主日礼拝

神の言葉を聞く

「神の言葉を聞く」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第119篇 105節-112節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第2章 13節-16節

再び感謝
 私たちが今礼拝において読み進めているテサロニケの信徒への手紙一は、大きく分ければ二つの部分から成っています。第一の部分は3章の終わりまでで、「感謝」を語っている部分です。第二は4章以下で、そこには「励まし」ないしは「勧め」が語られています。今私たちはその第一の部分、パウロが、テサロニケの教会の人々のことを覚えつつ神様に感謝している、その部分を読んでいるのです。その感謝は、1章2節の、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」という言葉によって始められています。この「神に感謝しています」という言葉が再び出て来るのが、本日の箇所、2章13節なのです。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています」とあります。パウロはここで改めて、神様に感謝する、ということを表明しているのです。その思いはどのようなものだったのでしょうか。
感謝の理由
 「このようなわけで」とあります。素直に読めばこれは、それまでに語られて来たことを受けて、ということになります。パウロはこれまでのところで、生まれたばかりの教会であるテサロニケ教会の人々が、信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストによる希望を抱いて忍耐していること、そのようなテサロニケ教会の信仰の様子が至る所で語り伝えられ、それによってこの教会から主の言葉が力強く響き渡っていること、自分たち伝道者がテサロニケに行って伝道したことが無駄にならずに、そのような豊かな実りが与えられたことを語ってきました。それらのことを振り返って見るときに、改めて神様に感謝せずにはおれないというパウロの思いはよく分かる気がします。けれども、この13節は後半に「なぜなら」という言葉があります。「絶えず神に感謝しています」と言って、「なぜなら」とあるのですから、その後に語られていることこそが感謝の根拠、理由なのです。冒頭の「このようなわけで」という言葉も、この「なぜなら」以下のことを指している、と考える学者もいます。そういう理解に立つならばここは「そして、わたしたちはまた、以下のことで、絶えず神に感謝している」と訳されることになります。1章2節で、まず神に感謝していると言い、その後にその理由を語っていったように、この2章13節で改めて神に感謝していると言い、それからその理由を語っていく、そういう構造がここにあると言うこともできるのです。13節の感謝の理由はその前に語られていることか、それとも後に語られていることか、それはどちらかに決めなければならないようなことではありません。パウロがここで改めて神様への感謝を表明し、「なぜなら」と語っていくその理由は、これまでのところに語られていたことと無関係な、新しいことではないのです。むしろ、これまでのところに語られていたことをまとめるならばこうなる、あるいは、そこに語られてきたことの中心はこれだ、ということが、「なぜなら」以下に示されているのです。
神の言葉として
 「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。パウロたち伝道者が、神の言葉を語った、そしてテサロニケの人々が、その語られた言葉を、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた、それが、テサロニケで起った出来事の中心、本質です。その結果として、これまでのところに語られていたような、様々な感謝すべきこと、祝福、恵みの実りが生まれてきたのです。伝道者の語る言葉が、神の言葉として受け入れられる、そのことが起るときに、そこに信じる者の群れである教会が生まれるのです。教会において私たちが神様に感謝すべきことの中心はこれです。何百年の歴史がある、沢山の人々が集まっている、立派な会堂がある、様々な活動が活発に行われている…、それらのことは教会において感謝すべきことの中心ではありません。中心は、神様のみ言葉が語られ、聞かれていることです。その中心から、様々な、具体的な感謝すべきことが生じてくるのです。
説教と神の言葉
 パウロたち伝道者の言葉が、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れられた、このことはもう少し丁寧に考えなければなりません。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき」とあります。そこは原文の語順に従って言葉を並べるとこのようになります。「あなたがたは受け入れた、聞いた言葉を、わたしたちから、神の」。この語順に示されているニュアンスは大事だと思います。テサロニケの人々は、「聞いた言葉」を受け入れたのです。それはパウロたち伝道者が語った言葉でした。その伝道者たちの言葉を、神の言葉として聞き、受け入れたのです。伝道者が語り、教会の人々が聞いた言葉、それはつまり「説教」です。テサロニケの人々は、パウロら伝道者の語る説教を聞き、それを、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたのです。伝道者の語る説教が、神の言葉として聞かれる、それがテサロニケで起った出来事であり、この教会に与えられた豊かな恵み、祝福の中心なのです。パウロはそのことを何にも増して神様に感謝しているのです。
聖霊の働きによって
 伝道者の語る説教が神の言葉として聞かれる、それは決して当たり前のことではありません。むしろ驚くべき奇跡であると言わなければならないでしょう。伝道者は、神様によって召され、神の言葉を語る働きへと遣わされた者です。しかし伝道者も、弱く小さな一人の人間に過ぎません。一人の人間に過ぎない者が、神の言葉を語るなどということは、本来あり得ないことであって、それは神様の特別な許しと恵みにより、また聖霊の働きによって起る奇跡です。このことをパウロは既に1章5節で、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」と言い表しています。伝道者の語る説教が神の言葉として聞かれることは、聖霊の働きの中でこそ起るのです。それゆえに私たちは、み言葉を語る者も聞く者も共に、聖霊の働きを祈り求めなければなりません。聖霊の力によって、伝道者の語る説教は神の言葉となり、神の言葉が聞かれるという奇跡が起るのです。パウロが感謝しているのはその聖霊の働きに対してなのです。
どのように語るか
 伝道者の語る説教が神の言葉として聞かれることは、このように根本的には神様の、聖霊のお働きによることです。しかしだからといってそれは、私たちが、聖霊の働きを祈って待っているだけで起ることではありません。そこには人間の積極的、能動的な働きが求められているのです。つまり、伝道者が神の言葉をどう宣べ伝えるか、そして聞く者がそれをどう受け止めるか、ということがそこでは大事な要素としてあるのです。パウロがこの手紙の第2章に入って語ってきたのは、伝道者パウロらがどのように神の言葉を語ってきたか、ということです。パウロたちは、激しい苦闘の中で、様々な労苦と骨折りを負いながら語ってきたのです。そのような苦しみは、彼らが、人にへつらうような、人の耳に心地よい、人を喜ばせることによって自分たちを受け入れてもらおうとするような言葉ではなく、神様にこそ喜んでいただくために、神様がお示し下さった主イエス・キリストの福音をこそ語ったことによって生じてきたものです。つまりパウロら伝道者は、神の言葉を本当に語るために、誘惑と戦わなければならなかったのです。人にへつらう、人の言葉を語ってしまう誘惑、それによって苦しみを免れ、むしろ人から賞賛を受けることができる、そういう言葉を語ることへの誘惑との戦いが、伝道者には常に求められているのです。またパウロは、神の言葉を語ることが、ただ言葉だけですむものではなく、語る者の生活のあり方、生き方と深く関わっていることをよくわきまえていました。彼らが、敬虔な、正しい、非難されることのない生活をすることに努め、また教会の人々を、ある時は母親のように愛し、ある時は父親のように励まし、慰め、強く勧めていったのは、すべて、彼らが語る言葉を人々が神の言葉として聞くためです。神の言葉が神の言葉として聞かれるために、それを語る務めに立てられている伝道者は、自らの生活をそれに相応しいものへと整えていかなければならないのです。
どのように聞くか
 このようにパウロは、神の言葉が聞かれるために、先ず彼ら伝道者がテサロニケにおいてどのようにふるまい、どのように神の言葉を語ったかを振り返っています。その上で、本日の13節において、彼が今一度神様に感謝しつつ語っているのは、今度はテサロニケの人々が、彼ら伝道者の語る説教を、人の言葉としてではなく、神の言葉として聞き、受け入れたことです。ここに、神の言葉が聞かれるために、聖霊の働きの中で、人間がなすべき積極的、能動的な関わりの第二の面があるのです。それは、み言葉を聞く者たちが、それをどう聞き、受け止めるかということです。神の言葉が語られ、聞かれるためには、語る者と共に聞く者にも、それを人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れるという積極的な関わりが求められているのです。
謙遜の訓練
 「人の言葉としてではなく、神の言葉として」とあり、さらにそこに、「事実、それは神の言葉であり」と畳み掛けるように語られています。このことは、パウロらの語る説教が、しばしば、神の言葉としてではなく、人の言葉として聞かれてしまうことがあった、ということを示していると言えるでしょう。語る者にとって、一人の人間に過ぎない自分が神の言葉を語ることが大変なことであるように、聞く者にとっても、一人の人間に過ぎない者の語る言葉を神の言葉として聞くことは大変なことなのです。そこに求められるのは、大いなる謙遜です。自分と同じ弱い人間に過ぎない者が、しかもある場合には自分より年下の、経験も知識も乏しい者が語る言葉を、神の言葉として聞くことは、謙遜と忍耐を必要とすることです。神の言葉を聞くためには、神のみ前に跪かなければなりません。「神の言葉らしい言葉だったら聞いてやろう」とか、「神の言葉になっているかどうか、判定してやろう」という傲慢な姿勢では、神の言葉を聞くことはできないのです。神様のみ前に跪く思いをもって伝道者の語る言葉を聞くという謙遜さが必要なのです。宗教改革者カルヴァンは、神様が直接み言葉を人々に語られるのではなく、お立てになった伝道者、牧師を通してみ言葉を語るようになさった、その目的の一つは、謙遜の訓練のためだと言っています。伝道者の語る説教を通して神の言葉を聞くことによって、私たちは、神様の前で真実に謙遜となることを学んでいくのです。そしてその謙遜とは、自分の思いや考えを神に押し付けることをやめて、神によって自分の思いや考えを打ち砕かれていくことを受け入れることです。自分の思いに固執し、それに適うことしか受け入れようとしないならば、私たちは、伝道者に、自分の思いに適う言葉を語ることを求めるようになります。つまり、自分にへつらう言葉を求めてしまうのです。伝道者の言葉がへつらいの言葉になってしまう危険ということを先週も述べましたが、それは伝道者が自分を受け入れてもらうためにへつらいの言葉を語ってしまうという場合と、聞く者の方がそれを求めてしまうという場合との両方があるのです。神の言葉が本当に聞かれていくためには、語る者にも、聞く者にも、それぞれ心しておかなければならないことがあるのです。
神の言葉は何を語るか
 テサロニケの人々は、パウロたち伝道者の語る説教を、人の言葉としてではなく、神の言葉として聞き、受け入れました。その言葉を信じたのです。それはどのような言葉だったのでしょうか。彼らが信じた神の言葉の内容は、1章9節の後半から10節にかけてから知ることができます。パウロはここで、テサロニケの人々が彼らの伝道によって何を信じ、どのように生きるようになったかを語っているのです。「また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。テサロニケの人々は、人間の手で造られた虚しい偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになりました。それはこっちの神様からあっちの神様に乗り換えたということではありません。生けるまことの神に仕えるとは、その神が遣わして下さった独り子イエス・キリストを信じる者となることです。その御子が天から来られるのを待ち望むようになったとあります。それは、この御子イエス・キリストのご支配の完成を待ち望むことであり、それによって神様の救いが完成することを待ち望むことです。御子イエス・キリストは、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りから私たちを救って下さる方であると語られています。「来るべき怒り」、それは私たちの罪に対する神様の怒りです。神の言葉は、私たちが、神様の怒りの下にある罪人なのだと告げているのです。しかしそれと同時に、神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、恵みの下に置いて下さったことをも告げています。神様はその恵みの力によって死の支配をも打ち破り、主イエスを死者の中から復活させて下さったのです。パウロが宣べ伝えた神の言葉とは、この御子イエス・キリストの十字架と復活を告げる言葉でした。テサロニケの人々はこのことを聞き、それを神の言葉として信じ、受け入れ、主イエス・キリストに従う者となったのです。そのように信じた彼らの中で、神の言葉は「現に働いている」と13節の終わりにあります。神の言葉は、それを信じた者の中で、力をもって働くのです。それは言い換えれば、救い主イエス・キリストが、信じる者たちの内に生きて働いて下さるということです。神の言葉を聞いて信じることによって、私たちは、主イエス・キリストに結び合わされ、主イエスとの交わりに生きる者となるのです。
苦しみと希望
 主イエスと結び合わされ、交わりに生きる者はどのように歩むのか、そのことが14節以下に語られています。14節前半には、「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました」とあります。テサロニケの教会の人々は、主イエスと結び合わされることによって、ユダヤの諸教会、つまり彼らの先輩教会の人々に倣う者となったのです。それはユダヤの諸教会の人々の生活の様子を真似するようになったということではありません。生活の諸習慣は、国や地域や民族が違えば、いろいろに違っているのです。ギリシャの大都市であるテサロニケの人々と、ユダヤの人々とでは、ずい分違いも大きかったでしょう。けれども神の言葉が彼らの内に働いて、主イエスと結び合わされた彼らは、一つの共通項を持つことになるのです。その共通項とは、14節の後半「彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」、ということです。同胞から苦しみを受ける、それが彼らの共通項なのです。神の言葉を聞き、それが私たちの内で力をもって働いて、主イエス・キリストに結び合わされて生きるようになる時に、私たちは、信仰のゆえに、同胞から苦しみを受ける者となるのです。本来共に生きる仲間であるはずの人から、苦しめられることが起るのです。その同胞とは、文字通り同国人であるかもしれません。同じ地域に住む人かもしれません。あるいはそれは家族かもしれません。あるいはさらに言えば、同じ教会に連なる者どうしの間で、苦しめたり苦しめられたりしてしまうことだって起こり得るのです。とにかく、主イエス・キリストに結び合わされ、主イエスと共に生きる者となることによって、私たちは、苦しみを負う者となるのです。なぜなら私たちが結び合わされる主イエス・キリストは、私たちのために苦しみを受け、それによって私たちの救い主となって下さった方だからです。神の言葉を聞いて信仰者になれば、もう苦しまなくてすむようになるのではありません。信仰者になっても、苦しみはなお続くのです。さらに、信仰者になったことによって負わなければならなくなる苦しみだってあるのです。けれども、それらの苦しみにおいて、一つだけ、以前とは違うことがあります。それは、私たちは、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエス・キリストと結び合わされて、主イエスと共にその苦しみを負うのだということです。そしてそこにおいては、父なる神様が主イエスを死者の中から復活させて下さったということが、大きな意味を持つのです。なぜならば主イエスの復活は、神様の恵みが、私たちの負っている苦しみを既に打ち破り、勝利している、ということを示しているからです。主イエスと結び合わされて苦しむ私たちは、主イエスと結び合わされて、その復活にもあずかる希望を与えられているのです。神の言葉を聞いて信仰者になれば、もう苦しまなくてすむようになるのではありません。しかし信仰者は、神の言葉を聞くことによって、苦しみの中でも希望を与えられているのです。主イエスの復活を根拠とする希望です。その主イエスが天からもう一度来られ、全ての者を審いて下さることを待ち望む希望です。パウロはここの最後の16節で、自分たちを苦しめ、伝道を妨害しているユダヤ人たちについて、「神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」と言っています。「余すところなく」は直訳すれば「終わりまで」です。それはこの世の終わりにおける神様の審きを意識していると言えるでしょう。最後の審判において、神の怒りが彼らの上に臨むのです。なんだか恐ろしいことを言っているようにも思えますが、大事なことは、パウロが自分たちを苦しめる者たちへの裁きを、神様の、終わりの日の審きに委ねているということです。彼らのような罪人は天に代って自分がやっつけてやる、とは言っていないのです。自分を苦しめる者への審きは、神が、終わりの日にして下さる、だから、今はただその苦しみを、主イエスが受けて下さった苦しみを覚えて忍耐しつつ歩み、御子が天から来られるのを待ち望みつつ生きるのです。その御子は、十字架の苦しみと死とによって、来るべき怒りから私たちを救って下さる方であり、私たちに約束されている、死に対する勝利、復活の命の先駈けなのです。
説教と聖餐
 これから聖餐にあずかります。聖餐は、主イエス・キリストが、私たちのために、十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪を赦して下さった、その贖いの恵みを覚える感謝の食卓であると同時に、復活して天に昇られた主イエスがそこからもう一度来て、私たちの救いを完成して下さる、そのことを待ち望みつつあずかる希望の食卓です。説教において語られる神の言葉が、この聖餐において、見える形で、味わうことができる仕方で、私たちに与えられるのです。説教において神の言葉を聞く私たちは、聖餐において同じみ言葉を味わいつつ、主イエス・キリストと結び合わされて、忍耐と希望に生きるのです。

関連記事

TOP