです。
 イエスさまは、神の子で、神から遣わされたお方ですから、地上でたったお一人、まったく罪のないお方です。ですから、本当は悔い改めの洗礼をお受けになる必要はありません。
 でも、この洗礼を受けられたのは、イエスさまが、すべての人の罪をご自分が代わりに負って、救うために来て下さったからです。そのために、ご自分を低くして、罪人と同じように悔い改めの洗礼を受け、罪人とまったく同じところに立って下さったのです。

 この時、天が裂けて「霊」が鳩のように降った、とあります。聖霊がイエスさまに注がれたのです。これは、イエスさまがこれから救い主として、神の使命を果たす務めに召されたということです。
 そして、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞えました。天の父なる神が、イエスさまがご自分の御子であること、また、父なる神の御心、つまり救いのご計画を行なう者であることを、示されたのです。

 こうして、救い主イエスさまの歩みは始まりました。ところが、その洗礼のあとすぐに、イエスさまは今日読まれた聖書にあったように、荒れ野でサタンの誘惑をお受けになるのです。12節の「それから」というのは、他のところで「すぐ」と訳されているのと同じ言葉です。つまり、イエスさまが洗礼を受けられ、霊が降り、声が聞えて、「すぐに」、霊はイエスさまを荒れ野に送り出したのです。

<荒れ野での誘惑>
 イエスさまを荒れ野に送り出したのは「霊」つまり、「聖霊なる神」です。「送り出した」というと、出かける人をあたたかく心を込めて送るようなイメージになりますけれども、本当はここで使われている言葉は、「投げ出す」とか「放り出す」とか、強制的な力が働いているような、強い意味を持つ言葉です。イエスさまは、荒れ野に投げ出されてしまったのです。

 荒れ野という場所は、人が住むことが出来ないところを指していて、サタンや悪霊、汚れた霊が住む所とされていました。わたしたちは「サタン」に色々、姿かたちのイメージなどを持っているかも知れませんが、ここでの「サタン」の意味は、神から人間を引き離して、神を疑わせたり、神に背かせたりする力のことを言います。

 神に創造された人間は、神に従うことが、本来的に最も幸いで喜びに満ちた生き方です。しかしサタンは、こっちの方がもっとあなたにとって幸せだ、神はあなたを束縛している、神に従うより、自分の思いに従った方が、そしてサタンに従った方が、欲しいものを手に入れられるぞ、と誘ってくるのです。

 創世記の初めには、アダムとエバが、蛇、つまりサタンの誘惑に負けて、神に逆らい、神に食べることを禁じられていた園の中央の木の実を食べてしまう場面がありました。
 人は神と共に生きる者として創造され、神の恵みの中に生かされていたのに、その一番初めのアダムから、神に従うことが出来なかったのです。蛇のやり方はとても巧妙です。神のご支配を不自由なことのように思わせ、その支配から逃れて、自分たちの思いに従って生きる方が、素晴らしいことだと思わせたのです。
 こうして人は罪を犯しました。サタンは誘惑しますが、罪を犯すのは人間自身です。神から離れ、神との関係を破壊した人は、隣人との関係も破れていき、楽園を負われ、まさに荒れ野のような、苦しみの中を生きなければならなくなりました。そして、すべての人が、この罪に捕らわれているのです。

 「サタンが誘惑する」というのは、このように神の恵みを見失わせ、わたしたちを神から引き離し、従わせないようにしようと、あの手この手で誘惑してくる、ということです。そうして神から離れた者は、まさに荒れ野に放り出されたかのように飢え渇き、ますます神への信頼がやせ細っていくのです。

 罪人と同じところに立って下さったイエスさまは、罪人であるわたしたちが経験するのと同じように、荒れ野へ追いやられ、サタンの誘惑に遭われました。そのような荒れ野が、「救い主」として地上を歩まれるイエスさまが、最初に行かなければならないところでした。わたしたちがいつも敗北し、惨めにサタンに従ってしまう、その荒れ果てた場所に、イエスさまもまた同じように投げ出されたのです。

<荒れ野でのイエスさま>
 13節には、「イエスは、四十日間そこにとどまり、サタンの誘惑を受けられた」とあります。「四十」というのは、聖書では印象深い数字です。「四十」、「荒れ野」と聞けば、旧約聖書を読んだことがある方は、エジプトを脱出してから約束の地に入るまで、四十年間荒れ野をさまよったイスラエルの民を思い起こすでしょう。また、預言者エリヤが命を狙われて荒れ野に逃げた時も、四十日四十夜歩き続けて神の山にたどり着いた(列王上19:8)、という箇所があります。「四十日間」と聞くと、聖書を知っている人は、これらの壮絶な苦難や試練を思い起こすのです。

 この四十日間、サタンはイエスさまを誘惑しました。神の御心を行なうために来られたイエスさまの歩みを妨げ、神に従わせないようにしようとしたのです。

 ここで、マタイによる福音書やルカによる福音書では、イエスさまと悪魔のやりとりの内容が、詳しく語られています。そこでは、イエスさまが空腹を覚えられた時、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したり、神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ、神が天使に命じて守らせるだろう」と言ったり、悪魔を拝むなら、世のすべての国々をみんな与えよう、と言ったりします。世は悪魔のものではないのに、です。
 イエスさまなら、石をパンにすることも、神殿を飛び降りて無事でいることも、お出来になったでしょう。そうして、人々を驚かせ、力を見せつけて、従わせることだってできるでしょう。しかし、それは父なる神の御心ではありません。マタイとルカでは、これらの誘惑をイエスさまがはっきりと退けられたことが示されています。
 イエスさまは、誘惑に打ち勝ち、サタンに従うのではなく、どんなに苦しみの道を歩むことになろうとも、父なる神の御心に従うことをお示しになりました。それが、神の救いのご計画を実現する歩みであるからです。

 しかし、マルコによる福音書では、誘惑の内容には一切触れません。ただ、13節にあるように「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」ということだけを語るのです。このことを通して、マルコは特に何を伝えようとしているのでしょうか。

<平和の王>
 ここにはイエスさまが「野獣と一緒におられた」とありますが、野獣というのは他のものの命を奪う危険な獣であり、破壊の象徴でもあります。
 旧約聖書には、神の救いが実現する時、この野獣も、神のご支配のもとで害を加えるものではなくなる、ということが預言されています。

 そのことが語られているのが、本日お読みした旧約聖書のイザヤ書11章です。この箇所は、小見出しに「平和の王」と書かれており、今日はお読みしませんでしたが、1節には、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」とあります。ここには、イスラエルのダビデ王の子孫から、主の霊が注がれた「救い主」が現れ、世を正しく公平に裁く、ということが預言されています。この方が、平和の王です。
 そして、6節以下には、平和の王が救いを実現することによって、弱い幼い動物、さらには子供たちが、肉食動物や危険な生き物と一緒に憩うようなことが実現する、ということが語られます。
 「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」
 そして10節に「その日が来れば」とありますが、それは、この平和の王が現れ、預言を成就する日のことです。このイザヤ書の箇所には、時が来て、平和の王が来られ、神の救い、神のご支配が完成したときに実現する平和が、描かれているのです。

 そして、マルコによる福音書は、荒れ野で、イエスさまにおいて、この神の平和が実現していることを示します。それはつまり、旧約聖書に預言されている「平和をもたらす王」とは、このイエスという方である、ということが現されているのです。

<平和の実現のために>
 しかしこの平和は、まだこの荒れ野において現わされた、救いの完成の日の先取りとしての平和です。救いの御業は、この方において、これから始まります。
 この平和、神の恵みのご支配を、この世において実現し、すべての人々のもの、わたしたちのものとして下さるために、イエスさまは荒れ野からなお、誘惑に満ちた苦難の道を歩き続け、わたしたちの罪を負って、十字架に架かって下さらなければなりませんでした。

 神から離れたのは、わたしたちの罪です。しかし、わたしたちが罪の中に留まったまま、荒れ野で飢え渇いて死んでいくのを、神はよしとはなさいませんでした。神は、背いたわたしたち人間を、それでも愛し続けてくださっているからです。それは、ご自分の御子の命も惜しまないほどの愛です。
 神から離れて、もはや自分ではどうすることも出来ない罪に捕らわれたわたしたちのため、神は、ご自分の御子を荒れ野の中に投げ出されました。そして御子は、罪人と同じように、荒れ野の中で四十日を過ごし、わたしたちには決して打ち勝つことのできない誘惑を受けられました。
 しかし、この方は平和の王です。この荒れ野においても平和を実現し、十字架の死に至るまで父なる神に従われ、わたしたちの内に確かな神のご支配を、神の平和を実現して下さったのです。

 旧約聖書の「平和」という言葉は、「満ちる」「償う」「完成する」という意味の動詞がもとになっているといいます。イエスさまは、十字架の死によって、ご自分を犠牲にして下さり、わたしたちの罪を「償って」下さることによって、救いを「完成」し、まことの神の平和を与えて下さったのです。この方だけが、まことの平和の王です。

 イエスさまの、平和の王としての歩み、救い主としての歩みは、十字架の死への歩みです。その苦しみ、貧しさ、惨めさ、痛み、そして死をひたすら受け入れていく、そのような苦難の道です。わたしたちには誰も耐えられない苦しみです。
 ただ、まことの人となられた神の子イエスさまだけが、すべての人に代わって、この苦しみを引き受け、最後まで神に従順に従い抜いて下さることがお出来になったのです。
 そうして、十字架の死によって神の御心を成し遂げられたイエスさまを、父なる神は復活させられました。イエスさまは、罪も悪も死にも打ち勝たれた、まことの平和の王となられ、わたしたちをこの恵みの支配のもとに、神の国に、生きる者として下さるのです。

<イエスさまによって>
 神の恵みに招かれたわたしたちは、しかしなお、誘惑にさらされ、荒れ野のような世界を生きていきます。イエスさまを信じたから、問題が解決したり、願いが叶ったり、良いことが起こったりするのではありません。むしろ、罪を赦され、信仰を与えられたことによって、さまざまな葛藤や、悩みや、誘惑を受けることになるのです。

 その誘惑のきっかけは、自分の心の中にも、また外から襲う苦しみや困難にも、また、この世で満ち足りることにおいても、潜んでいます。あらゆるところに誘惑との戦いがあります。赦されているのに、わたしたちはなお罪を繰り返すのです。神を信じているからこそ、苦しみが起こった時、神への疑いを抱きます。自分の思いに捕らわれる時、神の声に耳を塞ぎ、御心を無視しようとします。大災害や、悲惨な出来事が起こった時、おまえの神は本当にいるのかと周囲の人々に責められ、自分自身も迷いを持ちます。すべてが思い通りに行く時には、神の恵みを忘れてしまいます。
 サタンの誘惑はいつも巧妙です。苦しみを通して、また楽しみを通しても、わたしたちの心の中で、神への思いが無くなってしまうように、他のもので満たそうとします。わたしたちは、サタンの前でとても弱く、誘惑に自分の力で勝つことは決して出来ません。

 しかしイエスさまは、荒れ野の苦しみも、誘惑の力も、罪の悲惨さもご存知です。
 わたしたちが、神はどこにおられるのか、神はわたしを見捨てられた、と叫んでしまうような、苦しみと絶望をも、イエスさまはあの十字架の上で、引き受けて下さいました。
 そして、ご自分の十字架によって、もはやあなたたちは、わたしが神の御心によって実現した神の平和の中にいるのだ、と語りかけて下さり、わたしたちを神の恵みの内に、捕らえていて下さるのです。わたしたちが、サタンに翻弄され、荒れ野でじたばたしていても、この方による罪の赦しの恵みは、決して揺るぎません。この方と共にいることでしか、わたしたちは誘惑に勝てません。
 このイエスさまが共にいて下さることによってのみ、わたしたちは荒れ野のような場所においても、誘惑にあったとしても、神の恵みに、確かにとどまることができるのです。
 わたしたち自身は弱くても、倒れても、この方が支え、立ち上がらせて下さいます。ただこの方だけが、荒れ野の只中に、まことの平和を実現してくださることができます。

 イエスさまが実現して下さった神のご支配を、わたしたちはこの礼拝で御言葉を通して聞き、また聖餐の食卓にあずかって確かにされます。聖餐こそ、終わりの日の神の国の食卓の先取りです。
 未だわたしたちの目には、荒れ野のように見える世の中ですが、主イエスの十字架で裂かれた体のしるしのパン、流された血のしるしの杯を通して、確かに世に勝利された、生きておられる復活のイエスさまとの交わりにあずかっていること、体も心も魂も、すべてをこの方に養われ、生かされていることを、味わい知ります。
 終わりの日には、すべての者の目に神のご支配が明らかにされます。そのことを確かな希望として待ち望みつつ、すでに始まっている神の国の恵みを、先取りで味わわせていただいているのです。

 わたしたちが生きているのは、イエスさまが与えて下さった、神の確かなご支配の中です。神は、イエスさまの血によって、わたしたちをご自分のものとして下さり、決して手を離されません。御子の命を与えてまで、わたしたちを救い出して下さったのです。
 キリストにあって、神が「愛する子よ」と呼んで下さり、わたしたちが「父よ」と呼ぶ、そのような神との親しい交わりに入れられ、神と共に新しい命を生きる、その祝福と恵みに、わたしたちはすでに今この世での歩みにおいて、あずかることができるのです。

 今も生きておられる平和の王、イエス・キリストが、確かにわたしたちと共にあり、一つになって下さり、この荒れ野を進んでいくようなわたしたちの日々を先立って、また殿となって、守り導いて下さいます。聖霊によって神の恵みに目を開かせ、確かな支えと、サタンの誘惑に打ち勝つ力を与え、神の平和の内に歩ませて下さるのです。

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