「愛によって歩む」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:レビ記 第19章9-18節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第14章13-23節
・ 讃美歌:310、314、483
受難週からイースターへ
本日からの一週間は「受難週」です。主イエス・キリストが捕らえられ、裁かれ、十字架につけられて殺され、葬られた、その最後の一週間を特に深く覚えつつ私たちはこの週を歩むのです。今年はこの受難週が丁度3月の最後の一週間となりました。受難週の歩みをもって2017年度が終わろうとしています。主イエスは受難週の金曜日に十字架につけられて亡くなり、三日目の日曜日の朝、復活なさいました。つまり来週の日曜日はイースター、主イエスの復活を記念する日です。今年はそのイースターが4月1日です。2018年度はイースターから始まるのです。それはとても意味深いことだと思います。年度替わりである4月は、私たちの生活にいろいろな変化が起る時です。その新しい歩みを、主イエスの復活によって神が私たちに与えて下さっている新しい命にあずかることによって始めることは大きな恵みです。それに先立って、3月最後の週である今週私たちは、主イエス・キリストが私たちのために苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さった、そのことをしっかりと覚えながら歩みたいと思います。それによってこそ、主の復活の喜びにあずかって新しく歩み出すことができるのです。
愛によって歩む
今、「歩む」という言葉を何度も用いました。聖書は、人が生きることをしばしば「歩む、歩く」と表現しています。聖書のみに限らず、「人生とは、重い荷物を背負って長い道のりを歩いていくようなものだ」と徳川家康が言ったとされています。「千里の道も一歩から」という諺もあります。生きることは歩いていくことだ、ということを誰もが感じるのです。そこで意識されているのは、人生とは、一歩一歩の小さな日常的営みの積み重ねだ、ということでもあります。「千里の道も一歩から」というのは、大事業も日々の一歩一歩の積み重ねによって成る、ということです。生きることは歩くことだと意識する時私たちは、その日その日をどう生きるか、その一歩一歩が大事だ、ということを思うのです。信仰をもって生きることにおいてもそれは同じです。主イエス・キリストを信じる者として、毎日をどのように歩むのかが私たちに問われているのです。本日の説教題を「愛によって歩む」としました。愛によって日々を歩むことこそが、キリスト信者のあるべき生き方だということは誰もが認めるところでしょう。主イエス・キリストが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのは、私たちへの愛のゆえにです。この主イエスの愛、そして独り子主イエスを遣わして下さった父なる神の愛による救いにあずかった者として、私たちも、愛によって日々を歩みたいのです。
食べる人と食べない人
この説教題は本日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙第14章の15節に由来しています。パウロはここでローマの教会の人々に、「愛に従って歩む」ことを教え、求めています。それこそが、キリストを信じて生きている者の生き方だ、と言っているのです。しかし15節を読んですぐに気づくことは、パウロはここでむしろ、「こんなことではあなたがたは愛に従って歩んでいない」と教会の人々を叱っているということです。あなたがたの日々の歩みは、愛によるものになっていない、愛に従って生きることができていない、と言っているのです。パウロが「こんなことでは」と言っているのはどのようなことでしょうか。15節には、「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば」とあります。それがどういう意味なのかは、1~12節を読んでくる中で示されてきました。2節に「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」とありました。イエス・キリストを信じている者たちの中に、何を食べてもよいと信じている人と、野菜だけを食べるべきだ、つまり信仰者は肉を食べるべきではないと考えている人がいたのです。それは当時、他の神々、偶像の神々の神殿に供えられた肉が市場で食肉として売られていたという事情があり、唯一の神のみを信じるユダヤ人たちにとっては、偶像に供えられた肉は汚れたものであり、食べてはならないものだった、ということが背景にあります。そういうユダヤ人たちの食物についての掟を、キリスト信者も守るべきだと考えていた人々は、市場で売られている肉を食べずに野菜だけを食べていたのです。それに対して、「何を食べてもよいと信じている人」というのは、主イエス・キリストの実現して下さった救いによって、そのような食べ物に関する掟はもう意味を失った、と考えている人です。その人々は、救いは主イエス・キリストによる罪の赦しと新しい命を信じることによって与えられるのだから、食べ物について、これを食べてはいけないとか、これはよいとかいうことはもはや救いとは関係ないと信じており、だから何を食べてもよいと考えているのです。そしてパウロは、野菜だけを食べている人のことを「弱い人」と呼んでいます。それは「信仰が弱い」ということであり、主イエス・キリストが実現して下さった救いに信頼することにおいて弱い、ということです。そのためにその人々は、昔からの慣習や掟になお縛られており、そこから自由になれていないのです。イエス・キリストを信じている信仰者の中にも、日常生活において信仰者としてどう生きるかにおいて、このような違いがあったのです。そして両者の間で、お互いに相手を批判するようなことが起っていました。3節に「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とあります。つまり、何でも食べる人、信仰による自由に生きている人が、肉を食べない人、昔からの掟にこだわっている人を、「あの人は信仰による自由が分かっていない、キリストによる救いに信頼するよりも、昔の掟にこだわっている」と軽蔑しており、逆に肉を食べない人は食べる人のことを「あの人は信仰を持っていない人と同じ生活をしているではないか。信仰者には信仰者としての生き方があるはずではないか」と裁いていたのです。14章から15章にかけてパウロが扱っているのはこういう問題です。信仰者どうしの間で、その具体的生き方、生活のあり方について、互いに裁き合い、批判し合うようなことが起っていたのです。だからパウロは13節で、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」と言ったのです。お互いに裁き合っているようでは、愛によって歩んでいるとは言えないのです。
信仰による自由
このようにパウロは、同じ信仰に立ちながら具体的な実践において違うあり方をしている者たちが裁き合っている現実を見つめて、そのようなことはやめよう、と言っているわけですが、そこで彼は、両者の間で中立の立場に立って、こちらの言い分にも一理あるが、あちらの主張にも正しいところがあるのだから、お互いに認め合って仲良くしようではないか、と言っているのではありません。パウロ自身は、はっきりと片方の立場に立っているのです。そのことが14節に語られています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」。「それ自体で汚れたものは何もない」、つまり、汚れているから食べてはならないものなど何一つない、というのがパウロの確信です。つまり彼はここでの「食べる者」と「食べない者」という違いにおいて、自分は「食べる者」だということを明確に語っているのです。しかもそれは、主イエスによって知り、確信していることだと言っています。つまりこれは自分の考えではなくて、主イエスご自身によって示されたことだ、ということです。実際主イエスはそのようにお語りになりました。マルコによる福音書第7章15節にこのようにあります。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。「外から人の体に入るもの」とは食べ物のことです。これを食べると汚れる、という掟にこだわっているユダヤ人たちに対して主イエスはこのようにお語りになり、人を本当に汚すのは食べ物ではなくて、「人の中から出て来るもの」、つまり人間の心から出てくる様々な悪い思いと行いなのだと教えられたのです。パウロはこの主イエスの教えを受け継いでいるのです。だからパウロ自身は、何を食べてもよいと信じている、信仰によって自由にされて生きているのです。
私たちを束縛しているもの
私たちは元々、ユダヤ人の律法に縛られてはいません。だからここでの「食べる」「食べない」という対立は私たちの生活には直接には結びつきません。しかし私たちが生きている社会にも、私たちの生活を縛るいろいろな慣習ないし縁起担ぎのようなものがあります。大安とか仏滅などの「お日柄」があり、結婚式は仏滅ではなくできれば大安の日に、とか、葬式は友引の日にはしない、という慣習があります。実際友引の日には横浜市の火葬場は一箇所しかやっていないのです。このような「縁起担ぎ」はいろいろあって、私たちの生活を縛っています。その延長上には様々な占いがあります。「今週の何座の運勢」のようなものから始まって、占いによって、こういうことは縁起が良いと勧められたり、こういうことは縁起が悪いから避けるようにと言われたりするのです。そのようにして私たちの生活に束縛、不自由が生じていきます。それがさらに悪用されると、何かの祟りを取り除くためにと高い壷や印鑑を買わされたり、必要もないのに家を引っ越したり名前を変えたりということが起るのです。そこまでは行かなくても、占いなど信じていないと言いながらも、「こういうことは縁起が悪い」と言われるとそれはやめておこうか、という気持ちになる。占いはそのようにして私たちを束縛し、自由を奪うのです。それは、「これは食べてもよいもの、これは食べたら汚れるもの」ということを気にして生きていたユダヤ人たちと同じ姿です。ここに語られていることと内容は全く違っても、私たちも同じようにいろいろなものに縛られ、束縛されているのです。
キリストの十字架と復活による解放
このような束縛は、私たちが「占いなど信じない、縁起など気にしない」と決意すれば解放されるというものではありません。自分の人生の歩みの一歩一歩が、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦して神の子とし、恵みによる救いを与えて下さっている父なる神のご支配の下に置かれている、ということを信じる信仰によってこそ、私たちは様々な占いや縁起担ぎから自由になることができるのです。パウロも、主イエス・キリストによる神の愛を示され、神の恵みによる救いが既に与えられていることを確信していたから、食べるものによってその救いが失われたりすることはない、と確信をもって語ることができたのです。それと同じように私たちも、主イエスの十字架と復活によって示され、与えられている神の愛と救いの恵みを示されています。独り子の命をすら私たちのために与えて下さり、その主イエスを復活させて私たちにも永遠の命を約束して下さっている父なる神の愛は、縁起が悪いとされているどんなものによっても、あるいは占い師の語る祟りなどによっても、失われてしまうことはないのです。私たちの人生には思わぬ不幸や苦しみが襲いかかって来ることがありますが、それは何かの祟りとか運勢の巡り合わせによることではなくて、つまり意味のない偶然の出来事なのではなくて、天地を造り支配しておられる神が、その苦しみを通して、私たちがより真剣に、より激しく、神の支えと助けを祈り求めていく者となるためにお与えになっていることなのです。その苦しみを通して、私たちと神との交わりが真実なものとなっていくことを神は願っておられるのです。だから私たちは、最大の苦しみ悲しみである死をも、「縁起でもない」と言って避けるのでなく、正面から見つめていくことができます。死の力も、私たちを主イエス・キリストによる神の救いの恵みから引き離すことはできないからです。そのことをはっきりと示しているのが、今週から来週にかけて覚えていく主イエスの十字架の死と復活です。主イエスは私たちのために苦しみを受け、死んで下さったのです。そして復活して永遠の命を生きておられるのです。主イエスの死と復活によって、神の恵みと愛が、罪と死の力に既に勝利したのです。この神の愛の勝利を信じるなら私たちは、死をもしっかりと見つめて生きることができる自由を与えられるのです。
自由を押し付けてはならない
主イエスの十字架と復活によって与えられたこの救いの恵みのゆえにパウロは、「それ自体で汚れたものは何もない。何を食べてもよい」と確信しています。この確信を曖昧にして、「肉を食べるべきではない」という教えをも認めてしまうことは、主イエス・キリストの十字架と復活を無にすることであって、決してできません。パウロの信仰は決して、いろいろ違いがあっても仲良くやっていけばいい、というものではないのです。しかし彼はそこで同時に、15節にあったように、兄弟たちの心を痛めないように、ということを真剣に考えているのです。そこにおけるパウロの思いは14節の後半の「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」という言葉に表されています。それ自体汚れたものは何もない、それがキリストによる福音です。しかしその福音を基本的に信じていながらも、なお昔からの律法の束縛の中にあり、あるものを食べてはいけないと思っている人がいる。それは確かに信仰の弱い人です。その人は、それを汚れたものと感じているのです。「その人にだけ汚れたものです」というのはそういうことです。そしてパウロは、そのように感じているその人の心を痛めてはならない、と言っています。それは、その人の言っていることが正しいとか正しくないということではなくて、「何を食べてもよい」という自由をキリストによって与えられて生きている人が、その自由を人に押し付けてはならない、ということです。なお「弱さ」の中にいる人が、他から押し付けられて、汚れているとその人が感じているものを無理やりに食べさせられてしまうようなことが起るならば、それは愛によって歩んでいることにはならないのです。キリストによって与えられる自由は、押し付けられ、強制されて身に着けるものではありません。それでは自由とは言えないのです。自分が確信を持てないことを他から強いられて、「本当にこれでいいのかな」と疑いながら、周りの人に引きずられてする、というようなことは良くないのです。23節に「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」とあるのはそういうことでしょう。それ自体は間違ったことでなくても、疑いの中でなされるなら、その人にとって決して良いことではないのです。
自由をどう用いるか
つまりパウロがここで問題にしているのは、自分が信仰によって与えられている自由を、他の人との関係の中でどう用いるか、ということです。主イエス・キリストによる救いの恵みによって私たちは大いなる自由を与えられています。いろいろな束縛から解放されています。そのように解放されて自由に生きていく中で、他の人とどのような関係を築いていくか、そこに私たちの愛が問われているのです。解放と自由は、私たちが神に感謝して、喜んでその自由に生きるべきものです。ところが私たちはともすればその自由を、他の人に対する自己主張の道具にしてしまう、あるいは誇りの手段にしてしまうのです。そこには、人を軽蔑したり裁いたりすることが起ります。それが兄弟の心を痛め、傷つけるのです。つまり、それ自体としては良いものであり喜ぶべきものである自由が、自己主張の道具、誇りの手段となる時に、人を傷つける悪いものとなってしまうのです。16節に「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種とならないようにしなさい」とあるのはそういうことです。「善いこと」、それはキリストの福音によって与えられる自由、あるいは福音そのものと言ってもよいでしょう。それが「そしりの種」になってしまう。それは私たちがそれを自分の自己主張のために用いてしまうことによってです。そうなると、それはかえって人をつまずかせるものになってしまうのです。それでは、愛によって歩んでいるとは言えないのです。つまりパウロがここで根本的に問題にしているのは、私たちの日々の歩みが、他の人に対する自己主張、自分の意見や考えを通そうとする歩みになっているのか、それとも人をつまずかせず、生かそうとする歩みになっているのか、ということです。特に、まだ信仰が弱い人、信仰によって解放されて自由に生きることができていない人に対して、そういう愛に生きることができているのか、ということが問われているのです。
自由の行使を差し控える自由
自己主張に陥るのでなく、愛によって歩むためには何が必要なのでしょうか。13節でパウロは「もう互いに裁き合わないようにしよう」と語っており、それに続いて「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」と言っています。人を、特に弱い者をつまずかせない、つまずきの原因となるものを人の前に置かない、愛によって歩むためにはそういうことが大切なのです。この教えは旧約聖書にも語られていました。それは本日共に読まれたレビ記19章です。この19章の19節に「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」という、主イエスも引用なさった言葉があります。つまりここは隣人を愛することを教えている箇所です。その少し前の14節にこうあります。「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」。この「障害物」が「つまずかせるもの」です。目が見えない人はほんの小さなものにもつまずいてしまうのだから、そういうものを置かないように配慮することが、隣人を愛することなのです。ところが私たちは、隣人の前につまずかせるものを置いてしまうことが多い。自己主張ばかりしているからそうなるのです。たとえ言っていることは正しくても、それが自己主張になってしまうなら、人をつまずかせるものになるのです。そういうものを置かないためにはどうすればよいのか。それが20節以下に語られています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」。ここでパウロは、自分の抱いている自由の確信は、神の御前で自分の心の内に持っていればよいのであって、それを人に押し付けるな、と言っているのです。人に対しては、弱い人をつまずかせ、罪に誘うようなことのないように、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」のです。繰り返しますが、肉を食べたりぶどう酒を飲んだりすること自体が罪であったり、汚れたことなのではありません。主イエスによる救いにあずかった私たちはそういう掟から解放されているのです。しかしもしもその私たちの自由が、まだ自由の確信を得ていない弱い兄弟をつまずかせるなら、その自由の行使を差し控えることこそが愛によって歩むことなのです。同じことをパウロはコリントの信徒への手紙一の第8章12節以下でこのように語っています。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」。主イエス・キリストによって解放され、何ものにも束縛されない自由を与えられているパウロは、このように、自分の自由を放棄し、それを行使することをやめる自由をも得ているのです。それこそが、本当に自由な者の姿です。自己主張に捕えられている者は、まだ本当に自由になっているとは言えないのです。私たちのために苦しみを受け、十字架の死への道を歩んで下さった主イエス・キリストは、私たちにこのような本当の自由を与えようとしておられます。この本当の自由を求めていくところに、愛による歩みも与えられていくのです。受難週からイースターに向けての日々を、2017年度から18年度への日々を、主イエスの十字架と復活による解放、自由にあずかることを祈り求めつつ、愛によって歩んでいきたいと思います。