「善をもって悪に勝つ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:箴言 第25章21-22節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章9-21節
・ 讃美歌:58、361、469
神の命令
ローマの信徒への手紙の第12章9-21節を礼拝において読むのはこれで四回目です。前回は14節までを読みました。本日は15節から21節までを一気に読みたいと思います。
前回お話ししましたが、9-21節は、13節までと14節以下では語り方が違っています。13節までには、信仰における兄弟姉妹の間で、偽りのない愛に生きることへの勧め、励ましが語られていました。14節からは視野が広げられて、「迫害する者」つまり信仰をもって生きようとする私たちに敵対する人々との関係が見つめられているのです。そして、そのように敵対的な人々との関わりにおけるパウロの勧めの言葉は「こうしなさい」という命令となっています。先週読んだ14節では「迫害する者のために祝福を祈れ」という命令が語られていました。それは端的に「祝福せよ」という命令なのだ、ということも申しました。さらに「呪ってはならない」とも命じられています。本来なら呪いの言葉を投げつけたい相手をむしろ祝福する、それは私たちの、善い人間になろうとする道徳的努力を越えたこと、人間の力では不可能なことです。そのような勧めに対して私たちはいろいろ理屈を並べて相手を呪うことを正当化しようとします。しかし神はその私たちに「その相手を祝福せよ。呪ってはならない。これは命令だ」とおっしゃるのです。そのように神に命令されなければ、私たちは人を呪う思いから解放されて祝福に生きることはできないからです。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く
本日共に読んでいく15節以下も、神からの命令として読むべきでしょう。15節には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。この言葉はこれだけ単独にもよく引用されます。私たちはこの勧めをキリスト信者としてのあるべき姿として受け止め、そして、何か好い事があって喜んでいる人には「よかったね」と一緒に喜び、悲しんでいる人には慰めの言葉をかけてあげる、ということで何となくこれを実行しているように思っているのではないでしょうか。しかし、この勧めはそんなに簡単なことではありません。私たちは、喜ぶ人と共に喜ぶことならどうにかできる、と思っているかもしれません。けれどもそれは、その喜びが自分に影響を及ぼさない限りにおいてのことです。人が喜んでいることが、自分もそれを求めているのに自分は得ることができないことだったりすると、そうはいかなくなるのです。星野富弘さんのことは多くの方がご存知でしょう。事故で首の骨を折り、首から下が麻痺している中で、口に筆をくわえて「花の詩画集」を書いておられる方です。彼の回想録である「風の旅」という本の中にこういうことが書かれています。星野さんが入院していた時、同じように体が麻痺している一人の少年が同じ病室に入院して来たのです。星野さんはその少年を弟のようにかわいがり、励ましていました。ところがその少年は次第に回復していって、動かなかった手足がだんだんに動くようになっていったのです。星野さんは、自分はそのことを喜べなかった、と書いています。それまでは兄のように励ましていたその少年に対して、どす黒い嫉妬の思いが涌き上がって来るのをどうしようもなかったのです。「彼の回復を喜べ、おまえはそんなにみみっちい人間ではなかったはずだ」と自分に言い聞かせるのだけれども、彼の喜びを素直に喜べない気持ちはどうしようもなかった、そしてそういう自分の醜さがたまらなかった、ということを語っておられます。喜ぶ人と共に喜ぶことは、このような場合にはまことに難しいことです。泣く人と共に泣くことは、それ以上にとても難しいことです。悲しんでいる人にちょっと慰めの言葉をかけてあげるぐらいのことはできるかもしれませんが、それは「共に泣く」ことではないでしょう。「共に泣く」とは、相手の悲しみを共有することです。しかし私たちは果たして人の悲しみを共有することなどできるでしょうか。「かわいそうに思う」ことと「悲しみを共有する」ことは違うと言わなければならないでしょう。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことは、まことに難しいことなのです。
共に生きるとは
またこの勧めのさらに深い意味を見つめるなら、その困難さはますます大きく感じられます。15節には二回出て来る言葉があります。それは「共に」という言葉です。つまり15節の勧めは「他の人と共にありなさい、相手の喜びにおいても、悲しみにおいても」ということなのです。他の人と共に生きることがこの勧めの根本なのです。共に生きているなら、その人が喜んでいれば共に喜ぶことになるし、悲しんでいれば共に悲しむことになるのです。そしてこの「共に」は、聖書においてとても大事な言葉です。来週からアドベント、待降節に入りますが、救い主の誕生を告げた天使は、マタイによる福音書第1章23節において、その名は「インマヌエル」と呼ばれると語りました。それは「神は我々と共におられる」という意味です。つまり主イエス・キリストによって、神が私たちと「共に」いて下さるという恵みが実現したのです。神がわたしたちと「共に」いて下さるとは、私たちが喜んでいたら「よかったね」と共に喜んでくれて、悲しんでいたら慰めの言葉をかけてくれる、というようなことではありません。主イエス・キリストは、私たちと同じ人間となってこの世を歩み、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。罪人である私たちは神に見捨てられて死ななければならない、その死を主イエスは共に引き受けて下さったのです。いや主イエスがその死を背負うことによって、私たちをその死から救い出して下さったのです。神はこのようにして私たちと共にいて下さるのです。他の人と共に生きるとはどういうことかを神は主イエスによって示して下さったのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という勧めによって神は私たちにも、他の人とそのように共に生きることを求めておられるのです。しかし私たちは、喜んでいる人には「よかったね」と語りかけ、泣いている人には慰めの言葉をかけようとはしていても、実は身近なところで、共に生きるべき人と本当に共にあることができず、むしろその人を悲しませ、泣かせていることが多いのではないでしょうか。私たちはそこでもいろいろと言い訳をして、人と共に生きることができない自分を正当化しようとします。しかし神は、「あなたが共に生きるべき人と共に生きなさい、喜びにおいても悲しみにおいても。これは命令だ」とおっしゃるのです。そのように神に命令されなければ私たちは、共に生きるべき人と共にいることから逃げようとしてしまうのです。
高ぶらず
次の16節に語られていることは、「他の人と共に生きる」ための具体的な教えです。「互いに思いを一つにし」とあります。これはキリスト信者どうし、教会の兄弟姉妹の間で思いを一つにするようにという勧めです。どのように思いを一つにするかというと、次の「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」ということにおいてです。他の人と共に生きるためには、高ぶりに陥らないようにしなければならないのです。それはもっと具体的には「身分の低い人々と交わる」ことです。ここは原文を直訳すると「低い人々と交わりなさい」となります。新共同訳はその「低い」を「身分の低い」と訳したのです。それはこの文章の意味を狭めている訳だとも言えますが、しかしそれによって事柄が具体的にイメージされるようになっていると言えます。高ぶらないというのは、社会的に重んじられていない、むしろ蔑まれている人々と積極的に交わりを持つことです。そういう人たちと付き合うことは自分の得にはなりません。つまり、自分の得になることを求める思いを捨てることが求められているのです。そうしなければ他の人と本当に共に生きることはできないのです。逆に、自分の得になること、社会的に地位の高い人、力や財産のある人との付き合いばかりを求めていくところにあるのは高ぶりです。自分を高くしたい、という思いです。そのような思いでいるところには、人と人とが本当に共に生きる関係は生まれないのです。これと並んで「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と語られています。それは「高ぶらず」とつながる教えです。自分を賢い者とうぬぼれる時、私たちは自分が他の人よりも賢いことを喜ぼうとしており、他の人との関係の中で自分のプライドを満たそうとしているのです。そのような思いでいたら、他の人と共に生きることはできないのです。
悪に悪を返さず
17節には「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあります。「悪に悪を返すな」という教えは19節以下の「自分で復讐するな」と重なります。また14節にあった「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」とも重なります。14節以下においてパウロが見つめているのは、自分に対して悪を行い、迫害する者、呪ったり復讐してやりたいと思うような人との関係なのです。そこにおいて、悪に悪を返さず、むしろ全ての人の前で善を行えと命じられています。その「善を行う」とは、これまで読んできた所に語られていたことで言えば、祝福することであり、喜びにつけ悲しみにつけ相手と共にあることであり、この後の所に語られることで言えば、すべての人と平和に暮らすこと、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませることです。自分を苦しめ、自分に悪を行う者に対してこのような善を行っていく、それはやはり人間の常識を超えたこと、到底不可能だと感じられることです。しかし神はそのように私たちに命令なさるのです。
主イエスが示してくださった善
神はなぜそのような、私たちには到底できないと思われることをお命じになるのでしょうか。それは、神の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちのためにそのようにして下さったからです。そのことをペトロの手紙一の第2章21節以下から読みたいと思います。ペトロの手紙一第2章21?25節です。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリスト もあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。主イエス・キリストは、私たちの罪を担って、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、十字架にかかって死んで下さったのです。そのお受けになった傷によって私たちは癒され、罪を赦され、神のもとへと立ち帰ることができたのです。悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うことを神が私たちにお命じになるのは、私たちがこの主イエス・キリストによる救いにあずかっているからです。主イエスが私たちのために示して下さった善を、私たちもすべての人の前で行っていくのです。そうすることによって、私たちの心に涌き上って来る呪いの思い、悪をもって悪に対抗してようとする思いを乗り越えていくのです。そこにこそ、すべての人と平和に暮らす道が開かれていきます。呪いの思い、悪をもって悪に返そうとする思いにおいては、争いが争いを生み、憎しみが憎しみを呼ぶことしか起らず、いつまでたっても平和は訪れません。平和を実現するためには、憎しみが憎しみを生む悪循環をどこかで断ち切らなければならないのです。その新しい歩みは、主イエス・キリストの十字架による救いにあずかった私たちが、悪に悪を返さず、かえって善を行っていくことによって、呪いや憎しみを乗り越えていくことからこそ始まるのです。18節に「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」とあります。平和は片方だけから実現できるものではありません。こちらが悪に悪を返すことをやめても、相手は相変わらず悪意をもって攻撃して来ることもあるのです。しかしそこで怒って仕返しをしていったのでは何にもなりません。「せめてあなたがたは」、つまりあなたがたの方からは、平和を破壊するような、悪に悪を返すようなことはやめなさい、善を行い、すべての人と平和に暮らすことを追い求めなさい、あなたがたが先ず、憎しみの悪循環を断ち切りなさい、と言われているのです。
自分で復讐せず、神の怒りに任せる
そして19節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。相手から受ける苦しみ、迫害、悪に対して復讐するなということは既に、「迫害する者を呪うのでなく祝福せよ」とか「悪に悪を返さず善を行え」という教えにおいて語られています。しかしここで敢えてもう一度「自分で復讐するな」と語られているのです。この教えのポイントは、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」ということです。復讐とは、「自分の怒り」によって行動することです。自分が傷つけられた、その怒りを復讐によって晴らそうとするのです。相手を呪うのもこの怒りによることだし、悪をもって悪に返すのも、怒りに任せてなされることです。復讐の根本にあるのは「自分の怒り」なのです。パウロはそこにおいて、「神の怒りに任せなさい」と言います。「任せなさい」は「場所を与えなさい」という言葉です。私たちの心はしばしば自分の怒りでいっぱいになります。他のものを容れる余地が全くないほど怒りで満たされてしまいます。しかしそこに、神の怒りの場所を作れ、神の怒りに場所を譲れ、とパウロは言っているのです。そして実は「神の」という言葉は原文にはありません。直訳すると「あの怒りに場所を与えなさい」です。「あの怒り」とは、「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言っておられる主なる神の怒りです。「復讐はわたしのすることだ」「復讐するは我にあり」と主なる神は言っておられる、その神に、自分の怒りに満たされてしまっている心の場所を譲りなさい、とパウロは言っているのです。
怒り、復讐することのできる唯一人の方
このことによってパウロが語ろうとしているのは、私たちは自分の怒りによって復讐をすることのできる者なのか、人に対して本当に怒り、報復することができるのは、主なる神お一人なのではないのか、という問いです。私たちは自分の怒りを正当なものだと思い、それゆえに復讐の思いにかられるけれども、その私たちの怒りは本当に正当なのか、人に対して怒る権利が私たちにはあるのか、ということです。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」という申命記32章35節の引用が語っているのは、主なる神のみが復讐、報復をすることができるのであって、人間にはその資格も権利もない、ということです。神の怒りに場所を譲れ、ということによってパウロは私たちにこのことを問い掛けているのです。私たちは、人間の利害関係や感情において、自分が相手に対して怒ることは正当だ、自分には復讐する権利があると思います。しかしそれは本当に正当なことなのか、自分には、人に対して怒り、復讐する権利が本当にあるのか、ということを振り返って見ることが必要なのです。主なる神は、そのことが本当にできるのは私一人だ、あなたは自分の怒りや復讐の思いにおいて、私に場所を譲らなければならない、と言っておられるのです。
人間の罪に対して真実に怒ることのできるただ一人の方である神は、その怒りをどこに向けられたのでしょうか。主はそれを私にではなく、私に悪を行っているあの人にでもなく、独り子主イエス・キリストにお向けになったのです。主イエスは、私たちの罪に対する神の怒りを全てご自身の身に負って、十字架にかかって死んで下さったのです。「復讐するは我にあり」と言うことができる唯一人の方である神の怒りは、主イエス・キリストによって負われました。それによって私たちは、神の怒り、呪いによって滅ぼされるべき者であるにもかかわらず、赦され、救われ、神の子とされたのです。その救いの恵みを受けた私たちは、自分の怒りを当然のこととし、その怒りに任せて復讐や呪いに生きることはもはやできないのです。
燃える炭火
それゆえに、「神の怒りに任せる」というのは、自分では復讐しないが、自分に悪いことをする者には神が自分に代って復讐してくれることを期待する、ということではありません。それでは、自分の怒りの執行を神に託しているだけです。私たちに命じられているのはそういうことではなくて、20節にあるように「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」ということです。この言葉も誤解しないようにしなければなりません。これは、敵に対してかえって親切にしてやることによって、その相手は、申し訳なさで燃える炭火を頭の上に積まれるような堪え難い思いをする、ということではありません。そのように捉えてしまったら、これはやはり怒りの発露であり、形の違う、より陰湿な復讐だと言わなければならないでしょう。これが語っているのは、私たちの敵に対する思いが、怒りから解放された、それを乗り越えたものとなることです。何かの下心をもって飢えている敵に食べさせたり飲ませたりするのではありません。神はこの敵のためにも独り子主イエスを遣わし、十字架の死によってその罪を赦し、救いを与えようとしておられるのです。その神のみ心を信じてそれに従っていくために、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませるのです。私たちがそうすることを通して、燃える炭火を彼の頭に積むのは神がなさることです。それは神がその人を導いて、自分の罪に気づかせ、悔い改めさせて下さるということを意味しています。その神のみ心と導きに委ねて、私たちはその人に対して善を行っていくのです。ですからそこでもう一つ考えておかなければならないのは、神は今自分の頭の上に燃える炭火を積んでおられるのかもしれない、ということです。自分の怒りに心が満たされてカッカしていると、その炭火の熱さに気付くことができません。神が悔い改めを求めておられるのは自分なのではないか、という思いをも忘れてはならないのです。
善をもって悪に勝て
21節には、この部分の締めくくりとして「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」とあります。私たちは、善をもって悪に勝つために、信仰を与えられているのです。私たちが戦っていく悪は、人が自分に対してなす悪でもありますが、むしろそれ以上に、自分自身の中に戦うべき悪があります。共に生きるべき人との交わりを損ねていってしまう悪、怒りに満たされ、悪をもって悪に返し、復讐と呪いによって憎しみの悪循環に陥っていく悪があります。この世には、私たちをそのような悪へと引きずり込もうとする力が猛威を振るっているし、私たちの心を怒りや呪い、復讐の思いでいっぱいにしてしまうような出来事が起ります。善をもって悪に打ち勝つことは、人間の力ではとうてい不可能です。しかし主なる神は、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの内にある悪に善をもって勝利して下さいました。その主イエスが今、私たちと共にいて下さり、喜びをも悲しみをも共有して下さっているのです。その主イエスの恵みによって私たちも、悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ歩みへと導かれ、まことにたどたどしい歩みですが、一歩一歩前進していくことができるのです。