夕礼拝

神の約束

「神の約束」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:創世記 第17章1-27節
・ 新約聖書:使徒言行録 第6章8節-第7章16節
・ 讃美歌:16、22

 使徒言行録の6章と7章は、ステファノという人が中心人物です。ステファノは主イエスが旧約聖書に預言された救い主であるということ、そしてステファノ自身の罪もその方によって赦され、救われたということを信じ、教会のメンバーとなりました。
 彼は、信仰と聖霊に満ちていて、人々からの評判がとても良い人でした。教会で問題が起きた時には、使徒たちがしてきた仕事を担うための7人に選ばれました。彼が任された仕事は、貧しい人々ややもめに、みなが献げたものを分配するという奉仕です。この7人の選出は、使徒たちが神の言葉と祈りに集中し、教会の人々がますます礼拝を大切にし、キリストによって心を一つにするために立てられた働きです。

 そして、今日の聖書箇所を読んでみますと、ステファノはそのような奉仕のみならず、恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた、とあります。不思議な業やしるしとは、これまで使徒たちが行っていたような、病を癒したり、悪霊を追い出したりすることです。
 この不思議な業やしるし、というのは、単にステファノが超人的な力を得て、片っ端から多くの人を癒して助けた、という話ではありません。不思議な業やしるしは、聖霊によって力を与えられて、主イエスの救いの出来事を証しするために行われたものでした。
 つまり、ステファノは、聖霊に満たされて、民衆の間で、主イエスのことを宣べ伝えていた、ということです。
 教会に連なる人々はみな、主イエスを証しする者とされます。わたしたちもまた、教会で様々な種類の違う奉仕を、それぞれの賜物に応じて行っていますけれども、そのことによって教会のすべての人々が一つとなって、神の言葉に集中し、聖霊によって力を得て、それぞれが更に、主イエスの福音を宣べ伝える者とされていくのです。

 このように、恵みと力に満ちて伝道していたステファノは、キリスト教会で最初の殉教者となりました。
 ステファノが、最高法院という裁判の場に立たされて、人生の最後に語った説教が7章からはじまります。この説教はとても長いので、今回はステファノが裁判にかけられた経過と、語った説教の前半までにして、二週にわたって、全体を読んでいきたいと思います。

 さて、ステファノは、どうして最高法院という裁判の場に引き出されたのでしょうか。
 それは、6:9にあるように「ところが、キレネとアレクサンドリア出身で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した」ということがきっかけです。
 この人々はみな、ギリシャ語を話すユダヤ人たちです。

 エルサレムには、ずっと国内に住んでいる「ヘブライ語を話すユダヤ人」と、国外で生活していて、エルサレムに帰ってきた「ギリシャ語を話すユダヤ人」がいました。
 ずっとエルサレム近くに住んでいる、ヘブライ語を話すユダヤ人は、律法を重んじ、また生活の中心に、神殿という建物がありましたから、当然それらを大切にしていました。
 神に与えられた律法を守ることと、神を礼拝する神殿は、ユダヤ人にとって、自分たちが神の民であることを保証する大切なものだったのです。
 一方で、国外で生活をしていたギリシャ語を話すユダヤ人は、普段の生活には身近に神殿もないし、様々な他国の文化の影響を受けて、宗教的に緩やかで自由になっていたと言います。
 しかしそのような中でも、国外からわざわざエルサレムに戻ってきて、お祭りに参加したり、神殿に参ったりするような、非常に熱心なギリシャ語を話すユダヤ人もいました。普段は国外にいるからこそ、却って神の民としてのアイデンティティを守るために律法や神殿に固執したのかも知れません。
 
 この人々が、ステファノと議論をしたのです。ステファノもおそらく、その名前がギリシャ風なことから、ギリシャ語を話すユダヤ人だったと考えられています。そのステファノが力強く伝道していくので、ギリシャ語を話す彼らの仲間のユダヤ人から、主イエスを信じてキリスト者になった人々がたくさん出たのでしょう。それは彼らにとってはとても妬ましいことでした。またステファノが語ることは、彼らには受け入れ難いものでした。
 しかし議論を吹っかけてみても、ステファノが知恵と霊によって語るので、歯が立たなかった、とあります。聖霊なる神様がステファノを支え、導き、言葉を語らせたからです。

 議論では勝てないと分かった彼らは、民衆を唆し、扇動して、また長老たちや律法学者たちも巻き込んで、ステファノを襲って捕え、最高法院に引き立てていきました。しかも、ステファノの立場を不利にするために偽証人を立てたのです。

 これまでには、使徒たちが、国内のユダヤ人の権力者たちに捕えられるということがありました。しかし民衆は、キリストを信じる教会の人々に対して好意を持ち、称賛していたので、権力者たちも民衆の顔色を伺わなければなりませんでした。
 でもここで、ステファノは、彼と同じギリシャ語を話すユダヤ人によって捕えられ、しかもこれまで教会に好意的だった民衆は、煽られて、一緒になってステファノを襲いました。
 ここでキリスト教に対する批判的な態度が、エルサレム全体を支配したのです。

 ステファノを法廷に引き出すことに成功した、ギリシャ語を話すユダヤ人たちのグループは、どういう理由で訴えたのでしょうか。
 それは6:11にあるように、ステファノがモーセと神を冒涜する言葉を言ったということです。具体的には13節で偽証人に言わせたように、「聖なる場所と律法をけなして、『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう』と言っている」ということです。

 ここで訴えていることは「聖なる場所」つまり神殿と、「律法」についてです。
 聖なる場所、エルサレムの神殿をけなすことは、そこは神を礼拝する場所ですから、神を冒涜することになります。また、律法をけなすことは、モーセが我々に伝えた慣習、つまり律法に定められた儀式などを重んじないことであり、それはモーセを冒涜したことになります。
 
 しかし、ステファノは、神殿や律法をけなしていたのではありません。
 ステファノが語っていたこと、教会が教えていたことは、神が遣わして下さったナザレの人イエスを救い主であると信じることで、神の国に入れられるのだということ。イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民となり、救われるのだ、ということです。
 つまり、神の国を受け継ぐ神の民となるのは、神殿での祭儀や、律法を守ることによってではない、ということなのです。
 ですから、主イエスを信じた人たち、もちろん今のわたしたちもですが、キリスト者は教会に属する自分たちのことを、「新しい神の民」と言ったり、「新しいイスラエル」と言うのです。

 しかしこのことは、神殿と律法を重視していた者たちの目には、自分たちが大切にしている神の民の保証であるものを、軽んじて、けなしている、神やモーセを冒涜している、と映りました。すでにお話ししたように、ユダヤ人にとって神殿と律法は、神の民が神の民であることの大切な保証のようなものだからです。そこで偽証人を立ててまで、最高法院にステファノを引き出し、冒涜罪を訴えたのです。

 この訴えを聞いて、最高法院の席に着いていた人々は皆、ステファノに注目しました。
 誰しもが、この裁判の後のステファノがどうなるかを予想していたでしょう。恐らく、ステファノ自身もです。民衆、長老たち、律法学者たちがこぞって敵対しています。この裁判には、すでにステファノに死の影がよぎっていました。人々は、ステファノの恐怖に怯えてひきつる顔、死を前に動揺し、また絶望した顔を期待したかも知れません。

 しかし、驚くことに、ステファノの顔は「さながら天使の顔のように見えた」とあります。天使の顔とは、どんな顔でしょうか。西洋画に描かれたような、美しい姿の天使を思い浮かべるかも知れませんが、実際はどんな顔か分かりません。でもわたしたちは、よく赤ちゃんの顔を見て、「天使のようだね」と言うことがあります。それは、自分で何をすることもできない、まったく無力で小さな存在の赤ちゃんが、母親に抱かれて、安心しきった、無垢な顔です。絶対に自分を守ってくれる存在に抱かれた、平安に満ちた顔です。赤ちゃんには、少しの不安のかけらも、恐怖の予感もありません。ステファノは、そのような天使の顔をしていたのでしょう。それは不利な立場に立たされ、死を目前にしているにも関わらず、自分の無力さにも関わらず、ただ主イエスを信じ切って、その大きな救いの御腕の中に自分をまったく委ねた、安らぎに満ちた顔だったと思うのです。
 わたしたちは、果たして、そのような顔をしているでしょうか。

 さて、大祭司がステファノに、訴えのとおりかどうかと尋ねました。それに答えて、ステファノの説教が始まります。
 本来、訴えに対する答えは「弁明」であったり、自分の無罪を主張するようなものでしょう。しかし、ステファノは、ユダヤ人たちの最初の祖先であるアブラハムの話をし始めます。それは、ステファノをはじめ、最高法院にいる民衆、長老たち、律法学者たちにとって、共通の祖先です。神の民イスラエルの歴史は、アブラハムから始まります。
 しかしこのイスラエルの歴史など、ここにいる人たちはほとんどみなユダヤ人、イスラエルの民の子孫なのですから、旧約聖書もよく読んでいますし、当然よく知っていることです。それを改めてこんなに長々と、最初から丁寧に説明するのは、この場における律法と神殿の問題に関することと、またステファノの信仰の確信を語ろうとしているからです。

 ところで、わたしたちがここを読むときに、長い長いイスラエルの民の歴史や先祖の話は少し退屈に感じてしまうかも知れません。でもこれがもし、自分に関わる歴史や、自分の先祖の話だったらどうでしょうか。あなたのおじいさん、おばあさん、そのまたおじいさん、おばあさんが、そのもっと昔の先祖が、どんな人物で、どこでどんな生活をしていたか…そんな話なら、わたしたちはとても関心を持って耳を傾けるのではないでしょうか。
 そして実は、わたしたちはそのような関心を持って、自分の先祖の話として、このアブラハムから始まるイスラエルの歴史を聞くことができます。これからステファノが語るのは、イスラエルの歴史であると同時に、神の民の歴史であり、神の救いの歴史だからです。このアブラハムと約束をされた神が、救い主として主イエスをお遣わしになりました。そして、イスラエル民族でなくても、その主イエスを信じたわたしたちは、新しい神の民とされて、このアブラハムから始まった神の救いの歴史に連なっていくのです。

 さて、今日お読みするステファノの説教では、アブラハムとヨセフの話が出てきます。
 アブラハムは、信仰の父と呼ばれた人です。アブラハムの記事は少し創世記の記事と食い違うところがありますが、大切なのは、神に従ったアブラハムの信仰と、神の約束です。
 アブラハムは、まず神に召し出されました。2~3節に、「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった時、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。」とあります。そして、アブラハムはその神の言葉に従って旅立ちました。すべてを捨てて旅立つことは大きなリスクがあります。目に見える保証は何もありません。しかしただ、神に従ったのです。聖書には、そこでは財産が何も与えられなかった。一歩の幅の土地さえも与えられなかったと書かれています。アブラハムには、すぐには何も与えられませんでした。

 しかし、それでも神の言葉に従ったアブラハムに、神は約束をして下さいました。まだ子どもいないアブラハムに、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』という約束です。今は一歩の幅の土地も持たない。高齢なのに妻サラとの子どもは一人もいない。まるで夢物語のような約束です。しかも、その子孫が四百年の間奴隷にされること、しかし神が、その国から脱出させ、またこの地に連れ帰る、ということまで、神は語られます。子どもが一人もいないアブラハムに向かって、神は彼の子孫の話と、さらにエジプトへの移住、モーセによる出エジプト、そしてカナンの地に住まわせることを語られ、約束されたのです。
 目の前の現実からは想像もつかないことです。アブラハムは土地や財産、実の子どもなど、目に見える確かなものは何も持っていませんでした。しかし、アブラハムは神の約束を信じて歩んでいったのです。神の民は、このアブラハムの信仰の歩みに連なる者なのです。

 これは、この最高法院にいる、律法や神殿に固執する大祭司やユダヤ人たちに対する厳しい指摘です。神の民は、律法や神殿によって神の民なのではなくて、アブラハムのように何も持たなくとも、神を信じ、従う信仰によって神の民なのではなかったか、と問うているのです。

 神は、この信仰の人アブラハムと契約を結ばれました。それは本日お読みした創世記の箇所に詳しく書かれています。神は、その契約のしるしとして、割礼を定めて下さいました。割礼は、体に刻まれる契約のしるしです。見えるものは何も持っていなくとも、ただ神の約束を信じて従ったアブラハムに、神は約束のしるしを与えて下さったのです。

 そして、主イエスを、神から遣わされた救い主と信じ、従うことも、このアブラハムの信仰の歩みと同じなのです。
 主イエスの福音を聞いたステファノたち初代教会の人々、そして今現在のわたしたちは、主イエスが十字架と復活によって、わたしたちの罪を赦して下さったこと。主イエスの復活にあずかって、永遠の命が与えられ、終わりの日にはわたしたち自身も復活する、という、見えない事柄を、しかし確かな神の救いを、信じているのです。その神の約束を信頼し、希望として歩んでいるのです。
 それが信仰であり、神の民の歩みです。アブラハムと契約を結ばれた神は、御子である主イエスによって、わたしたちとそのような新しい契約を結んで下さいました。
 その新しい契約のしるしとして、かつてイスラエルの民に割礼というしるしが与えられたように、教会には主イエスご自身によって、洗礼という、目に見えるしるしが与えられています。それは、わたしたちの弱い信仰を強め、神から一方的に与えられた恵みをしっかりと受け取らせます。聖霊によって主イエスにわたしたちを結び付け、新しい命を与えます。洗礼は、主イエスの十字架と復活の救いを確かに信じ、主イエスに従って歩んでいくために与えられた、しるしなのです。

 話は戻って、ステファノは、神との約束のとおりにアブラハムからイサクが生まれ、ヤコブが生まれ、イスラエルの十二人の族長たちが生まれ、神の契約を受け継いで、みなが割礼を受けたことを述べます。
 そして、ヨセフの物語へと移っていきます。ヨセフは族長たちに妬まれて、エジプトへ売り飛ばされてしまいました。しかし、神はいつもヨセフと共におられ、あらゆる苦難から救い出されました。ヨセフはやがてエジプトの大臣にまでなります。エジプトとカナンに飢饉が起こった時に、このヨセフによってイスラエルの部族はエジプトへ移住することができ、生きながらえることが出来ました。
 こうして神が、ずっと神の民と共におられ、神の民を守り、導いておられるのです。神は御自分がアブラハムと結ばれた約束を守り、妬みや憎しみにまみれた罪深い民を、恵みによって導いて下さいました。

 この、わたしたちに忠実でいて下さる神の約束を信じ、救いの歴史を導かれる神を信頼し、信仰によって従っていくのが、神の民の歩みなのです。
 このアブラハムと契約を結ばれた神が、救い主として、御子である主イエスを世にお遣わしになりました。
 今やわたしたちは、イスラエルの血筋ではなくても、割礼を受けていなくても、神が救い主として与えて下さった主イエスを信じる信仰によって、洗礼を受け、新しい神の民となることが出来ます。そうなるようにと、神に招かれています。
 主イエスが、苦しまれ、血を流し、十字架の上で死んで下さったのは、わたしたちを罪と滅びから救うためです。神が救いの約束を果たして下さるためです。罪の赦しや永遠の命、終わりの日の復活などは、目には見えない事柄ですけれども、わたしたちは、片時も離れず、守り、導き、愛してくださる神に信頼し、そのことを確かな約束として信じるのです。
 わたしたちは、そのようにして、アブラハムの信仰の系譜に連なる、新しい神の民として、信仰の道を歩んでいくのです。

 これから聖餐にあずかります。洗礼と共に与えられた、目に見える恵みのしるしです。これは神の国の食卓の先取りです。今ここに、生きておられる主イエスご自身が、聖霊によってわたしたちと共におられます。十字架の上で肉を裂き、血を流されることで、わたしたちの罪を贖って下さったこと。そして新しい命を与えられ、養われていることを味わい知ります。そして、今は目に見えませんけれども、主が再び来られる日の、神の国の完成の約束を、このしるしによってますます確かにされ、信仰を強められて、歩んでいくことが出来るのです。

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