夕礼拝

勇気を出せ

「勇気を出せ」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第13章8-12節
・ 新約聖書:使徒言行録 第22章22節-23章11節
・ 讃美歌:54、536

<エルサレムからローマへ>
 パウロは、キリストの救いを宣べ伝えるために、ある決心をしています。それは、使徒言行録の19:21にあったように、「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」と語られていることです。

そう言って旅立ったパウロのエルサレムの旅は、命がけでした。そこでは、キリストの福音を受け入れられないユダヤ人が、同じユダヤ人のパウロを、神の律法を冒?する裏切り者と見なして、殺そうとしていたからです。前回の聖書箇所では、パウロがエルサレムの神殿に行った時に、ユダヤ人が騒動を起こし、治安を守っているローマ兵がパウロを捕える事態になったことが語られていました。
そこでパウロはユダヤ人に向けて弁明をする機会を得ました。パウロは、自分自身もユダヤ人で、律法に熱心なファリサイ派であったこと。かつては自分も正しいと信じて熱心にキリスト者を迫害していたこと。しかし、復活のイエス・キリストに出会い、この方こそ、神がユダヤ人に約束しておられた救い主であると知り、主イエス・キリストの名で洗礼を受け、信じる者になったことを話したのでした。

ところが、最後にパウロが、主イエスから「遠く異邦人のために遣わす」という伝道のご命令を受けたことを話すと、ユダヤ人たちは激しく反発しました。それで、本日の22:22にあったように、声を張り上げて「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」とわめき立てたのです。
神の救いは、神に選ばれたユダヤ人だけでなく、すべての民に与えられるものです。しかし、自分たちこそ救いに与る民として、割礼を受け、律法を守って生活してきたユダヤ人は、自分たち以外の者も、キリストを信じることで救われる、というその福音が、受け入れられなかったのです。

そして、「ローマも見なくてならない」と言ったパウロが、このエルサレムでの絶体絶命の状況の中から、どのようにローマへ行くことになるかが語られて行きます。パウロはこのエルサレムで、いつ命を落としてもおかしくない状況です。しかし、ローマで異邦人にキリストの救いを宣べ伝えることが、パウロに対する主イエスのご命令であり、神の救いのご計画であったこと、そのパウロの歩みがどのようなものだったかを使徒言行録は語るのです。

<ローマ帝国の市民権>
 さて、パウロがローマへ行くために役に立ったのが、「ローマ帝国の市民権」を持っていることでした。パウロはユダヤ人ですが、ローマ帝国のキリキア州の出身であり、生まれながらにローマ市民権を持っていました。ローマ市民権を持つ者は、ローマ帝国から保護されており、きちんと裁判を受ける権利も保障されていたのです。

 この時、ユダヤ人たちが起こした騒動のために、この地域の治安を守っているローマ兵がパウロを捕えました。しかし、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか分からなかったので、ローマの千人隊長が鞭で打ちたたいて調べるように命じました。容疑者を鞭打ちの拷問にかけるのは、ローマ市民ではない者や、奴隷に対しては認められていました。この鞭打ちは大変激しい拷問で、途中で命を落とす者も少なくなかったと言われています。

 その時パウロは、自分がローマ市民であることを主張しました。そばに立っていた百人隊長に「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」と言ったのです。ローマ市民を不当に扱った場合、今度は不当に扱った側が刑罰を受けることになります。百人隊長はすぐに上司に報告し、千人隊長が確認に来ました。千人隊長は、多額の金、つまり賄賂を送ってまでして、このローマ市民権を手にいれたと言っています。しかし、パウロは生まれながらのれっきとしたローマ市民でした。そのために、29節にあるように「そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった」とあるのです。このことが知れると、ローマ市民を捕え、鞭打ちにしようとした千人隊長が訴えられることになるからです。

<良心に従って>
 しかし、千人隊長には、パウロがなぜユダヤ人たちから訴えられているのかが、やはり分かりません。彼はパウロの鎖を外し、祭司長たちと最高法院の召集を命じました。ここで起こっている問題は、ローマ帝国が関わるべき治安や政治のことではなく、ユダヤ人の宗教上のことであると見たからです。それで、ユダヤ人の律法に基づく、最高法院を開かせました。これはユダヤ人にとっての最高裁判所のようなものです。

そして23:1には、パウロは最高法院の議員たちを見つめてこう言ったとあります。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」
パウロは、自分を裁く議員の前に立ちながら、しかし自分は何より、神の前に立って生きているのだ。良心に従って、神の目に良しとされることに従って生きているのだ、と宣言したのです。

ここでの「良心」というのは、普段わたしたちが使っているように、自分の心で判断する善に従うことではありません。わたしたちの善悪の判断は、それぞれの思いや考えが基準になっており、とても身勝手で心許ないものです。ここで言われている「良心」のギリシャ語での本当の意味は、「共に見る」ということだそうです。それは、神が共におられ、神が一緒に見ておられる、ということです。
パウロは神と共に生きている。神の前で、神が見て下さっている目の前で、神の御心に従って生きているのです。

その神こそが、まことに人をお裁きになる方であり、まことに畏れるべき方です。しかし、この方は、パウロのためにご自分の御子を遣わし、その十字架の死によって、罪人の罪を赦し、正しいとして下さる、憐れみ深い方です。そのような救いを与えられ、神の憐れみと愛の眼差しの中で生きているのですから、パウロは、人の権威、ましてや、神を畏れない人々、神の御心を知ろうとしない人々の裁きを恐れません。人に訴えられようと、パウロはキリストの福音を語り、神の御心を伝えてきました。そのように自分は良心に従って神の前で生きてきたのだと、パウロはこの法廷で堂々と宣言したのです。

これが気に入らなかった大祭司アナニアは、パウロの口を打つように命じました。
それに対してパウロは「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか」と鋭く言い返します。
「白く塗った壁」とは、本日お読みした旧約聖書のエゼキエル書でも言われている「しっくいで上塗りされた壁」のことです。これは、中は脆く倒れやすい壁でも、上辺だけ白く、美しく塗って、その危険性をごまかしている、ということで、偽預言者や、偽善者を指して使われる言葉です。
大祭司アナニアは、本当は神によって大祭司に任じられたのですから、それこそ神の前にたち、神の御心に従って正しく民を裁くような人物でなければなりません。しかし、この人は評判が悪く、自分の利益のために不正や暗殺まで行なう人であったとの記録があり、神の目を全く恐れないような人物でした。
そして今、裁判の判決の前にパウロを打とうとしています。これは有罪判決が出るまでは被告を保護することが定められているユダヤ人の律法に反することでした。肩書きは大祭司という立派なものでありながら、正しく裁くことをしない、神を畏れず、神の前に立って生きていない、中身が崩れかかっている様を、パウロは指摘したのです。

これを、大祭司を侮辱する態度だとして周りの者が咎めると、パウロは「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています」と答えました。これは出エジプト記の22:27に書かれている掟です。目の前の人物が大祭司だとは知らなかった、ということはあり得ないでしょうから、これは、律法に逆らって裁こうとする人物が、神の大祭司だとは知らなかった、というパウロの皮肉だと言えます。

 大祭司に任命され、神に仕える立場でありながら、神を畏れずに生きるアナニアと、神から遣わされた救い主イエスを信じ、宣べ伝えて、この法廷で被告席に立たされているパウロ。まことに神の御前に立ち、神と共に生きているのはどちらなのかと、この場面は問うています。

<最高法院を分裂させる>
 さて、パウロは23:6にあるように、そこにいる議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知りました。パウロは元々ファリサイ派に属していました。この法廷にも知った顔があったかも知れません。パウロはここで声をあげます。
「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
 すると、ファリサイ派とサドカイ派の間に論争が生じ、最高法院は分裂した、とあります。聖書にあるように、サドカイ派は復活も天使も霊もない、と主張していました。彼らは合理主義であったと言われています。一方でファリサイ派は、このいずれをも認めていました。
 パウロは、そのファリサイ派の立場である「復活」を信じていること、「死者が復活するという望みを抱いている」ことで裁判にかけられていると主張し、この場で決着がつくはずのない論争を引き起こして、最高法院を分裂させたのです。

 もし、ここでパウロに何等かの判決が下されたなら、パウロがローマへ行く道は閉ざされたかも知れません。しかし、ここで論争が起き、判決を下せる状況ではなくなってしまったために、結局千人隊長はローマ市民であるという理由でパウロを保護するために、助け出して兵営に連れて行かせたのです。そして、更にこの後の展開によって、パウロのローマへの道が開けていくことになります。

<復活の希望>
 さて、わたしたちはパウロの言動を見て「上手くやったな」「賢い策略家だな」という感想を持つかも知れません。確かに、最高法院を分裂させ判決を不能にするそのやり方は、知恵に満ちたものでした。
しかし、パウロが「死者が復活するという望みを抱いている」と最高法院で発言したのは、単に策略のためだったのでしょうか。この場を切り抜けるためだけに言ったことに過ぎなかったのでしょうか。

そうではないと思います。注意深い言い回しがなされましたが、同時にこれはパウロの命がけの証しでもありました。「死者が復活するという望みを抱くこと」は、主イエス・キリストの救いを信じるということにおいて、必要不可欠なことだからです。

「復活」を信じることは、困難を覚えることかも知れません。合理主義のサドカイ派が復活を否定したように、それはわたしたち人間の常識では合理的ではないこと、ありえないことだからです。今のわたしたちの周りも、多くがそのような合理主義の考え方に支配されているのではないでしょうか。
わたしも友人に、「イエスという人物がいたっていうのは信じられるかも知れないけど、復活したっていうのは考えられない」と言われたことがあります。普通に考えればそうでしょう。「復活を信じている」と言ったら、狂信的だとか、妄想だとか、おかしいと思われてしまいます。
しかし、キリスト者が復活を信じるということは、信仰の要です。復活を抜きにして、キリストの救いを信じることは出来ません。

主イエス・キリストは十字架で死なれ、墓に葬られました。そして、三日目に神が主イエスを復活させられました。このゆえに、わたしたちはキリストがまことに救い主であると知ることが出来ます。また、キリストが神によって復活させられたということを保証として、わたしたちも終わりの日に神に復活させられる、という希望を与えられているのです。パウロは自分の将来のこととして、死者が復活するという望みを抱いているのです。

もし、ナザレのイエスという方が、十字架で死なれたままだったら、誰かの罪のために死んだ、ということは本当かも知れませんが、そんな人物は他にもたくさんいたかも知れません。この人はすべての人の罪を負って死なれた、と言っても、それは本当かも知れないけれど、嘘かも知れません。
しかし、神が、この方を復活させて下さったからこそ、この主イエスの十字架の死が神の救いの御業であったことが明らかにされたのです。十字架の死を見た弟子たちは、復活なさった主イエスと出会い、預言されていたことが本当だった。主イエスの十字架の死と復活は神がご計画されていたことであり、その御業が実現した。この方こそ聖書が指し示している救い主であった、と信じ、証言したのです。
しかしまたこの弟子の証言さえ疑う者があるかも知れません。しかし、確かにキリストの救いを信じる者が起こされ、その群れである教会が今この時も、キリストの復活の主の日に神を礼拝していることこそ、この信仰に生きている者がいることこそ、主イエスが復活し、今も生きておられる証ではないでしょうか。

また、まことの人となって下さった主イエスが、十字架で死なれたにも関わらず、死者の中から、神によって復活させられた、ということは、キリストを信じ、キリストに結ばれたわたしたちもまた、終わりの日に神によって復活させられる、ということの保証です。ここに、この世の何をもってしても奪うことの出来ない、「死」ということさえも乗り越えていく、唯一の望みがあります。

この望みは、人間の常識をはるかに超えていることです。
しかしそもそも、神の救いの御業自体がそうです。なぜ、神の御子が弱く貧しい人にならなければならないのでしょうか。なぜ、神の御子が、人の罪の肩代わりをして、死ななければならないのでしょうか。
それはただ、神の全能によってなされたことです。神の全能とは、単に何でも出来る、奇跡が起こせるということではありません。神が、わたしたちの救いのために何でもして下さるということ。御子の命を与えてでも、わたしたちを愛し抜いて下さるということです。
わたしたちが理解し、想像できる範囲の救いは、自分に都合のよいものでしかないし、結局人間の限界を超えることは出来ません。人の頭の中で、合理的に説明のつく救いが、死という圧倒的な力を乗り越えることが出来るでしょうか。
神だけが、人には想像も及ばない方法で、神の力で、神の愛で、人を救うことがお出来になるのです。わたしたちにとって、このイエス・キリストの十字架の御業と復活の希望は、頭で理解できるかどうかではありません。その恵みと希望によって、自分が生かされるかどうかなのです。

この神の恵みと希望に生きているからこそ、パウロは命の危険を知っていながらもエルサレムへやって来ましたし、また自分を殺そうとする人に対しても、大胆にキリストのことを宣べ伝えたのです。パウロには終わりの日に与えられる復活の望みがあるので、たとえ死を前にしても、神の前で生きることを止めません。また、この復活の希望を語らないことは、パウロにとって自分の命の拠り所を否定することと同じです。
ですからパウロは、単に最高法院を分裂させるためではなく、神の御前に生きる者として、死者が復活するという望みを抱いていることを言わずにはおれなかったのだと思います。

<神の国の市民>
さて、23:1でパウロが「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と言ったことに触れましたが、ここでもう一つ、注目したい言葉があります。それは、パウロが「神の前で生きてきました」とあるところの「生きる」という言葉です。これは厳密には「市民として生きる」という意味の言葉です。名詞になると22:28で千人隊長が言った「市民権」や、または「国籍」という言葉になります。

 つまり、パウロはローマ市民であり、ユダヤ人のファリサイ派であるということの前に、何より「神の国の市民」として生きているのです。それは、神に属する者であり、神のご支配の許で生きる者だということです。ローマ帝国がローマ市民を守る以上に、神の国の市民はこの世のどこにあっても常に神の保護の許にあり、神によって守られているのです。キリストによる罪の赦しと、復活の希望を約束され、その神の恵みと守りの内に、パウロは神に属する者として、キリストに従い、キリストと共に歩んできたのです。

23:11では、主イエスがパウロのそばに立って「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われました。
勇敢に戦っているパウロです。しかし、同胞から反発を受け、命を狙われ、最高法院で裁かれようとするその歩みは、危険と、恐怖と、悲しみに満ちたものであることは間違いないでしょう。
しかし、パウロのそばにはキリストが立っておられます。すべてに勝利された方の、ご支配の中にいます。パウロがキリストのものであるということ、神の国の市民として受け入れられているということが、この世のどのような苦難の中でも希望を与え、しっかりと日々を生きていくための支えと、慰めと、勇気を与えます。挫けても、失敗しても、倒れても、この世のことが全てではありません。神の御手が必ずそこにあり、神の救いのご計画がある、神の国が必ず完成する、ということを信じていくことが出来るのです。そして、その神の国の完成の時とは、パウロが望みを抱いている復活の時なのです。

このエルサレムの出来事の中で、ユダヤ人は結局一人もキリストを信じなかったかも知れません。しかし主イエスは「エルサレムでわたしのことを力強く証しした」と言って下さいます。パウロが神に従って歩んだことを喜び、その業を受け入れて下さっています。そしてまた、神のご計画のために、ローマへ遣わすと言われます。
パウロの歩みは、十字架のキリストに従う、苦難の歩みであり、また人の目には何の成果もないように見えることもあるかも知れませんが、神が確かに見ていて下さる、共に歩んで下さる、その希望と喜びに満ちた歩みなのです。

わたしたちも、キリストの救いに与り、罪を赦され、復活の恵みを頂く神の国の民として生きることへと招かれています。
しかしわたしたちは、良心に従って神の前で生きているでしょうか。神の眼差しを無視して、人の目を気にしたり、独りよがりな自分の正しさを見つめたりしてはいないでしょうか。
神は、わたしたちが世の支配やの中で、自分を取り囲む現実ばかり見るのではなく、御自分の支配のもとで、神の恵みの現実を見つめ、また神の眼差しの中で、生きることを望んで下さっています。それは、復活の主イエスがそばにいて下さり、決して失われない希望に支えられ、どのような時も勇気を出して歩むことが出来る生き方なのです。

本日は聖餐の恵みにあずかります。これは、洗礼を受け、キリストと一つにされた者が、今も生きておられる復活の主と、まことに一つにされていることを、パンと杯のしるしを通して、確かにされる時です。わたしたちの罪のために裂かれたキリストの体に触れ、十字架で流された血にあずかり、目で見て、触れて、味わって、その恵みに生かされていることを覚えるのです。また、これは終わりの日に、復活し、天の食卓に招かれ、連なる日の先取りです。
この主の食卓で、終わりの日の救いの完成の希望をますます確かにされて、わたしたちは神の国に属する市民であることを覚え、与えられたこの世での歩みを、勇気を出して、神の眼差しの中で、力強く歩んでいくことが出来るのです。

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