主日礼拝

心と肉

「心と肉」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第103編1-22節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第7章7-25節
・ 讃美歌:117、227、506

信仰によって示された惨めさ  
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。ローマの信徒への手紙第7章24節でパウロはこのような嘆きを語っています。私たちはこれまで何回かの礼拝において、これがパウロの心からの叫びであることを確認してきました。これは私たちがよく語る「私などだめな人間で…」という形だけの謙遜の言葉ではありません。パウロは自分のことを本当に惨めな、死に定められた者であると感じているのです。またこの言葉は、イエス・キリストを信じる前はこのように惨めな者だったが、今はその惨めさから信仰によって救い出されている、というふうに、過去のことを回想して語っている言葉でもありません。パウロは、キリストを信じる信仰者として、キリストを宣べ伝える伝道者、使徒として生きている現在の思いとしてこの嘆きを語っているのです。彼はこの惨めさを、信仰を得る以前には知りませんでした。何度も言ってきたことですが、キリストと出会う前の彼は、自信に満ちて、意気揚々と生きていたのです。自分は神に従う正しい生活を、人一倍努力して送っていると自負していたのです。しかしイエス・キリストと出会った時、彼のその自負や自信は崩れ去りました。自分が正しいこと、善いことと思って努力していたことが、実は全く間違っており、神に逆らいその救いのみ業を妨害していたことに気づかされたのです。それによって彼は初めて、自分が罪にがんじがらめに縛られた、惨めな、死に定められた者であることを知らされたのです。ですからこの惨めさは、信じる前ではなくて、信仰によってこそ示されたものなのです。

善いものを通して死をもたらす罪の邪悪さ  
 しかしそれはやはり過去のことではないか、と思われるかもしれません。パウロは、キリストと出会い信者となることによって、それまでの、ファリサイ派の先頭に立って教会を迫害していた自分が、神に逆らう者だったことに気づき、自分の惨めさを知った。しかし今はもうそういう生活をしてはいません。回心して信仰者となり、さらには伝道者となって、イエスこそキリスト、救い主であると宣べ伝えつつ各地を旅しているのです。またそのキリストの福音をローマの教会の人々にも伝えるためにこの手紙を書いているのです。そういうパウロはもう惨めさからは解放されているのではないか、正しいと信じていたことが間違っていたことに気づかされ、その間違いから抜け出して今は正しい道を歩んでいるのだから、もう惨めだと思う必要はないのではないか、と思う人がいても不思議はないのです。  
 しかし、それもやはり浅い見方だと言わなければならないでしょう。パウロが、主イエス・キリストとの出会いによって示された惨めさは、自分がしていることは間違っていたから改めなければならない、という単純なものではなかったと思うのです。喩えを用いるなら、どこかへ行こうと道を歩いている途中で「この道は違いますよ」と教えられ、「しまった」と引き返して正しい道に戻る、そういうことならば、正しい道に戻れば問題は解決するわけです。しかしパウロが主イエスと出会って示されたのはそんな簡単なことではありませんでした。彼が示されたのは「あなたが歩いているこの道は間違っている」ということではなくて、13節の後半に語られていること「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした」ということだったのです。彼は、主イエスとの出会いによって、「罪の正体」を見たのです。その限りない邪悪さに触れたのです。それは、善いものを通して死をもたらすという邪悪さです。善いもの、本来正しい、追い求めるべきものを利用して、罪が私たちを支配し、とりこにしている、それが罪の正体です。罪は、いかにも罪に満ちていると思われることを通して働くのではないのです。むしろ、立派で優れており、正しいと思われる「善いもの」を通してこそ罪は働き、私たちを支配するのです。パウロの場合にはその「善いもの」は、神からの掟である律法でした。律法を守り行おうとする熱心さの中で、彼は教会を迫害していたのです。私たちは律法の下で生活しているわけではありませんから、事情は異なっています。しかし私たちにおいては別の「善いもの」、例えば立派な善い人間になろうとする努力、秩序ある行儀正しい信仰生活を送ろうという思い、熱心に人のために奉仕しようとする思い、そういう思いを通して罪が働き、私たちをとりこにしてしまうことが起るのです。人間の善意や信仰や正しいことのための努力を利用して働く罪ほど始末に悪いものはありません。本人は正しいことをして神に仕えているつもりでいる中で、周囲の人々が傷つけられていき、また本人も孤立していくのです。それが罪の策略です。パウロは、自分がそういう罪のとりこになってしまっていることに気づかされたのです。それは、正しい道に戻ればそれで解決するような問題ではありません。自分が、これが正しい、善いことだと思って努力していく、その自分の意志や努力自体が罪に利用されてしまい、罪の働く機会となってしまっているのです。つまりパウロが示されたのは、道が間違っているということではなくて、歩いている自分という人間が基本的に罪の支配下に置かれており、自分が善いと思って努力しているその思いや努力そのものが基本的に信頼できないものとなっている、ということだったのです。それゆえにこれは、信仰者となり、伝道者となったことによって解決する問題ではないのです。21~23節に語られているのは彼のそのような思いであると言えるでしょう。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。「善をなそうと思う自分にいつも悪が付きまとっている」、それは、善いことをしなければいけないとは思うが弱くてできない、ということではなくて、まさに善をなそうという自分の思いそのものが、悪に付きまとわれ、罪に利用されてしまっている、ということです。「内なる人としては神の律法を喜んでいるが、五体にもう一つの法則、罪の法則があって、それが自分をとりこにしている」というのもそれと同じです。ここで「法則」と訳されている言葉は「律法」と全く同じ言葉です。ですからここは「わたしの五体にはもう一つの律法があって、心の律法と戦い、わたしを、五体の内にある罪の律法のとりこにしている」と訳すこともできるのです。そのように、神の律法と並んで罪の律法という言い方をすることによってパウロは、神が与えて下さった律法が罪によって用いられてしまっている現実を驚きをもって語っているのではないでしょうか。パウロはそのような惨めさを感じているのであって、それは伝道者となった今も、これからも感じ続けていくであろう惨めさなのです。

イエス・キリストを通しての感謝  
 このように24節の惨めさをパウロはイエス・キリストを信じる信仰によって示されました。同じ信仰によって彼は、25節の感謝をも与えられたのです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という感謝です。パウロはここで何を感謝しているのでしょうか。先ほども申しましたように、これは惨めさがなくなった感謝ではありません。そのことは25節の後半を読めば分かります。神に感謝します、と言った後で彼は再び「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則(これも「律法」と同じ言葉です)に仕えているのです」という嘆きを語っているのです。だからこの感謝は、嘆きから解放された感謝ではありません。では何を感謝しているのだろうか。そのことは、この感謝が「私たちの主イエス・キリストを通して」の感謝であることによって伺い知ることができます。イエス・キリストによって感謝する、それはイエス・キリストによる救いを感謝する、ということです。イエス・キリストによる救いとは、主イエスが罪人である自分のために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことです。それによって私たちの罪が赦され、神の子として新しく生きる命が与えられたのです。パウロにとってこれはまさに滅びからの救いでした。キリスト教会を迫害し、荒し回っていた彼の前に、復活した主イエスが現れて、「なぜ私を迫害するのか」とおっしゃったのです。それによって、自分は神に仕え、み心を行っていると自信を持ってしていたことの全てが、神への反逆でありとんでもない罪だったことが明らかになったのです。それによって彼は、自分がもはや滅びるしかない罪のどん底に陥っていることに気づかされたのです。しかし彼に出会って下さった主イエス・キリストは、彼の罪を裁いて滅ぼそうとしたのではなくて、彼を赦して新しく生かして下さったのです。「あなたの罪は全て、私が既に背負って十字架にかかって死んだ。そして復活した。それによってあなたの罪は赦され、新しい命が与えられている。その救いを信じて、私が与えた新しい命を生き始めなさい」と語りかけて下さったのです。この主イエスの語りかけによって彼は、絶望から立ち上がることができたのです。死に定められた体からの救いが、主イエス・キリストによって与えられたのです。このことを心から感謝しているのが25節なのです。その感謝は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編103編が語っている感謝と重なるものだと言えるでしょう。詩編103編の8~13節を読みます。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」。パウロは、主イエス・キリストとの出会いによって、自分の惨めさを示されると同時に、主イエスの憐れみ、恵み、忍耐、慈しみによる救いにあずかったのです。

「既に」と「未だ」  
 しかしここで確認しておかなければならないのは、死に定められた惨めなこの体からの主イエス・キリストによる救いは、まだ完成してはいない、ということです。この救いは主イエスの十字架の死と復活によって既に決定的に示され、与えられています。だからこのように感謝することができるのです。しかしそれはまだ完成してはいません。それが完成するのは将来、この世の終りにおいてです。復活して天に昇られた主イエスが、この世の終りに栄光をもってもう一度来られる、その時、神のご支配が完成し、私たちは、主イエスの復活にあずかって永遠の命を生きる者とされるのです。その時にこそ、死に定められたこの体からの救いが完成するのです。パウロは、主イエスの十字架の死と復活によって既に与えられた救いと、将来、世の終りに実現するその救いの完成との両方を見つめながら、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と語っているのです。つまりこの感謝は、過去において既に実現した救いへの感謝であると同時に、その救いが将来完成するという約束への感謝でもあるのです。

現在の苦しみと将来の栄光  
 このことは、第7章だけからははっきりしないかもしれません。しかし次の第8章にはそのことが明確に語られていくのです。少し先取りになりますが、第8章を部分的に読んでみたいと思います。先ず18節です。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とあります。ここに「現在の苦しみ」と「将来現される栄光」が対比されています。現在この地上を歩む私たちの人生は「苦しみ」の歩みです。この「私たち」とは信仰者のことですから、キリストによる救いを信じる信仰をもって生きる人生もやはり苦しみなのです。しかし私たちには、信仰によって、将来の栄光が約束されており、その栄光は現在の苦しみとは比較にならない程大きいのです。その将来の栄光の約束の根拠が主イエスの復活です。主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかった者は、主イエスの復活にもあずかり、復活して永遠の命を生きる者とされるという約束を与えられているのです。主イエス・キリストを信じる者は、この復活の希望、将来の栄光への希望に支えられて、現在の苦しみを忍耐しつつ、救いの完成を待ち望んでいるのです。そのような信仰者の姿が8章23~25節に語られています。「被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。神の子とされること、つまり体のあがなわれることを待ち望んでいる、それは主イエスの復活にあずかって私たちも永遠の命を生きる新しい体を与えられることです。それこそが「死に定められたこの体からの救い」です。まだ、目に見える仕方では与えられていないこの約束を将来の希望として待ち望みつつ、現在の苦しみを忍耐して生きていく、それがキリストを信じる信仰者の人生なのです。このことを見つめることによって、パウロが25節で語っている感謝の内容がはっきり見えてきます。あの感謝は、主イエスの十字架の死と復活によって既に実現した救いへの感謝であると同時に、その救いが将来完成し、主イエスの復活にあずかる永遠の命を与えられることが約束されていることへの感謝でもあるのです。

心と肉  
 そしてそこから、パウロが25節後半で語っていることの意味も分かってくるのです。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。これは先程21~23節で読んだのと同じ自己分裂です。パウロはまさにこういう自己分裂を嘆いて「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と叫んだのです。そして、「主イエス・キリストを通して神に感謝します」という感謝を、嘆きの叫び以上に声を大にして語ったのです。その後でまたこの自己分裂を語っているのでは、結局元の木阿弥ではないか、と私たちはがっかりします。あるいは、そこに自分自身の現実を重ね合わせて、やっぱり人間なんてこのように弱いものだと妙に納得してしまい、パウロもこうなんだから私もそれでいいんだ、と思ってしまうかもしれません。しかしパウロはここで、決してあの感謝を帳消しにするようなことを語ってはいないのです。パウロがここで語っているのは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しにあずかり、心から感謝し、救いの完成を将来に待ち望みつつ、今はなお苦しみの中を忍耐して生きている自分の姿なのです。心では神の律法に仕えているが、肉では罪の法則に仕えている、それは心と肉との分裂ですが、それは、主イエス・キリストによって神から罪の赦しの恵みをいただいて、大いなる感謝に生きている心と、罪の力がなお自分を捕え、善いことをしようとする自分の思いや努力がどうしようもなく罪のとりこになってしまっている、この世の生活における肉の現実なのです。死に定められたこの体からの贖いがまだ完成していない今のこの世における歩みは、そういう不完全な、苦しみや惨めさに満ちたものです。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちはそのことを示されます。この世を生きる私たちの信仰の歩みは、その惨めさから完全に抜け出して、何の悩みも苦しみもないものとなってしまうことはありません。私たちは世の終わりまで、不完全さ、苦しみや惨めさを背負いつつ、忍耐して生きるのです。しかしそこにはその忍耐を支える希望が与えられているのです。

「内なる人」と「外なる人」  
 25節には「心と肉」との分裂が語られていますが、22、23節ではそれは「内なる人」と「五体」との分裂として語られていました。この「内なる人」という言葉は、コリントの信徒への手紙二の4章16節にも用いられています。そこにはこうあります。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。私たちの「内なる人」は日々新たにされていく、それが、私たちが落胆しない理由だと言われているのです。「内なる人」とは、単に私たちの内面とか心ということではなくて、主イエスによる救いにあずかって神と共に生きている私たち、み言葉によって生かされ、聖霊の働きによって日々新たに造り変えられていく私たちのことです。信仰者はそういう「内なる人」として、神と共に生きているのです。しかし私たちは同時に「外なる人」としても生きています。それは肉として、五体において生きている私たちであり、様々な悩みや苦しみやまた罪のゆえに弱り、滅びていく私たちです。その両方がここでも見つめられており、そして、外なる人が衰えていく現実の中でも、私たちの内なる人は落胆しない、そこには希望がある、と語られているのです。その希望が続く17、18節にこのように語られています。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。これは先程読んだローマの信徒への手紙の8章ととてもよく似ている所です。どちらも、今のこの苦しみ、艱難の中で、それとは比べものにならない栄光の希望を見つめることによって、落胆せず、忍耐して生きる信仰者の姿を語っているのです。パウロがこの7章において、心と肉、内なる人と五体という対比を用いて語っているのは、このような、地上を生きる信仰者の現実であると言うことができるでしょう。ですから、25節後半の言葉は決して、前半の感謝を帳消しにしてしまうようなものではないのです。感謝はしたが、やっぱり肉では罪の法則に仕えてしまっていてダメだ、ということではないのです。また、人間なんてどうせこういう弱いものだから、それでいいんだ、ということでもありません。パウロは、主イエス・キリストによって与えられた救いへの感謝の中で、自分自身の、また全ての信仰者たちの現実を直視しているのです。洗礼を受けて信仰者になれば全てがバラ色になるようなことはありません。むしろ信仰を与えられたからこそ意識されるようになる惨めさや嘆きもあるのです。善いことをしようと努力する私たちの思いや努力そのものが罪に支配されているという惨めさはまさに、信仰によって目を開かれなければ見えてこないことです。信仰をもって生きるとは、この惨めさ、自分が肉では罪の法則に仕えてしまっているという現実を、主イエスによってはっきりと示され、その現実から目をそらさずに生きることです。しかしそこには、同じ主イエスによって希望が与えられているのです。死に定められたこの体からの救いが世の終りに完成する、その約束が与えられているのです。この希望によって私たちは、今のこの時の、なお罪の支配の下に置かれている現実の惨めさの中で、パウロと共に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と語りつつ、忍耐して、救いの完成を待ち望むことができるのです。

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