夕礼拝

驚くべき力

「驚くべき力」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第3章1-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章32-34節
・ 讃美歌:220、513

 イエス様はわたしたちを深く憐れまれています。わたしたちは、自分を愛し養い守ってくれる飼い主を見失っています。主の憐れみは、病になっている人や、世に見捨てられた人々だけでに向けられているのではありません。主の憐れみは、神様を見失っているすべての人に、わたしたちを含むすべての人々に向けられています。イエス様の憐れみを受け、イエス様の語られた福音を聞き、父なる神様から与えられる愛と支配を求め与えられる時、わたしたちは、病にも、悪霊にも、恐れにも、自分にも、父なる神様以外の何者にも支配されずに、父なる神様の支配の中で、他の支配に脅かされずに、まったく新しく生きはじめるのです。

 今夕共に聞きました、マタイによる福音書9章32節以下には、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、癒やされたという記事がとても簡素に書かれています。わたしたちはマタイによる福音書8章から9章を通して、イエス様が山上の説教を語られた後に、町々を巡り、様々な病気や患いを癒やされて来たことを聞きいてまいりました。病に支配され、立てなかった者を癒やし、立ち上がらせ、また自分の罪に支配され、罪の暗闇にうずくまっていた者をそこから引っ張りだし歩ませ、死に支配されておりその死にのみ込まれた者を蘇らせました。そのような様々な驚くべき御業の最後に、本日共に聞いた、悪霊に取りつかれて口が利けなくなった者の癒やしが書かれています。そしてその後33節34節にはその癒やしの業を目撃した人々の二つの反応が書かれています。一つは群衆の反応、もう一つはファリサイ派の反応です。33節の後半には、群衆の反応があり、こう書かれています。「群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。」この群衆の反応は、口の利けなかった人が癒されたということだけを受けてのものではなく、これまでに語られてきた、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」イエス様のみ業を目撃したり、知ったりした人々の反応がここに記されていると言っても良いでしょう。群衆はイエス様の数々の奇跡を見て、驚嘆しました。そして「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言いました。これは単に想像もできないほどの奇跡を目の当たりにし驚いたというだけのことではありません。ここで「イスラエルで」と言われていることが重要です。この「イスラエルで」ということは、この「イスラエルという土地では」という意味ではなく、これは神の民イスラエルの歴史上ということです。さらに、この「イスラエルで」という言葉に意識されているのは、旧約聖書の預言です。その預言が、本日共に聞いたイザヤ書35章です。その5、6節にこうあります。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。ここに、様々な癒しのみ業が預言されています。これらがまさに、イエス様によって実現したのです。ここに並べられている癒しの最後が、「口の利けなかった人が喜び歌う」であることは、8、9章の一連の癒しの最後が、本日の箇所の、口の利けない人の癒しであることと重なっています。群衆はイエス様の癒しのみ業に、このイザヤの預言の実現を見たのです。つまりイエス様によって、いよいよ、イザヤが預言した「そのとき」が来たことを感じました。「そのとき」とは、主なる神様がイスラエルを救って下さる時、イザヤ書35章の最後の10節にある「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」ということが実現する時です。この預言の背景には、バビロニアという国にイスラエルの民が囚われ支配されていたということがあります。そのように、他の者に支配されていた状態から、主なる神様が代価を払って贖い出してくださり、他の者による支配から解放され、主のものになり、喜びが与えられ、嘆きと悲しみは逃げ去る時が、「そのとき」です。囚われからの救いがいよいよ始まるということに対して、群衆は期待し驚いたのです。当時のイスラエルの民の状況から言えば、ローマ帝国に国が支配されていたので、この出来事を目の当たりにした時に、ついにローマ帝国からの解放が起こるのかと期待した民は多かったと思います。しかし、イエス様が実現する贖いと解放は、ローマ帝国からの支配ではありませんでした。様々な癒やしの御業が示していたのは、神様は、人を病の支配からも、罪の支配からも、死の支配からも解き放つことができるということでありました。群衆は、この深い真実まで気づいていなかったとしても、いずれにしても彼らは神様の救いに心を寄せ、驚きつつ期待していました。

 一方、ファリサイ派の人々はイエス様の御業を、34節で『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』とあるように、神様の御業ではないと見なしていました。ファリサイ派の人々は、イエス様が悪霊を追い出して癒やしを行っているのは、イエス様が悪霊業界のトップであるから、子分である悪霊に命令して追い出すことができているのだと考えていました。この考え方は、イエス様がなさってきたみ業は、神様の力によってではないとしたいという思いが根底にあります。イエス様の御業が、救いの御業であるということを拒絶したということです。この拒絶というのは、イエス様の様々な業が、「悪霊の頭の力」によると考えるだけのことではありません。イエス様が聖書においてなさった、み業は後代の教会がこうであって欲しいと創作した物語だろうと思って納得しようとする考えや、このような奇跡が起きたのには、なにかしら裏にカラクリがあるのだろうと結論付けるような考えも、救いの御業への拒絶です。わたしたちは、イエス様において起きたことが神様の御業であると認められない時、その出来事に何らかの説明を付けて、認められない自分を納得させようとします。そのわたしたちの現実が、このファリサイ派の人々の反応に表わされています。このファリサイ派の人々の反応は、神様の御業を見ようとしないわたしたちの現実を示しており、この現実に生きる人は、神様を見失っているということできるでしょう。

 では、イエス様の御業に神様の救いを期待した、あの群衆たちが、しっかり神様のことを思い、ずーと神様の救いを求め続けることができたかと言えば、そうではありませんでした。イエス様の弟子たちでさえ、イエス様がイスラエルの祭司や律法学者に捕らえられた時、イエス様に絶望し、見捨て、逃げました。あの群衆も、救いを実現する御方だとイエス様のことを見ていたのに、最後には「十字架にかけろ」と叫び、イエス様を見捨てました本日の箇所の時点での、群衆は、イエス様の御業見て、神様からの救いや支配からの解放、病の癒やし、神様からの祝福など様々なことを期待したでしょう。しかし、神様御自身を見つめること、神様との人格的な交わりに生きること、神様を本当に生きた主人として従うこと、これらのことは、彼らのうちにはなかったのだろうと思います。それは、この後にイエス様が36節で思われたことに表わされています。イエス様は群衆を見てこう思われたのです。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。群衆は、飼い主のいない状態のようになり、弱り果てていたのです。預言されている神様の救いを期待していたのに、実際群衆は弱り果てていた。飼い主のいない羊のようであった。飼い主のいない羊というのは、つまり、だれにも所有されていないということです。飼い主がいないから、もどるべき牧場もない、守ってくれる者もいない、養われることもない。だから、自分で歩きまわり、外の脅威に対していつも緊張し怯える。力もないのに自分の身を守るために自分を大きく見せようとする。対抗して傷つく。いつも食べるものを求めてあくせくしている。病にかかっても癒やしてくれる人もいない。群衆はそのような状態になっていたのです。このような状態から、解放されたいと思っているけれども、どうすればいいかわからない。とりあえず、いま自分を楽にしてくれるものにしがみつこうとする。自分を楽にしてくれる力ある人なら、だれにでもついていってしまう。群衆は、そのような、現実に生きていたのでしょう。

 だれにも飼われたくはない、だから自分で好きなように道を選び、自由に生きる。自由に生きて、自己責任ですべてをやっていこうとする。わたしたちも、この飼い主のいない羊状態にはなってはいないでしょうか。この群衆は、この誤った自由の苦しみに生きていたのです。「主人などいらない、主人のもとで生きるなんて不自由だ」、そうして神様のもとを離れることになったのがアダムとエバです。これが、あの堕罪の根っこにあったことです。

 この群衆たちは、ローマ帝国の支配、自分たちのキツイ生活、病などから自由になりたいと願っていたことでしょう。しかし、彼らは、神様の支配のもとに生き、神様を主人として生きてはいなかった。彼らは、神様が羊である自分の飼い主であるとは認めていなかった。だから、イエス様は、群衆が飼い主のいない羊のように見えたのです。自分の救いと自由ばかりを求める群衆、またファリサイ派の人々のように神様を拒み続ける人を見て、イエス様はどう思われたのか。飼い主のいない羊のように思われ、そして、イエス様は、「深く憐れまれた」のです。そんなに自由がいいなら、好きなように生き、死ぬがよいと言われずに、イエス様は憐れまれ、再び赦し愛し養い守ってくださる方、御父のもとに導こうと望まれたのです。イエス様は憐れまれ、神様を見失い好き勝手自由に生きる人のために、また神様を拒み続ける人のために、その人が負わねばならない呪いと滅びを、代わりに負ってくださったのです。

 イエス様は、なんとしても、この飼い主のいないような羊たちを、本当に愛し守り養ってくださる方の庇護のもとに戻そうと、あらゆることをしてくださったのです。だから、イエス様は、山上の説教の中心で、「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と私たちに教えてくださったのです。神の国、つまり神様のご支配のことです。神様のものとなることをわたしたちに求めさせ、神様のご支配のもとに戻し、あらゆる他の脅威、支配恐れから守ろうとなさったのです。「神の国」つまり神様の支配にこそ、恐れを破る、得体のしれない力を破る本当の力があります。またそれを「祈り求めること」が大事であります。イエス様は、そのことを、山上の説教の中心でわたしたちに、告げられていたのです。山上の説教の中心で、神の国を求めることと、父を信頼して主の祈りを祈ることをわたしたちは勧められていたのです。わたしたちをイエス様が憐れんでくださったから、十字架上で犠牲となってくださったから、わたしたちは父なる神様を「父」と呼ぶことを赦され、また神様からいただける恵みや支配を求め、与ることができるようになったのです。イエス様はわたしたちと神様との関係を新たに築くために、死んでくださいました。その関係とは、父なる神様、父として信頼し、祈りをもって生きた人格的な交わりを持つ関係です。その関係を求めなさい、祈りなさいと、山上の説教で言われていました。わたしたちは、8章9章のイエス様の驚くべき力と業を目の当たりにしてきました。この最後に、今わたしたちが、ただ、今の苦しみから自由になるためにではなく、恐れから逃れるためではなくて、本当の救いのために、神様の支配の中で、何にも脅かされることなく何にも支配されることない平安と、神様を主人として神様との交わりに生きるその行き方を、イエス様から提示されました。

 今苦しみの中にある人、病に苦しむ人、どこにむかっていきていけばいいのかわかない人、神様を見失っている人、今、神様の支配を祈り求めるのです。ですから、イエス様が与えてくださった主の祈りをいのりましょう。イエス様はわたしたちが、その救いを受けるためのすべてを、既に成し遂げてくださっています。だから、そのイエス様の十字架と復活の御業を信じ、今、父なる神様を主人として、その支配を求め祈りましょう。その祈り求めた、神様の支配、神様の救いは、イエス様を主として、救い主として受け入れた告白した時、そして洗礼を受けた時、驚くべき御業として、与えられます。それをも祈り求めましょう。

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