主日礼拝

神は真実な方

「神は真実な方」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:詩編第89編20-38節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第3章1-8節
・ 讃美歌: 17、58、457

パウロとユダヤ人との論争
 礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めており、本日から第3章に入ります。と言っても、ここから新しい話が始まっているのではありません。聖書の章とか節は後から便宜的に付けられたものです。この手紙を書いたパウロ自身が、「ここから第3章」と書いたわけではありません。これまで読んできた第2章と話は続いています。第2章でパウロは、神の前では、ユダヤ人とギリシア人の区別はない、ということをしつこい程に語ってきました。ギリシア人というのは、ユダヤ人以外の全ての人々、つまり異邦人の代表です。ユダヤ人たちは、世界の人類を、自分たちユダヤ人とそれ以外の異邦人とに分けて考えていました。そして自分たちユダヤ人だけが神に選ばれた民、神の特別な恵みを受けている民だと考えていたのです。その神の選びの印が、彼らに与えられている律法であり、彼らが肉体に受けている割礼でした。ユダヤ人たちは、自分たちがこれらのものを与えられていることを誇りとし、それによって自分たちは神のみ心を知らされており、本当の知識と真理を弁えていると思い、それを与えられていない異邦人を、闇の中にいる者、無知な者として軽蔑し、神のみ心を弁えない罪人として裁いていたのです。この手紙を書いているパウロ自身もユダヤ人であり、元々はユダヤ人としての誇りと自負を誰よりも強く持っていました。しかし彼は復活した主イエス・キリストと出会い、イエスこそ神が遣わして下さった救い主であることを示されたことによって、神の救いはユダヤ人だけに与えられているのではなくて、全ての異邦人にも及ぶと信じるようになりました。それは言い換えれば、異邦人のみでなく全てのユダヤ人も、救われなければならない罪人であり、神の怒りの下にあるということです。ユダヤ人であれ異邦人であれ、この罪ある人間を救うために、神は独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、主イエスの十字架の死と復活とによって、罪の赦し即ち救いを与えて下さったのです。この主イエスによる救いを信じる信仰によってパウロは、神の前では我々ユダヤ人も異邦人と同じ罪ある人間であり、もともと神の怒りの下にある、律法を持ち、割礼を受けているからといって異邦人に対して誇ったり見下したりすることはできない、と主張していたのです。
 このパウロの教えはユダヤ人たちの誇りや自負を徹底的に否定し、打ち砕くものであり、ユダヤ人たちを激しく怒らせました。怒ったユダヤ人たちはパウロに激しく論争を挑んできました。パウロの教えは間違っていることを様々な仕方で示そうとしたのです。このローマの信徒への手紙が書かれる前に、パウロはユダヤ人たちとそういう論争をさんざん繰り返してきました。本日の箇所の4節と6節に繰り返されている「決してそうではない」という言葉がそれを反映しています。パウロはここで、ユダヤ人たちが自分を批判して語っていることを取り上げた上で、それに対して「決してそうではない」と言っているのです。

ユダヤ人であることの意味
 1節の「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」という問いかけも、その論争におけるユダヤ人からの批判を意識しています。つまりユダヤ人たちは、パウロが神の前にはユダヤ人も異邦人も何の違いもないと主張するのに対して、「それでは、旧約聖書に語られている、神がユダヤ人をご自分の民として選び、律法を与え、割礼の印を与えてその歴史を導いてこられた事実はどうなるのか、ユダヤ人であること、割礼を受けていることは、神との関係において何の意味もないことなのか」と言って批判したのです。パウロはそれを意識して1節の問いかけの文を書き、そして2節以下で自らそれに答えているのです。その答えにおいて彼は、ユダヤ人の優れた点、割礼の利益は、「あらゆる面からいろいろ指摘できます」と言っています。つまりユダヤ人が神に選ばれた特別な民であることを彼も認めているのです。神との関係において、ユダヤ人であることは異邦人であることとは確かに違う意味を持っているのです。そのいろいろな意味の中で彼が「まず」あげているのは「彼らは神の言葉をゆだねられたのです」ということです。神の言葉を委ねられたことが、ユダヤ人が特別な民であることの第一の事柄なのです。「まず」の後に第二、第三のことが続くのかと思うとそれはありません。パウロは、ユダヤ人であることの意味として、神の言葉を委ねられたことのみをあげています。それは、ユダヤ人であることの意味はいろいろあるけれども、それらは詰まるところこの一つのことに尽きる、ということでしょう。ユダヤ人は神からみ言葉を委ねられた、そのことが、ユダヤ人と異邦人との根本的な違いであり、ユダヤ人に与えられた特別な恵みなのです。

神の言葉を委ねられた者の責任
 神の言葉を委ねられたとは、具体的には、十戒を中心とする律法を与えられたことでしょう。また、預言者たちを通して神の言葉がユダヤ人たちに語られてきました。イスラエルの歴史は、これらの神の言葉によって導かれてきたのです。つまり「神の言葉を委ねられた」というのは、神からの語り掛けを受け、神の導きを受けてきたということなのです。神の語り掛けを受け、その導きを受けた者は、それに応えていかなければなりません。委ねられたみ言葉に応答する責任がそこには生じるのです。ところがユダヤ人たちは、神の語り掛けに正しく応答するのではなくて、み言葉を与えられたことで自分が特権を与えられたかのように思い、それゆえに自分たちは他の民族よりも優れているのだという錯覚に陥って、異邦人を見下し裁くようになったのです。つまり与えられた神の言葉を自分の所有物のように誇っているのです。それは神の語り掛けに対する正しい応答ではありません。また、「委ねられた」という言葉には、信頼して任せるという意味があります。神はユダヤ人たちを信頼してみ言葉を委ね、彼らがみ言葉によって生きることによって神の栄光が世界に示されることを望んでおられたのです。ところがユダヤ人たちはその信頼を裏切り、み言葉に従って神の栄光を世の人々に現すのではなくて、み言葉を自分の所有物として誇り、他の人々を見下すことによって、神の栄光を自分たちの栄光にしてしまったのです。「彼らは神の言葉をゆだねられた」と言うことによってパウロは、ユダヤ人の優れた点、神から特別な恵みを与えられたことを認めつつ、その恵みに応えていない彼らの罪を指摘しているのです。

身勝手な主張
 ユダヤ人からのもう一つの反論を意識してパウロは3節を語っています。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者がいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」。ユダヤ人たちはこう言っているのです。「確かにパウロの言う通り、我々ユダヤ人の歴史には、与えられた神の言葉に適切に応答することが出来なかった不誠実の事実があった。しかしだからといって、我々を選び、ご自分の民として下さった神の約束は無効になってはいないはずだ、なぜなら神はどこまでも誠実な方なのだから、ご自分が一旦した約束を途中で変えたりやめてしまうような方ではない。神が我々をご自分の民として下さると約束して下さった以上、その約束は必ず果たされる。だから、我々ユダヤ人と異邦人が同じだなどということはあり得ない」。このユダヤ人たちの主張はびっくりするほど身勝手なものです。彼らは、自分たちが神の言葉に正しく応答せず、神の信頼を裏切る罪を犯したとしても、神が自分たちを見捨てるのはおかしい、と言っているのです。自分たちの罪は全く棚上げにして、神は自分たちを救ってくれるはずだし、そうでなければならないと思っているのです。「自分たちは神に選ばれている」というユダヤ人の強烈な特権意識はこのような思いを生んでいたのです。このように身勝手な主張には誰でもあきれ返ると思います。しかし考えてみれば、私たちも同じようなことを思っているのではないでしょうか。自分が罪を犯し、神の信頼を裏切るようなことをしておりながら、そのことは全く棚に上げてしまって、神は自分を救ってくれるべきだと思っている。もっとはっきり言えば、神は自分の願いを叶えるべきだと思っている。そして、神がその願いを叶えてくれないと不平不満を言い、すぐにつまずいて、こんな神など信じてやるものかと言う。神を自分の思いや願いによって評価、査定して、役に立たないと思ったら捨ててしまうくせに、自分が神に捨てられることには我慢がならないのです。私たちの中にもあるそのような身勝手な思いは、ユダヤ人が、自分たちは異邦人とは違う、という自負の中で感じていたのと同じ思いなのです。

神は真実な方
 パウロは自ら発した3節の問いに対して4節で「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と答えています。つまり、神に選ばれた者たちの中に不誠実な者がいたとしても、それによって神の選びの約束が無になってしまうことはない。神は真実な方であり、ご自分のなさった約束をどこまでも誠実に守り、実行して下さるのだから、ユダヤ人が神に選ばれた民であるという神の約束、それを契約と言うのですが、その契約の恵みはユダヤ人の罪によって破棄されてしまうことはない、とパウロは言っているのです。これは、先ほどユダヤ人たちが強烈な特権意識を持って、言わば開き直って語っていたことと基本的には同じことです。ユダヤ人たちは、パウロがユダヤ人の罪を指摘し、異邦人と同じだと言っているので、パウロは、ユダヤ人への神の選びはもう破棄されたと言っていると思ってあのように反論しているのです。パウロはユダヤ人たちのその誤解を取り上げて、「決してそうではない」と言うことによって、ユダヤ人たちの批判は当らない、私自身、神は真実な方であり、その約束は必ず果たされる、だからユダヤ人が神に選ばれた民である事実は今も変わらないと考えている、と言っているのです。つまりパウロもユダヤ人たちも共に、神の選びの約束は人間の罪によって無効になり、破棄されることはない、神はご自分の約束をどこまでも誠実に守り、必ず実現させて下さるという「神の真実」を強調しているのです。しかしユダヤ人たちはそのことを、自分たちの罪を棚上げにして身勝手に救いを主張し、異邦人に対する自分たちの優越性を主張するための根拠としているのに対して、パウロは、4節の「人は全て偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」という言葉から分かるように、神が真実な方であることを誉め称えるためにこれを語っているのです。ユダヤ人たちもパウロも共に、「神の真実」を信じ、強調していますが、この点において決定的に違うのです。その違いは実際の歩みにおいてどのように現れるのでしょうか。

ダビデの悔い改め
 神の真実は人間の偽りや不誠実によって無になることはない、ということを、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第89編が語っています。この89編は21節に「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ」とあるように、神がダビデをイスラエルの王として選び、立てたことを歌っています。そのダビデに主なる神は22~30節の約束を与えて下さったのです。「わたしの手は彼を固く支え、わたしの腕は彼に勇気を与えるであろう。敵は彼を欺きえず、不正な者が彼を低くすることはない。わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし、彼を憎む者を倒す。わたしの真実と慈しみは彼と共にあり、わたしの名によって彼の角は高く上がる。わたしは彼の手を海にまで届かせ、彼の右の手を大河にまで届かせる。彼はわたしに呼びかけるであろう、あなたはわたしの父、私の神、救いの岩、と。わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える」。しかし次に31~33節には、そのダビデの子孫が、神を捨て、その教えを守らずに背くならば、神がお怒りになり、罰をお与えになることが語られています。しかし、彼らのそのような背き、罪によって、神のダビデへの約束が破棄されてしまうことはないのです。そのことが34節以下に語られています。「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない。聖なるわたし自身にかけてわたしはひとつのことを誓った、ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き、彼の王座はわたしの前に太陽のように、雲の彼方の確かな証しである月のようにとこしえに立つであろう」。このように神は、一旦約束を与え、契約を結んだ相手に対して、相手の裏切りや罪にもかかわらず、ご自分の約束、契約にあくまでも誠実であられるのです。ここに、ユダヤ人たちもパウロも共に信じている神の真実が示されています。
 このことを念頭に置いた上で、パウロが4節後半で引用している言葉を読みたいのです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」とあります。これは詩編51編6節の後半の引用で、今の訳ではこうなっています。「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」。この詩編51編は、先ほどのダビデ王が大きな罪を犯し、預言者によってそれを指摘された時に歌った悔い改めの歌です。ダビデはここで、自分が罪を犯したことを認め、自分の罪を断罪する神の裁きに間違いはありません、と告白しているのです。ダビデは先ほどの89編の約束を神からいただいていたのです。しかし彼は、神の信頼を裏切る罪を犯した時に、神の選びの約束は自分の罪によって無になることはないのだから、神は自分を救ってくれるはずだ、などと開き直ることはしなかったのです。神の真実は、罪を棚上げにして自己弁護をするために用いるべきものではない、約束を与えられていようと、罪の責任は免れないし、自分の罪に対して神がお怒りになり、裁きをなさるのは当然だ、ということをダビデははっきりと認めているのです。その上で、神の信頼を裏切ってしまった自分は裁かれ、滅ぼされて当然だけれども、神がご自分の約束にどこまでも誠実であって下さり、なおそれを実現して下さるとするなら、それは神が自分に罪の赦しを与えて下さるということでしかないことを見つめているのです。それゆえに彼はこの51編で、ひたすら、神の赦しの恵みにすがり、悔い改めて赦しを求めているのです。神は真実な方であり、ご自分の約束に対してどこまでも誠実であって下さるという信仰は、開き直って身勝手な自己弁護をするための口実とされるべきものではありません。それを信じる者はこのダビデのように、神の前で悔い改めて罪の赦しを願い求めるのです。パウロはこのダビデの詩を引用することによって、神の真実を本当に知っている人は、ユダヤ人たちのように身勝手は自己弁護をするのではなく、ダビデのように悔い改めるのだということを示しているのです。

人間の不義が神の義を明らかにする?
 5節もまた、ユダヤ人たちからパウロへの批判を前提としています。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか」。この前提にあるユダヤ人からの批判はこういうことです。「パウロはユダヤ人の罪、裏切りに対して神が怒り、彼らを裁くと言う。しかし同時に神の誠実、真実がその罪を乗り越えて貫徹されるのだとも言う。だとすれば結果的に、人間の罪や不義によって神の義、正しさ、真実が明らかになるということではないか。だったら人間の罪に対して神が怒るのはおかしい、その罪のおかげで神の正しさが明らかになるのだから」。これもよく分からない身勝手な話ですが、同じことは7節でこう言い表されています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう」。ここだけ「わたし」と語られています。パウロが自分自身のことを語っているのです。「わたしの偽り」、それは彼が主イエスを信じる者となる前に教会を迫害していたことです。私は、み言葉を委ねられたユダヤ人の指導者の一人でありながら、神の語り掛けを正しく受け止めることができず、神が救い主イエスを遣わして下さったことを認めず、受け入れず、イエスを信じる人々を迫害していた、つまり偽りに陥っていた。しかし復活なさった主イエスと出会ったことによって私は、その大きな罪を主イエスが十字架の死と復活によって赦して下さったという神の真実を知らされた。パウロはキリストの福音を宣べ伝えていく中でいつもそのように自分の回心のことを語っていったのです。しかしそのパウロを裏切り者として憎んでいるユダヤ人たちは、彼が語っていることの揚げ足を取って、「大きな罪や偽りが赦されたことによって神の恵みの真実が明らかになったと言うなら、罪を犯して良かった、ということになるではないか。そんなふうに人間の罪のおかげで神の真実がいっそう明らかになるのなら、神が人間の罪に対して怒るのはおかしいということになる。だからパウロの教えは間違っている」、と言っていたのです。パウロはいつもこのような批判と言うか揚げ足取りと戦っていたのです。このユダヤ人の主張は、私たちが、イエスを裏切ったイスカリオテのユダについて、「ユダの裏切りによって主イエスは十字架にかけられ、それによって救いのみ業が実現したのだから、ユダも救いのための役割を担ったのだ。そのユダが裁かれるのはおかしいのではないか」と思うことと同じだと言えるでしょう。

主イエス・キリストの十字架と復活によって
 これらの思いは皆、5節の言葉で言えば「人間の論法に従って」います。人間の手前勝手な自己弁護、自分の罪を悔い改めようとせず、それを棚上げにして、神に救いを要求していこうとする屁理屈です。その屁理屈の極まりが8節の「善が生じるために悪をしよう」という言葉です。パウロが教えているのはそういうことだ、とユダヤ人は批判しているのです。パウロは、救いは律法を行うという善い行いによって得られるのではなく、イエス・キリストの十字架と復活によって神が罪人を赦し、義として下さった、その恵みを信じることによって神から与えられると言っている。そのような教えは、善への努力や、良いことをしようとする熱意を失わせる、そして、罪人である方が恵みがよく分かる、なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るよりも、罪人であることに徹した方がよい、という思いを生むのだ、とユダヤ人たちは言っていたのです。しかしパウロはそういう屁理屈を、「決してそうではない」と断固として退けています。パウロが語っている罪の赦しの福音は私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力せず、むしろ悪に留まろうとするような者にすることは決してないのです。なぜならこの福音は、十字架につけられた主イエス・キリストによって実現したものだからです。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であって下さるという神の真実とは、主イエスの十字架において結びついているのです。私たちの不誠実、罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないために、主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架の死を遂げて下さったのです。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられたのです。罪の赦しは抽象的な理論ではありません。そのために神の独り子が十字架に釘づけられ、血を流して死んで下さったのです。神の独り子主イエスの私たちのためのこの苦しみと死においてこそ、神の真実が明らかにされているのです。主イエスの十字架における神の真実を見つめるなら、そこには、罪の赦しが救いなら罪を犯した方がよいなどという屁理屈が入り込む余地はないのです。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがないと、私たちは屁理屈に陥り、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることなしに神に救いを強要したり、あるいは「主イエスによる罪の赦し」を抽象的な理論にしてしまって、それを罪の中に安住するための口実にしてしまったりということが起るのです。しかし私たちが、自分のために具体的に十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエス・キリストの救いを受け止め、主イエスとの交わりに生きるならば、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」というみ言葉が私たちをどんな時にも支えるのです。私たちは常に罪に陥る弱い者ですけれども、神の真実に支えられて、主イエスの十字架による罪の赦しに信頼して悔い改め、み心に適った歩みを求めていくことができるのです。

関連記事

TOP