主日礼拝

聖霊の証し

「聖霊の証し」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第2編1-12節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章12-17節
・ 讃美歌:1、353、475

神の子とされた群れ
 9月11日の指路教会創立142周年を記念する礼拝において、本日と同じローマの信徒への手紙第8章12~17節を読みました。その時に注目したのは15節、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」というところです。信仰者、クリスチャンとは、神様の恵みによって神の霊を与えられた者であり、その霊の働きによって神の子とされた者です。神の子とされた者たちは、子供が父親に向かって「お父ちゃん」と親しく呼ぶように、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけつつ生きていくのです。教会の142年の歴史は、この神の霊、聖霊が与えられてきた歴史であり、この教会が神の子たちの群れとして、「アッバ、父よ」と呼びつつ歩んで来た足跡なのです。

神の子の義務、責任
 パウロはこの第8章で、聖霊を受けて神の子とされ、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ者とされた信仰者はどのように生きていくのかを見つめ、語っています。本日の箇所の冒頭の12節には、「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが」とあります。神の子とする霊を受けた信仰者は、一つの義務を果たしていくのだ、と言っているのです。「一つの」という言葉は原文にはありません。口語訳聖書ではここは「わたしたちは、果たすべき責任を負っている者であるが」と訳されていました。キリストの救いにあずかり、聖霊によって神の子とされた信仰者には、果たすべき責任があるのです。この「義務」とか「責任」と訳されている言葉は「負債」という意味でもあります。私たちには、返すべき負債、借金がある、という意味でもあるのです。それはイメージの良くない表現ですが、勿論それは借金で首が回らないということではなくて、私たちは神の大きな恵みに借りがある、ということです。神の独り子イエス・キリストによる救いを信じる信仰とは、キリストによって救われた自分は神に借りがあるということを認めて生きることなのです。

神への義理に生きる
 ある人はこのことを「義理がある」と言い表しました。この方が日本人の感覚にぴったり来る表現かもしれません。私たちは神に、主イエスに、義理があるのです。信仰とは、神への義理を感じて生きることなのです。パウロはコリントの信徒への手紙二の5章15節でこのように語っています。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。この一人の方とは言うまでもなく主イエス・キリストです。神の独り子である主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった。その死と復活による救いにあずかった私たちは、もはや自分自身のために生きるのでなく、救い主イエス・キリストのために生きる者となる。パウロがここで言っていることはまさに、神の子キリストへの義理を深く自覚して生きるということです。パウロは、神への義理に生きているのです。義理が廃ればこの世は闇です。それは神様と私たちの関係においても言えることなのです。
 義理というのは極めて日本人的な言葉であり、日本人のメンタリティーを形成してきた言葉だと言えます。そういう日本人的な感覚が、主イエス・キリストを信じる信仰において、否定されるのではなくむしろ生かされるのです。義理という言葉を国語辞典で引くと「自分の利害にかかわりなく、人として行なうべき道」とありました。こういう義理に生きることは、日本人の間においても今日失われてきています。自分の利害を優先し、自分の利益にならないことはしない、という感覚が当然になってきています。損失を被っても人として行なうべき道を歩むのだ、という気概のようなものが薄れてきています。義理が廃る世の中になっているのです。その中で、主イエス・キリストを信じる者は、義理に生きていくのです。私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストへの義理を大切にして、自分の利害にかかわりなく、主イエスの、そして父なる神の喜びたもう道を歩もうとするのです。「わたしたちには一つの義務がありますが」とパウロが言っているのはそういうことなのです。

肉に対する義務ではなく
 しかしパウロはこの義務について慎重な語り方をしています。それが12節の後半です。「それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。信仰者が果たすべき義務は肉に対する義務ではないのです。第8章の4節において彼は、「肉ではなく霊に従って歩むわたしたち」と言っていました。肉ではなく霊に従って歩む者となった信仰者が果たすべき義務は、肉に対するものではなく、霊に対するものなのです。このことは、信仰者が負っている義務が、道徳的、倫理的なものではないということを意味していると言えるでしょう。信仰者の義務とか、神に対して義理を果たすと言うと私たちはすぐに、信仰者はこういう生活をしなければならない、こういうことはしてはならない、という倫理的な掟のようなものを考えます。しかしそのような掟を守ることは肉に対する義務を果たすことでしかないのです。パウロは主イエス・キリストと出会う前はまさにそのような義務に生きていました。神の戒めである律法を厳格に守ることによって神への義務を果しているつもりだったのです。しかしそのことによって彼は神が遣わして下さった救い主である主イエスを否定し、主イエスを信じる者たちを迫害していたのです。つまりそれは神のみ心に全く反することだったのです。つまり私たちは、何に対して義務を果たしていくのかを慎重に見極めなければならないのです。13節に「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」とあります。肉に従って、肉に対する義務を果していく歩みは、死に至るものとなってしまうのです。神の霊の導きに従って、霊に対する義務を果していくところにこそ、命に至る道が開かれているのです。

霊に対する義務
 神の霊に導かれ、霊に対する義務を果していくとはどのようなことなのでしょうか。それが14、15節に語られているのです。14節には、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。それに続いて、冒頭に読んだあの15節が語られているのです。神が私たちの内に宿らせ、私たちを導いて下さる神の霊は、「神の子とする霊」です。神の霊に導かれることによって私たちは、神の子とされるのです。神の霊は「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではない、とも言われています。神の霊は、奴隷であり恐れの中にいる者を解放して自由な神の子とするのです。それはパウロ自身が体験したことでした。律法を守るという義務に生きていた時のパウロは、律法の奴隷でした。そこでは、自分では意識していなかったけれども、恐れに支配されていました。律法の奴隷であるとは、律法をきちんと守っている、という自分の正しさを追い求め、自分が正しく立派な者であるという誇りを拠り所として生きているということです。そのような歩みにはいつも恐れがつきまとっています。自分よりも正しい立派な人が現れたら、誇りが傷つけられ、拠り所がぐらついてしまうのです。ですから律法的な義務の奴隷となって生きているところでは、誇りと、その裏側にある恐れが私たちを支配しており、そこからは人への憎しみ、攻撃が生じていくのです。それが、教会を迫害していた時のパウロの姿でした。そのような歩みには喜びと平和はありません。しかし神の霊の導きによって主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神の子とされる時、私たちは神が自分を無条件で愛して下さっていることを知らされ、その愛の中で、神を信頼して「アッバ、父よ」と呼んで生きる者とされるのです。その時私たちは、誇りとその裏返しである恐れから自由になって、キリストによる救いの恵みを喜び感謝しつつ、自由に、自発的に、神に従い仕えていくのです。私たちが神に対して義務を果たしていくのは、掟に縛られて、奴隷のように強制されてのことではなく、自由な神の子としてです。私たちを神の子として下さった神の霊の恵みの中で、自分の利害にかかわりなく、神に従い仕えていく、それが、肉に対する義務ではなく、霊に対する義務を果たす私たちの信仰なのです。

神の霊の証し
 神の霊が私たちの内に宿って下さり、与えて下さる恵みをパウロはさらに16節でこのように語っています。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。神の霊は私たちを神の子として下さるだけではなくて、そのことを証しして下さるのです。証しするとは、証言する、証明する、ということです。私たちが本当に神の子とされているのだということを、神の霊が証言して下さり、そのことの証人となって下さるのです。これはとても大きな恵みです。私たちは、自分が神の子とされていることを自分で確認し、確信することは出来ないのです。私たちが自分自身を、自分の心の中を、自分の言葉や行ないを見つめていって、自分は神の子とされている、神に「アッバ、父よ」と呼びかけることが出来る者となっている、と確信することが出来るでしょうか。そこに見えてくるのはむしろ、肉に従って、肉の思いに生きている自分であり、神の子となっているどころか、神に敵対して生きている自分でしかないのです。だから私たちは自分で自分は神の子だ、などと言うことは出来ません。しかし私たちの内に宿って下さっている神の霊が、あなたは神の子である、と証しして下さるのです。つまり神ご自身が私たちにそのように宣言して下さるのです。その神の宣言を私たちは、毎週の礼拝において、聖書の言葉とその説き明かしである説教において与えられています。また、私たちが洗礼を受け、本日も行なわれる聖餐にあずかる時に、そこに神の霊が働いて下さって、目に見えるしるしによって、私たちが神の子とされていることを証しし、宣言して下さるのです。そして私たちが主の日の礼拝において神との交わりを与えられているなら、日々の生活の中でも、いつでも、どこにいても、神の霊、聖霊が、「お前は神に愛されている神の子なのだ」と告げて下さることによって私たちを慰め、励まし、導いていって下さるのです。神の霊のそのような証しによってこそ、私たちは、自分の罪や弱さを日々思い知らされつつも、神の子として生きていくことができます。神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、神の愛に信頼して、平安の内に歩むことができるのです。言い換えれば私たちは、神の霊によるこの証し、証言を常にいただいていなければ、一日たりとも、神の子として生きることはできないのです。10節に「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となっています」と言われていたのはそれと同じことです。「体は罪によって死んでいる」というのが、私たちの実感であり、自分を見つめる時に見えて来る現実です。しかし私たちの内に神の霊が宿って下さることによって、私たちはキリストの十字架の死による罪の赦しとその復活による新しい命にあずかり、キリストと共に神の子として生きることができるのです。「〝霊〟は義によって命となっています」というのは、そのような神の霊の働きによって私たちが生かされることを語っているのです。

神の霊と私たちの霊
 ところでこの16節には、神の霊が、私たちが神の子であることを「わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」、と語られています。「一緒になって証しする」とはどういうことなのでしょうか。神の霊と私たちの霊、つまり私たちの心が、共同の証人となる、ということでしょうか。しかし私たちの霊にそんなことはできるのでしょうか。ここの翻訳については議論があります。「一緒になって証しする」という言葉は「証しする」という言葉の頭に「一緒に」という言葉がくっつけられて一つの単語となっているのですが、学者によってはこの言葉からは「一緒に」という意味はもう失われていて、「証しする」という意味が強調されているだけだ、と言っています。そうするとここは「神の霊が私たちの霊に、私たちが神の子であることを証しして下さる」という意味になります。私たちの霊は共に証しをするのではなくて、神の霊の証しを受ける側になるのです。そのように考えればここの意味はすっきりします。しかし、そのようにすっきりさせてしまってよいのだろうか、という思いもあります。「私たちの霊と一緒になって」という訳も、捨て難い大事なことを示しているように思うのです。つまり、私たちは、自分が神の子であることを神の霊によって証しされるだけではなくて、私たち自身の心もそのことを共に証しする、そういう確信を与えられる、ということが大事なのではないだろうか、ということです。私たちは、先ほど申しましたように、自分自身を見つめることによっては、神の子であるという確信を持つことはできません。私たちの霊は決して神の霊と肩を並べて証しをすることなどできないのです。しかし、神の霊、聖霊が証しして下さることによって、私たちの霊も、自分が神の子とされているという確信を与えられ、その喜びと平安の内に歩むことができるようになるのです。だからこそ私たちも神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのです。

神の相続人
 神の霊によって神の子とされる、その恵みをパウロはさらに17節でこのように語っています。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。神の子とされるとは、神の相続人とされることだ、と言っています。それは勿論、神が死んだらその遺産を私たちが受け継ぐ、という話ではありません。そういう意味では「相続」という例えは適切ではありません。しかしこの例えは、他人には決して与えられないものが子供には与えられる、という意味では適切です。遺産は、たとえその財産を管理したり増やしたりするのにどんなに功績があったとしても、雇い人や召し使いには与えられないのです。逆に、たとえどんなにグウタラな者でも、子供であれば無条件で与えられるのです。相続というのは、子供であるか否かの違いが決定的に現れる場です。私たちは、神の霊によって神の子とされたことによって、子供にしか与えられない、雇い人や召し使いには決して与えられない特別な恵み、祝福を約束されているのです。

キリストの栄光を受ける
 「キリストと共にその栄光を受ける」のだと言われています。神の子とされることによって私たちに約束されている祝福は、神の独り子キリストの栄光を私たちも受けるということです。私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さったキリストは、復活して天に昇り、今は父なる神の右に坐しておられます。天における父なる神の王座の傍らに、父なる神のご支配を司る者としての栄光をもってキリストが坐しておられるのです。そのキリストの天における栄光を預言していたのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第2編です。その7節から8節にかけて、こういう主の言葉が語られています。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」。そしてその後の所では、地上の全ての王たちに対して、この神の子の前にひれ伏し従うことが求められているのです。この預言が、主イエス・キリストの復活と昇天において成就しました。主イエスは今や父なる神の右において、神の子としての栄光の座に着いておられるのです。神の霊によって主イエスを信じる者とされ、神の子とされた私たちも、この主イエスの神の子としての栄光にあずかることが約束されているのです。それが、キリストと共同の相続人とされている、ということの意味なのです。

キリストと共に苦しむことを通して
 しかしこの栄光は、今、この地上の人生において私たちに与えられるのではありません。私たちがキリストと共にこの世の支配者としての栄光を得る、という話ではないのです。キリストご自身のご支配、栄光は今、私たちの目には隠されています。キリストが天において父の右の座に着いておられることを私たちはこの目で見ることは出来ないのです。それは信じるしかないことです。そのように主イエスご自身の栄光が隠されている間は、私たちに与えられる栄光もまた隠されています。それは約束として与えられているのであって、今私たちの目に見える現実ではありません。しかしその栄光はいつまでも隠されたままではないのです。使徒信条は主イエス・キリストが「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と語り、さらに「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と語っています。天に昇られた主イエスはもう一度この世に来られるのです。その時には、主イエスの栄光が全ての者に対して明らかになり、そのご支配が完成するのです。それによって今のこの世は終り、神の国が完成するのです。私たちがキリストと共に栄光を受けるのはその時です。世の終わりに主イエスがもう一度来られる時、私たちも復活と永遠の命を与えられ、主イエスの神の子としての栄光に共にあずかる、神の子とされた私たちはそういう希望を与えられているのです。神の霊によって神の子とされて生きる私たちの歩みは、この希望における歩みです。それはこの世の歩みの中で実現する希望ではないがゆえに、この世のどんな苦しみ悲しみによっても失われることのない希望です。神の子とする霊を受けて、自分が神の子とされていることを信じて生きる私たちの歩みにも、様々な苦しみがあります。悲しみの中で希望を失ってしまいそうになることがあります。しかしキリストと共に神の子とされている私たちはその苦しみ悲しみを、17節に語られているように「キリストと共に苦しむ」のです。主イエス・キリストも、捕えられ、十字架につけられることを目前にした苦しみの中で、「アッバ、父よ」と神に祈り、十字架への道を歩み通されました。私たちも、このキリストと共に、苦しみの中で「アッバ、父よ」と祈りつつこの世を歩むのです。それが、神の子とされた者としてこの世を生きる私たちの信仰の生活です。そのようにキリストと共に苦しむことによって、キリストが十字架の苦しみと死を経た復活と昇天によって受けて下さった栄光に、私たちも共にあずかっていくのです。

洗礼と聖餐
 これから聖餐にあずかります。聖霊なる神がこの聖餐において働いて下さり、私たちを神の独り子イエス・キリストの体と血とにあずからせて下さり、洗礼を受けたあなたがたはキリストと共に神の子とされているのだと、目に見える印によって証しして下さいます。私たちはこの聖餐にあずかり、主イエスと共に神の子とされていることを確信し、苦しみや悲しみの中でも「アッバ、父よ」と祈ることができる幸いの中を、キリストの栄光にあずかる希望をもって生きていくのです。まだ洗礼を受けておられない方々にも、聖霊はみ言葉によって証しをして下さっています。その証しを信じて、自分が神の子とされているという驚くべき恵みを受け入れるなら、あなたも洗礼へと、そして聖餐に共にあずかる神の子の群れである教会の交わりへと招かれているのです。

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