夕礼拝

神の怒りと愛

「神の怒りと愛」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:士師記 第2章6節-第3章6節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第23章29-39
・ 讃美歌:300、442

士師記とは  
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりまして、先月は「ヨシュア記」の最後のところを読みました。本日からはその次の「士師記」に入ります。ヨシュア記には、モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、主なる神が与えると約束して下さったカナンの地に入り、そこに住んでいた人々を打ち破ってその地を獲得していったことが語られていました。士師記はその続きです。ヨシュアが百十歳で死んだことは先程読んだ2書8節に語られていました。その後のイスラエルの民の歩みを語っているのが士師記なのです。  
 ところで士師記とはどういう意味なのでしょうか。16節に「主は士師たちを立てて」とあります。主に立てられた士師たちの物語が士師記です。その士師とは何なのでしょうか。新共同訳聖書の後ろの付録にある「用語解説」を見てみますと、このように語られています。「本来は『裁く』という動詞の分詞形であるが、『士師』と訳される場合は、イスラエルの歴史において、カナン占領から王国設立までの期間、神によって起こされ、イスラエル人たちを敵の圧迫から解放する軍事的、政治的指導者を指す。士師記には12人の名が挙げられている」。つまり士師とは、神によって起こされた軍事的、政治的指導者です。そして士師はいつの時代にもいたのではなくて、「カナン占領から王国設立までの期間」のみに存在したのです。またここには、士師という言葉は元々は「裁く」という言葉の変化した形だと語られています。つまり士師は、「民を裁く者」という意味なのです。それで、昔の文語訳聖書では、士師という漢字に「さばきづかさ」とふりがながふられていました。「広辞苑」によると、士師という言葉は古代の中国で刑罰を司った官職名なのだそうです。その漢字を使って、「さばきづかさ」と読ませたわけです。文語訳のように「さばきづかさ」とふりがながふられていればまだイメージがつかめますが、士師となるともはや何のことか分かりません。「裁判人」とでも訳せばよかったのに、とも思いますが、しかし先程の解説にあったように、彼らは裁判人と言うよりも「政治的、軍事的指導者」としての働きを主にしています。だから「裁判人」では実際の姿とは合わないのです。結局相応しい訳語が見つからなくて、士師記という言葉がそのまま残っているのです。

士師と王  
 士師のもう一つの特徴は、必要な時にその都度立てられたということです。そこに、後の王との違いがあります。王は、政治的、軍事的指導者という役割は似ていますが、基本的に親から子へと継承されていくものです。それに対して士師は一代限りの個人が立てられるのです。そういう士師たちが、ヨシュアの死から王国設立までの間のイスラエルを治めたのです。それは意味深いことです。モーセもヨシュアも、神が一代限り立てた個人でした。イスラエルの民は、神がお立てになったこれらの個人的指導者の下で、エジプトから脱出し、カナンの地を獲得したのです。エジプトにも、またカナンの先住民たちにも皆王がいました。しかしモーセもヨシュアも王ではないし、王にはならなかったのです。そして彼らの亡き後も、やはり神によって立てられた個人的指導者がイスラエルを導いていった。そこには、イスラエルは主なる神ご自身によって治められ、導かれるべき民だ、ということが示されているのです。しかしその後、王が立てられ、イスラエルも王国となります。士師の時代は王国設立までの過渡期となったのです。イスラエルに王が立てられ、王国となったことの評価は聖書において複雑です。主なる神ご自身が王であるべきイスラエルに、人間の王が立てられることは、神のみ心に反しており、神の直接のご支配を否定するものだ、という考え方が一方にあります。しかしまた、この士師記の最後の所、21章25節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」とあります。この文章も、肯定的に語っているのか否定的に語っているのか、微妙なところがありますが、その前の所に語られているのは、イスラエルの部族の間の争いにおいて悲惨な殺し合いがあったことです。その流れからすれば、王がいなかったために無秩序な状態に陥っていた、と読むことができます。イスラエルに王が立てられていったのは必然的なことであり、主のみ心でもあった、と士師記自体が語っているのです。そういう意味では士師たちは、後の王たちの働きを先取りしていたのであって、士師記は、ヨシュア記と、サウル、ダビデが王として立てられたことを語っているサムエル記の橋渡しをしていると言うことができます。そして以前に申しましたが、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は、申命記に語られている信仰に基づいてイスラエルの歴史を記述している「申命記的歴史書」としてひとつながりのものなのです。それらを貫いている申命記の信仰とは、イスラエルが主なる神に従い、その律法を守り、主のみを神として歩むなら祝福が与えられるが、主を忘れ、律法を破り、田の神々を拝むようになるなら、呪いが、災いが民に臨む、ということです。士師たちの働きも、それを受け継いだ王たちの歩みも、そういう視点から、連続したものとして描かれているのです。

世代交替によって  
 さて先程の解説によれば、士師記には12人の士師たちのことが語られています。よく知られている人としては、女性であるデボラ、そしてギデオン、エフタ、サムソンなどがいます。それらの人々についてこれから読んでいくわけですが、本日の箇所には、それらの士師が立てられた事情がまとめられています。彼らは、イスラエルの民が敵に打ち破られ、苦境に陥ったために立てられたのですが、そういう苦しみがどうして起ったのかが10節以下に語られているのです。10節にこうあります。「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った」。つまり世代交替ということです。「その世代」とあるのは、ヨシュアに率いられてカナンの地に入り、そこを得るために戦った世代です。その世代の人たちが皆絶えて先祖たちのもとに集められた、つまり死んだのです。その後に、「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った」のです。「主がイスラエルに行われた御業」とは、カナンの地を与えて下さったということです。ヨシュア記に語られていたように、彼らは、自分たちよりも強い、人間の常識では到底かなわないような敵を打ち破ってこの地を得たのです。それは主なる神が共にいて下さったからです。主なる神によって彼らはこの地を与えられたのです。前の世代の人々はそのことを体験してきました。しかし世代が替るとその体験は失われます。知識として聞かされるのと、実際にそれを体験したのとは全く違うのです。新しい世代の者たちは生まれた時からこのカナンの地に住んでいます。この地が自分たちのものであることは彼らにとっては当たり前なのです。そういう意識の差がどうしても起ってきます。丁度、戦後生まれの人の方が多数となり、戦争を直接体験した人が少なくなってきたのと同じです。戦争体験を風化させずに次の世代に語り継ごうという努力がなされていますが、しかしどんなに体験談を聞いても、本で知識を得ても、実際に戦争を体験した人と、生まれた時から平和の中で育った人とでは、やはり意識が違って来るのは仕方のないことです。イスラエルの民も、主なる神によってこの地を与えられたその恵みを子供たちに継承しようとしていたでしょう。しかし知識や言葉ではなかなか本当のところは伝わらないので、新しい世代の人々は主を知らず、その恵みの御業も知らない、ということになってしまったのです。それによって、11、12節のようなことが起ってきました。「イスラエルの人びとは主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた」。バアルに代表される周囲の国の神々は、偶像の神、つまり目に見える姿を持っている、そういう意味で分かりやすい神です。さらにこれらの神々は、豊作をもたらし、人間に豊かさと繁栄を約束する神です。そういう人間の欲望の投影として生まれた神々なのです。主なる神を知らず、その救いの御業も知らないなら、そのような神々に心が向いていくのはある意味当然のことだとも言えます。しかしそれは、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、この地を与えて下さった主なる神に対する深刻な裏切り、反逆であり、主を怒らせることでした。主の怒りによって彼らは災い、苦しみに陥るのです。13~15節です。「彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた」。ここに、先程申しました申命記の信仰が現れています。主なる神を捨て、他の神々を拝むならば呪いが、災いが下されるのです。

神の怒りと愛  
 士師たちが遣わされたのは、このような災い、苦境の中にあるイスラエルの民を救うためでした。この災い、苦しみは、偶然起った不幸ではありません。彼ら自身の罪によってもたらされたものです。彼らが主なる神に背き、その恵みを無にして、他の神々に心を向けたからこのような苦しみが襲いかかって来たのです。つまりこの苦しみを彼らに与えておられるのは主なる神です。しかしそのように彼らの罪に対して怒り、苦しみをお与えになっている主なる神から、士師が遣わされるのです。その主のみ心が18節に語られています。「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである」。敵に圧迫され迫害されて苦しみうめいているイスラエルの民を、主が哀れに思われた、その神の憐れみのみ心によって士師が遣わされたのです。恩知らずの民に対して怒り、苦しみをお与えになる神が、同時にその苦しみの下にある民を憐れみ、救おうとして下さる、そこに、神の怒りと愛の微妙な関係が示されています。そもそも主がイスラエルの民に対して怒られたのは、彼らを愛しているからです。主はイスラエルの民を選び、彼らと契約を結んでご自分の民として下さいました。そしてこの民のために主ご自身がみ業を行ってエジプトの奴隷状態から解放し、荒れ野の歩みを導いて、約束の地を与えて下さったのです。イスラエルの民が主のこの深い愛に応答することなく、その恵みに感謝せず、自分の欲望を満たすために、豊かさを約束する他の神々に心を向けてしまったので、主はお怒りになったのです。それはこの民を愛しているがゆえの怒りです。怒ったりするのは神様らしくない、それでは人間と同じではないか、ともし思うとしたら、それは神の愛の真剣さが分かっていないということです。聖書が語っている神は、人間と契約を結んで下さる方です。契約を結ぶということは、その相手である私たち人間に対して、神が義務を負う者となって下さるということです。契約を結んだ者は、それを破ったなら、相応のペナルティーを負わなければならないのです。そういう関係を神が人間との間に結んで下さった、それが神の愛です。イスラエルの民はそのような神の愛を受けたのです。その契約における義務は、契約を結ぶ双方が負うものです。イスラエルの民も、この契約において、主なる神のみを神として拝み、従い、主にのみ仕えることを、つまり神の愛に応えて自分たちも神を愛することを約束したのです。それなのにその約束を破り、他の神々を拝むようになってしまった、その罪に対して神がお怒りになるのは当然のことです。もしもそここで怒らないとしたら、相手を本当に愛してはいない、相手との関係をどうでもよいものと考えている、ということです。相手の約束違反に対して怒らないのは、自分も真剣に約束を守ろうとしていないということなのです。このように主なる神は、真実に愛する方であるがゆえにお怒りになる方でもあるのです。それは神が神らしくないのではなくて、人間が神とこのような愛の関係を結ぶことができる者として、つまり神に似ている者として造られている、ということなのです。ですからイスラエルの民に対してお怒りになる神は、彼らをただ苦しめ、困らせ、滅ぼして復讐しようとしておられるのではありません。イスラエルの民に悔い改めを求め、彼らとの、本来の良い関係を回復しようとしておられるのです。そのために、士師たちが遣わされたのです。

士師記全体のメッセージ  
 ところが、神が望んでおられる真実な悔い改めは起りませんでした。先程の18節にあったように、士師たちの存命中はよかったのですが、19節にあるように、「その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった」のです。つまり士師が現れて苦しみから救ってくれると、その人が生きている間は主に従うのだけれども、彼が死ぬとまた元の木阿弥に戻ってしまったのです。士師記に語られているのはそういうことの繰り返しです。12人の士師がいるということは、12回そういうことが繰り返されたということなのです。まだ具体的にどの士師も出て来ていないこの第2章において既にこのことが語られており、この後起ることが予告されているのです。  
 つまり本日の箇所は、士師記全体の要約であると言えます。ここから私たちは、士師記全体が伝えようとしているメッセージを読み取ることができます。それは、繰り返し繰り返し神に背く忘恩の罪に陥り、その結果苦しみに陥っていくイスラエルの民に対する主なる神の、愛に基づく怒り、あるいは、怒りつつなお憐れみをもって救いのみ手を差し伸べて下さる愛です。繰り返し繰り返し恵みを忘れ、契約の愛を裏切ってしまうイスラエルの民に、主なる神は、性懲りもなく、と言えるほどに忍耐強く、士師を送り続け、契約の関係、愛の関係を回復しようとして下さったのです。そしてそのことが、次の王国設立へと繋がっていきます。士師の働きによって神との正しい関係を回復することができなかったイスラエルの民に、神は今度は王を立て、王の統治によって民を導こうとして下さったのです。このように、士師の時代から王国時代への転換は、主なる神のイスラエルの民に対する働きかけ方の転換です。しかしそこに示されている主なる神のイスラエルへの愛の思いは一貫しているのです。

信仰は戦いの中でこそ継承されていく  
 先程も申しましたように、ここには、民の側の世代交替の問題がからんでいます。主なる神の愛は終始一貫して変わらないのに、民の方は世代が交替することによって変わっていってしまうのです。前の世代が体験したことを次の世代に継承することはなかなか難しいことです。親と子の間、世代と世代の間には常にそういう問題があります。子供は親に縛られることを嫌い、その束縛から自由になりたいと思います。つまり継承を嫌うのです。神との関係、信仰においてはとりわけそうであるかもしれません。親は神を信じているかもしれないが、だからといって自分までそれに縛られたくない、親は神に恩義を感じているかもしれないが、自分は別に神の世話になってはいない、そういう感覚が、イスラエルの民が主の救いの恵みを忘れてしまうことの根本にあるのです。それは私たちが、自分の信仰を家族に、子供たちに伝えたい、継承してもらいたいと思ってもなかなかそれが実現しないというのと同じことです。そういう問題はいつの時代にもあるわけで、こうすれば信仰が継承される、という目覚ましい解決法があるわけではありません。しかし私たちはここで、主なる神がこのようなイスラエルの現実においてなさったことを見つめることができます。それは20節以下に語られていることです。このようにあります「主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。『この民はわたしが先祖に銘じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである』」。このように主はイスラエルの民の中に、他の民、つまり先住民たちを残されたのです。彼らを全て滅ぼしてこの地をイスラエルの民だけに与えることをやめたのです。ということは、民の中に敵が残ったということです。そのことの目的が3章の1、2節に語られています。「カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった」。主が民の中に敵を残したのは、新しい世代の者たちにも戦いを体験させ、学ばせるためです。前の世代の者たちは、この地を獲得するために戦い、その中で、共に戦って下さる主の恵み、導き、守りを体験しました。次の世代の者たちも、そういう戦いを体験することによってこそ、主なる神との交わりが深まり、信仰を継承していくことができるのです。このことは一つの大事な真理です。それは決して戦争を奨励しているということのではなくて、信仰というのは、親の遺産で食べていくことができるものではない、ということです。それぞれが、自分自身の信仰の戦いを戦っていくことの中でこそ、神の恵みや愛を知らされていくのです。それぞれの世代がそれぞれの信仰の戦いを戦い、そこにおいて主なる神の恵みと愛を自分自身のこととして体験していくことが必要なのです。その信仰の戦いを先頭に立って導く者として12人の士師たちが次々に立てられたのです。

主イエスを遣わして下さった神  
 主なる神はこのように士師たちを立て、後には王を立て、様々な仕方でイスラエルの民を導き、繰り返し背きの罪に陥っていく彼らとの間に、契約に基づく良い関係を確立しようとしていかれました。その主の恵みのみ業の頂点として、独り子イエス・キリストが遣わされたのです。本日共に読んだ新約聖書の箇所、マタイによる福音書第23章29節以下で主イエスは、主なる神が繰り返し繰り返し預言者らを遣わしてイスラエルの民をご自分のもとに集めようとなさったこと、しかし彼らは遣わされた人々を受け入れず、迫害し、殺してしまったことを責めておられます。そのような度重なる忘恩の罪に対して、主なる神は怒っておられ、この民は見捨てられてしまう、と主イエスは警告しておられます。けれどもこれを語っておられる主イエスご自身が、父なる神から、罪ある人々のために遣わされ、十字架の苦しみと死を引き受けることによって罪人の赦しを実現して下さる救い主です。士師たちを繰り返し遣わして下さった主なる神は、今やご自分の独り子である主イエスによって、私たちとの間に、契約の関係、愛の関係を打ち立てて下さっているのです。今私たちは主イエスのこの愛による十字架への歩みを覚えるレントの時を過ごしています。主イエスの苦しみと死とによって私たちに示され与えられている神の真実な愛を、士師記も証しし、指し示しているのです。

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