主日礼拝

種は成長する

「種は成長する」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第9章1―6節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章26―34節  
・ 讃美歌:12、141、356

神の国のたとえ
 本日はマルコによる福音書第4章26節以下をご一緒に読むのですが、ここには、主イエスがお語りになった二つのたとえ話が記されています。小見出しの表現で言えば、「成長する種」のたとえと、「からし種」のたとえです。そしてこれらが、4章の始めから語られてきた一連のたとえ話のしめくくりとなっています。前にも申しましたように、これらのたとえ話は一度に語られたのではなくて、主イエスの伝道の歩みの中で折々に語られたものがここに集められているのだと思われます。主イエスはこのようなたとえ話を用いて人々に教えを語られたのです。主イエスの語られた教えは、守るべき戒律や宗教的な教訓話ではありませんでした。主イエスは「神の国」を告げ広めておられたのです。神の国とは、神様のご支配ということです。神様の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神様のご支配が実現しようとしている、その神の国のことを主イエスはたとえ話によってお語りになったのです。本日の箇所の二つのたとえ話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」のたとえは「神の国は次のようなものである」と語り始められていますし、「からし種」のたとえも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっています。私たちがこれらのたとえ話から読み取るべきことは、倫理道徳の教えや信仰的人生訓ではなくて、主イエスにおいて実現している神の国のことなのです。

神の国は既に始まっている
 「神の国はこのようなものである、このようにたとえられる」というこれらの話ですが、そこに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」というような話ではありません。神の国ってどんな所だろうか、という興味でこれらのたとえ話を読んでも、肩すかしをくわされる感じでしょう。私たちは「神の国」を、死んだら行くであろう「天国」と重ね合わせて理解してしまうことがあるかもしれません。死んだ後行く天国とはどんなところだろうか、それを知ろうとしてこの話を読んでも、満足な答えは得られないのです。それは、主イエスはそういうことを語ってはおられないからです。主イエスは「神の国」を、そういう素晴らしい所があるから、あなたがたもそこへ行けるように頑張りなさいとか、まして、死んだらそこへ行くことができる、などと語ってはおられません。主イエスが語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということです。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいと言うのではなくて、あなたがたが生きているその現実、あなたがたのその人生そのものにおいて、神の国、つまり神様のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配して下さる、その神様のご支配が既に始まっているのだ、と語っておられるのです。主イエスはそういう神の国の福音を宣べ伝えておられたのです。

神の国の秘密
 しかしその神の国、神様のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神様の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。それゆえに、4章11節には「神の国の秘密」という言い方がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、目に見える現実に逆らって信じて生きることが、聖書の教える信仰です。隠されている神の国は説明によって理解して分かるようになるものではありません。主イエスがお語りになったたとえ話は、分かりやすい説明のための話ではなくて、隠されている神の国を垣間見させ、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を信じて生きる信仰へと私たちを招くための話なのです。

神の国は成長している
 「成長する種」のたとえによって主イエスが語っておられるのは、神の国は隠されており、目に見えないけれども、確実に前進し、成長している、ということです。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。このたとえに語られているのは、蒔かれた種が芽を出し、成長していき、実が実る、そのことはひとりでに起るのであって、種を蒔いた人はどうしてそうなるのかを知らない、ということです。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は「夜昼、寝起きしているうちに」進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、その作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、またその力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。この「ひとりでに」というのは原文においては「アウトマテー」という言葉です。「オートマチック」という言葉の元になったものです。人間が操作しなくても機械が自動的にしてくれるのをオートマチックと言うわけですが、しかし考えてみれば、そのように機械をプログラムしたのは人間であるわけです。作物が「ひとりでに」実を結ぶのもそれと同じで、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるのです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、その力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。

収穫の時を待ち望みつつ
 このことは、先週読みました「ともし火」のたとえにおいて語られていたことと通じるものです。ともし火は升の下や寝台の下に置くためのものではない、燭台の上に置くものだ、というあのたとえは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉と結び合わされて、今は隠されているともし火が、将来必ずあらわになり、全ての人を照らすようになる、という約束を語っていました。そのともし火が、神の国、神様のご支配です。今は隠されている神の国が、神様ご自身の働きによって、いつか必ずあらわになるのです。そのことが、本日の「成長する種」のたとえにおいては、種はひとりでに育って行ってついに収穫の時が来る、ということによって言い表されているのです。神様はそのように神の国を育て、完成して下さる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらのたとえ話は教えているのです。

からし種のたとえ
 「からし種」のたとえも同じことを語っています。このたとえ話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さいからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。粉粒のようなからし種が、五メートルぐらいにまで成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」のたとえです。神の国、神様のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。主イエスを信じたクリスチャンですら、ともすれば疑いに陥ります。神様のご支配は疑い始めればきりがないのです。そんなもの教会が作り出したありもしない幻想だ、ないから見えないのであって、それをあるように見せかけるために「隠されている」と言っているだけだ、と多くの人が思っており、そう言われれば、一旦は信じてクリスチャンになった者も、やっぱりそうかもと思ってしまう、それが私たちの置かれているこの世の現実です。そこでは神の国を告げる福音はまさにからし種の一粒のようにちっぽけな、吹けば飛ぶようなものなのです。しかしそのからし種一粒のような神の国が、成長してどんな野菜よりも大きくなり、鳥がその葉陰に巣を作るようになる、それはただ大きくなるというだけでなく、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となる、ということでもあるでしょう。今は目にも止まらないようなちっぽけな種である神の国が、最終的にはそのような素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこのたとえによって語っておられるのです。

私たちを巻き込んで
 このように、主イエスがこれらのたとえ話によって描き出しておられる神の国は、どこかにあるものではないし、そこへ行くにはどうしたらよいか、というようなものでもありません。それは私たちのただ中に、隠された仕方で既にあり、そして神様のみ力によって成長しつつあるのです。成長しつつあるということは、実りの時へと向かっている、ということです。4章の初めのあの「種を蒔く人」のたとえにおいて示されていたように、神の国の種は、この世の様々な力によって成長を妨げられ、なかなか実を結ばないという現実がありますが、しかし最終的には必ず三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。神の国はそのような豊かな実り、収穫へと向かって前進しているのです。神の国は、私たちの外のどこかに、静止した状態であるのではありません。私たちを巻き込んで動いている、前へと進んでいるのです。私たちの日々の生活は、人生は、神の国のこの隠された前進の中に置かれているのです。主イエスのたとえ話は、神の国とはこんなところだと説明する、神の国についての案内のパンフレットのようなものではありません。たとえ話は、私たちを、前進している神の国という列車に乗り込ませ、その列車の目的地である豊かな実りへの旅に参加させようとしているのです。もっとはっきり言うならば、「あなたがたが知っていようといまいと、神の国の列車はあなたがたを乗せて既に走り始めているのだ。信仰の耳を開いて、この列車の走る音を聞きなさい。信仰の目を開いて、流れ行く窓の外の景色を見なさい。そしてこの列車が向かおうとしている豊かな収穫を待ち望みなさい」と主イエスは語りかけておられるのです。神の国のたとえ話を理解するというのは、主イエスからこの語りかけを聞くということです。そして、神の国の完成を望み見つつこの世を歩む旅人となることです。信仰者となるとはそういうことです。信仰者は、この世では旅人であり仮住まいの者である、と聖書は語っています。信仰者は神の国を目指して、地上を生涯旅していくのです。しかしそれは神の国という目的地がどこかにあって、私たちが努力してそこにたどりつく、ということではなくて、主イエスにおいて既に実現している神の国が、私たちを巻き込んで、完成へと向かって前進しているのです。私たちは主イエスと結び合わされて生きることによって、この神の国の前進を体験していくのです。

聞く力、聞く耳
 33、34節には、一連のたとえ話のしめくくりとして、主イエスが多くのたとえで御言葉を語られたこと、しかし弟子たちにはひそかにすべてを説明されたことが語られています。つまりここには、主イエスが、群衆にはたとえを用いて教え、弟子たちにはその意味を説明するというある区別をつけておられたことが語られているのです。それと同じことは11節にも語られていました。そこには、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とありました。「あなたがた」とは弟子たちであり、彼らには神の国の秘密が打ち明けられている、しかし外の人々にはたとえしか語られないのです。どうしてこんな区別が、あるいは取りようによっては差別がなされているのでしょうか。33節には「人々の聞く力に応じて」たとえで語られたとあります。その「聞く力」とは何でしょうか。この「聞く力」を人間の理解力と考えてしまうとおかしなことになります。主イエスは弟子たちにたとえの意味をすべて説明されたわけで、ということは弟子たちは理解力がなかった、聞く力がなかったから説明が必要だった、それに対して群衆は理解力があり、聞く力があったからたとえだけでよかった、ということになってしまうのです。この「聞く力」は理解力ではありません。では何を意味しているのか。それは9節と23節にあった「聞く耳のある者は聞きなさい」というお言葉における「聞く耳」を持っているということだと思います。「聞く耳」とは、「聞こうとする耳」つまり主イエス・キリストに聞き従おうという姿勢でみ言葉を聞く耳です。「聞く力」というのは、理解力ではなくて、み言葉に聞き従おうとする姿勢なのです。主イエスは人々のその姿勢に応じてお語りになったのです。これは、先週読んだ24節に、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」ると語られていたのと同じことでもあります。先週申しましたようにこれは、み言葉を聞く時に、それをどんな秤で量っているかによって、与えられるものが違ってくる、ということでした。自分の考えや願いを基準にして神様のみ言葉を量り、これは価値があるとかないとか、これは役に立つとか立たないとか言っているのでは、つまり自分がみ言葉の上に立って裁き、それを判定するような姿勢で聞いているならば、み言葉の恵みを十分に受けることはできないのです。それは小さな計量カップでみ言葉の恵みを量り取っているようなものです。そうではなくて、自分の思いや考えをみ言葉によって打ち砕かれ、変えられていくことを受け入れ、そのみ言葉に聞き従っていこうとする思いで聞く時には、私たちはみ言葉の恵みを大きな升で豊かに汲み取ることができるのです。聞く力に応じてというのは、このみ言葉を聞く姿勢、恵みを汲み取る升の大きさに応じてということでしょう。群衆たちは、自分の思いや願いを叶えてもらおうとして主イエスのもとに来て、み言葉を聞いたのです。自分の願い求めを基準にして、み言葉を量っていたのです。その自分の秤で量って、これは役に立たないと思ったら彼らは去っていくのです。そのように、自分の願いを叶えるのに役立つ限りにおいてみ言葉を聞こうとしている者には、たとえのみが語られます。つまり彼らには神の国はいつまでたっても隠された秘密のままなのです。それは主イエスが意地悪をしているのではなくて、彼らの思いが、神の国、神様のご支配を受け入れようとせずに閉ざされているからなのです。  それに対して弟子たちは、主イエスに聞き従おうという思いをもって共に歩んでいる者たちです。群衆が「外の人々」と呼ばれるのに対して、彼らは内にいる人々です。勿論彼らにもいろいろな欠けがあり、罪があり、主イエスに従っていくことにおける弱さがあります。人間的な能力や、善良さ、清さ、誠実さにおいては、彼らと群衆の間に何の違いもないと言えるでしょう。つまり彼らは特別に立派な人や優れた人では全くなかったのです。しかしただ一つ、彼らは、主イエスに聞き従おうとして、主イエスの傍らにいたのです。その一点において、彼らは聞く耳を持っており、聞く力を持っていたのです。主イエスはその弟子たちには、ひそかにすべてを説明されました。それは、単にたとえ話の意味を説明した、ということではなかったでしょう。主イエスにおいて神の国、神様のご支配が既に到来していること、それが今は隠されているけれども着実に前進していること、そして神様がそれをいつか必ず完成し、豊かな実を実らせて下さり、その収穫が行われること、それらのことを主イエスは弟子たちに説き明かして下さったのです。主イエスに従っていったことによって、そのようなみ言葉の説き明かしを与えられた、そこに、たとえのみを聞いた群衆との違いがあるのです。

神の国の前進
 そのようにみ言葉の説き明かしを聞いていた弟子たちでしたが、神の国の秘密が本当に分かっていたわけではありません。主イエスが捕えられ、十字架につけられた時、彼らは誰一人として、最後まで従っていくことはできませんでした。皆主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。つまり神の国を告げるみ言葉の種は、彼らの心にしっかりと根付いてはいなかったのです。鳥が来て食べてしまったり、いろいろなものに妨げられて伸びずに枯れてしまうような状態だったのです。しかし主イエスは、そのような彼らをご自分の弟子としてお側に置き、み言葉を語り続けて下さいました。み言葉の種を蒔き続け、彼らの心を耕し続けて下さったのです。そして主イエスは、彼らの、そして私たちの、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。その時弟子たちは皆逃げ去ってしまい、主イエスに従う信仰の歩みにおいて決定的に失敗し、挫折しましたけれども、父なる神様の力によって復活なさった主イエスが、彼らをもう一度みもとに召して下さり、彼らの全ての罪を赦して新しく生かして下さったのです。神の国、神様のご支配は、このようにして、主イエスの十字架の死と復活を通して、つまり人間の力や思いをはるかに超えた神様の力によって、まさに万軍の主の熱意によって前進し、実現していったのです。弟子たちは、この神の国の前進に巻き込まれ、その中で、自らの罪と弱さとそれによる挫折を思い知らされると同時に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みをも豊かに味わい、体験させられていったのです。そのようにして彼らは、神の国、神様のご支配を本当に知り、信じる者となりました。主イエスによって到来した神の国、神様のご支配は今は隠されており、からし種一粒のようなちっぽけなものだけれども、それは必ず成長し、前進し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのだということを本当に信じる者となり、そして主イエスに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていったのです。  神の国は今、私たちをも巻き込んで前進しています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、自分を乗せて既に走り始めていることを信仰の目を開いて見つめ、目的地である豊かな収穫を待ち望みながら、旅人としての歩みを続けていきたいのです。その旅路において私たちは、主が私たちをも神の国の前進のために用いて下さる、その恵みをもまた体験させられていくのです。

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