主日礼拝

聖霊の賜物

「聖霊の賜物」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第98篇 1節-9節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第11章 1節-18節
・ 讃美歌 ; 278、386、401
・ 奉唱  ; 24

 
私たちの物語
 このクリスマスに、多くの方々からクリスマス・カードをいただきました。ある教会員の方からのカードに、私が今している使徒言行録の説教について触れられていました。今まで、使徒言行録は単なる物語に過ぎないように思って読んでいたが、説教を聞いて、ここにも神様から私たちへのみ言葉があることを教えられた、というような内容でした。これをお読みして、私は大変嬉しく思いました。私たちは、聖書を、単なるお話しとして、古代の文献として読んでいるのではあありません。神の言葉として、神様からの語りかけ、メッセージとして読むのです。それは使徒言行録も同じです。ここにも、神様から私たちへの語りかけがあり、メッセージがあるのです。言い換えれば、私たちは使徒言行録を、私たちと関係のない、昔の人々の物語としてではなく、私たちのことが語られている、私たちの物語として読むのです。本日もそのような思いで、与えられている個所を読んでいきたいと思います。

異邦人伝道の開始
 本日の個所は第11章の前半です。ここは第10章からの話の続きです。使徒ペトロが、カイサリアという町に出向き、ローマ帝国の軍隊の百人隊長であるコルネリウスという人とその家族に、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、彼らが信じて洗礼を受けた、ということが第10章に語られていました。このことは、繰り返し申していますが、単に新たな一つの町で伝道がなされ、新たな信者が興された、ということに止まらない、大きな意味を持つ出来事です。それは使徒たちによる、異邦人への伝道の開始ということです。ユダヤ人である使徒たちが、ユダヤ人の救い主メシアであると信じた主イエスの福音を、ユダヤ人以外の異邦人にまで告げ広め、彼らもその救いにあずかる者として受け入れたことは、私たちの感覚ではなかなか理解できないくらい驚くべきこと、まさに驚天動地の出来事でした。彼らの中には、神様の民はユダヤ人であり、神様の救いにあずかるのはユダヤ人のみであるという、先祖伝来の強い自負があり、またそれが疑う余地のない常識となっていたのです。本日のところにも語られている、ペトロが見た幻の中に、清くない、汚れた、それゆえに食べると自分も汚れてしまうと律法に定められている動物が出てきますが、彼らはそれと同じように、異邦人をも汚れた者とし、その汚れが自分に移らないように、異邦人との交際を極力避け、その家に入って食事を共にしない、ということで神の民としての清さを保とうとしていたのです。ユダヤ人と異邦人の間には、そのような大きな、超え難い隔ての壁があったのです。それゆえにペトロが、その壁を乗り越えて異邦人の家に客となり、主イエスの福音、救いの知らせを宣べ伝えたことは、驚くべきことだったのです。

ペトロへの非難
 このことは直ちに、エルサレムにいる仲間の使徒たちや教会の人々に伝わりました。1節に、「使徒たちとユダヤにいる兄弟たち」とあるのがエルサレム教会の人々のことです。彼らは皆ユダヤ人です。その彼らが、「異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした」のです。私たちの感覚なら、それは喜ばしい出来事であり、嬉しい知らせなのですが、彼らにとってはそれは、先程の常識からして、簡単に喜べない、むしろ疑問や反発を覚えるようなことでした。その疑問や反発が2、3節に語られています。「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」。「割礼を受けている者」がユダヤ人です。割礼はユダヤ人を異邦人から区別する印でした。つまりペトロはここで、「あなたは異邦人のところへ行って一緒に食事をした」と非難されたのです。「一緒に食事をする」ことは、深い交わりの印です。仲間であることを具体的に現すことです。それゆえに律法には、異邦人の家に入ることも、一緒に食事をすることも禁じられていたのです。ペトロはその律法を破っています。ペトロ自身もそのことを意識していたことは、10章28節からわかります。ユダヤ人である仲間の使徒たちやエルサレム教会の人々が、ペトロの律法違反を非難したのはある意味では当然のことなのです。

ペトロの説明
 仲間の使徒たちからのこの非難を受けて、ペトロは事情を説明していきます。4節に「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」とあります。そして5節から17節まで、ペトロの説明の言葉が続くのです。その内容は、私たちが既に10章において読んだのと同じです。即ち、ペトロが祈りの中で示された幻において、清くない物、汚れた物とされていた動物たちの入った大きな風呂敷包みが天から彼の前に吊るされてきて、「これを屠って食べなさい」という声が聞こえたこと、彼がそれに対して、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません」と拒むと、再び、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という天からの声があったこと、この同じ幻を三度繰り返して見たこと、丁度その時、カイサリアからコルネリウスの使いの者が到着し、霊が「ためらわないで一緒に行きなさい」と命じたこと、そしてコルネリウスもまた、天使によって、「ペトロを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と告げられたこと、そしてカイサリアに出向いて、コルネリウスらに主イエスの福音を語っていると、彼らに聖霊が降ったこと、これらの一連の経緯をペトロは語ったのです。これらの幻と現実の体験によって彼は、先程触れた10章28節に語られている結論に達したのです。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」。つまりペトロ自身も、自分が律法の禁を破っていることを十分意識していますが、しかしそのことを神様ご自身が求めておられるのだ、という確信に至ったので、敢えて律法を破り、神様のみ心に従ってこのことをしたのです。このような展開に最も驚いているのはペトロ自身です。その驚きの体験を、彼は仲間の使徒たちに語ったのです。

沈黙と賛美
 このペトロの話を聞いたエルサレムの教会のユダヤ人信徒たちはどうしたか。それが18節です。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」。彼らは静まりました。沈黙したのです。そしてそこから、神様への賛美の声が上がりました。イスラエルの主であると彼らが思っていた神様が、異邦人にも、悔い改めと、それによる命を与えて下さった、そのみ業を彼らは受け入れ、神様を賛美したのです。こうして、エルサレムの、ユダヤ人たちの教会も、異邦人が主イエス・キリストを信じてその救いにあずかり、教会のメンバーとされていくことをようやく認め、受け入れたのです。

ようやく
 ようやく、と申しました。神様が異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さる、救いにあずからせて下さる、そのことを教会がこぞって賛美するに至るまでに、ずい分長い時間がかかりました。コルネリウスに天使が現れてペトロを招くように言ったのは10章の始めです。11章18節に至ってようやく、そのことが教会全体に受け入れられたのです。いや、神様が異邦人をも救いに入れて下さるというみ心は、実際にはもっと前から示されていました。フィリポという人がサマリア人やエチオピア人の宦官に伝道をし、彼らが主イエスを信じたという8章の記事もそうです。あるいはさらに、復活された主イエスが弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われた1章8節のみ言葉にも既にそのみ心が示されています。さらには、先日祝ったクリスマスの出来事を語る物語の中に、生まれたばかりの主イエスを拝むために遠い東の国の学者たち、博士たちが訪れたという話があったということも、そのことを示しています。この学者たちは当然異邦人です。その彼らが、主イエスを自らの王としてみ前にひれ伏し、拝むためにはるばるやって来たのです。それは、主イエスが異邦人をも治め、救いの恵みの中に入れて下さる王であることを示しています。主イエスによる救いが異邦人にも及ぶという神様のみ心は、このようにその誕生の時に既に示されていたのです。しかし教会の、信仰者たちの意識は、そのみ心をなかなかそのままに受け止めることができませんでした。昔から受け継いで来た、ユダヤ人のみが神様の民であり、救いにあずかる者だという常識に縛られて、そこからなかなか抜け出ることができなかったのです。神様はずっと先へ進んでおられるのに、教会の、信仰者の意識がなかなかそれに追いついて行けなかったのです。それがこの11章18節に至ってようやく、神様が異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さることを認め、そのみ業を賛美するようになったのです。

変えられた人々
 このように教会が神様のみ業を受け止め、それについて行くことができるようになるためには、教会に連なる人々が変わらなければ、変えられなければなりませんでした。ペトロ自身が先ず変えられたのです。そのことを私たちは10章において見てきました。彼も最初は、「清くない物、汚れた物は口にしたことがありません」と言って、異邦人との関わりを拒否しようとしたのです。しかし、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」というみ言葉によって彼は、神様のみ心を受け入れ、異邦人の家の客となり、食事を共にし、主イエスの福音を語りました。そのことによって、本日の所に語られているような非難を浴びるようになることは目に見えていましたが、彼は神様のみ心に従ったのです。もしも彼があくまでもそれまでの自分の思い、常識にこだわり、異邦人との接触を拒んだならば、彼は神様に背き逆らう者となってしまったでしょう。
 ペトロが変えられたように、エルサレムの教会のユダヤ人たちも変えられなければなりませんでした。そのことが本日の個所において起ったのです。ペトロを非難していた彼らが、最後には神様を賛美する者へと変えられたのです。エルサレム教会の人々が、このように変えられることをもしも拒み、ペトロを非難し続けたなら、教会はユダヤ人の教会と異邦人の教会とに分裂し、お互いにやせ細っていってしまったでしょう。エルサレム教会の人々が、ペトロの語ったことを受け入れて神様を賛美したことによって、教会は神様の救いのみ業に正しくついて行くことができたのです。そしてこのことが、今日この日本にまで主イエスの福音が宣べ伝えられ、私たちもそれに預かることができるための道を開いたと言うことができるのです。

み業を妨げるもの
 神様は、主イエス・キリストによる救いのみ業を、さらに広く、さらに多くの人々に及ぼそうと、み業を押し進めておられます。教会は、私たちは、その神様のみ業にしっかりついて行かなければなりません。ところがややもすると私たちは、そのみ業について行けなくなり、かえってその前進を妨げるようなことをしてしまうことがあります。本日の個所で、ペトロを非難したエルサレム教会の人々の姿がそれです。私たちはここから、神様の救いのみ業の前進を妨げるものは何か、ということを聞きとっていかなければなりません。エルサレム教会の人々がペトロを非難したのは、彼が異邦人にもキリストの福音を宣べ伝えたからではなくて、「割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」からでした。つまり彼らがこだわったのは、律法に定められている神様の民ユダヤ人と異邦人との区別です。そして自分たちが神様の民としての清さを保つために、異邦人による汚れを身に負うことを避けようという思いです。それは自分たちを純粋な群れとして保とうというある意味での熱心さの現れであると言うこともできます。けれどもそのように純粋であろうとする熱心さが、神様のみ業の前進を妨げるものとなってしまう、ということがあるのです。確かに、律法は神様がお与えになった掟です。そこに、神様の民イスラエルの印としての割礼が定められており、異邦人との交わりを避けるようにとの規定もあります。けれども、割礼はもともとは、主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さり、彼らを神様の民とし、神様が彼らの神となって下さるという恵みの印として与えられたものでした。自分が優れた立派な者だからではなく、ただ神様の恵みと憐れみによって選ばれ、救いを与えられていることを覚え、感謝して生きるための印だったのです。異邦人との接触を避けよという掟も、他の神々、偶像の神々を拝んでいる異邦人たちの影響を受けて主なる神様への忠実を失ってしまうことをイスラエルの民に警戒させるためのものでした。要するにこれらの掟は、彼らが主なる神様の救いの恵みの中にしっかり留まって生きるために与えられたものなのです。そして今、主なる神様は、独り子イエス・キリストによって、その救いの恵みをさらに広く、異邦人にまで及ぼそうとしておられます。これらの掟は、その神様の新しいみ業を妨げるようなものでは本来ないのです。それなのに、これらの掟へのこだわりがみ業の前進を妨げるものとなってしまうのは、人間がこれらの掟を、神様の恵みに生きるためではなく、自分が考えるところの純粋さを守るために用いてしまうからです。それは実は自分の誇りや自負を満たすため、自分を何か清い立派な者であるかのように思い、他の人を見下したり、裁いたりするために他なりません。そういうことが、信仰において、教会において起る、ということを私たちはここからしっかりと読み取っておかなければならないのです。私たちは割礼を受けているわけではないし、ユダヤ人でもありませんが、私たちにおいては別のことが、例えば洗礼を受けているということが、毎週礼拝に出席しているということが、神様を信じているクリスチャンである、ということが、自分の誇りとなり、それによって他の人を批判し、裁き、分け隔てするような思いを生んでしまう、ということが起こり得るのです。そのようになる時、私たちは、神様が押し進めようとしておられる救いのみ業、それをさらに多くの人々に広め、及ぼそうとしておられるみ業を妨げる者となってしまうのです。

教会の敷居
 昨年の春に、教会研修会を行ないました。その主題は、「教会の敷居」でした。そこでお話ししたことと、本日の個所に語られていることとは関係があります。あの研修会において、教会にあってはならない敷居、というお話しをしました。神様のみ心ではない敷居を、私たち人間が築いてしまうことがあるのです。それによって、新たに信仰を求めて教会に来る人々、いろいろなきっかけで礼拝に集った人々に対して、教会の敷居を高くしてしまうということが起るのです。そのような敷居を生むのは、私たちの中にある、人を分け隔てし、受け入れようとしない思い、自分たちを清い群れとして保とうとするあまり、少しでも違いがある者を排除してしまう思いです。そのような私たちの思いが、神様の救いのみ業の前進を妨げてしまうのです。このエルサレム教会において起ったことは、私たちの間でも、いつも繰り返し起っていると言わなければならないでしょう。
 「教会の敷居」という講演の中で、教会に必要な敷居もある、ということをもお話ししました。それは神様ご自身が、教会の、信仰の入り口に置いておられる敷居です。そのことも本日の個所には示されています。1節に、「異邦人も神の言葉を受け入れた」とあります。教会の入り口に、即ち神様の救いにあずかるために、誰もが越えなければならない敷居があるのです。それは、神様のみ言葉を受け入れることです。ペトロが、コルネリウスの家で語ったのはこの神様のみ言葉でした。コルネリウスらは、それを神様のみ言葉として聞き、信じて受け入れたことによって、聖霊の賜物を受け、救いにあずかったのです。そのみ言葉は14節では「あなたと家族の者すべてを救う言葉」とも言われています。私たちを救う言葉、それは主イエス・キリストのことです。神様の独り子主イエスが、人間となってこの世に来て下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。その犠牲の死によって私たちは罪の赦しの恵みを受け、神様の子供として、救いにあずかる者として生きることができるのです。それは言い換えれば、私たちは、主イエスの十字架による赦しの恵みなしには、赦され得ない、救われ得ない罪人だ、ということです。このみ言葉を信じて受け入れ、自分が罪人であることを認め、その罪が主イエスによって赦されていることを信じること、それが、悔い改めて命を与えられることです。神様の民とされ、救いにあずかるためには、この敷居をどうしても越えなければなりません。ここにおいては、教会は決して妥協してはならないのです。しかしこの敷居を越えさえすれば、他には敷居はないし、あってはならないのです。「神の言葉を受け入れる」ということ以外の敷居を設けようとすることは、神様のみ業の妨害なのです。

聖霊の賜物
 ペトロは15節で、「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」と言っています。聖霊が降るとはどういうことでしょうか。17節においてはそれは、「主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにお与えになった」と言われています。ペトロたちが、あのペンテコステの日に与えられたのと同じ聖霊の賜物が、異邦人たちにも与えられたのです。それは彼らが、ペトロの語る神様のみ言葉を受け入れ、主イエス・キリストを信じたということでしょう。聖霊のお働きによってこそ、私たちは神様が設けておられる敷居を越えて、教会に入ることができるのです。それは使徒たちも同じでした。使徒たちに与えられたこの聖霊の賜物が彼らにも与えられて、み言葉を受け入れた以上、彼らが教会に加えられることを拒む理由はもはやないのです。

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