「死に勝利する者」牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨブ記第19章23-27節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章1-11節
・ 讃美歌:328、327、517
永遠の命への復活
今日私たちは、主イエス・キリストの復活を共に喜び祝うためにこの礼拝に集まりました。この礼拝において、ローマの信徒への手紙第6章1~11節をご一緒に読みたいと思います。最近の礼拝においてこの箇所から既に二回説教をしてきました。今日またこの箇所を読むのは、ここには、主イエス・キリストの復活によって実現した神の恵みが、またそれによって私たちに与えられている救いの喜びが生き生きと語られているからです。ここはイースターの礼拝において読まれるのにまことに相応しい箇所なのです。
主イエス・キリストの復活によって実現した神の恵みは、この箇所の9節にこのように語られています。「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死はもはやキリストを支配しません」。イースターに復活した主イエス・キリストは、もはや死ぬことのない、死に支配されない者となられたのです。これこそがイースターに実現した恵みです。つまり主イエスの復活は、ただ死んだ人が生き返ったというだけのことではないのです。死んだ人が生き返ったことを「ただそれだけのこと」などと言うのは相応しくないかもしれませんが、しかし聖書には、死んだけれども生き返った人のことが他にも何人か語られています。それらの人々は、一旦は生き返ったけれども最後は年をとってまた死んだのです。しかし主イエスの復活はそれとは違います。主イエスは、もはや死ぬことのない、死にもはや支配されない者となられたのです。つまり主イエスは今も生きておられるのです。私たちは今生きておられる主イエスをこの目で見ることはできませんが、それは復活してから四十日後に天に昇られたからです。主イエスは今は天において、父なる神の右の座に着いておられ、そこで永遠の命を生きておられるのです。そしてその主イエスは将来いつかもう一度、栄光をもってこの世に来て下さり、ご自分が神であり、永遠の命を生きておられることを全ての人々に明らかに示して下さいます。その時私たちも、キリストの復活にあずかり、永遠の命を生きる者とされるのです。それが私たちの救いの完成です。教会はこのことを信じ、待ち望んでいます。つまり教会の信仰は、主イエスが復活してもはや死ぬことのない方、死に支配されない方となられたというイースターの出来事に基づいているのです。
父なる神のみ業としての復活
この9節には、「死者の中から復活させられたキリスト」とあります。「死者の中から復活したキリスト」ではないことに注目しましょう。キリストは自分の力で復活したのではなくて、復活させられたのだ、とパウロは語っているのです。キリストを復活させたのは父なる神です。4節の後半には、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように」とあります。主イエス・キリストの復活は、父なる神がその栄光によってなさったこと、父なる神のみ業だったのです。イースターに起ったのは、主イエスが十字架にかけられて殺されてから三日間、死後の世界で死の力と戦い、ついに勝利してこの世に凱旋して来られた、ということではありません。死んで墓に葬られた主イエスを、父なる神が復活させ、新しい命を与えて下さったのです。つまり父なる神が死の力に勝利して主イエスを復活させて下さったのです。主イエスが十字架にかけられて死んで葬られたということは、死の力に捕えられ、その支配下に置かれたということです。しかし父なる神は主イエスを捕えている死の力と戦い、これを打ち破って、主イエスをその支配から解放して下さったのです。イースターの出来事とは、父なる神によって死の支配が覆えされ、主イエスに新しい命、復活の命が与えられたということだったのです。
私たちの希望の根拠
主イエスの復活が主イエスご自身の力によることではなく、父なる神のみ業であることを見つめることは私たちの信仰においてとても大事なことです。このことによってこそ、主イエスの復活は私たちの救いの出来事となり、希望の根拠となるのです。もしも主イエスが自分の力で死と戦って勝利して復活してきたのなら、それは私たちにとって、びっくりするような出来事であり、にわかには信じられない奇跡ですが、しかしそれだけのことです。イエスという私たちとはかけ離れた力を持った方がすごいことをした、という話であり、「そんなすごいことがあったんだ」と驚くにせよ、「そんなことあり得ない」と否定するにせよ、いずれにしても自分とは何の関係もない他人事なのです。しかしキリストの復活は父なる神のみ業でした。父なる神が、死の力を打ち破って主イエスを死から解放し、復活の命、永遠の命を与えて下さったのです。父なる神はそのことを主イエスのためだけでなく、私たちのためにもして下さったのです。父なる神はこれによって、私たちにも同じみ業をして下さり、私たちにも復活の命、永遠の命を与えて下さることを示して下さったのです。つまり主イエスの復活は、父なる神が私たちをも復活させて永遠の命を与えて下さるという救いの先駆けであり保証なのです。そうであるならば、キリストの復活は私たちと大いに関係のあることになります。キリストの復活によって私たちに、死に打ち勝つ救いの希望が与えられているのです。
死に勝利する者
このイースター礼拝には、昨年のイースター以降に亡くなった方々のご遺族をお招きしています。週報に14名の方々のお名前があります。午後に行われる墓前礼拝では、その中の5名の方々の埋葬を行います。これらの逝去者の方々は、この一年の間に死の力に捕えられ、その支配下に置かれ、私たちから、家族の者たちから奪い去られたのです。私たちは死の力と戦ってそれらの方々を取り戻すことはできません。誰も、死の力に抗うことはできないのです。この現実は、死の力こそが私たちを最終的に捕え支配する究極的な力であることを物語っているように見えます。しかし、父なる神は死の力と戦って既に勝利し、キリストを復活させて下さったのです。死の支配は神によって既に打ち破られているのです。そして神はそのみ力によって私たちをも死の支配から解き放って下さるのです。主イエスの復活は、私たちを最終的に支配するのはもはや死の力ではなく、死に勝利した神の力であることを明らかにしたのです。イースターを喜び祝うとは、死に対するこの神の勝利を喜び祝うことに他なりません。主イエス・キリストの復活を記念するイースターを喜び祝っている私たちは、死の支配下に置かれた逝去者の方々が、神の力によってそこから解放され、復活と永遠の命を与えられる時が来ることを信じて待ち望むことができます。また私たち一人一人も、遅かれ早かれ死に支配されて逝去者の仲間入りをしていくけれども、それが終わりではなくて、その死の力を神が打ち破って下さり、主イエスの復活の命にあずからせ、永遠の命を生きる者として下さる時が来ることを信じて歩むことができるのです。
洗礼によって
パウロはこのように、主イエス・キリストの復活によって私たちに与えられている救いの喜びと希望を語っています。死の支配から解放されて、永遠の命を生きる者とされるという救いの喜びと希望です。しかもこの喜びと希望は、そうだったらいいな、という単なる願望ではありません。そういう救いが与えられることを信じて頑張ろう、と言っているのでもありません。私たちはこの救いに、既に具体的にあずかっている、この喜びと希望を与えられて新しく生きているのだ、ということを彼は語っているのです。4節の全体を改めて読んでみます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。私たちは洗礼を受けている、そこに私たちの救いがあり、希望がある、とパウロは言っているのです。洗礼こそ、私たちがキリストの復活にあずかり、新しい命に生きる者とされていることを具体的に、確かに示している印です。父なる神がキリストを死者の中から復活させて永遠の命に生きる者として下さったように、私たちをも死の力から解放して、新しい命、永遠の命に生きる者として下さる、その救いの恵みを確信することができるのは、洗礼を受けているからなのです。洗礼によって私たちは、キリストと一つにされ、キリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それによって、キリストと共に父なる神によって復活させられる者にもなったのです。洗礼によって与えられているこの恵みは5節においては、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と語られています。8節においては「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と語られています。洗礼を受けることによって私たちは、キリストと結ばれ一体となってその死の姿にあやかり、キリストと共に死ぬのです。そしてキリストの復活の姿にもあやかり、キリストと共に生きる者とされるのです。キリストの十字架の死と復活とが、洗礼において私たちのこの身に起り、私たちも古い自分、罪に支配された自分に死んで、キリストの復活にあずかる新しい命、永遠の命を生き始めるのです。
洗礼を受けた者の群れである教会
本日一人の姉妹が洗礼を受けます。洗礼を受けて主イエス・キリストと結ばれ、一つとされるのです。そのことによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活とにあずかる者とされ、11節にあるように、罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている者とされるのです。罪に支配された古い自分が死んで、キリストの復活の命にあずかって新しく生まれ変わって生き始めるのです。つまり主イエス・キリストの復活によって実現した神の救いの恵みがこの姉妹に与えられるのです。同じ救いの恵みが、既に洗礼を受けている全ての者たちに与えられています。教会は、洗礼を受け、主イエスの復活によって与えられた新しい命を生き始めている者たちの群れです。主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースターこそ、教会の歩みの土台なのです。それゆえに教会は毎週の日曜日、週の始めの日を主の日として、主イエスの復活を喜び祝う礼拝を守っているのです。毎週の主の日が小さなイースターです。洗礼を受けて主の復活の命にあずかって生き始めている者たちが、主の復活を記念して毎週礼拝を守り、本日も行われる聖餐において主イエス・キリストの十字架の死による救いの恵みを味わい、それによって養われつつ、復活して天に昇り、父なる神のみもとで今私たちとこの世界を導いておられる主イエスのもとへと心を高くあげ、主がもう一度来られることによる救いの完成を待ち望みつつ歩んでいる、それが教会なのです。
洗礼への招き
今この礼拝に集っておられる、まだ洗礼を受けておられない方々に申します。主イエス・キリストの父である神は、皆さんを主イエスによる罪の赦しと復活の命の恵みにあずからせるためにこのイースターの礼拝に招いて下さったのです。独り子主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、その主イエスを死者の中から復活させて下さった神は、その全能の力をもって皆さんを罪と死の支配から解放し、復活と永遠の命を与えて下さいます。私たちはどんなに頑張って努力しても、自分の力で罪をぬぐい去ることも、死の力に打ち勝つこともできません。しかし主なる神がそれを全てして下さったのです。私たちはその神の救いの恵みを信じて洗礼を受けることによって、この救いにあずかることができます。そして主イエスの復活によって与えられた新しい命を生き始めることができるのです。主イエス・キリストの復活の喜び、イースターの喜びは、洗礼において私たちの現実となります。その洗礼へと、神は皆さんを招いておられるのです。