主日礼拝

再臨の主イエスの御前で

「再臨の主イエスの御前で」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:アモス書 第5章18-20節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第2章17-20節
・ 讃美歌:

キリストの再臨
 本日の説教題を「再臨の主イエスの御前で」としました。「再臨」という言葉は、教会の信仰の言葉であり世の中の一般的な言葉ではないため、この言葉になじみにくさ、分かりにくさを感じるかもしれません。本日の聖書箇所には「再臨」という言葉(訳語)そのものは出てきませんが、19節でこの手紙を書いたパウロが述べている「わたしたちの主イエスが来られるとき」が「再臨」のことです。しかしそのように言われても、「再臨」について分かった、腑に落ちたとは思えないのではないでしょうか。言葉の意味が分かることと、その言葉が私たちにとって何を意味するのかが分かることとの間には隔たりがあるからです。この隔たりを埋める必要があります。なぜなら主イエス・キリストの再臨は、私たちの信仰の中心的な事柄だからです。
 この手紙の宛先であるテサロニケ教会は誕生したばかりの教会でした。150年近い歴史を持つ私たちの教会とは比ぶべくもありません。あえて「信仰歴」という言葉を使えば、テサロニケ教会は「信仰歴」がとても短い、キリスト者になりたての人たちばかりの群れでした。しかしその生まれたばかりの未熟なテサロニケ教会において主イエス・キリストの再臨は熱心に信じられていたのです。この手紙の1章9節以下では、テサロニケ教会の人たち自身が、自分たちが「どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを」(1:9-10)、その地域の人たちに言い広めていた、と語られていました。彼らは自分たちが御子キリストの再臨を待ち望んでいる、と人々に力強く証ししていたのです。テサロニケ教会とは違い私たちの群れには信仰歴が長い人も短い人もいますし、この礼拝には信仰を求めている求道中の方々もいます。そのような違いがあるとしても、テサロニケ教会の人たちと同じように私たちもキリストの再臨を熱心に待ち望み、そのことを力強く証ししていきたいのです。だからこそ、私たちにとってキリストの再臨が何を意味するのかが大切なのです。

キリストの再臨による救いの完成
 そのために聖書の歴史の見方(歴史観)に目を向けたいと思います。聖書において歴史には始まりと終わりがあります。天地創造から終末に至る歴史を聖書は見つめているのです。ですから聖書の歴史観は、始まりから終わりへという直線的な歴史観であり、何度も生まれ変わって生きるというような円環的な歴史観とはまったく異なります。直線的に天地創造から終末に向かっていく歴史において決定的な出来事が起こったことを聖書は告げています。主イエス・キリストが世に来てくださったことです。神の独り子である主イエス・キリストが人間となってこの世に来てくださり、この地上を歩まれ、そして私たちの罪のために十字架で死んでくださり、復活して私たちの救いを実現してくださいました。そしてキリストは天に昇られ、父なる神の右におられます。この出来事こそが、歴史を「キリスト以前」と「キリスト以後」に二分する決定的な出来事なのです。キリストの十字架と復活によって、「キリスト以前」の罪の力による支配は終わり、「キリスト以後」の神の恵みによる支配が始まりました。私たちが生きているは「キリスト以後」の世界、すでに救いが実現した世界であり、その救いを信じ受け入れることによって神の恵みの下で生かされています。しかしこのことは、私たちの目にはっきりと見えるわけではありません。「キリスト以前」と「キリスト以後」が決定的に異なっていることも、私たちが神の恵みの下で生かされていることもなかなか実感できないのです。それどころか、私たちが不条理な現実に直面するとき、あるいは悲惨な出来事に目を向けるとき、すでに救いが実現した「キリスト以後」の世界に生かされていることをしばしば見失ってしまい、時には疑ってしまうのです。しかし聖書は、キリストによる救いが実現したのだからもう苦しみも悲しみもない、と語っているのではありません。そうではなく、すでにキリストによる救いは実現したが、しかしまだその救いは完成していない、と告げています。「すでに」と「まだ」の間では、なお苦しみや悲しみが絶えることはないのです。いつその救いは完成するのでしょうか。それは、十字架で死んで復活され天に昇られたキリストが、もう一度この世に来られるときです。つまりキリストの再臨によって救いは完成するのです。このことが歴史の終わり、世の終わりに起こることです。共に読まれた旧約聖書アモス書では、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」(5章20節)と言われています。しかしキリストが私たちの罪を担い十字架で神の裁きを引き受けてくださったゆえに、主の日、つまり世の終わりの日は、闇ではなく光であり、暗闇ではなく輝きであり、救いの完成のときなのです。聖書は、天地創造から始まり、主イエス・キリストが来られて決定的な救いを実現し、もう一度主イエスが来られてその救いを完成し世の終わりに至るという、壮大な救いの歴史を私たちに示しているのです。
 けれども具体的にいつ、その救いが完成するのかは誰にも分かりません。いつ、もう一度主イエスが世に来られ、世の終わりが来るのか分からないからです。そのために私たちは、キリストの再臨による救いの完成を、曖昧で漠然としたものと感じているのではないでしょうか。信じていたとしても、今の私たちと関わりがないこととして受けとめていて、キリストの再臨による救いの完成が、今の私たちを本当に生かすものとなっていないのです。私たちの信仰生活が、キリストの再臨による救いの完成と切り離されてしまっているのです。

引き離されて
 ところが本日の箇所でパウロは、異邦人への伝道の歩みの中で彼が抱く気持ちを、キリストの再臨による救いの完成と決して切り離せないこととして語っているのです。この箇所でパウロは、テサロニケ教会をもう一度訪れたいという熱い気持ちを17節でこのように語っています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが」は、挿入文ですから後で見ることにして、まず主となる文である「わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」に目を向けていきます。パウロは、自分たちがテサロニケ教会の人たちから「引き離されていた」と言っています。パウロの伝道によってテサロニケ教会は立てられましたが、パウロは不本意にも誕生したばかりの教会とそこに連なる人たちから離れなくてはなりませんでした。テサロニケ滞在が短かったにもかかわらず、パウロのテサロニケ伝道は豊かな実りを得ましたが、それでも誕生したばかりのテサロニケ教会は未熟で不安定であり、また教会を取り巻く環境も厳しくいつ迫害されてもおかしくありませんでした。テサロニケの人たちは予期せぬ事態によって指導者を失い、大きな不安と恐れの中にあったに違いありません。ですからパウロは、テサロニケの人たちのことがとても気がかりであり心配でした。彼のテサロニケの人たちへの熱い気持ちは、「あなたがたからしばらく引き離されていたので」の「引き離されていた」という言葉にも表れています。「引き離される」は文脈の意味を汲んだ訳ですが、もともとの言葉は「孤児となる(みなしごとなる)」ことを意味します。パウロにとってテサロニケの人たちから引き離されることは、子どもが親を失うようなことであったのです。ところでお気づきになった方もあるかもしれませんが、2章のこれまでの箇所でパウロは、「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように」(7節)、あるいは「父親がその子供に対するように」(11節)テサロニケの人たちに関わってきた、と述べていました。ですからパウロがここで彼らから離れることを「孤児となる」と例えるのは矛盾しているのではないか、と思われるかもしれません。しかしこの言葉は、親を失った子どもだけではなく、子どもを失った親をも意味するようです。いずれにしてもパウロは、親を失った子どものように、子どもを失った親のように、深い喪失感、寂しさや悲しさ、不安や心配を抱えていました。その強い想いによって、パウロはテサロニケの人たちの顔を見たいと切に望んだのです。

心が離れていなくても、顔を見たい
 先ほど後回しにしたのは、「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが」という挿入文でした。このパウロの言葉を「心が離れていなければ、顔を見なくても良い」と捉えると、パウロの言っていることが分からなくなってしまいます。なぜならパウロは、切に望むほどにテサロニケの人たちの顔を見たい、と言っているからです。パウロが言っているのは、むしろたとえ心が離れていなかったとしても、顔と顔を合わせることがどうしても必要だ、ということではないでしょうか。親を失った子どものような、子どもを失った親のようなパウロの深い喪失感や、テサロニケの人たちに対する彼の不安や心配は、心と心が結びついているだけでは、つまり内面的につながっているだけでは取り除かれないのです。顔と顔を合わせる交わりが、相手の存在を体全体で感じられる人格的な交わりがどうしても必要なのです。
 私たちはこの一年半、皆が顔と顔を合わせて集まることがとても難しい中を歩んできました。しかしだからといって、私たちはこの一年半、ばらばらになってしまっていたのではありません。顔を見れなくても、会えなくても、離れていても、私たちは聖霊の働きによってキリストの体なる教会につながり一つとされていたし、それによって私たちの心は離れていなかったのです。ですから私たちは、なおしばらく続くだろうこの状況にあって、パウロと同じように、「私たちは顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではない」と語っていきたいし、聖霊の働きによってこのことがまさに今、私たちの間で起こっていると信じて良いのです。しかし同時に、私たちは顔と顔を合わせて会うことを、交わりを持つことを切実に一層強く願い求めていきたいのです。リモートで会えるから対面で会えなくても大丈夫ということにはなりません。キリストにあって一つとされている私たちは、顔と顔を合わせた対面での信仰における人格的な交わりを必要としているのです。

サタンによって妨げられる
 だからこそパウロはテサロニケへ行くことを強く願ったのです。18節でこのように言っています。「だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。」テサロニケの人たちに会いたい、顔と顔を合わせたい、そしてなによりも共に礼拝を守り、御言葉に聞き、祈りを合わせたい、また彼らと人格的な豊かな交わりを持ちたい。そのことによって、困難の中にあるテサロニケ教会を支え、教会に連なる人たちの信仰を励ましたいと願っていたのです。その熱い想いに衝き動かされて、パウロは何度もテサロニケへ行こうとしました。しかしその試みは、すべて実現することがなかったのです。その具体的な理由について推測することにはあまり意味がありません。いずれにしろなんらかの理由によってパウロはテサロニケへ行くことを断念せざるを得ませんでした。このことをパウロは後から振り返って、「サタンによって妨げられた」と語っているのです。パウロにとって、もう一度テサロニケへ行くことは正しいことであり必要なことでした。彼は、自分のためではなくテサロニケ教会とそこに連なる人たちのために、なんとしてもテサロニケへ行こうとしたのです。自分の利益のためなどではなく、困難の中にある教会と教会の人たちの信仰を支えるためでした。それなのに彼の試みは実現しませんでした。それは、彼にとって単に自分の願いが妨げられたということではなく、教会の形成が、福音の進展が妨げられたことであり、「サタンによって妨げられた」こと以外の何ものでもなかったのです。
 私たちも同じような経験をします。自分にとってではなく、教会のために、そこに連なる人たちのために必要なことなのに、なんらかの理由でうまくいかない、ということがあります。あるいは、まだ主イエスに出会っていない方たちを教会に招くために必要なことなのに、やはりなんらかの理由でできないということもあります。そのときパウロと同じように私たちも「サタンによって妨げられた」と思うのです。コロナ禍にあって、聖餐を行えないこと、声を出して賛美できないこと、主イエスにまだ出会っていない方々への伝道ができないことは、「サタンによって妨げられた」ことにほかなりません。それでもなお私たちは、サタンも神のご支配の下にあることを信じ、これらのことにおいても神の御心を求めていきたいのです。

あなたがた以外のだれが
 19節でパウロは、「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか」と言っています。「あなたがた以外のだれが」と言われると、テサロニケの人たちだけが、パウロたちの希望、喜び、誇るべき冠であるように思えます。しかし「あなたがた以外のだれが」と訳されている言葉は訳すのがとても難しい言葉で、この言葉には、彼ら「だけ」というより、彼ら「も」という意味が読み取れるのです。ここでテサロニケの人たちについて語られているのは間違いありませんが、それは、彼らだけに限られ、閉じられていることとしてではなく、パウロが伝道し立てたすべての教会とその教会の人たちも含まれる、開かれたこととして語られているのです。

再臨の主イエスの御前で
 このように「あなたがた以外のだれが」の意味は捉えにくいのですが、そのことよりも重要なのは、「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」テサロニケの人たちがパウロたちの希望、喜び、誇るべき冠である、と言われていることです。最初にお話ししたように、「わたしたちの主イエスが来られるとき」とは、キリストの再臨のことです。十字架で死んで復活され天に昇られたキリストがもう一度この世に来られ、ご自身の十字架の死によって実現した救いを完成されます。このキリストの再臨を、つまり世の終わりを見つめて、もう一度来られる主イエスの御前で、あなたがたは自分たちの希望であり喜びであり誇るべき冠である、と言われているのです。ですから、現に今、テサロニケの人たちが希望、喜び、誇るべき冠である、と言われているのではありません。20節には、「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」ともありますが、このことも彼らが、現に今、そうであるということではないのです。現に今あるテサロニケの教会は、そしてほかの諸教会も、また私たちの教会も罪と弱さと欠けを抱えています。そのために、私たちは互いに愛し合い重荷を担い合うより、互いに批判してしまうことがあり、主にある交わりを深め広げていくよりも、自分の居心地の良い関係に留まってしまうことがあります。またサタンの妨げによって、教会の営みが妨げられることもあります。そのような現に今ある教会や私たちの姿を見つめている限り、そこに希望、喜び、誇るべき冠を見出すことはできません。主イエスが再び来てくださり、罪の赦しと救いを完成し、あらゆるサタンの妨げを滅ぼしてくださるときに、その再臨の主イエスの御前においてのみ、テサロニケの人たちは、そして私たちも、希望、喜び、誇るべき冠なのです。

世の終わりを見据えて
 パウロはキリストの再臨を、世の終わりを見据えています。そしてそれは、パウロの「今」と切り離されてはいません。彼は世の終わりを見据えて、しかし「今」、テサロニケの人たちの顔を見たいと切実に願っているのです。彼らと引き離されて、子どもを失った親のように、親を失った子どものような深い喪失感を抱え、テサロニケの人たちを心配して、なんとしても顔と顔を合わせたいと何度もテサロニケに行こうとしました。世の終わりを見据えるからこそ、キリストの再臨を待ち望むからこそ、再臨の主イエスの御前でテサロニケの人たちが希望であり喜びであり誇るべき冠であることを確信しているからこそ、今、なお弱さや欠けや問題を抱えているテサロニケ教会のために、パウロは熱い想いを持ち続けているのです。
 キリストの再臨は、今を生きる私たちと関わりがないことではありません。むしろ、私たちの日々の歩みがキリストの再臨と切り離されないことによってこそ、私たちは本当に安心して生きることができます。世の終わりを見据え、キリストの再臨を待ち望みつつ生きるのが、私たちの信仰にほかならないのです。すでにキリストによる救いが実現し、しかしまだその救いが完成していない、その「すでに」と「まだ」の間を生きている私たちには苦しみと悲しみがあり、そして死があります。しかし私たちには、世の終わりに、もう一度キリストが来てくださるときに、あらゆる苦しみや悲しみがこの世から取り除かれ、死を越えた復活と永遠の命に与る約束が与えられているのです。世の終わりを見据え、キリストの再臨による救いの完成を待ち望み、そのとき復活と永遠の命に与れることを信じているからこそ、パウロと同じように、私たちも日々の苦しみや悲しみの中で、キリストによる救いの恵みに感謝し、喜んで生きていくことができるのです。私たちは、復活と永遠の命の約束によって確かな支えと慰めと平安を与えられて、世の終わりを見据え、キリストの再臨を待ち望みつつ歩んでいくのです。

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