夕礼拝

ヨルダンを渡る

「ヨルダンを渡る」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第3章1-第4章24節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章18-25節
・ 讃美歌:16、463

ヨルダンを渡る  
 本日はヨシュア記の3章、4章からみ言葉に聞きたいと思います。長い箇所をお読みしましたが、ここには、エジプトでの奴隷状態からモーセの導きによって解放され、四十年の荒れ野の旅を経たイスラエルの民が、モーセの死後、その後継者、新しい指導者ヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡り、主なる神が彼らに与えると約束して下さっている地カナンにいよいよ入ったことが語られています。彼らは死海の東側、エドム、モアブの地を北上してきて、ヨルダン川を東から西へと渡り、カナンの地に入ったのです。それは単に一つの川を渡ったというだけのことではなくて、ここから、神の約束の地の獲得が始まるという大変重要な意味のある出来事でした。その約束の地には、3章10節に名前が上げられている、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人が住んでおり、堅固な町を築いて待ち受けています。その代表が先月第2章を読んだ時に出てきたエリコです。ヨルダンを渡ってカナンの地に入るとは、これらの町々を攻め取る戦いに臨むということなのです。それは決して簡単なことではありません。イスラエルの民は、これから未知の土地での困難な戦いに臨もうとしている、その不安の中にあるのです。それは、これまで体験したことのない、全く新しい世界、全く新しい事態に直面しようとしている者の感じる不安です。ヨルダンを渡るとは、そのように新しい事態、新しくまた困難な課題へと一歩を踏み出すことです。私たちも、人生において転機を迎え、まだ体験したことのない新しいことに立ち向かっていかなければならないことがあります。またこの世界全体が今そういう転機を迎えており、これまで体験したことのない新しいそして困難な様々な課題に直面していると言うことができます。ヨルダンを渡るイスラエルの民の不安を、私たちも、この世界全体も感じているのです。

契約の箱が先頭に  
 イスラエルの民はどのようにしてヨルダンを渡ったのか、つまりこの転機をどのように歩んでいったのか、それが3章3、4節に語られています。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」。ここで民に命じられているのは、主の契約の箱を担ぐ祭司たちに続け、ということです。主の契約の箱とは、主なる神がシナイ山でイスラエルの民と契約を結んで下さり、彼らをご自分の民とし、主が彼らの神となって下さるという特別な関係を結んで下さった時に与えられた主のみ言葉、掟である十戒が刻まれた二枚の石の板を納めた箱です。イスラエルの民は四十年の荒れ野の旅を、この契約の箱と共に歩んで来ました。その箱が置かれている幕屋が「臨在の幕屋」と呼ばれ、主なる神がそこで民と出会って下さり、民はそこで神の前に立ち、礼拝をすることができる場でした。この幕屋と契約の箱を担いで、神の導きのままに彼らは荒れ野を旅してきたのです。契約の箱こそ、彼らが神の民である印であり、神が共にいて下さる印なのです。ヨルダンを渡る時にも、この契約の箱を担ぐ祭司たちが先頭に立ち、民はその後について行くのです。「そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」とあります。契約の箱が先頭に立ち、歩むべき道を示してくれるので、その後に従って歩めば、初めて体験する全く新しい事態においても、道を見失ってしまうことはないのです。

主に導かれて渡る  
 このことは、契約の箱を担ぐ祭司たちが道を弁えているからその導きに従えばよい、ということではありません。祭司たちにとっても、ヨルダンを渡ることは「これまで一度も通ったことのない道」を歩むことです。彼らは契約の箱を担いで歩いて行きますが、道を知っているわけではありません。その道は彼らが決めるのではなくて、主なる神ご自身がお示しになるのです。そういう意味では祭司たちが民を導くのではありません。民を導くのは主なる神であり、祭司はその神の示しを真っ先に受けて、先頭に立って主に従うのです。主に従う祭司たちの後についていくことによって、民全体が神の導きによって歩んでいく。イスラエルの民はそのようにしてヨルダンを渡ったのです。

主の奇跡  
 そのヨルダンは15節にあるように「春の刈り入れの時期で、水は堤を越えんばかりに満ちて」いました。滔々と流れるヨルダン川を渡ることは容易ではありません。ヨルダンを渡ることは恐ろしい危険なことであり、自分の力では不可能だと思われることなのです。そのヨルダンの流れを前にして主はヨシュアにこうお命じになりました。7、8節です。「主はヨシュアに言われた。『今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい』」。この命令を受けてヨシュアはイスラエルの人々にこう語ります。9~13節です。「ヨシュアはイスラエルの人々に、『ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け』と命じ、こう言った。『生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう』」。そして祭司たちがそのようにすると、15節以下、「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった」。そして民が渡り終わると、4章15節以下、「主はヨシュアに言われた。『掟の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の流れは元どおりになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた」。

主が道を開いて下さった  
 この大きな奇跡が示していることは何でしょうか。主の契約の箱、あるいはそれを担ぐ祭司たちに、川の流れを堰き止める力がある、ということでしょうか。3章10節以下でヨシュアが語っていることを読めば、そうではないことが分かります。ヨシュアは「生ける神があなたたちの間におられて」このことをして下さると言っているのです。また7節で主がヨシュアにおっしゃったのも「わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる」ということでした。つまりこの奇跡は、彼らと共にいて下さる主なる神のみ業なのです。契約の箱自体に神秘的な力が宿っていてこの奇跡を起こしたわけではありません。契約の箱のことを英語では「アーク」と言います。失われたこのアークを求めての冒険を描いた映画などがあり、そこではこのアークが、蓋を開けた者を滅ぼす力を発揮するようなことが描かれていますが、そういうものではありません。主の契約の箱は、主が共にいて下さることを証しするものです。契約の箱を担いで歩むというのは、共にいて下さる主に従い、主の導きの下で歩むことを意味しているのです。その歩みにおいて、共にいて下さる主がこのような奇跡的な力を発揮して下さり、人間の力では乗り越えることのできない妨げ、障害を乗り越えさせて下さるのです。私たちが人生の、また社会の転機に直面する中で真剣に祈り求め、依り頼むべきであるのはこの、共にいて下さる主なる神であり、主が道を示し、そのみ力によって道を開いて下さることなのです。

出エジプトと一つの恵み  
 このヨルダンを渡った話は、イスラエルの民がエジプトを脱出した時、葦の海において、モーセがその杖を差し伸べると海の水が二つに分れて壁のようにそそり立ち、その間を通って向こう岸に渡ることができた奇跡と通じるものです。そのことは4章23節にも語られています。「あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである」。エジプトを出る時と、約束の地に入る時に、このように同じ奇跡が行われているのです。それは、エジプトの奴隷状態からの解放と、約束の地に入り、そこを与えられるという二つの恵みが別々のものではなくて、一人の主なる神による一つの恵みであることを示しています。実際イスラエルの民はこの二つの恵みを一つのこととして記念していきました。4章には、ヨルダンを渡った時に、十二の部族それぞれの代表がヨルダンの川床から石を一つずつ拾って、渡り終わって宿営したギルガルという所に立て、この恵みの出来事を記念する場としたことが語られています。21節以下には、この記念の石について、「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである」と語られています。これは、このギルガルで、ヨルダンを渡ったことを記念する祭が行われたことを示しており、その祭りの時に、子供たちと父親とがこういう問答をしたのです。そのようにしてイスラエルの民は子々孫々に亘って、主なる神の恵みを記念していったのです。そしてこのヨルダンを渡ったことを記念する祭りは、4章19節に「第一の月の十日に、民はヨルダン川から上がって、エリコの町の東の境にあるギルガルに宿営した」とあるように、第一の月の十日に行われました。この第一の月は、エジプトからの解放を記念する過越祭の月です。過越祭は、出エジプト記12章によれば、第一の月の十日に過越の小羊を取り分け、それを十四日に屠ってその血を戸口に塗り、そして過越の食事をするのです。つまりヨルダンを渡ったことを記念する祭は過越祭の準備の期間中に祝われたのです。イスラエルの民はこのようにして、エジプトの奴隷状態からの解放と、ヨルダンを渡って約束の地に入ったという二つの救いのみ業を、主なる神による一つの恵みとして覚え、記念していったのです。両方の出来事に共通しているのは、主なる神が共にいて下さり、行く手に立ちはだかる妨げを取り除いて道を開き、新しい世界へと導いて下さったということです。ヨルダンを渡った恵みの出来事はこのように、エジプトからの解放の恵みと重なり合うのです。

「足」に注目  
 ところで、本日の箇所において印象深いのは、主の契約の箱を担ぐ祭司たちの「足」という言葉が何回も出て来ることです。3章13節に「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると」とあります。15節にも「箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると」とあります。4章3節には「ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から」とあり、9節にも「契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に十二の石を立てたが」、18節にも「主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき」とあります。このように、契約の箱を担ぐ祭司たちの足が川に入ると水はせき止められ、その足が川から離れると水は元に戻ったのです。このように「足」が注目されているのはここだけではありません。1章3節にもこのように語られていました。「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」。イスラエルの民は主の約束を信じて約束の地に入り、そこを自分の足で一歩一歩踏みしめ、歩いていくのです。そのことによって、その地を与えて下さるという主の約束が実現していくのです。ヨルダンを渡ることにおいてもそれと同じことが起っています。契約の箱を担いで歩むというのは、神の契約、彼らをご自分の民とし、ご自分が彼らの神となり、共にいて下さるという約束を信じて歩むということです。祭司たちは民全体を代表して、神の約束を信じて、滔々と流れるヨルダンの水の中へと足を踏み入れたのです。その時、あの葦の海の奇跡に匹敵する大きな恵みの出来事が起りました。主なる神が彼らと共にいて下さり、道を開いて下さることが示されたのです。私たちも、人生の転機において、神の恵みの約束、あなたは私の民だ、私はいつもあなたと共にいる、という約束を信じて、まだ体験したことのない世界へと、水の流れに足をすくわれそうになりながら、一歩を踏み出して行くのです。その時、主なる神が共にいて下さることが示され、主が道を開き、私たちの力を越えた恵みのみ業を行って下さることが体験されていくのです。

主イエスが先頭に立って  
 私たちが信じて歩む神の恵みの約束は、主イエス・キリストによって与えられています。主イエス・キリストは、私たち罪人のために人となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。そのようにして私たちに罪の赦しを与え、またご自分が共にいて下さることを約束して下さいました。私たちはこの主イエスによる救いの恵みを信じて、人生の転機へと、まだ体験したことのない未知の世界へと足を踏み入れていくのです。主イエスはそこにおいて、契約の箱を担いで真っ先にヨルダン川に足を踏み入れた祭司たちの働きをもして下さっています。主イエスが、私たちの前に立ち塞がっている、私たちの力ではとうてい越えて行くことのできない水の流れの中へと、頭に立って足を踏み入れて下さったのです。その主イエスによって、私たちを押し流そうとする水は堰き止められ、道が開かれ、私たちは道を見失うことなく渡ることができるのです。主イエスが足を踏み入れて下さったのは、十字架の苦しみと死という水の流れです。私たちは人生の歩みにおいて様々な転機を迎え、いろいろな川を越えていかなければなりません。しかし私たちの誰もが最終的にどうしても越えていかなければならない川、私たちの前に立ちはだかり、私たちを押し流そうとしている最も恐しい川は死であると言うことができます。死の苦しみという川を、私たちはいつか越えなければならないのです。まさにその川に、主イエスは既に足を踏み入れて下さり、十字架の死の苦しみを味わって下さいました。そして父なる神は主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちを押し流そうとする死の川の水は堰き止められ、永遠の命へと渡って行く道が、私たちのために既に開かれているのです。信仰をもって生きる私たちの人生は、主イエスという祭司が足を踏み入れて下さったことによって開かれた道を通って、自分の力、人間の力ではとうてい越えることのできない川を渡っていく歩みなのです。

主イエスの執り成し  
 それだけではありません。これはローマの信徒への手紙第8章34節に語られていることですが、復活して天に昇られた主イエスは今、父なる神の右に座しておられ、そこで私たちのために執り成して下さっているのです。神と人間との間に立って執り成しをすることは祭司の務めです。十字架の苦しみと死の川に真っ先に足を踏み入れて下さった主イエスは、復活して天に昇られた今も、永遠の命を生きておられる方として、私たちのために祭司として執り成しをして下さっているのです。そういう意味では、主イエスという大祭司の足は今も、私たちが渡っているヨルダンの川床にあり、私たちの救いの完成までそこにあって、私たちを押し流そうとする水を堰き止め、私たちを守り、救いへの道を確保して下さっているのです。復活して天に昇られた主イエスが父なる神の右においてして下さっている執り成しによって支えられ、守られて、私たちはこの世の旅路を歩み、そこで様々な川を渡り、そして最後の、最も大きく私たちの前に立ち塞がっている死の川をも越えて、約束されている永遠の命を与えられていくのです。

主イエスの足跡に従う  
 それゆえに私たちは、先頭に立って歩んで下さっている主イエスの足に目を注ぎ、その後に従って歩みます。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ペトロの手紙一の第2章です。その21節に「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」とあります。キリストの足跡に続いていくこと、それが私たちの信仰の歩みです。主イエス・キリストは、「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」方であるのに、私たちの罪を全て背負って十字架の死へと歩まれたのです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。このキリストの歩みによって私たちは、罪に対して死んで、義によって生きる、つまり罪を赦され、義とされて生きることができるようになったのです。主イエスが受けて下さった苦しみと死という傷によって、私たちは癒され、救われました。道を見失い、彷徨い、もう死ぬしかない迷子の羊だった私たちが、主イエスという魂の牧者、監督者の下に戻って来ることができたのです。この主イエスが私たちのために歩んで下さった十字架の死への歩みを思い、その足跡に続いて、私たちは一歩一歩人生の旅路を歩み、様々な転機にいくつもの川を越えていきます。そして最後には、死という川をも越えて、復活と永遠の命へと、約束されている救いの完成にあずかっていくのです。主イエスは十字架の死と復活によって既にその道を切り開いて下さったのだし、今も、天の父なる神の傍らで、その道を歩む私たちのために執り成し、守り、支えて下さっているのです。

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