主日礼拝

パンを食べ、杯を飲む群れ

「パンを食べ、杯を飲む群れ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第11章23-26節
・ 讃美歌; 19、127、396

 
教会全体修養会開会礼拝
 本日の午後から、一泊の教会全体修養会が始まります。「キリストの体である教会―とりなし祈る群れの形成のために」という、本年度の私たちの教会の主題をそのまま主題として、一泊二日の生活を共にするのです。この修養会に参加できる人は八十数人ですから、今この礼拝に集っておられる方々の中のごく一部となります。もっと多くの方の参加を期待していたのですが、それぞれいろいろな事情があるのですから、残念ですが仕方がありません。しかし本日の礼拝は、修養会の開会礼拝を兼ねて行われています。ということは、この礼拝に集われた方々は皆さん修養会に部分参加している、ということにもなるわけです。午後からの会には参加できなくても、その恵みの一端を、この礼拝に集われた全ての方々と分ち合いたいと思います。  さてそのように本日の礼拝は修養会の開会礼拝を兼ねるものとしたいという教育委員会からの依頼を受けて私は、それでは聖書の箇所をどうしようかと考えました。そして結論としては、コリントの信徒への手紙一の連続講解をそのまま続けることにしました。ちょうど本日与えられている第11章23節以下を読むことは、「キリストの体である教会」という主題で行われる修養会の開会礼拝としても相応しいと思ったからです。

聖餐制定のみ言葉
 本日の箇所には、「主の晩餐の制定」という小見出しがついています。「主の晩餐」とは、聖餐のことです。本日もこの礼拝で聖餐にあずかりますが、その時に「聖餐制定のみ言葉」として朗読されるのが本日の箇所なのです。聖餐の時には29節までが朗読されますので、その前半部分ということになります。「聖餐制定」とは、主イエス・キリストが「このように行いなさい」と言って、弟子たちに、聖餐を行うことを命じられたということです。主イエスはどのようなみ言葉によって聖餐を制定されたのか、それがこの前半部分に語られているのです。この聖餐制定のみ言葉を読むことは、「キリストの体である教会」という主題の修養会の開会礼拝に相応しいことです。それは何故なのかをご一緒に考えていきたいと思います。

主から受けたもの
 この聖餐制定のみ言葉を伝えているのは使徒パウロです。パウロは主イエスの弟子だったわけではありません。ですから当然のことながら、主イエスが、いわゆる最後の晩餐において聖餐を定められた時に、パウロはそこにいませんでした。パウロがここで伝えている聖餐制定のみ言葉は、彼が主イエスの弟子たちから伝え聞いたものです。そのことが冒頭の23節にこのように言い表されています。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」。しかしお気づきのように、パウロはここで「主から」受けたと言っています。実際には先輩の使徒たちから伝えられたのですが、それを主から受けたと言っているのです。パウロは、先輩の使徒たちのおかげを被っていることを認めるのがいやでこう書いているのではありません。教会において、聖餐を制定された主イエス・キリストのみ言葉が、人から人へ、世代から世代へと語り次がれ、受け継がれていく、パウロはそこに主ご自身のお働きを見ているのです。私たちも、代々の教会が守ってきた聖餐を受け継ぎ、それにあずかっています。それは直接には、先輩の信仰者たちから受け継いだことです。しかしそれは単なる人間の言い伝えや慣習ではありません。私たちもまた、このことを「主から」受けているのです。教会の伝統とはそういうものです。それは人間が造り出したものではなくて、主イエス・キリストから示され、与えられたものです。勿論それが伝えられていく中で、人間的な慣習が紛れ込んだり、人間の誤解や間違いが入り込むことがあります。ですから伝統はいつもみ言葉によって検証され、吟味されなければなりません。しかしそれは基本的には主から受けたものであって、人間が自分の思いで捨てたり変形してはならないものなのです。

引き渡される夜
 パウロが主から受け、伝えた聖餐制定のみ言葉とはどのようなものだったのでしょうか。先ず、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」とあります。「引き渡される夜」とあることに先ず注目しなければなりません。聖餐が制定されたのは、主イエスが「引き渡される夜」のことでした。最後の晩餐において聖餐を制定なさった主は、その夜の内にゲツセマネの園で逮捕されたのです。しかしこの「引き渡される」という言葉は、主イエスがご自分の受難を三度にわたって予告されたところにも出てきます。例えばマルコによる福音書第10章33節には、「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す」とあります。つまり「引き渡す」という言葉は、主イエスの受難、十字架の死全体を表わす言葉でもあるのです。ですからこの「引き渡される夜」という言葉は、聖餐がいつ制定されたか、という時を語っていると言うよりも、聖餐と主イエスの十字架の死とが密接に結びついていることを示しているのです。

私たちのためのキリストの体
 その「引き渡される夜」、主イエスは「パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」とあります。主イエスが感謝の祈りをささげてからパンを裂き、弟子たちに与えられることは、主イエスと弟子たちとの普段の食事においていつも行われていたことでしょう。しかしこの食事においては、主は特別なことを言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。このみ言葉によって、このパンは特別な意味を持つものとなりました。「あなたがたのためのわたしの体」という意味です。この特別な意味を持つパンを私たちも聖餐においていただくのです。聖餐にあずかる時、私たちはただのパンを食べているのではなくて、私たちのためのキリストの体をいただいているのです。

具体的な恵み
 私たちのためのキリストの体をいただくとは、私たちのためにキリストが成し遂げて下さった救いの恵みにあずかることの象徴だと言ってよいでしょう。肉体の養い、栄養であるパンが、キリストによる救いという魂の養い、栄養を象徴的に表わしているのです。そのパンをいただくことによって、私たちの魂に、主イエス・キリストによる救いの恵みが与えられる、それがキリストの体をいただくということの意味です。しかしそこで見落としてはならないことがあります。それは、私たちが聖餐においていただくキリストの恵みは、単なる象徴ではない、ということです。聖餐において私たちに与えられるのは、抽象的なものではない、まことに具体的な恵みです。そのことを指し示しているのが先程の「引き渡される夜」という言葉です。主イエスは今まさに引き渡され、逮捕され、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されようとしている、その中で、この聖餐が与えられたのです。聖餐において私たちがいただくキリストの体、それは、私たちのために十字架にかけられ、引き裂かれた体です。聖餐においていただくキリストの血、それは主イエスが私たちのために十字架の上で流して下さった血です。聖餐において私たちがあずかるのは、一般的、抽象的な恵みではなくて、主イエスが、その体をもって十字架の苦しみと死とを引き受けて下さり、それによって私たちの罪を赦して下さった、その具体的な恵みなのです。

パンを裂く
 「パンを裂く」という言葉もこのことと関係があります。例えばこの手紙の10章16節にも、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」とありました。その他の多くの箇所で、聖餐を表わすのに「パンを裂く」という言い方が用いられているのです。つまり聖餐において、パンが裂かれることが非常に重要な意味を持っていたのです。それは、主イエス・キリストの体が、十字架に釘づけられ、ヨハネ福音書によれば槍で突かれて、引き裂かれた、そのキリストの体が、聖餐において私たちに与えられるのだ、ということを表わしているのです。このことも、聖餐において与えられる恵みが具体的、更に言えば肉体的なものであることを示しています。私たちが行なっている聖餐においては、前もって切り分けられたパンが用意されていますが、本当は、聖餐の中で一つのパンが裂かれ、皆に分けられていった方が、その本来のあり方にふさわしいのです。

新しい契約の杯
 次に主イエスは、ぶどう酒の杯を同じようにして、つまり感謝の祈りをささげて、弟子たちに飲ませられました。その時、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。この杯を飲む者は、新しい契約にあずかるのだ、と言われたのです。聖餐の杯が意味するのは「新しい契約」です。新しい契約とは何か、それが本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エレミヤ書第31章31節以下に語られています。そこをもう一度読んでみます。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。ここに、神様が新しい契約を結んで下さるという約束が語られています。「新しい契約」と言うからには「旧い契約」があるわけです。それはここの32節にある「かつててわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」です。つまり、神様がイスラエルの民を、エジプトの奴隷状態から解放して下さった、その救いの恵みの中で結ばれたのが旧い契約です。その契約によって、主なる神様はイスラエルの民をご自分の民として下さり、ご自分はイスラエルの神となって下さる、そういう特別の関係を結んで下さったのです。神様のこの恵みに応えてイスラエルの民は、主なる神様のみを自分の神、主人として、その掟、戒めに従って歩む、それが旧い契約の内容です。しかし32節の後半には、「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」とあります。イスラエルの民は、主なる神様のみを信じ従っていくのではなく、自分に都合のよい偶像の神々に心移りするという罪によって、神様との契約の関係を破ってしまったのです。旧い契約はイスラエルの民の罪によって破られたのです。そのような罪人であるイスラエルに対して、神様はもう一度、新しい契約を結んで下さる、とエレミヤは語っています。その新しい契約は、34節にあるように、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という、神様による罪の赦しの恵みによって与えられるものです。エレミヤが預言したこの新しい契約が、主イエス・キリストによって、その十字架の死によって、ついに実現するのです。聖餐の杯は、主イエスの十字架によって結ばれる新しい契約に弟子たちを、そして私たちをあずからせるために与えられているのです。

主イエスの血によって
 その新しい契約は「わたしの血によって立てられる」ものだと主イエスは言っておられます。旧い契約の土台となったエジプト脱出の出来事においては、過越の小羊が犠牲として殺され、その血が流されたことによって、イスラエルはエジプトから解放され、救われました。新しい契約においても、同じように犠牲の血が流されます。しかし今度は動物の血ではなく、主イエス・キリストが十字架にかけられて血を流して死んで下さったのです。旧い契約において動物が人間の罪を背負って殺されたように、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、血を流して死んで下さったのです。それによって、私たちは罪を赦されて新しい契約にあずかり、神様の民とされるのです。それが「わたしの血によって立てられる新しい契約」です。聖餐の杯に注がれているぶどう酒は、この主イエスの血による新しい契約のしるしなのです。

新しい契約の民
 神様の契約は、その契約にあずかる人々を神様の民とし、神の民の群れ、共同体を生み出します。旧い契約においては、イスラエルの民が神の民とされました。主イエスの十字架による新しい契約においては、新しい神の民が立てられます。それは主イエスを救い主と信じて洗礼を受けた者たちの群れ、即ち教会です。神様は私たちを、新しい契約に生きる新しい神の民、新しいイスラエルである教会へと招き、洗礼によってその群れに加えて下さるのです。聖餐は、洗礼によって神の民とされた人々が、主イエスの十字架による罪の赦しの恵みによって養われ、育まれていくために制定された食事です。聖餐において私たちは、十字架の上で私たちのために裂かれた主イエスの体と、私たちのために流された主イエスの血にあずかり、そこで実現された神様による罪の赦しの恵みにあずかって、新しい契約の民として歩んでいくのです。ですから、聖餐にあずかることは、一人一人が個人的に主イエスの恵みをいただくことではありません。勿論私たち一人一人が、聖餐において主の恵みを深く味わうのですが、しかしその恵みは個人的なもので終わりではなくて、そのことによって私たちは、キリスト体である教会へと結び合わされ、その部分、体の一部とされるのです。聖餐が祝われる時、そこに、神様の民である教会が結集され、キリストにおいて一つとされた群れが築かれ、養われていくのです。そういう意味で、私たちは聖餐にあずかることによって、兄弟姉妹と、主イエス・キリストにあって一つとされるのです。聖餐に共にあずかるところに、私たちの、主にある交わりの絆があるのです。私たちを結びつけているのは、人間的な親しさや、お互いのことをよく知っているということではなくて、主イエス・キリストの体と血である聖餐に共にあずかっている、ということなのです。

私の記念として
 さて主イエスは、パンにおいても杯においても、「私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。このお言葉によって聖餐が定められたのです。聖餐は、主イエス・キリストを記念するために行われるものです。しかもその記念は、各自が自分なりの主イエスのお姿を記念するのではなくて、十字架につけられた主イエスを記念するのです。私たちが信仰において先ず第一に思い起し、記念すべきなのは、主イエスの十字架の死なのです。主イエスのご生涯、そこでの教えやみ業、あるいは最近はやりの言葉で言えば「生き様」を思い起すことは、聖餐において主イエスの十字架の死を思い起すことを土台にして、その上でこそなされるべきことです。つまり、主イエスのご生涯、そのみ業やみ言葉を見つめる時に、私たちはいつも、自分のために十字架にかかって死んで下さった、その主のご生涯、み言葉、み業として見つめるべきなのです。それが四つの福音書に共通する視点でもあります。福音書はどれも、最初から十字架の死を前提として、十字架にかかって死なれた主イエスのご生涯を描いているのです。つまり福音書を含めた新約聖書の全ての書は、聖餐にあずかり、自分たちのために十字架にかかって死なれた主イエス・キリストを記念しつつ生きている者たちによって書かれたのです。

主イエス・キリストとの交わり
 また、記念するというのは、思い起すという意味の言葉ですが、それは単に昔の出来事を私たちがなつかしく思い起す、というだけのことではありません。私たちが思い起すところに、聖霊なる神様が働いて下さって、その過去の出来事が、現在の自分の事柄となるのです。聖餐において起るのもそういうことです。主イエスの十字架の死が、聖霊の働きによって、過去の歴史的事実であることを越えて、今を生きる私たちのための、罪の赦しのみ業となるのです。聖餐において私たちは、私たちの罪を背負って十字架にかかって死に、そして復活された主イエス・キリストとの交わりを、今ここで、聖霊によって与えられるのです。

キリストの体である教会
 このように私たちは、聖餐にあずかることによって、主イエス・キリストとの交わりを与えられ、主イエスの十字架による新しい契約にあずかる神の民の一員として歩みます。それは言い換えるならば、キリストの体である教会の一部分として歩むということです。「キリストの体である教会」という本年度の主題、そしてこのたびの修養会の主題は、私たちが聖餐にあずかりつつ生きるところにこそ実現しているのです。先程も申しましたように、聖餐に共にあずかることこそ、私たちが主イエス・キリストにあって一つとされる絆です。私たちが主にあって一つであることの絆は、お互いの間の親しさや、どれだけお互いにお互いのことを知っているか、また性格や意見がどれだけ合うか、主義主張において共鳴できるか、といったことにあるのではありません。私たちは共に主イエスの父であられる神様を礼拝しており、その礼拝の中で聖餐にあずかり、主の体と血とをいただいて、主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって成し遂げて下さった罪の赦しの恵みにあずかっています。そこに、キリストの体としての教会の絆があるのです。キリストの体である教会はどこにあるか、それは、気の合う親しい者たちが集まり、和気藹々と楽しい交流がなされている所にあるのではなくて、たとえお互いよく知らなくても、あるいはまた意見の食い違いや対立があるとしても、共に主なる神様を礼拝し、み言葉を聞き、そして聖餐において主イエス・キリストの体と血とに共にあずかるところには、キリストの体である教会があるのです。

キリストの体を体験する
 聖餐に共にあずかる共同体こそがキリストの体である教会です。それは、教会は抽象的、精神的なものではない、ということでもあります。洗礼を受けて教会に加えられるというのは、頭や心や精神の問題ではなくて、勿論それらをも含んだ、人間全体におけること、つまり私たちの体、肉体をも含んだことなのです。私たちは、この体をもって、キリストの体である教会に加えられるのです。私たちの頭だけがキリストを理解し、心や精神だけがキリストを信じるのではありません。全身全霊をもって、という言葉がありますが、まさに心身共に、主イエス・キリストの体に加えられ、キリストとの交わりに生きていくのです。信仰は知識や理解の問題ではありません。知識や理解はあった方がよいし、大いに助け、力になります。しかしそれだけでは信仰にはなりません。逆に知識や理解は乏しくても、み言葉を聞いて、主イエス・キリストの十字架によって神様が自分の罪を赦して下さったことを信じて、その主イエスの恵みにあずかって生きる者となりたい、主イエスにつながって、主イエスのもとに集う民の一員として人生を送りたいという願いを与えられるならば、それは神様が、キリストの体である教会にその人を招いておられる印なのです。私たちはその招きに応えて洗礼を受け、キリストの体である教会に加えられ、そして聖餐にあずかりつつ生きることによって、キリストの体の一部として生きることを、体で覚えていくのです。ですからこの礼拝に集い、聖餐に共にあずかる皆さんは、修養会には参加できなくても、キリストの体である教会を体験しているのです。修養会においては、この礼拝において与えられている体験の内容をさらに深く知り、また生活を共にすることの中でそれをさらに深く味わっていくのです。

まだ洗礼を受けておられない方に
 最後に、まだ洗礼を受けておらず、聖餐にあずかることのできない方々に申します。皆さんは礼拝に集われたことによって、キリストの体である教会を既に体験し始めています。ぜひ続けて礼拝に集い、その体験をさらに深めていってください。神様を礼拝し、み言葉を聞いていく中で、自分もこのキリストの体の中に飛び込んで、その一員となって、聖餐に共にあずかり、それによって養われつつ生きたい、という願いが、皆さんの中に起こされていくことを私たちはいつも祈り願っています。頭で理解し、心で信じ、そして体で体験する、そういう信仰に生きる人生を、皆さんとご一緒に歩みたいのです。

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