主日礼拝

飼い葉桶の救い主

「飼い葉桶の救い主」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第9章1-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章1-21節
・ 讃美歌:247、255、271

飼い葉桶の救い主  
 主イエス・キリストの誕生を喜び祝うクリスマスを迎えました。先程読まれたルカによる福音書第2章に、主イエスの誕生の様子が語られています。それによれば、ヨセフは身重の妻マリアを連れてベツレヘムへと旅をしなければならず、ようやく到着しても、宿屋はどこも満員で部屋がありませんでした。それでマリアは馬小屋で出産をしなければならなかったと言われています。馬小屋で、と聖書に書いてあるわけではありませんが、生まれたばかりのイエスが飼い葉桶に寝かされたとあることからそのように言い伝えられているのです。8節以下には、羊飼いたちに天使が現れて救い主の誕生を告げたことが語られていますが、そこで天使も、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそが救い主だと告げています。生まれたばかりの主イエスが飼い葉桶に寝かされたことを聖書は繰り返し語っているのです。どうしてイエス・キリストは、飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。そのことにはどんな意味があるのでしょうか。

皇帝アウグストゥス  
 どうしてそうなったのか、その原因を作ったのは皇帝アウグストゥスです。彼が全領土の人々に住民登録をせよとの勅令を出したために、ヨセフは身重の妻マリアを連れて先祖の出身地であるベツレヘムへと長い旅をしなければならなかったのです。アウグストゥスはローマ帝国の初代の皇帝とされています。元々はオクタヴィアヌスといって、ユリウス・カエサルの養子でした。カエサルが暗殺された後の後継者争いに勝利して、第一人者としての地位を築いたのです。そのオクタヴィアヌスにローマの元老院が贈った尊称がアウグストゥスでした。この後歴代の皇帝たちはこの尊称を受け継いでいきました。その意味で彼はまさに初代の皇帝であると言うことができます。彼がそのような尊称を得たのは、彼の勝利によって内戦が終わり、平和が訪れたからです。これが「ローマの平和」と呼ばれるものです。様々な民族が混在する広大な地域に、ローマの覇権、支配が確立したことによって平和が訪れ、ローマの圧倒的軍事力の下でその平和が維持されていったのです。その「ローマの平和」は、アウグストゥスの支配が確立したことによって打ち立てられました。彼こそが「ローマの平和」を実現した人だったのです。

「ローマの平和」の裏面  
 ローマの平和を実現した皇帝アウグストゥスの命令によって、ヨセフとマリアは望んでいない旅を強いられ、その旅先で生まれたイエスは飼い葉桶に寝かされなければならなかった、聖書は救い主キリストの誕生の出来事をそのように語ることによって、アウグストゥスによって打ち立てられた「ローマの平和」のもう一つの姿、裏の面を描いているのだと言えます。「ローマの平和」は、ローマ帝国全域の人々を戦争の苦しみから解放しました。その平和の下で経済的な発展がもたらされていきました。ローマはそれぞれの地域の人々の宗教や文化を認め、自主性を重んじて巧みに支配しましたから、ローマに征服された国々の人々も次第にローマの支配を喜ぶようになりました。だからローマ帝国は長く続いたのです。そのように皇帝アウグストゥスは人々に平和と繁栄をもたらしたのです。だから彼を救い主として崇める人々もいました。けれども、そのアウグストゥスの支配は、ユダヤの貧しい庶民であったヨセフとマリアに、身重の体で長い旅を強いるようなものでもあったのです。彼の支配は確かに平和と繁栄をもたらしたが、同時に人々にこのような苦しみをも与えるものだったのです。それが、軍事力によってもたらされる平和の裏の面です。ローマ帝国の力によって実現した平和と繁栄の下で、弱い人々がこのような苦しみを味わっている。ヨセフとマリアが、生まれたばかりの乳飲み子イエスを飼い葉桶に寝かさなければならなかったことは、強大な権力を握った支配者の下で弱い立場にいる者たちが味わっている苦しみを代表するような出来事です。いつの時代にも、この世界には格差があります。平和を享受し、繁栄にあずかっている人々がいる陰で、貧しさや弱さによる苦しみや悲しみの中に取り残される人々がいます。父なる神は独り子主イエス・キリストをそのような人々のところにお送りになり、主イエスはそれらの苦しみをご自身の身に背負うためにお生まれになったのです。それが、主イエスが飼い葉桶の中に寝かされたことの意味なのです。

この世の苦しみ悲しみのただ中に  
 それゆえに私たちはこのクリスマスにこそ、この世界の中で苦しみや悲しみ、貧しさや弱さの中に取り残されてしまっている人々やそういう地域のことに思いを向けなければなりません。内戦や民族紛争の中にいる人々がいます。特に子どもたちがその影響を受けて飢餓に陥ったり、命を奪われています。地震や洪水などの自然災害の被害の中にいる人々もいます。日本においても、大きな地震の被害からの復興が進まない地があり、また原発の事故の影響を今も受け続けている人々がいます。社会全体においても、貧しい人がますます貧しくなるような構造が作られており、貧しさのために十分な教育を受けられない子どもたちが増えています。そのような現実に対して、私たちが直接出来ることは少ないかもしれませんが、それらの問題を見つめ続け、意識し続けることが大切です。主イエスが飼い葉桶の中に寝かされたというクリスマスの出来事を覚えるとは、主なる神がこの世のそのような苦しみ悲しみをしっかり見つめて下さり、そのただ中に独り子主イエスを送って下さったことを覚えるということなのです。

私たちの心の内にキリストが生まれる  
 しかし実はそれよりももっと大事なことがあります。先日教友会と婦人会の合同クリスマス祝会が行われました。その中で、隠退教師のM先生が一つの詩を紹介して下さいました。その内容を簡単に言えば、キリストがベツレヘムに千度お生まれになったとしても、私たちの心の中にお生まれになるのでなければ、私たちの救いはない、キリストの十字架が私たちの心の内に立てられるのでなければ、私たちはなお失われたままなのだ、という詩です。前半がキリストの誕生つまりクリスマスのことを語っています。キリストがベツレヘムの馬小屋で生まれたことをどれだけ覚えたとしても、私たちの心の内にキリストがお生まれになるのでなければ、何の意味もないのです。それは言い方を替えれば、私たち自身が主イエスを寝かせた飼い葉桶になることこそが肝腎だ、ということです。主イエスが飼い葉桶の中に寝かされたことを覚えるというのは、先ほど申しましたように、この世の弱さや貧しさの現実のただ中に、そのような苦しみ悲しみを負っている人々のところに、救い主であるイエス・キリストが来て下さったということです。そのことを見つめ、そこに示されている神のみ心を覚えることはとても大切です。しかしそのことだけを見つめているなら、主イエスを寝かせた飼い葉桶は私たちの外にあります。キリストはあのような貧しさの中に、このような苦しみの中に生れて下さった、だから私たちもそのような貧しさや苦しみの中にある地域や人々のことを覚えよう、というだけなら、キリストは私たちの心の内にお生まれになってはいないのです。主イエスを寝かせた飼い葉桶があそこやここにあることは見つめていても、私たち自身がその飼い葉桶になってはいないのです。

私たちが飼い葉桶  
 しかし本当に大事なことは、主イエス・キリストが私たち自身の中に生れて下さることです。私たち自身が、主イエスを寝かせた飼い葉桶になることです。そしてそれは、私たちが頑張って努力して飼い葉桶になろうとすることによって実現するのではなくて、神がそのことをもう実現して下さったのです。主イエスが飼い葉桶の中に寝かされたと語ることによって聖書はそのことを示してくれているのです。飼い葉桶は、家畜の餌を入れるための、何の飾りも美しさもない、薄汚れていて決して清潔ではないものです。人間の赤ちゃんを、ましてや神の独り子を寝かせるのに相応しいものでは全くありません。その飼い葉桶とは私たちのことに他なりません。私たちは、罪に満ちており、美しくも立派でもない祖末な器です。いっしょうけんめい表面を取り繕って少しは豪華な揺り籠のように見せようとしていますが、内実は薄汚れた飼い葉桶なのです。しかし父なる神は、そのような不潔でみすぼらしい飼い葉桶である私たちの中に、独り子イエス・キリストを寝かせて下さったのです。もしも主イエスが王様の宮殿で生まれ、豪華で高級なベッドに寝かされたなら、私たちはどんなに逆立ちしても主イエスを寝かせるベッドになることはできません。しかし主イエスは、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた、その飼い葉桶とは私たち自身なのです。この自分の内に神の独り子主イエスが生まれて下さった、クリスマスはそのことをこそ覚え、喜び祝う時なのです。

受洗者を迎えて  
 飼い葉桶でしかない私たちの内に神の独り子主イエスが来て下さった、そのことを信じて受け入れ、主イエスを心の内にお迎えして、主イエスの飼い葉桶となって生きていこうと決意する、それが、洗礼を受けるということです。今日このクリスマス礼拝において、五名の方々が洗礼を受け、一人の幼子が幼児洗礼を受けます。大人の洗礼を受ける方々は、みすぼらしい飼い葉桶でしかない自分の中に、救い主イエス・キリストが来て下さったことを信じて、その主イエスをお迎えし、主イエスの飼い葉桶として自覚的に生き始めようとしています。幼児洗礼は、既に主イエスの飼い葉桶とされて生きている両親が、自分たちに与えられた子供の内にも主イエスが来て下さっていることを信じてその子を主にお献げし、その子が教会の子として成長していくことを祈り願ってなされます。父なる神は聖霊のお働きによって、洗礼を受ける者を主イエス・キリストのからだである教会のえだ、主イエスにつながる者として下さるのです。教会は、主イエスの飼い葉桶とされた者たちの群れです。飼い葉桶に過ぎない、罪や汚れに満ちており、弱さや貧しさ、苦しみや悲しみをかかえている私たちの内に、主イエスが来て下さり、十字架と復活による救いを与えて下さったことを喜び感謝しつつ歩む群れです。そして二千年前にこの世に来て下さった主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さる、その救いの完成を待ち望みつつ歩む群れです。この群れに新たに六名の方々が加えられることを喜び祝い、救い主イエス・キリストとの交わりを聖餐において味わいつつ、約束されている救いの完成を待ち望む歩みを、私たちはこのクリスマスから新たに歩み出すのです。

関連記事

TOP