主日礼拝

あなたは神の国から遠くない

「あなたは神の国から遠くない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ホセア書 第6章1-6節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章28-34節
・ 讃美歌:322、165、409

イエスに親近感を抱いた律法学者
 本日与えられている聖書の箇所は、マルコによる福音書第12章28節以下ですが、その冒頭の28節に「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。「彼らの議論」と言われているのは、その前の所、先々週のイースターの礼拝においてご一緒に読んだ、18節以下の、主イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。復活をめぐって当時、ファリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は復活はないと言っていたのに対して、ファリサイ派は復活を信じていたのです。律法学者はファリサイ派です。ファリサイ派が目指しているのは、今ローマ帝国に支配されているユダヤ人たちが、律法を守って生活することによって、神の民としての誇りと自負をもって生きることができるようにすることです。そのためにファリサイ派は民衆の中で律法を教え、生活の指導をする律法学者となったのです。この人もその一人でした。彼は、復活などないことを示そうとしてサドカイ派の人々が問うたことに対して、主イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をお語りになったのを聞いて、立派な答えだと思いました。主イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を抱いたのです。それで彼は、自分も一つの問いを主イエスに投げかけようとして進み出たのです。

律法の中心は何か?
 彼が問うたのは「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」ということでした。彼は律法学者として、神の掟、律法を人々に教えています。その掟、律法には、生活の細かな部分にまで及ぶ六百以上の掟がありました。それらを全て暗記して実行するのは大変なことです。だから律法学者が必要となったのです。律法学者は、律法、神の掟を研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に、律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。一般の人々は、生活上の様々な場面で、この場合にはどうすれば律法に適い、あるいはそれに違反せずに歩めるかの判断を律法学者に求めたのです。そういう働きをしている律法学者たちにとって、六百以上ある掟をどのように把握し、教えるかが大きな課題でした。彼が主イエスに問うた「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」というのはそういう課題から生まれた問いです。この掟こそ律法全体の中心であり、ここを掴んでおけば、律法全体の解釈において基本的に間違うことはない、という律法全体の要(かなめ)を彼は問うているのです。彼ら律法学者たちはそういうことをいつも議論していました。彼は、復活について、聖書の深い理解と洞察をもって的確にお答えになった主イエスの言葉を聞いて、この人は律法の要は何かという問いにどう答えるだろうか、それを聞いてみたいと思ったのです。

第一の掟
 つまりこの律法学者の問いは真面目な、真剣なものです。このあたりには、主イエスの言葉尻を捉えて陥れようとしていろいろなことを問うてきた人々との論争が語られていますが、この人の問いはそういうものとは違います。彼は、神の民が神の掟に従って生きる、その信仰生活において最も大事にすべきことは何かと、主イエスに真面目に問うたのです。そういう真剣な問いには、主イエスもストレートにはっきりとお答えになりました。29、30節です。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」。ここで主イエスが第一の掟として挙げておられるのは、申命記第6章4、5節です。そこも読んでみます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」。この箇所は、イスラエルの人々が誰でも暗記していて、毎日の祈りにおいて唱えていた言葉です。冒頭の「聞け」という言葉は原語のヘブライ語では「シェマー」といいます。そこからこれは「シェマーの祈り」と呼ばれています。主イエスはこの、ユダヤの人々が誰でも毎日唱えている言葉における主の命令を、あらゆる掟のうちで第一のものとされたのです。

唯一の神を愛する
 この第一の掟は一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神様を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だと主イエスはおっしゃったのです。しかしその掟の前提として29節が、申命記6章においては4節があることが大事です。「わたしたちの神である主は、唯一の主である」という言葉です。主なる神様はただ一人の神であられる、ということがこの第一の掟の前提なのです。この言葉も注意深く読まなければなりません。これは、神様はこの世にただ一人しかいない、と言っているのではありません。「わたしたちの神である主は」ただ一人だと言っているのです。つまり神が唯一であることは、「わたしたち」との関係において言われているのであって、他の民族が信じ拝んでいる神々は神であるとかないとかいうことは、少なくともここでは問題になっていないのです。つまり語られているのは「唯一神教か多神教か」ということではなくて、私たちが信じ礼拝する神はただお一人だ、私たちは、唯一の神との交わりに生きるのだ、ということなのです。そのただお一人の神との交わり、関係は「愛する」という関係だと言っているのです。ただお一人の方との、他の何者も割り込むことのできない関係、それは愛と呼ぶしかないものです。愛するというのは、ただ好きだ、好意を持っているというようなことではなくて、人と人、人格と人格との、時としてぶつかり合い、火花が散るような関わりでしょう。神の民は、ただ一人の主なる神様との間にそのような人格的な深い関わりを持って生きるのです。つまり神を愛することと、神は唯一であることは分かち難く結び付いているのです。神を愛することは、ただ一人の神との交わりに生きるところにこそ成り立つことです。八百万の神々とは、愛するという関係は成り立ちません。多くの神々は、困った時の神頼みとしてとっかえひっかえお願いする相手にはなっても、愛する相手にはなり得ないのです。つまり、私たちが真実な意味で交わりを持ち、対話していく人格的な相手にはなり得ないのです。多くの神々に心を向けていく時、人は結局孤独に陥ります。最終的には自分一人で何とかしなければならなくなるのです。しかし唯一の神を愛することができるならば、私たちは本当に語りかけることができる、そして応えていただくことができる相手を、また私たちに語りかけ、私たちの答えをお求めになる相手を得るのです。ただお一人の神を信じ、愛する時、私たちは孤独から解放され、共に歩んで下さる神を得ることができるのです。
 このように、主なる神様との間に「愛する」という関係を持って生きることこそ、十戒を始めとする神の律法、掟が教えている神の民のあり方の中心、要です。律法、掟を通して神様はご自分の民との間にこのような関係を打ち立てようとしておられるのです。この関係が打ち立てられていれば、細かい掟をいちいち暗記していなくても、神様との関係において根本的に間違ってしまうことはないのです。そういう意味で、主イエスは「神を愛すること」を第一の掟とされたのです。

心、精神、思い、力を尽くして
 この神を愛することにおいて、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と言われていることにも注目しなければなりません。原文を直訳すると「あなたの心の全てから、あなたの精神の全てから、あなたの思いの全てから、あなたの力の全てから」となります。「尽くし」というのは「全てをもって」ということです。またそれぞれに「あなたの」という言葉があります。他の誰でもなくあなたの、心、精神、思い、力の全てをもって、主なる神を愛しなさいと言われているのです。要するに私たちの全存在をもって、ということです。私たちは自分のある一部分においてではなくて、全てをもって神様との交わりに生きるのです。ある一部分だけで付き合うというのは、愛することではありません。神様は私たちの全存在との交わりを求めておられるのです。
 ところで申命記には「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」と三つのものが挙げられていました。ところが主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と四つのものを挙げておられます。「精神」は申命記における「魂」に当たります。つまり主イエスは「思いを尽くして」をつけ加えておられるのです。この「思い」というのは、人間が思い、考え、理解する、そういう理性的な働きを指す言葉です。これを付け加えることによって主イエスは私たちに、理性の働きの全てをももって主なる神様を愛しなさいと教えておられるのかもしれません。信仰に生きることは、理性を捨て、考えることをやめることではないのです。私たちが物事を考え、学び、理解し、それに基づいて工夫していく、そういう人間の知識や科学、技術といったものも、神を愛することのためにこそ用いられていくべきなのです。科学や技術が、神を愛すること、神と共に生きることを見失って人間の欲望のためにのみ用いられていく時に、それは恐ろしいグロテスクな様相を呈していく、そのことを私たちは様々な仕方で思い知らされているのです。

第二の掟
 主イエスは律法学者の問いに答えてこのように第一の掟をお示しになりました。しかしそれに続いて第二の掟をもお語りになったのです。彼が問うたのは第一の掟は何ですかということですから、第一だけを示せば答えにはなっています。しかし主は敢えて第二の掟をもお示しになった、それはこの第一と第二とが切り離すことのできない一体のものであるからでしょう。その第二の掟とは「隣人を自分のように愛しなさい」です。これはレビ記第19章18節です。そこには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。神様を愛することと、隣人を愛すること、この二つが分かち難く結び合って、律法の中心、信仰の要をなしているのです。

神を愛することと隣人を愛すること
 神を愛することは隣人を愛することを離れてはあり得ない、それが、主イエスがこの第二を第一と共に語られた意図でしょう。神様は愛しているが隣人は愛せないということはあり得ないのです。もしそういうことがあったとしたらそれは、神様を愛しているという愛が本物ではないのです。言い換えれば、目に見える隣人をどう愛しているかに、目に見えない神様に対する私たちの関係が映し出されてくるのです。目に見えない神様への愛には思い込みが生じ易く、自分は神様を愛しているつもりでも、実は自分が勝手に造り上げた神様の姿を愛しているだけかもしれません。それは結局自分自身を愛しているに過ぎないわけです。目に見える隣人との間ではそうは行きません。その人が隣人をどう愛しているかは、その人の神様への愛が本物かどうかを見分ける印であると言うことができるのです。
 その場合の隣人とは、自分の好きな人、好意を持っている人ではあり得ません。もともと好きな人を愛するのは、自分の思いの通りにしているだけですから、それは神様への愛の印とはなりません。神様への愛の印となるのは、自分にとって好ましくない人、好意を持てない、敵対関係にある人、つまり自然にはとうてい愛することのできない人を愛することです。自分の目の前にいる一人の隣人を、しかも自然にはとうてい愛することが出来ない人を、神様がその人を自分の前に置き、その人を愛することを求めておられるという信仰のゆえに愛していく時に、神を愛することと隣人を愛することとが一つとなるのです。

愛することは赦すこと
 従って、隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなくて、相手を赦すことです。赦すことこそ愛することだと言うことができます。「自分自身を愛するように」隣人を愛しなさいと教えられているのもそのことと関係しています。「自分を愛するように」は「自分を赦しているように」と言い換えることができます。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのではないでしょうか。それなのに人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまうのです。主イエスはそのような私たちに、「あなたがたは自分を赦しているのだから、同じように隣人をも赦しなさい」と言っておられるのです。しかしそれだけでは不十分です。それだけなら、「自分に厳しくしている人は人にも厳しくしてよい」という話になります。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えによって主イエスは、「あなたがたは自分を愛し、赦しなさい、そして隣人をも愛し、赦しなさい」と言っておられるのです。私たちは自分のことは基本的に赦しているのではないかと先程申しましたが、心の深い所ではそうでないこともあります。自分で自分が赦せない、自分が自分であることを受け入れられない、言い換えれば喜べない、という思いが私たちの心を支配してしまうことがあるのです。そうなると、人のことも赦せなくなり、受け入れられなくなり、喜べなくなります。主イエスはそのような私たちを、自分自身を愛し、赦し、受け入れ、喜ぶことができる者としようとしておられるのです。

主イエスの教えを理解した律法学者
 主イエスの教えを聞いた律法学者は「先生、おっしゃる通りです」と言いました。ここには28節の、イエスが立派にお答えになった、という所と同じ言葉が使われています。「先生、立派です、正しいお答えです」と彼は感動しているのです。そしてそれに続いて彼はこう言いました。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。つまり彼は、主イエスがお語りになった、唯一の神との、愛としか表現しようのない交わりに生きることが、そして神を愛することと隣人を愛することは分かち難く結び付いていることが、律法全体の中心、要であることをしっかり理解したのです。しかも彼はそのことを直ちに、本日共に読まれた旧約聖書、ホセア書第6章6節の言葉「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と結びつけました。主イエスがお語りになったことを直ちにこの別の箇所と結びつけることができたということは、彼自身が聖書についての深い知識を持ち、また鋭い信仰的感性を持っていることを示していると言えるでしょう。主イエスはこの彼の言葉を聞いて「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃったのです。

律法学者に欠けていたもの
 このお言葉は何を語っているのでしょうか。主イエスは「そこまでよく分かっているあなたはもう神の国に到達している」とはおっしゃいませんでした。あなたは「遠くない」、神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。主イエスの言葉をしっかり理解し、反対したり揚げ足を取ったりしないこの人になお欠けていること、彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。それは、主イエスがお語りになった律法のあの二つの要、心と精神と思いと力を尽くして神を愛することと、隣人を自分のように愛することを、自分の力や努力によって実行できると彼が考えていた、ということなのではないでしょうか。「先生、おっしゃる通りです」という彼の言葉にそれが感じられます。「先生その通りです。あなたは正しい。やはり、神様を愛することと隣人を愛すること、これですよね。これが律法全体の中心なのですよね」と明るく言い放つ彼には、果して自分が全存在をあげて神を愛することができるのか、そして隣人を真実に愛することができるのか、という問いは感じられないのです。
 私たちは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神様を愛しているでしょうか。神様を愛しているとしても、それは自分の存在のほんの一部においてだけ、神様が自分の思い通りのことをしてくれる時だけなのではないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。赦すことこそ愛すること、到底赦し得ない人を赦すことこそが、隣人を自分のように愛することです。私たちはそのような赦しに生きることが出来ているでしょうか。それらのことを振り返って見るなら、私たちは自分が神の求めておられることからいかに遠く離れているか、そして自分の努力によっていくら頑張っても、その遠さを少しでも縮めることはできないことを認めざるを得ないのです。そのことに気づかされて愕然とすることこそが、主イエスのこのお言葉への正しい応答なのではないでしょうか。あの律法学者も、本当はそうならなければならなかったのです。そうならないのは、彼が、主イエスのみ言葉を頭でしか理解していなかったからです。彼は聖書に精通しており、主イエスの言葉を的確に捉え、聖書の他の箇所と結びつけることが出来ました。しかしみ言葉を、自分の生活を揺さぶり、悔い改めを求め、新しくするものとして聞くことはできていなかったのです。

あなたは神の国から遠くない
 しかしそのようにみ言葉を頭でしか理解できていない彼に、主イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言って下さいました。この「遠くない」は、彼の理解がもう少し深まれば神の国に到達できる、ということではないでしょう。そうではなくて、今、あなたの目の前には私がいる、私があなたに語りかけている、その私を信じ、私に従って共に歩み、私にこそ依り頼むこと、それだけがあなたに欠けているのであって、後それだけであなたは神の国に到達することができる、と主イエスは言っておられるのです。主イエス・キリストは、神がその全存在をかけて私たちを愛して下さり、私たちのために遣わして下さった独り子です。神が私たちを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛して下さった、その愛の現れが主イエス・キリストなのです。その愛は、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを赦して下さる愛です。この主イエス・キリストがあなたに語りかけ、あなたを神の愛の中に引き入れようとしておられるがゆえに、「あなたは神の国から遠くない」のです。全存在をあげて神を愛することのできない私たちを、神が先に、独り子イエス・キリストによって徹底的に、全存在をかけて愛して下さったので、私たちもまた、主イエスによりすがりつつ、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛していくことができるのです。また隣人を真実に愛することができず、赦すことができない、さらには自分自身をも赦すことができず、受け入れることができず、愛することができない私たちを、神が、主イエスの十字架の死によって赦し、受け入れ、愛して下さったので、私たちも、自分を赦し、受け入れ、愛し、そして隣人をも赦し、受け入れ、愛することができるようになっていくのです。主イエス・キリストはそのように私たちを、自分を愛して下さっている神を愛し、神に愛されている自分を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛して生きる信仰へと招いて下さっています。主伊イエスのこの招きによって私たちは、神の国から遠くないのです。

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