主日礼拝

希望、喜び、忍耐、祈り

「希望、喜び、忍耐、祈り」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第30章18-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章9-21節
・ 讃美歌:56、132、457

偽りのない愛に生きるために
 主日礼拝において、ローマの信徒への手紙の第12章9節以下を先週から読み始めました。先週申しましたように、ここには、イエス・キリストを信じてその救いにあずかった信仰者がどのように生きるべきか、つまりキリスト信者の生活についての具体的な勧めが語られています。いろいろなことが語られていますが、それらを代表しているのが、9節冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」ということだと言えるでしょう。キリスト信者は偽りのない愛に生きるのだ、その偽りのない愛に生きるとはどのようなことかを具体的に語っているのが9-21節なのです。先週は最初の9、10節を中心に読みました。本日は11、12節からみ言葉に聞きたいと思います。
 先週申しましたが、9節の冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」という文章は、命令文ではなくて、「愛には偽りがない」という宣言の文章です。そしてその後の「悪を憎み」から13節まではひとつながりの文章で、これも命令文が並べられているのではなくて、文法用語で言えば「現在分詞」の連なりです。そのことを生かして9-13節を訳すとこうなります。「愛には偽りがない。悪を憎みつつ、善に密着しつつ、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いつつ、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えつつ、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りつつ、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助けつつ、旅人をもてなすように努めつつ」。つまりこの文章は、日本語訳聖書からイメージされるような、「ああしなさい、こうしなさい」という命令の連なりではないのです。パウロはむしろ「あなたがたは偽りのない愛に生きることができる」という励ましを語っているのであって、その偽りのない愛とはこのようなものだ、ということを9節後半から13節にかけて、現在分詞を連ねて語っているのです。ですから私たちはここに並べられている勧めを、私たちが偽りのない愛に生きるためにどのような道を歩み、何を努力していけばよいのか示している励ましの言葉として読むべきなのです。つまり本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書30章の21節において、「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け』と」と語られているのと同じように、ローマの信徒への手紙の12章9-13節においても神は私たちに、偽りのない愛に生きるために行くべき道を示し、右に行け、左に行けと導いて下さっているのです。

怠らず励み
 そのことを見つめるならば、本日読む11節の始めに「怠らず励み」と言われているのが、何を「怠らず、励む」ことを勧めているのかが分かってきます。ここは以前の口語訳聖書では「熱心で、うむことなく」と訳されていました。原文を直訳すると「熱心において怠惰になるな」というような文章です。その「熱心」の原語は「スプーデー」といいます。この言葉は「スピード」という言葉と関係があります。つまりこの「熱心」には「急ぐ」という意味があるのです。また「怠る、怠惰」という言葉は、躊躇、逡巡するという意味です。ですから「怠らず励み」という文章は「急ぐことにおいて躊躇、逡巡するな」という意味なのです。何をそんなに急げと言っているのでしょうか。先週読んだ10節とのつながりの中でそれが見えてきます。10節には「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」とありました。この「互いに相手を優れた者と思いなさい」というところはいろいろな訳が可能で、「尊敬を示すことにおいて、互いに他者に先んじなさい」と訳すこともできます。相手に先んじて、相手より先に、尊敬を示せ、つまりある意味で、人を尊敬することにおいて競争せよ、と捉えることもできるのです。口語訳聖書が「進んで互いに尊敬し合いなさい」と訳していたのはそういうニュアンスを生かすためでしょう。この10節に続いて「急ぐことにおいて躊躇、逡巡するな」という11節が語られているわけですから、何を急ぐのかというと、兄弟姉妹を尊敬することです。相手を優れた者と思うことです。そのことにおいて急げ、ためらうな、と勧められているのです。そしてこれも先週申しましたが、相手を尊敬し、優れた者と思うことは、相手を正しく評価する、ということです。人を正しく評価するというのは、その人に神が与えて下さっている賜物を認め、それを喜び、その人の内に主イエス・キリストのお働きがあることを見つめ受け入れることです。それが信仰者として人を正しく評価することであり、それこそが私たちに求められている兄弟愛なのです。そのように兄弟姉妹を愛することにおいて怠らず励むこと、躊躇逡巡せずに急ぐことが勧められているのです。つまりこの「怠らず励み」も偽りのない愛に生きるための勧めなのであって、自分の仕事や任務において怠けずに励めと言っているのではないのです。

霊に燃えて
 それに続いて語られているのは「霊に燃えて」ということです。「怠らず励み」において、兄弟愛に生きること、人を尊敬することにおいて急ぐこと、止まってしまわないことが勧められました。そのためには大きなエネルギーが必要です。兄弟愛に生きることにおいて私たちがスピードを出し、加速していくためのエネルギーはどこから来るのでしょうか。私たちは、自分の中にはその愛のエネルギーが十分にないことを感じています。愛に生きることにおいて、人を尊敬し、正しく評価することにおいて、加速していくどころかむしろだんだんスピードが落ちていってしまう、息切れしてしまう、疲れてしまう、そしてついには止まってしまう、愛を怠る者になってしまう、それが私たちのいつもの姿だと言わなければならないのではないでしょうか。私たちの中には、愛に生きるエネルギーを持続的に、今風に言えばサステイナブルに生み出すエネルギー源がないのです。だから、「霊に燃えて」という勧めが語られているのです。この「霊」は私たちの霊、魂のことではありません。神の霊、聖霊です。聖霊の炎が私たちの内に燃え、その聖霊の炎が、私たちの愛のエネルギー源となるのです。私たちの信仰は、そしてキリストの教会は、聖霊の力によって生まれ、歩んでいます。聖霊はしばしば炎にたとえられます。ペンテコステの日に、聖霊が炎のような舌として弟子たちに降り、教会が誕生しました。テサロニケの信徒への手紙一の5章19節にも「霊の火を消してはいけません」とあります。聖霊は私たちの心の内に炎となって燃え、その聖霊の炎から私たちは隣人を愛する愛の力、エネルギーをいただくのです。その聖霊の炎が自分の内に燃え続けるように、それが消えてしまわないように努めること、それが「霊に燃えて」ということであり、偽りのない愛に生きるためにはそれが必要なのです。

主に仕える
 聖霊の炎が私たちの内に燃えることはどのようにして実現するのでしょうか。私たちは「霊に燃える」ということを、自分の心が熱く燃える、興奮し、気持ちが高まることとして捉え、そういうことを求めがちです。確かに、信仰に入る時、洗礼を受ける時には、誰もが多かれ少なかれそのような気持ちの高まり、燃える思いを体験します。しかしそのような燃え上がりは時が経てば次第に冷めていきます。心の燃え上がりというのはそんなに持続するものではありません。それを持続させようとすると、常に新しく何かの手を講じて、消えていこうとする火をかき立てなければなりません。それはいわゆる自転車操業のような、いつも漕いでいなければ倒れてしまうような信仰生活になります。自分の心の火を燃え立たせ続けようと必死に自分を鼓舞し続け、結局疲れて果ててしまう、ということになるのです。「霊に燃える」というのはそういうこととは違います。これは聖霊の炎です。私たちの気落ちの燃え上がりではなくて、神による炎です。その炎が私たちの内に燃え続けるのです。それは私たちの気分や感情の高まりによってではなくて、神が私たちの内で働き続けて下さることによってこそ実現します。それゆえに、「霊に燃えて」に続いて「主に仕えなさい」と語られているのです。神が私たちの内で働き続けて下さるためには、私たちが「主に仕え」て歩むことが大切なのです。それはつまり私たちの生活が主イエス・キリストに従い仕えるものとなり、常に主イエスのみ心を求め、主イエスが願いまた喜んで下さるように生きようとしていく、ということです。そのように歩む私たちの内には、主イエスの、神のお働きを受け入れる場所がいつもあるのです。つまり聖霊の炎が燃え続けるための場所があるのです。しかし主に仕えようとしない、ということは自分が主人として、自分の思いに従って生きているなら、そこには神のお働きを受け入れる余地がありません。聖霊の炎が燃えるための場所がないのです。ですから「霊に燃えて」生きるために必要なのは、いつも初心に返って自分の気持ちを燃え上がらせていこうとすることではなくて、「主に仕える」生き方を築いていくことなのです。そして主に仕えて生きるというのは、主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さった、その主イエスによる救いを信じて、その救いの恵みに感謝して生きること、さらに主イエスの復活によって私たちにも復活と永遠の命が約束されていることを信じて、世の終わりに与えられる救いの完成を待ち望みつつ生きることです。つまり神が独り子イエス・キリストによって私たちを偽りのない愛で愛して下さっている、その愛を受けて、私たちも偽りのない愛で兄弟姉妹を愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思うことにおいて率先して歩んでいく、それが主に仕えて生きることなのです。

信仰者の祝福
 このように11節は、私たちが偽りのない兄弟愛に生きるために何を見つめ、どのようなことを努めていくべきかを教えています。それに続く12節には、そのように歩む信仰者に与えられている祝福が語られていると言うことができます。先ほど申しましたように、これは「このように歩みなさい」という命令の文章ではなくて、「…しつつ」という現在分詞の連なりです。12節にも三つの現在分詞が出て来ます。それを細かく訳すとこうなります。「希望において喜びつつ、苦難において耐え忍びつつ、祈りにおいてたゆむことなく」。主イエス・キリストを信じて主に仕えつつ、聖霊の炎によって力を与えられて、兄弟愛に生きようとする者は、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈るという祝福の内を歩むことができるのです。

希望をもって喜び
 先ず最初の「希望をもって喜び」です。信仰者は、希望をもって喜びつつ生きることができるのです。信仰者に与えられている喜びは、幸福であるがゆえの喜びではありません。現在目に見える喜びがあるから喜ぶのではなくて、希望における喜びを与えられているのです。つまりそれは将来を見つめる喜びです。信仰者が喜びをもって生きることができるのは、将来への希望が与えられているからなのです。その将来への希望は「もうじき何かいいことがある」ということではなくて、この手紙の5章2節に語られていた意味での希望です。5章2節には「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とありました。「神の栄光にあずかる希望」、これこそが信仰者の喜びの根拠なのです。その希望は8章23節ではこのように語られていました。「被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。「神の栄光にあずかる希望」がここでは、「神の子とされること、体の贖われること」と表現されています。それは、主イエス・キリストがもう一度この世に来て全ての者をお審きになり、それによってこの世が終わり、神の国が完成するその時に、私たちも復活して神の子としての新しい体を与えられ、主イエスと共に永遠の命を生きる者とされる、ということです。私たちはそのことを待ち望んでいるのです。つまり私たちに与えられている将来への希望とは、この世の終わりに完成する救いへの希望なのです。それは私たちの地上の人生の中で実現する希望ではありません。人生の中で実現する希望は、死によって失われていきます。しかし私たちの希望は、死によっても失われません。なぜならそれは死を越えた彼方で実現する希望だからです。その希望こそが私たちの喜びの土台なのです。私たちがそのような希望に生きることができるのはなぜでしょうか。それは主イエス・キリストのおかげです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって罪の赦しを与えて下さった主イエスを、父なる神が死の力に勝利して復活させて下さり、永遠の命を生きる者として下さったのです。私たちは主イエスを信じて洗礼を受けることによって、主イエスの十字架の死と復活にあずかり、罪に支配された古い自分が死んで、キリストと共に新しい命を生き始めています。そして主イエスは世の終わりにもう一度来て下さり、私たちに約束されている復活と永遠の命を完成して下さるのです。この希望は、この世のどのような苦しみや悲しみ、困難によっても、そして死の力によっても失われることはありません。主イエス・キリストによって与えられているこの救いの約束のゆえに、私たちは希望をもって喜びつつ生きることができるのです。

苦難を耐え忍び
 この希望による喜びのゆえに私たちは、「苦難を耐え忍びつつ」生きることができます。人生には様々な苦難があり、信仰をもって生きる者においてもそれは同じです。むしろ信仰をもって生きようとする時に、隣人を愛し、尊敬をもって進んで相手を優れた者と思って生きようとする時に、かえって大きな苦しみを受けることすらあります。主イエス・キリストのご生涯がそうであったように、です。しかし私たちはそのような苦しみの中で、あの終わりの日の救いの完成の希望を与えられているがゆえに、その苦しみが最後決定的なものではなく、過ぎ去るものだということを知っているのです。最後には、主イエスによる神の恵みが勝利し、主イエスのご支配が完成することを確信して生きることができるのです。そこに、苦難を耐え忍ぶ力が与えられるのです。この「耐え忍ぶ」という言葉は、あるものの下に留まる、という意味です。苦しみの下にしっかりと留まって、そこで生きるのです。それは、その苦しみを神から与えられたものとして受け止めて歩む、ということでもあります。私たちの人生における喜びも苦しみも、全ては主なる神から与えられるものです。そして神は最終的には私たちを全ての苦しみから救い出し、神の子として下さり、復活と永遠の命を与えて下さるのです。そのことを信じて生きるならば私たちは、人生の様々な苦難において、忍耐してそこの留まって生きることができるのです。苦しみを神から与えられたものとして受け止めることができずに、そこから逃れることのみを考えて様々なものに頼って右往左往していく所には、苦しみからの解放もなければ、それを耐え忍ぶ力も得られません。苦しみからの解放は、その苦しみを神からのものとして受け止めること、そしてその神が、独り子イエス・キリストによって、最終的な救いの希望を与えて下さっていることを見つめ、その希望に支えられてその苦しみを耐え忍ぶところにこそ与えられるのです。

たゆまず祈る
 希望において喜びつつ、苦難を忍耐しつつ生きる歩みは、主なる神に祈りつつ、つまり主なる神との交わりに生きるところにこそ与えられます。それゆえに、「たゆまず祈る」ことが大事なのです。「たゆまず」とは「継続する、しっかり続ける」という言葉です。私たちは、祈っていても日々の生活は、そこでの現実は変らない、祈っても仕方がない、と思ってしまい、祈りを失ってしまいがちです。しかしそれこそがまさに、信仰における希望と喜び、そしてそれに基づく忍耐を失ってしまう原因なのです。なぜなら祈りを失うことによって私たちは神との交わりを失うからです。「たゆまず祈る」ためには、私たちの心が、いつでも、何をしている時にも、神に向かって開かれており、自分が生ける神の前で、神と共に生きていることを意識していることが必要です。そのことが、信仰者の希望と喜び、そして忍耐の土台なのです。そのような祈りの中で、主に仕えつつ、霊に燃えて、兄弟愛に生き、進んで隣人を尊敬する、という歩みが私たちの現実となっていくのです。

待ちつつ、急ぎつつ
 これらのことを踏まえて、最初の「怠らず励み」の意味をもう一度考えてみたいと思います。これは「急ぐことにおいて躊躇、逡巡するな」というような文章である、と申しました。その「急ぐこと」とは、兄弟を尊敬することにおいて急ぐのだ、ということを10節との関係で見たのです。しかしそれと同時にもう一つの「急ぐこと」があります。それは「希望をもって喜び」において示されていた、この世の終わりの、キリストの再臨による救いの完成を待ち望むことです。キリスト信者は、世の終わりの救いの完成に向かって、急ぎつつ歩むのです。あの「スプーデー」という言葉、ここでは「励み」と訳されており、「スピード」と関係があると言ったあの言葉が使われているもう一つの箇所があります。それはペトロの手紙二の第3章12節です。12、13節を読みます。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。この「早めるように」というのが「スプーデー」です。この「待ち望み、早める」というところを「待ちつつ、急ぎつつ」と訳した人がいます。キリスト信者は、主イエスの再臨によって完成する神の国、義の宿る新しい天と新しい地を、待ち望みつつ、同時にそこに向かって急ぎつつこの世を生きるのです。私たちの信仰は、神が約束して下さっている救いの完成を、希望をもって忍耐しつつ待ち望む歩みであると同時に、その救いの完成へと自らも急ぎつつ、積極的に生きることでもあります。神の国へと急ぎつつ生きる、それは熱心に主に仕え、たゆまず祈ることによって聖霊の炎を内に燃やしていただき、その聖霊の力をいただいて兄弟姉妹を愛し、進んで互いに尊敬し合っていくことです。そのようにして救いの完成へと急ぎつつ生きるところに、偽りのない愛に生きる歩みが与えられるのです。

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